[プロローグ:2]



「……はぁ」


紺色と橙赤色が鬩ぎ合う空を眺め、遙は今日何度目か、溜息を吐いた。

中学時代とは違うこの通学路も、最近は慣れてきたが、どうもしっくりくるという事はまだ無い。


赤い夕日が山並みに沈むのを眺めながら、遙は河原で一人、制服姿で座り込んでいた。

5月だというのに気温は低く、時折強く吹き荒れる冷たい風が容赦無く全身を薙ぎ、鳥肌を際立たせる。

遙はその風の冷たさに身震いしながらも、口元には温かな微笑みを浮かべているのだった。


……何より、今日は久々に母が家に戻ってくる日だった。遙の両親は双方とも遺伝子工学の研究者であり、元々家族全員で遊ぶ時間も多い訳ではなかった。

更に、休日にはよく遊んでくれていた父は、遙に何も告げずに五年前に家を出て行ってしまい、それ以来、母も仕事に追われて家を空けている事が多くなってしまっていた。

そのためか、遙はいつも何処か心に穴が開いてしまった様な感覚が抜けずに生活し、すっかりお馴染みになった寂寥感が、どんよりとその小さな胸の奥に立ち込めている。


しかし、父はいなくとも、母が帰って来てくれるというだけで、今日の遙の心は躍っていた。寒い中でも笑みを浮かべているのはそんな理由である。

母が戻ってくる日は、いつもこうやって河原から凪いだ水面を眺めていた。早く背中を叩いてくれないだろうか?


「まだかな? お母さん。そろそろ日が沈むなぁ……」


遙は期待と共に、キョロキョロと辺りを見回す。ざぁ……と、風がまたもや強く吹きつけた。見詰める川はその橙赤色の姿を幾万の星空へと変貌させ始める。

親友と通学路で別れて、暫くしてから此処に座っているが、先程から人が通る気配がしない。いつもなら、家族連れや、犬の散歩をする人が少しばかりいてもおかしくないと言うのに……


夕日はもう四分の三程欠け、辺りはぐっと暗くなり始めていた。空も紺色が強くなり、不安を煽る黒い雲が流れ始める。

此処に座り込んでから、もう恐らく一時間ぐらい経過したであろう。空はすでに星の瞬きが見え始め、青白く不気味な上弦の月が浮かんでいた。


「今日は仕事が忙しいのかな? ……暗くなってきたし、先に家に帰ろう……」


落胆しながらも遙はスカートのポケットから携帯電話を取り出し、母に向けて「先に帰ってるから」とメールを送った。

遙はメールが送信されると同時に携帯を閉じると、大儀そうに立ち上がり、スカートに付着した土や雑草の汚れを叩いて取ると、踵を返して住宅街へ向かう。

年の割りには幼い顔立ちは憮然としていたが、家に帰って待っていれば、母は帰ってくるのだ。遙は気を取り直して早足に歩を進め始めた。


――その時。


「ちょっと……! そこのあなた」


急に誰かに呼び止められ、遙は驚いて振り向いた。

振り向いた先に立っていたのは、鋭い、鳥類の様な瞳をした長身の女性だった。漆黒のトレンチコートを身に纏い、顔は青白く端整である。

女性は艶のある黒髪を後ろで一つに束ねており、細身で華奢ではあったが、何処か強い威圧感を感じる容姿だった。何より、全身は顔を除けば黒尽くめの姿である。

何処か不気味な容姿を持っているその女性に面識は無く、恐らく他人であろうと遙は思った。


「え、と……何か用ですか?」


女性の威圧感を感じ、知らず知らずの内に引き気味になりながらも、遙は一応返事を返した。

女性の方は、遙の顔が見えると微かに笑みを張り付ける。……それは酷く冷たく、残酷な笑みだった。遙はそれを見て、ぞくりと全身の毛がそそけ立つ感触を覚える。


「いきなり呼び止めてごめんなさい。少し、探している子が居てね。あなた、この辺りで『ハルカ』という名の女の子を知らない?」


「え? 私の名前も『遙』なんですが。この辺りなら、私ぐらいしか……」


遙は怪訝そうな顔をしながら、女性の質問に答える。逃げてしまえば良いのに、何故か足が硬直して動かない。正直、面識の無い人が何故自分を探しているのかと、気味悪く思えた。

一方、遙の返事を聞いた女性は、赤に近い鳶色の眼を吊り上げた。僅かだが、歓喜の色が浮かんでいる様に思える。


「じゃあ、あなた。もしかして、東木 遙(ひがしき はるか)?」


「!」


女性の口から紡がれた台詞は、驚愕するものだった。東木……自分の姓までを言い当てられ、確実に女性がこちらに狙いを付けているように感じる。

凄く嫌な予感がした。女性が自分を探している事に勘付き、足を叱咤しながら、おぼつかない足取りで一歩二歩と後退る。


「――っ!」


遙は少しばかり相手から離れた所で、背を向けて全力で走ろうとする。だが、女性の鋭い瞳に不敵な光が宿ったと思うと、相手は瞬時に遙の右腕を掴んだのだ。

その素早さに驚きつつも、遙は思わず女の手を振り払う。一瞬しか掴まれた感覚はしなかったのだが、掴まれた患部には酷い鈍痛が走っていた。


(痛っ! 何? この人は一体誰……? とにかく逃げなきゃ!)


……まるで普通の女性とは思えない速さと握力に、遙は驚愕して動かない体に必死に鞭を打って逃げ出した。

少しでも遠く、他の人に助けを求めたくて……早く行かなければ、何か取り返しの付かない事になってしまうのではないかと、心の奥底で炎が燃え上がった。

遙が急激に遠のく中、その小さな背を舐める様に凝視し、女は一人、独白する。


「あら、意外と力は強いのね。それにしても、案外楽に見つける事が出来たわ。チャド、いるんでしょ? あの子を捕まえるのを手伝って頂戴」


まるで独り言の様に女性は呟いていたが、それに呼応するかの様に、遙の向かっていた先の闇が動いた。

風が正面から吹き付けると共に、遙は一瞬目を閉じたのだが、もう一度瞼を開いた途端、顔が引き攣る。


「! ……あ……ぁ」


遙は息を切らせて立ち止まり、悲鳴を上げる間も無くその場で立ち竦んだ。

目の前に傲然と現れたのは今まで見た事の無い、蝙蝠と人を掛け合わせた様な、異形の者だった。

巨大な翼に漆黒の体毛。野獣の様に鋭い瞳は鮮血の如く真紅の色を宿している。半開きになっている赤い口からは鋭い牙列が立ち並び、月光に照り返って鈍く光っていた。

まさに人と蝙蝠が合わさったような異形の存在……それを目の前にして、遙は逃げる事も出来ず、唯見上げている事しか出来なかった。

そして、蝙蝠はにやりと不敵な笑みを浮かべると、容姿とは不釣り合いな低くしゃがれた男声で話し始めた。


「ククク、思ったより足が速い奴だな。だが、残念。普通の人間、ましてやお前のようなガキが俺達から逃げようなんて、ハナから不可能な事なのさ。さぁ、大人しく捕まって貰おうか」


「……いやっ!」


遙はついに喉に詰まっていた悲鳴を上げたが、その途端、大きく、漆黒の剛毛で覆われた手で口元を塞がれ、それ以上口を開く事が出来なくなる。

強靭な筋肉を持つ蝙蝠の手に、遙はしがみ付きながら、必死に解こうともがいた。その目は潤んでおり、目尻の端からは涙が零れ、頬を伝って蝙蝠の体毛へと吸い込まれてゆく。

そこへ、先程の女性が悠然と歩いて来た。遙は恐怖の余り、視線が揺らぎながらも、女の行動を見詰める。


「ふふふ……。意外と可愛い所があるじゃない、怖くて涙を流すなんて。あの忌々しい女の子供にしては……ね」


女は静かに嘲笑し、もう一度怯える遙の顔を眺めると、懐の辺りから何か細長い物を取り出した。

それが、鋭い針を持った注射器だと分かった途端、遙が震えながら呻き声を上げた。銀色に光る針の先端から、透明の液体が一滴零れ落ちる。


「あんまり手荒い事はしないように言われているから……ふふ、そんなに怖がらなくても、少し我慢すれば済む事よ?」


遙の恐怖で引き攣った顔を目に焼き付けながら、女は遙の細く、華奢な首筋へと注射器を向ける。


「……うぅ!?」


遙は首筋に鋭い痛みを覚え、何か薬品が流し込まれる冷たい感触が肉体へ走る。音も無く注射器の針が抜かれると、急に意識が遠退くのを感じた。

恐らく強い麻酔でも打たれたのだと思うが、思考が上手く働かなくなり始める。まるで糸の切れた人形のように肉体が弛緩すると、足から急速に感覚が無くなった。

凄まじい睡魔が襲い掛かってくる。薄く開いた視線を見る限りでは、蝙蝠の手が離され、それを見た遙は無意識の内に口元を動かした。


「……おかあ……さ、ん」


途切れ途切れの小さな声で、遙は最も愛する人に助けを求めた。だが、その声は風に掻き消され、届いたのは目の前に立つ女と蝙蝠だけである。

遙の完全に意識が無くなるのを確認し、蝙蝠は弛緩したその体を軽々と抱え上げてみせた。女は冷艶な笑みを浮かべながら、注射器を再び懐へとしまう。


「お母さん……? 大丈夫よ。あなたの事はちゃんと伝えておいてあげるわ」


「アンタみたいな女ってのは怖いもんだねぇ。恨みを買うなんてとんでもない。にしても、俺の役目はこれだけか?
ま、こいつの周りをウロウロしてた『奴ら』は散々痛めつけてやったが、むさい男共を甚振っても楽しくも何とも無い」


蝙蝠が嘲る様に言い、その様を見て女性は鼻で笑うと、深い眠りに落ちている遙の顔を先程とは違う、憤怒を含んだ瞳で忌々しそうに睨み付けた。


「それにしても、母の血が強いのかしら、瓜二つね。チャド。その子を連れて先に組織へ戻っておきなさい。私も後から行くわ」


「何処へ行くんだよ。まぁ大体予想は付くがな。じゃ、御言葉に甘えて……」


チャドと呼ばれた蝙蝠獣人は大きな羽音を立てると、一気に夜空へ舞い上がった。

河原に繁茂する雑草が荒々しく吹き飛び、女の服が大きく翻る。数秒後、月の明かりに照らされて、黒い影が遥か遠方へと飛び去っていくのが確認出来た。


「せっかちな奴ね。……さて、なるべく早く終わらせようかしら?」


女が怪しげに呟くと、その細い容姿を次第に変え、闇色に染まると、音も無く消える。

彼女が消えた後に残ったのは、漆黒の鳥の羽だけだった。









「あ〜。久し振りに家に帰って来たわね。四日振りかしら?」


無意識の内に肩を揉みながら、東木 瑠美奈(ひがしき るみな)は歩きながら気だるげに独白する。

黒縁の眼鏡を掛けた端正な顔立ちに、黒く短い頭髪、全身に純白の白衣を纏っている。

普通の住宅街では見慣れない服装、傍目から見れば何処か異様な雰囲気を漂わせているが、本人は至って暢気そうだった。


やがて、瑠美奈は我が家の玄関まで来ると、ドアノブに手をかける。

不思議な事に鍵が掛かっていなかった。それを見て、瑠美奈は溜息を吐く。


「全く、鍵も掛けずにいるなんて、不用心な子ね。ただいま、遙。暫く家を空けていてごめんね。……遙?」


いつもとは違う、漠然とした空気が家中に漂っている。

室内は静まり返り、自分の声だけが反響して返って来た。……どうも家の中に人が居る気配はしなかった。

訝しがりながら、瑠美奈は部屋に上がり、廊下に落ちていた小さな紙切れに目を留めた。

おもむろにそれを拾い上げ、早々と目を通すと、そこには唯『GPC』と三文字の英語が書かれているだけだった。



まさか……。


酷く嫌な予感がした。思わず焦燥感に駆られて、外に出る。

慌てて遙の携帯電話に向けてリダイヤルのキーを押すが、相手の携帯に繋がることはなく、ビジートーンの音だけが虚しく耳を通り過ぎるのみだった。

瑠美奈は黒い雲に覆われかけた月を睨み付け、拾い上げた紙切れを手の中でくしゃり、と握り潰す。


「遙……!」


無意識に娘の名を呼ぶが、何も答えるものは無く、暗い夜空へと吸い込まれていった。




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