――長い夢を見ていた。


白い天井、薬品の匂い、冷たい金属機器……断片的なものが薄らと脳裏を過ぎる。

毎日が寒さと痛みに耐える日々。手足も動かせない、逃げ出すことも出来ない。


(此処は……何処なんだろう? 本当に、夢、なんだろうか?)


何処で何をされたか……誰と出会ったかは、まるで分からない。全てが濃霧に包まれたように、記憶が霞んでいた。

唯、夢の終わりに見た光景だけが、はっきりと焼き付いていた。



――巨大な翼と、それを照らし出す青白い月。

そして、誰かに抱えられていた感覚が強く残っていた。はっきりしない中で、確かに残っている身体の温もり。

何かに惹かれるようにして、ほんの微かに開いた視界には、その美しい月と何者かのシルエットだけが映し出されていた。


……そこで、その『夢』は途切れたのだ。






――――――――






「……う」


遙は身体中に走る、軽い痛みと倦怠感に呻き、眉を顰める。息を吸い込むと、埃っぽい空気が喉を刺し、痛みを伴った。

肩の重みと腰の辺りに鈍く残る痛み。まるで寝違えたかのような感覚である。昨晩、自分は不自然な体勢で寝ていたのだろうか?


痛みのために掌を握り締めると、意識が少しずつ覚醒し始め、本能的に目を開いていった。ゆっくりと明けてゆく視界……


「あれ……?」


目の前に開けた視界は、まるで自分のいた土地とは似ても似つかない場所であった。

鉄骨らしき骨組みが剥き出した天井。そして、所々に空いた穴からは、霞んだ陽光が差し込んできていた。

その光の筋には、砂のように微々な埃が流れて行く様子が映されている。遙は眉を顰めた。


自分が今、座り込んでいる場所……木切れやコンクリート片、色の剥げたタイルが砕けた欠片、それら瓦礫の山の上に自分は座り込んでいた。

廃屋の壁には焼け付いた跡が残っており、元々家具なども幾つか置いてあったのだろうが、どれもすでに原型を留めてはいなかった。

窓ガラスは割れ、その破片さえ見つけることは出来ない。縁だけが頼り無く残っているだけである。そこから、乾いた風が流れ込んできていた。


「……こ、此処は?」


背中側には煤がこびり付いたコンクリート壁があり、今、遙はそれに背を預けている形であった。

何か強力な銃火器の砲撃でも受けたのかという程に、四方全てが崩れ果てた廃屋。……ふと、遙は自らの服装にも目をやった。


自分の今の服装は、まるで患者衣のように淡緑色を基調とした服。足には何も履いていない。遙はそれらを、胡乱な目付きで見回す。


「どうして、こんな場所にいるのに、汚れ一つ無いんだろう? 足の裏も、瓦礫が刺さったような痕も全然無いし……」


遙は首だけを動かして辺りに目をやっていたが、やがて、それを確かめるかのようにして、立ち上がった。

身体は鉛のように重い。唯の寝起きとは思えない程だ。強烈な倦怠感を感じながらも、遙は今の状況を知りたくて、身体を動かした。


「……!!」


足を引き摺るようにして、廃屋から出た先に広がっていた光景は、信じられないものだった。


一面が、瓦礫と砂塵に覆われた土地。

高層建築物が崩れ落ちたような跡に加え、道路が砕けた跡、折れた標識に人家や店舗が焼け付いた跡。それらの瓦礫に埋もれ、塗装の剥げ落ちた幾つもの乗用車。

まるで戦場に投げ出されたかのような光景。建物は全て廃墟と化し、風の通り抜けていく音が虚しく耳を霞めていった。

それらの光景を目の当たりにした遙は、一瞬、何が起きたのかはっきり分からず、夢でも見ているような気分に陥った。

何しろ、今、自分は目覚めたばかり……夢ならば、こんな非現実な光景にも、納得することが出来る。


「夢?」


遙は身体の痛みを堪えながらも更に足を進める。

足の裏に食い込む瓦礫片の痛みと、身体に吹き付ける乾いた風、視界に飛び込んでくる光景の鮮明さ。


……とても夢には思えない程、全てが現実染みた感覚だった。


(夢じゃない? そんな、まさか……)


遙が息を呑んで、自分の掌を見返した時だった。



――ザク、ザク、と、何かが、瓦礫と砂利を同時に踏み付けるような音が、耳に届く。


遙はその遠くから聞こえてくる音に気付いて、ぱっと目の前の荒地を見た。この微妙な音の間隔は、ヒトの足音に近い。

砂嵐が吹き抜ける荒地。風が吹き抜けると視界が遮られてしまう中、足音のする方向の一点だけを凝視していると、微かな人影が浮き上がってきた。


「人?」


遙は足元の瓦礫に注意しながら、前方に見えた人影へと歩を進める。

この状況がどういうことか、此処にいる人なら知っているかもしれない。遙はなるべく柔らかい砂地に足を付けながら、人影に向けて、軽く手を挙げた。


「あの……ッ! すみません、此処は――」


遙が人物に向けて上げた声は、途中で途切れた。


……人影……それは、近付くと、『人』という形ではなかった。いや、確かにシルエットは人に近いのかもしれない。

しかし、人にある筈の無い部位が、幾つも見受けられたのだ。


頭頂に伸びる三角の耳。指先から伸びる爪は霊長目のように扁爪ではなく、鋭く伸び上がる鉤爪。

そして、両足の間から見える、獣のような、体毛に包まれた尾。人間ではほぼ完全に退化した筈の尾が備わっている……?

現存する生物では、有り得ない特徴を持ったそれは、徐々に遙の元へと近付いて来た。


「な、何なの……? あれは……」


遙が震える声を絞り出した時だった。

砂嵐が一瞬止まり、その人影の姿を、はっきりと視認させる。その姿を目の当たりにした途端、遙はそれこそ絶句した。



イヌ科独特の、長い鼻口部を持ち合わせた獣顔。

それでいて、身体はヒトより頭一つ分大きく、蹠行性の直立二足歩行をしている。……だが、身体を覆うのは人肌ではなく赤い体毛だった。

腕はヒトのそれよりも少しだけ長く、指先に備わった鉤爪は、まるで磨きぬかれた刃のように煌いていた。

そして、何よりも目を引くのは、その犬面の瞳である。緑色の、白目が殆ど見受けられない獣眼は、しっかりと遙を捉えていた。


――獣人。そう、呼べば良いのだろうか? 少なくとも、自然界にいるような生命体ではない。


「ば……化け物……!」


遙は反射的に身を引き、悲鳴に近い声でそう呟いた。

ヒトでもない、獣でもない。異形の存在。遙は恐怖と身の危険を覚えた。

すぐにでも逃げなければ、そう思ったのだが、身体の筋肉は恐怖で硬直し、全くと言って良いほど言うことを利かなかった。


その上、迫ってきていた犬獣人は、すでに遙の動きに気付いていたようだった。

長い口元を縮め、鼻から眉間にかけて深々と皺を寄せる。その肉感はやはり作り物ではない。野生的な本能を剥き出した、獣独特の獰猛さが滲み出ていた。


「……グルルゥ」


獣人が唸った。それはヒトの声帯から発せられる声ではなく、その容姿から容易に想像出来る獣の唸り声だ。

ヒトの声帯でそれほどリアルな獣声を上げることは出来るだろうか。

獣人の威圧感に押し込まれ、遙は全身に冷や汗が流れ落ちるのを感じても、その場から動くことが出来なかった。


(作り物なんかじゃない……本物の化け物だ……!)


遙がその獰猛な唸り声を聞き取った途端、獣人は牙を剥き出して、身構えるように足を引いた。


「グォオオォォォッ!!」


「!!」


肺腑を凍りつかせるような、おぞましい咆哮。刹那、獣人は遙目掛けて飛び掛ってきた。

鋭利な牙列群の中でも、突出して伸び上がっている犬歯がギラリと煌く。その牙が、遙の柔らかい喉笛を突き破る勢いで迫ってきた。

遙は悲鳴を上げる間もなく、その場に尻餅を突く。


「い、いや……そんな……!!」


震えが止まらない。死を目前にした恐怖のあまり、足が竦んでしまっていた。

逃げられない――そう確信した途端、肉迫する獣人が右手を振り翳す。その指先に備わった鉤爪が、無防備な遙に向けて振り下ろされようとした。


「!!」


鉤爪の引く、残酷な閃光を最後に、遙は一気に目を瞑った。






――ガッ


「グァッ!?」


突如、何か固いもの同士がぶつかる音と、獣の憤怒したような声が響いた。

だが、それを確かめることは、ついにしなかった。遙は暗い視界に目をやりながら、薄れていく意識の中、ぼんやりと記憶の糸を辿る。


(……私は、どうしてこんな所に? 此処に来る以前は……何をし……て……)





荒地の乾燥した砂地に頬を押し付けて、遙は完全に意識を手放した。


……そして、その姿を見下ろしていたのは、赤いイヌの獣人ではなかった。

確かに犬獣人にシルエットは酷似しているものの、その眼は穏やかな真鍮色を宿していた。

頭頂に直立耳を持ち、その身体は黒灰色の被毛で包まれている。何よりも、その長い口吻はイヌ科独特のものである。

だが、その身体付きは人間のように二足歩行であり、両腕は体毛に包まれているもののヒトのそれに近い。現に、イヌ科には無い鎖骨も生じている。


――犬獣人の代わりに、遙の前に立っていたのは、黒い狼の容姿を持った『獣人』であった。


彼が視線を向ける先で倒れた少女は、無傷の状態でその場に倒れこんでいた。

黒い狼の獣人は、気を失った少女の胴に手を掛け、そっと上半身だけを起こす。


少女の目尻には、薄らと涙が浮かんでいた。両腕をだらりと下げ、弛緩した身体を見る限り、完全に意識は無いようである。

その目元に鼻先を向けた狼の獣人は、金色の目をそっと細めた。


「……こいつも……『獣人』か……?」


黒い狼は人の言葉で呟くと、その少女を抱え上げ、素早くその場を立ち去った。




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