[プロローグ:1]




「じゃあね、遙!」


「うん、また明日……」


二手に分岐した歩道で、共に帰っていた親友に手を振って別れを告げると、遙は薄らと微笑んだ。

――五月、上旬。今年の四月に高校生になったばかりの少女・東木 遙(ひがしき はるか)は、親友が通りに消えていくのを名残惜しげに見詰め、小さな溜息を吐いた。


風は穏やかで、時折、冬の寒さを含んだ冷気が頬を撫でる。そして、その風に煽られて流れる若葉の芳香は馨しい。

遙の背後を照らす夕日は、燦然と辺りを照らしながら、ゆっくりと山並みに沈みつつある。それに比例して、空の色も少しずつ紺色へと変わり始めていた。

周囲には、仕事帰りで帰路を急ぐ人々や、遊び疲れておぼつかない足取りで進む子供の手を握る母親が、ちらほらと目に付く。


……それらの光景は、何気無い日常。

普段と、何一つ変わりの無い、再び一日が終わり、明日も、また同じような一日が始まるのだろうか?

遙は複雑な表情でぼんやりと、そんなことを考えた。特に日常に刺激を求めている訳ではないが、普段は考えもしない思考が脳裏を過ぎる。


(そんなこと、考えても意味が無いよね。……どうせ、なるようにしかならないんだ……)


結局、周囲の風景の全てに目をやりながら、遙は大きく伸びをした。そして、学生鞄を背負い直し、緩慢とした足取りで歩き始める。


「……お母さん」


遙は一人、帰路に向かいながら、呟いた。

今日は特別な日だ。……とは言っても、周囲からすれば、そう拘泥するような日ではないのだが。


それでも、まだ今年で十五になったばかりの遙にとっては、そうではない。


(今日は、お母さんが帰ってくる)


遙はひっそりと微笑を浮かべ、少しばかり急ぎ足になって家路を急いだ。

正確には、いつも待ち合わせをしている……河原。

先程考えた思考は、今日がそんな日だからだろうか? 遙はバツが悪そうに笑みを浮かべた。


その内、人通りが少なくなってくると、自然と足が速まり、遙は笑顔を隠すように軽く俯きつつ進んだ。

ゆっくりとした歩みは次第に早足になり、やがて駆け足へと変わる。母と会える時が待ち遠しくて、遙はついに駆け出した。

瞼を伏せたまま、傍目から観れば、自棄になったように口を引き締めて。幾度と無く空気が肌を掠め、呼吸が速まる。


しかし、夕日に照らされて赤く滲んでいた視界が、急に目の前が陰った気がして、遙は顔を上げた――


どんっ


「! ッ……すみません……」


はっと眼前を仰いだ時には遅く、遙は目の前から歩いてきていた歩行者にぶつかってしまった。

目を閉じて走るなど、無用心にも程があるかもしれないが……取り合えず遙は狼狽しつつも、相手の身体から離れ、横を通り過ぎる。

咄嗟に謝罪の言葉を言ってから、遙はそそくさとその場を去った。――ぶつかった相手の顔も見らずに。


一方、遙にぶつかられた人物。――長身の女性は、遙の背中を一瞥する。

女性は漆黒の頭髪に、同じく黒のタートルネック。そしてその上から紺色のトレンチコートを纏っていた。

……服装や髪色など、殆ど全身が黒に染まった姿は、周囲を歩く人々とは、何処か懸け離れた雰囲気を漂わせている。

何より目を引くのは、切れ長の鋭い瞳だった。肌は白く、顔立ちは端整でありながら、その赤い眼光は周囲の視線をはばかる圧力が溢れ出している。


遙が路地の中へ消えていくのを見詰め、女性は思い付いたように懐へと手を伸ばす。


間髪を入れずに取り出されたものは、一枚の写真だった。その写真に写るのは、真新しいブレザーを纏った、少女。

その少女は、先程通り去っていった遙に酷似していた。酷似、というよりも、本人、と言った方が正しいだろう。


写真と、ぶつかってきた少女の顔立ちが重なった途端、女性は婉然と微笑んだ。


「……そう、あの子が」


女性は冷艶な声音で独白すると、トレンチコートの裾を翻し、今まで歩いていた方向から、あっさり踵を返す。

そう、まるで、遙の後を追うように……




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