「ハァハァッ、畜生……何なんだあの娘はッ!」


ピューマを模した猫獣人が、仲間の犬獣人を抱えたまま丘を越える。

あの戦地から逃げ出して、すでに数時間が経過していた。空は夕闇に染まり、肌寒い風が流れていく。

幾つもの廃墟を乗り越え、瓦礫を踏み拉いたお陰で、足の裏の肉球がざっくりと裂けてしまった。

流石に大柄な犬獣人を抱えたまま移動するのは辛い……コヨーテの顔立ちをした犬獣人も、顎を支えながら唸った。


「クッ、ガークめ……よくも……」


犬獣人は猫獣人から離れて立ち上がり、地面に膝を付いた。

背後を振り返ると、すでに何者の姿も見えなくなっている。随分遠くまで来たようだ。それを見た二人は歎息する。


――しかし、突如として、上空から何者かの気配が流れ込んできた。


二人が驚いて紺色の空を仰ぐと、そこには巨大な翼手を広げた、蝙蝠の姿があった。

それは静かに旋回すると、こちらに向けてゆっくりと高度を下げて来る。


やがて、蝙蝠が地面に着地すると、大きく砂埃が舞い上がった。

その容姿は唯の蝙蝠とは違い、人間に近い直立二足歩行を保っている……いわゆる、獣人であった。

蝙蝠獣人――チャドは口角をニヤリと曲げると、唖然とする二人を嘲笑と共に睨む。


「よう、随分と遅かったじゃあないか。見たところ、手ぶらみたいだが……ハルカとやらはどうしたのかい?」


チャドの言葉に、犬獣人が大きく口を開いた。


「随分と言うじゃねーか。俺らはなぁ、あんたの言ったことをやろうとしてこのザマなんだよッ。
あんたのせいでアルダイトの兄貴は死んじまった……あの標的だった筈の小娘に殺されたんだよ! どうしてくれるんだ、ああ!?」


苛立ちを叫び声に変え、犬獣人は怒声を放った。

しかし、チャドは器用に腕を組み、余裕の笑みを崩さない。


「俺は別にお前らにやれと言った訳じゃない。決して強制ではなかったと思うぜ? 決めたのはあんたらのボスであるウシだろ?
俺には何の責任も無いさ。唯、お前達に情報を与えてやったに過ぎない。俺に責任を問われても困るよ」


「! てめぇッ!!」


犬獣人は地面を大きく蹴ってチャドに迫った。

しかし、ガークの一撃によって負傷した彼は全力で攻撃をすることは叶わず、放った爪はあっさりと避けられてしまう。

犬獣人が唸り声と共に、再び攻撃を仕掛けようとしたその時だった。


「ガァッ!!」


真っ赤な血飛沫が上がった。

猫獣人の顔に、血痕がこびり付く。彼が呆然と向ける視線の先には、犬獣人の腹を貫いたチャドの姿があった。

不気味に痙攣を引き起こす犬獣人は、言葉にならない声を漏らしながら、その身体を弛緩させる。

チャドが手を引き抜くと、犬獣人は力無く荒地に倒れ込んだ。じわじわと広がる血溜まりが、やがて猫獣人の足元にまでやってくる。

その強烈な血の匂いと、凍えるような殺気。猫獣人は死の恐怖を感じた。


「ひ、ひぃ……ッ何で、殺すんだよッ! 俺らは別に何もしてないじゃないかっ」


「はは、関係無いさ。お前達はGPCにとって、唯の『塵』に等しい存在なんだ。GPCに所属している俺が、お前達をどう扱おうが文句はねぇだろ?」


チャドは言いかけて、ザッと地面を蹴り、足を竦ませた猫獣人の喉元に爪を立てる。

刹那、バッ、と血が噴き上がった。喉元を深く裂かれた猫獣人は、声を上げる余裕も無く絶命する。その倒れた顔立ちは、恐怖に彩られた表情に固定されていた。

二人の血を浴びたチャドは指先に付いた血を舐めると、上機嫌に鼻で笑った。


「遅かれ早かれ、お前らが死ぬことには変わりなかったんだ。獣の本能に満足しないお前らが、早く地獄に行けたことに感謝していろよ……クク」


チャドは砂を足の裏で蹴散らし、薄らと空に浮かんだ月に目をやった。


「ハルカは捕まらなかったが、お前達のお陰で彼女がどれ程の強さか良く分かったよ。そこだけは感謝しているぜ」


蝙蝠の嘲笑う声が、闇の訪れた荒地に響き渡った。






――――――――






月明かりが薄らと頬を照らし、僅かに開いた目を青白く彩った。

この柔らかな光は、夜? ……もうそんな時間になったのだろうか。ついさっきまで、昼だった気がするのに。

夜空に揺れる朧げな月……何処かであんな蒼い月を見たような気がする。一体どこで……



遙はその月を半ば、夢見心地で眺めていた。ほんの薄ら開いた瞳に差し込む月光は柔らかく、目に優しかった。

……だが、己の脈が音を立てて耳に響いてくる。起きろと言わんばかりに元気の良い肉体に、遙は眉を顰めた。

枕に押し付ける耳元を擽るようにして聞こえてくる脈動。――結局、脈の煩さに、眼を開く事となってしまった。


「う……」


遙は呻き、重い身体を捻って寝返りを打つと、顔を真正面に向ける。

すると、ガークとフェリスの心配そうな顔立ちが飛び込んで来た。二人共、遙が目を覚ました様子を見て、静かに溜息を漏らした。

その光景を見た遙が、少し驚いたようにして目を瞬くと、ガークが歓喜したように両手を挙げて遙に顔を近付ける。


「お! 遙起きたかっ……!?」


「随分深い眠りに就いてたみたいだけど……大丈夫? 何か欲しいものあればもって来るけど……」


フェリスも安堵したように疲れた笑みを作る。遙は次々と台詞を言われ、脳内の処理に暫く呂律が回らなかった。


「え……あ……ええと……」


遙は舌が回らず、中々上手く言葉を話せずに困惑する。

手と足に力を加えてみると、指先は震えつつもしっかり動いた。身体は何とか動くようだ。……少し、寝惚けているのかもしれない。

取り合えず、横になった状態で身体を伸ばすと、両手に力を込めて上半身をゆっくりと起こしてみる。


しかし、そんな遙の様子を見たガークが、慌てて静止してきた。


「お、おい、まだ起きるなよっ! 怪我治ってないんだろ?」


「え……怪我?」


遙は何かと思って、記憶を辿ってみる。もしかして、昼間の骨折の事だろうか?

確か、アルダイトの握力で肋骨を折った筈だが……何故だろう、傷の痛みが殆ど感じられない。

戦いの時は酷く痛み、呻き声を思わず上げてしまう程だったのだが、今は呼吸に支障さえなかった。


「ちょっとごめんね遙」


フェリスが遙のシャツの背中を捲り、胸部から背中にかけて巻いた包帯を外すと、彼女はそっと遙の患部に手を当てた。

フェリスは肋骨を伝うようにして指先を動かす。そのフェリスの指の動きに、遙はむず痒さを感じて体を捻ったが、痛みらしいものはない。

その様子をガークも軽々しく覗き込もうとするが、フェリスの強い視線を浴びて、頬を赤らめつつ目を背けた。


「……嘘。もう肋骨が再生している。私ですら、こんなに早く回復したりは……」


「はぁ? 怪我が治ってる? まさか、あんだけ酷い傷だったんだぜ、そう簡単に治るもんかよ……」


ガークもほんの少しだけ遙の傷を覗き込むが、そこは痣や腫れの痕も一切無く、何の異常も見受けられなかった。

それを見たガークは顔を引き攣らせて、椅子をガタガタと鳴らしながら身体を後退させる。何事かと、遙が目を見開いた。


「な、お前、怪我したの今日の昼だよな? えーと……今が夜の十時ぐらいか? 数時間でそこまで回復させるとはなぁ……」


「これだけ塞がるのが早いと本当に凄いものだね。骨折なんて、そう簡単に治りはしないし」


フェリスが笑った。ガークは顔を引き攣らせて見ているが、遙はそろそろと手を背中に当ててみる。

痛みは無かった。身体をそっと捻ってみても、特に何も感じない。


獣人の肉体は、重傷をも瞬時に回復させているのだ。

複雑な骨折でさえ、数時間で治ってしまうなど……どんな魔法を使ったのかと思いたくなる。

人間の頃だったならば、こんな傷を作っただけで、致命傷は間違いないだろうに……遙は内心ゾッとした。


と、気付いたように腕を見てみて、点滴痕も確認してみると、やはりこちらも殆ど目立たないぐらいに消えかかっている。

獣人の力を解放すると同時に、一気に自己治癒能力が覚醒したのだろうか?

そういえば、先程寝ていた時はいつもより心臓の拍動が大きかったし、それは早く体を回復させようとしていたのかもしれない。

よく理屈は分からないが、何にせよ、取り合えず傷が治るのが早いのに越した事はない。遙は体の具合を確かめつつ、はっとしてフェリスの顔を見る。


「あっ! ……フェリスさん、その体は……? ガークも……」


ガークは脇腹に包帯をぐるりと巻いている。フェリスも同じようにして、右腕に血の滲んだ包帯を巻いていた。


「ああ、そうか、お前は人間としての意識が無かったんだよな」


ガークの言葉に、遙は首を捻った。


「人間としての、意識?」


「あんまり言いたくはないが、お前は獣人化して、あのウシの化け物をぶっ殺したんだよ。ついでに、俺等もちょっとした巻き添えを食らっちまった……ってところだ」


「殺した? 私が……ガーク達にも怪我を……?」


ガークの思いがけない言葉に、遙は目を見開いた。

自分がヒトを殺めた上、ガーク達に大怪我を負わせたというのか!?


「う、嘘!? そんな記憶は――」


「本当のことよ、遙。少しガークの言い方が悪かったね。
獣人になりたての頃は、こんなことも珍しいことじゃないわ。かといって、相手を殺めたことを看過出来る訳でもないけれど」


「!!」


遙は薄らと戻ってきた自分の記憶に、身体中に鳥肌が沸き立つのを覚えた。

身体が焼けるような感覚。その後に訪れた、獣の本能。

胸を押し上げる、強かな心臓の鼓動。全身に駆け巡る血脈により、肺が燃え盛り、激しい呼吸が続く。

目の前が真っ赤に染まって、周囲の音も聞こえず、自分が何をしているのかすら分からない。


……唯、例えようも無い程の飢餓感があった。

生々しい鮮血を浴びたくて、その血肉を貪りたくて……それ以外のことは考えられず、目の前の獲物に向けて走った。


本当にあれは自分だったのだろうか? そう疑いたくなるほどの、信じたくない光景と自分の姿が思い出されていく……


「う、あ、ああぁ!」


遙は頭を抱えた。

あれは自分じゃない、獣人だ! 血に飢えた、化け物……

だが、表面上では否定しつつも、現実を無視することは出来なかった。あまりにも恐ろしい事実に、遙は身体を震わせた。


「ち、違うよ……あれは、何……? 私……なの?」


「否定したくなるのは山々かもしれないが、本当のことだ。
……それともう一つ言って置くことがあるが、目覚めた時に襲ってきた犬獣人共も……お前が殺したんだ、理性を失ってな……」


「!! そんな……うぅ」


ガークの言葉は遙の心に釘を刺した。

全く知らない間に、沢山の人の命を奪った自分に対して激しい怒りと後悔の念が押し寄せてくる。

人間の意識が戻ってきた今となっては、まるで考えられないようなことだ。凄まじい罪悪感が胸を締め付ける。


(どうして……)


受け入れ難い出来事に、遙は自棄になって自分の指に牙を立てた。次第に、じわじわと血が溢れてくる。

相手は獣人であれど、元は人間。ヒトを殺めたことに違いは無かった。自分は、償いようの無い罪を犯してしまったのだ。


遙は口から手を離して布団のシーツに拳を固めると、唇を噛む。その手元に、大粒の涙が零れ落ちた。


「こんなこと……どうして……自分が自分でなくなるような、そんな馬鹿なこと……」


震える声音で、遙は言葉を絞り出す。本当に、どうしていいのか分からなかった。

戦って、仲間さえ傷付けてしまうというのなら、自分には成す術がまるで無い。こんな状態で、どうしろというのだろう。

戦わずに引き篭もっていても、人間に戻ることは出来ない、家に戻ることさえ出来ない……何も思いつかなかった。

やり場の無い怒りと悲しみと後悔が、涙となって零れ落ちる。遙は嗚咽した。


ふと、身体に温かいものが当たる感覚がして、遙は目を開いた。

フェリスの身体が、自分に触れているらしい。抱き締められている? そう思った時、彼女は囁くように言った。


「今はゆっくり休みなさい、遙。急いでいても、全て見失うだけよ。小さな希望さえも、押し潰してしまうかもしれない」


「ま、そういうことだな。この場は急いでも得しねぇぞ。敵が来たら、俺がぶちのめしておいてやるから。安心して寝ていろ」


ガークが苦笑しながら言うと、フェリスはそっと手を離して立ち上がった。


「何か、水でも持ってきましょうか。少しは落ち着くと思うよ」


「……」


仲間達の温かい言葉に対しても、遙は返事を返す気力が無かった。

フェリスがドアを開けて廊下へ出て行った後、まるで糸が切れたようにして、力無く枕へと頭を押し付ける。


疲れた……肉体的なものはもちろん、精神的にも酷く疲弊していた。

あの日、目覚めた時から、非現実な日々の連続。血に濡れた死闘の繰り返し。挙句の果てに、ヒトまでをも殺めるなんて……


遙は涙が止まらなかった。どうしてこんなことになってしまったのか、分からない。あまりにも理不尽な話ではないか。

GPCが自分を拉致したあの日から、全てが狂ってしまっている。そしてその憎いGPCに対して、何も抵抗出来ない自分が、同時に恨めしくも感じた。

このまま、自分は獣人のまま過ごして、死んでいくのだろうか……その結末が明確なってきたような気がして、遙は身体を縮める。


「……ガークは」


「ん? どうしたんだよ」


遙の声に、ガークは顔を上げる。遙はシーツを頭まで被り、彼に問い掛けた。


「ガークは、辛くないの?」


ガーク達は自分が此処に来る以前から、ずっと戦いを続けているのだ。

いつ出られるか、人間に戻れるか……先の見えない絶望的な戦いの中、彼等がこうやって平常心を保っているのが不思議で仕方が無かった。

遙が嗚咽と共に言った言葉に、ガークは椅子を軋ませて歎息する。


「……まぁな、正直、色々あり過ぎて参っちまうよな。……だけどよ、尻込みしてちゃあ、何も掴めないのも事実なんだ」


遙はそっと顔を出して、ガークを見た。

彼は遠い眼をして、窓の外に見える月に視線を送っている。それは、妙に大人びた表情だった。

ガークは少し考えるようにして言葉を切った後、静かに口を開く。


「でもよ、此処で死んでどうなるっていうんだ。生きてなきゃ、人間にも戻れない、家にも戻れない……」


「う……」


ガークの言葉に、遙は喉声を漏らして、再び涙を流した。


「ヒトを殺してまで、生きたくない。どうすればいいのか分からないよ。例え家に戻ったとしても、獣人である私を、誰が認めてくれるの?」


遙は自棄になったような口調で続ける。


「昨日までは、まだ誰かが認めてくれるって、思ってた……だけど、怖いんだ。お母さんも、友達も、私をどんな目で見るんだろうって思うと……
誰からも捨てられるんじゃないかって思えて……どうしようも無い気持ちになるんだ」


「ったくゴチャゴチャとやかましい奴だ!」


ガタッと音を立てて席を蹴ったガークは、ずかずかと遙の前までやってきた。

驚いた遙はばっと顔を上げて、ガークを見る。月光に照らされた彼の顔は憤怒で満ちていた。


「お前が自分を信じないで、誰がお前の言う事を信じるんだよ! お前が誰からも見捨てられるって、思うと、本当にそんなことになっちまうぞ?
お前は親や友達を信じ切れないのか? そんな中途半端な絆なら、とっとと捨てちまえ!」


ガークの冷酷な物言いに、遙は身を乗り出した。


「そ、そんな言い方ッ」


「うるせぇ! だったら、お前は逆の立場で考えてみろ。嫌な例えだろうが、お前の母親や父親が獣人だったらどうする?
化け物扱いして石コロでも投げつけるか? それとも、今まで通り、人間として見てやれるか?」


ガークが悔しげに発した言葉は、静かに部屋に広がる。遙ははっと息を呑んだ。


「……俺だったら、相手が今まで通り、人間の心を少しでも持っているんだとしたら、普通に接するぜ」


ガークの言葉を聞き終えた遙は、顔を俯かせる。

もし、仮に最愛の母が獣人だったら? 考えたくも無いことではあるが、想像する限りでは簡単に受け入れることが出来ることではない。

しかし、今の自分のように、無理矢理獣人にされて、人の心を以前と同じように持っているとするならば、やはり普通に接すると思う。

誰よりも心を許せる人なら、尚更だ。……だが、必ずしも不安が無い訳ではない。


「でも、仮に化け物扱いされたら、どうするの? それこそ、一人ぼっちになるよ……」


遙のぽつん、と呟いた一言に、ガークは目を丸くして頬を掻いた。


「……こ、こんなこと言うのも恥ずかしいがよ、『俺等』がいるってのはどうだ?」


「俺等って、ガーク達のこと?」


遙が確かめるように訊くと、ガークは胸を親指で指して、ニヤリと笑う。


「そうだよ、俺達は獣人だ。お前と同じ痛みを持った『仲間』なんだ」


彼の言葉に、遙は涙を引かせる。同じ、仲間。

自分と同じようにしてGPCに拉致され、獣人にされた挙句、こうやって戦いの日々を押し付けられている。

同じ存在、境遇だからこそ、何より分かり合える仲間……思いがけない言葉に、遙はそっと頬を染めた。


(そうか、仲間……なんだ)


遙は目を潤ませた。それは、悲しみから溢れたものではなかった。

ガークが自分を仲間と認めて、受け入れてくれた嬉しさと、もう一つ……


「……ガーク、ごめんね」


「? 何だ、やっぱり嫌なのか」


「ち、違う! 本当に嬉しいんだ……だけど……」


遙は口篭った。


(こんなに嬉しいことを言ってくれて、励ましてくれる仲間なのに……私は傷付けてしまったんだ……)


彼の身体には大きく包帯が巻かれている。そこには血が滲んだ跡もしっかり残っていた。

それを見る限りでは、余程酷い怪我だったのだろう。自分が獣人化の制御が利かなかったために、起こしてしまった過ち。

それでも自分を仲間と見てくれたガークに対して、嬉しい気持ちと、申し訳無く思う気持ちの双方が、激しい葛藤を引き起こしていた。


そんな葛藤を胸に収めながらも、遙はガークに向けて無理に笑って見せた。

すると、ガークは苦い顔になって、その頬を少しだけ赤らめる。


「な、何だよ。……気持ち悪い笑顔だな」


「ひ、酷いよッ!」


ガークのからかうような台詞に、遙は顔を真っ赤にして叫んだ。

直後、出入り口のドアが素早く開く。


「こら、二人共! 喧嘩したら駄目よ」


唐突にドアを開けて入ってきたフェリスは、厳しい声音で二人に言いつけた。

その手に支えられたトレイには、馨しい芳香の漂うコーヒーが置かれている。


ガークはフェリスの姿を目に留めると、腰に手を当てて、遙を大儀そうに指差した。


「ったく、いきなり入ってくるなよ。大体、こいつが変な顔するから悪いんだぜ」


「違うよ……ガークが先に……」


遙が手を握り締めて言い返す。二人のやりとりを見たフェリスは、小さく溜息を漏らすと、苦笑した。


「遙はまだしも、ガークったら。そんな言い訳、まるで子供じゃない」


フェリスが呆れ顔でガークを見た。ガークは機嫌が悪くなったらしく、眉根を寄せてソッポを向いた。

そんな人間らしい彼の一面を目の当たりにした遙は、悪いと思いつつもほんの少し噴出す。


「はい、遙。……少しは落ち着いたかな? あんまり無理をすると、身体に良くないよ」


フェリスは遙にコーヒーを差し出しながら、微笑を浮かべた。

遙は簡単に礼の言葉を述べて、彼女からコーヒーを受け取ると、手に取ったコーヒーの波打つ表面を見詰める。


無論、自分の顔が映っている。疲弊した、何とも言えない表情だった。


「飲まないのか? 落ち着くぜ?」


ガークもフェリスから受け取ったコーヒーを口に運びながら、遙に言った。


「う、うん……」


遙ははっとして、慌てたようにコーヒーの縁に口をつける。

乾いた口内に、温かく芳しい香りと味が広がった。胸に溜まった蟠りが、ほんの少しだが、解れていく気がする。

あまりにも色んなことがあり過ぎて、気持ちの整理も精神的な疲れも中々癒されない状態だったが、少しは気分がマシになった。


静かな三人の団欒の中、ガークが白い息を吐き出しながら、ぼんやりと口を開いた。


「それにしても、昼間のアルダイトの奴らは、お前を狙ってきたんだな。GPCの奴ら、何を考えてんだか……」


ガークは飲み終えたコーヒーカップをフェリスに渡しながら言った。


「遙に何かあるみたいね。……こんなタイミングで悪いけど、遙は何か覚えていることがある?」


フェリスはガークから受け取った空のコーヒーカップを、慣れた手付きで片付けつつ、遙に問い掛ける。

彼女の問いかけに、遙は一度目を閉じて、今朝のことを思い返した。


「覚えているって、獣人にされている間の記憶のことですか?」


フェリスとガークが無言で頷く中、遙は言うか言うまいか悩んだ。

どうしようか、夢の事も……言うべきだろうか? 夢であるからには、確実な情報とは成り得ないかもしれない。

だが、あれ程鮮明に痛みも無念さも、全てが浮き彫りになるような光景は、どうも『夢』という一言では収まらない気がした。


「あ、えっと。ちょっとだけ、記憶みたいなのが戻ったんだけど……」


「何ぃ? 何でそれを早く言わないんだ。どんな感じの?」


遙の言葉に、ガーク達は詰め寄るようにして身を乗り出してきた。

自分についても、少しは分かるかも知れない。そう思って遙は記憶の糸を辿り始める。


「……何だろう? こう、手術室みたいな所……。体中に凄い痛みがあって、まるで宇宙服みたいな服を着た人達……多分研究員だと思うけど、沢山の人が私の周りにいた。
多分寝台みたいなものに縛り付けられていたとは思うけど、正直、あんまり思い出したくないよ……」


「手術? きっと獣遺伝子を体内に組み込まれている時の記憶だね。
やっぱり副作用が激しいから、発熱とか吐き気とか炎症反応とか、我ながらよく耐えられたわ」


フェリスが苦笑しながら言った。ガークも苦虫を噛み潰したような渋い顔になり、顔を青ざめさせる。


「あぁ。ありゃ痛い。人体にあんなことをするんだ。本当に無茶な野郎共だぜ。取り合えず、それだけか?」


「……いや、他に研究員の人が何か……。そうだ、キメ……キメラ獣人の……初の完成体? とか……」


ガタガタッ……何か倒れる音がした。ガークが派手に床に転んでいた。フェリスも驚愕したように座り込んでいる。

遙は何か悪い事でも? と思ってしまった。墓場から蘇る死者の如く、ガークがヨロヨロと立ち上がる。


「か、完成体ぃぃ? だけど、お前獣人化出来ないよなぁ。じゃあ、あくまで可能性みたいなものになるのか?」


「それが本当の記憶なら、GPCの奴らが血眼で捜す理由が分かるかもね?」


「キメラって……一体なんなんですか?」


遙が疑問の声を上げる中、ガークが大仰に身振り手振りを付けて話を続ける。


「キメラ獣人というのは、獣人の中でも生み出すのが難しい種類なんだよ。その名のとおり、二種類以上の獣の遺伝子を導入して生み出す獣人のことだ」


「ウサギとネズミをかけたような獣人なら、大した力も無いかもしれないけど、組み合わせ次第ではかなり強力な個体になる可能性がある」


ガークとフェリスが口々に言った。


「GPCの研究所にいた頃、同じ被験者の奴らや研究員から、ちらちらと噂を聞いたな。キメラ獣人は完成した個体が存在しない。
何しろ、唯の獣人でさえ生み出すのが難しい。二種類以上の獣の遺伝子を導入して、人体に副作用を出さないようにするのは極めて困難だとな」


「そんな……私の身体は」


「パッと見る限り、別に副作用があるようには見えないから、多分大丈夫よ。それにしても、キメラ獣人の完成体……確かにそうかもしれないね」


「そんなに凄いものなのですか?」


「凄いも何も……俺達唯の獣人ですら、手術時の遺伝子変化の影響で死んじまう確率が高いんだ。
そりゃ、手術自体ハード過ぎるし、凄まじい熱と痛みに苦しまずに獣人になれた奴なんていない。だが、キメラというのはもっと酷いんだ」


「キメラ獣人は上手く完成させれば、今までに無い個体を次々と生み出せる。未知の獣人種、とでも言うべきかな?
もちろん、組み合わせる遺伝子情報によっては、さっき言ったみたいに大した力も持たない獣人かもしれないけれど……。
それでも組み合わせと完成度次第じゃ、まさに映画や小説で見る究極生命体みたいなものが誕生するかもしれないね」


フェリスが代わって話しながら、遙の身体へと視線を向けた。


「キメラ獣人に限らず……獣人は異なった遺伝子を組み込まれて造られる異形。ガークの言う通り、手術時に死んでしまう人の方が圧倒的に多い。
だけど、キメラは更に上に行った存在なの。人間と獣達の適合と同時に、体内に組み込む獣遺伝子同士の拒絶反応。
例え生き延びられたとしても、身体に障害を持つ可能性が高い。皮膚が炎症反応を起こしたり、視力を失ったり……ね。
そんな手術に耐えられるだけでも凄いのに、肉体や精神に欠陥も無しで獣人になれたら、まさに『奇跡』とも言えるかもしれない」


遙は己の体を見回すが、萎びたモヤシのようになよなよしている。

普通の人々が、こんな自分を奇跡と言われたら、どれだけ嘲弄するか分からないのだが。

だが、確かにフェリスですら舌を巻くぐらいの回復力は自慢できるかもしれない。


「そんなに凄いんだ……。でも、私の記憶が飛んでしまったのは、手術時の副作用なのかな?」


「そりゃ十分在り得るな。ま、生きているだけでもお前は凄いよ。
また記憶が戻ったら適当に言い付けろ。何もかも閉じ込めたままじゃあ、お前もスッキリしないだろうしな?」


ガークは近付いてきて、遙の背中をぽんぽん叩いた。元気付けるというよりも、安心させるような感じで。

遙は思わず頬を少しばかり紅潮させた。男性に体を触られるなど、父親ぐらいしかなかったのだから……


「でも、これで少し分かったことがあるわ」


フェリスが人差し指を立てて、遙達の視線を引く。


「GPC……あいつらの目的、それは恐らくキメラ獣人の卵たる『ハルカ』の奪取。
一回の奇襲ぐらいで、諦める連中とは思えないし、これからもやっつけて行くしかないわね」


「そ、それじゃ、私がいるから、ガークやフェリスさん達が危険に晒されることになるんじゃ……」


遙は身を乗り出したが、ガークが掌を目の前に差し出して、それを静止する。


「……GPCに拉致された時から、危ないことには慣れっこなんだよ。お前ぐらいのチビガキ一人護ることなんざ、全然平気さ」


「そうよ、遙。あんまり一人で背負い込むのは止めなさい。何のための仲間同士か分からないじゃない」


神妙なガークの表情と、苦笑交じりのフェリスの言葉。

変にギャップの生じている二人だが、こんなにも自分を心配してくれていることに、遙は涙ぐんだ。

ガークが言ってくれたように、獣人という境遇にいる者同士だからこそ、こんなに短期間で気を許すことが出来たのかもしれない。


遙は改めて、獣人の二人に感謝すると同時に、遙は一つの決断をしようとしていた。


(……GPCの狙いは私……)


遙は手を固め、そっと窓の外へ目をやった。


すると、視界内に蒼い光芒を放つ月が飛び込んで来る。

始めは、その月を漫然と見詰めていた遙だったが、次第に妙なことに感付いた。


(あれ? ……確かあの日は上弦の月だったような……)


遙が眺める月は恐らくだが……下弦の月であった。

つまり満月を過ぎて、すでに幾日かの時を経ていることが明らかなのだ。

今日は一体何日なんだろう。自分が攫われてから、どれぐらいの時間が経ってしまったのだろう?


(お母さんは……学校は……どうなっているのかな?)


遙は急に胸騒ぎを覚えて、顔をフェリスに向けた。


「あ、あの……?」


「どうしたの遙、お腹でも空いた? 何か好きなもの作ってあげるよ?」


「い、いえっ……。じゃあ、コーヒーじゃなくて、水を一杯くれませんか?」


フェリスは「分かった」と、一言いうと、怪我人とは思えぬ軽やかな足取りで戸を開け、廊下へ出て行った。

ガークと二人部屋に取り残され、遙は気まずいながらも、漠然と呟き始める。


「……ねぇ、ガーク。私が攫われた時は確か上弦の月だったの。でも、今は下弦の月……
もしかしたら、随分時間が過ぎているんじゃないかな?」


「そりゃそうだろうな。大体、獣人を一人造り出すのにも、最低でも三週間は掛かるし。
お前の獣人化を見る限りじゃ、GPCにいた期間は一週間かそこらぐらいだろ?」


何とも淡々とした答えが返って来た。

遙は腑に落ちず、思わずガークに詰め寄りながら、言葉を続ける。


「あのさ、近所じゃ警察とかが私を捜索してるのかな、って。
だって、誘拐事件みたいなものでしょ。急に私がいなくなったんだから、お母さんもきっと……」


「あー。そいつの心配はしなくていい」


遙は唖然とした。何が心配しなくていいのだろうか。

遙の様子を察し、ガークは溜息を吐くと、窓際に頬杖を突き、疲れたように話し始めた。


「あのな、GPCの組織規模を舐めない方がいいぞ。
あいつら、何もぽんぽんベース体となる人間を捕獲して獣人に変えて、さあ終わりって軽くやってる訳じゃないんだ。
しっかり裏で工作して、お前の存在なんざ最初から無かったようにでっち上げてる。警察も金か何かで言い包めて欺瞞してしまっているだろうよ。
もちろん、新聞でお前の誘拐事件の記事が出たりなんてそんな事もない。拉致と共に、『東木 遙』という人間が消えてしまうのさ」


遙は真っ青になった。沢山の思い出の詰った土地が、近所の人々の顔が……

どれ程GPCの者達は狡猾なのだろうか。非道的な実験は元より、こちらの事情もまるで考えないなど!

怒りと共に、焦燥が遙の全身を覆う。


「!! そ、そんな。じゃあ、私が戻ったとしても、誰も何も言わないの!?」


一気に身を乗り出し、遙は目尻に涙を滲ませる。誰も彼もに見捨てられる……! そんな恐怖があった。

だが、ガークは少し湿っぽい顔になると、彼は唇を尖らせて話し始める。


「……そういう訳じゃないが。何たって、人間一人一人の記憶まで改竄出来ると思うか?
少なくとも、お前と親しい人……家族や友人はしっかりお前を覚えてると思うぞ」


遙はほっとしたようにズルズルと寝台に潜り込んだ。

確かに考えてみればそうだ。流石にそこまで手の込んだ事をやる程、彼らも細かくは無いらしい。


「……学校へ、行きたいな……」


ぽつん、と遙は呟いた。拉致さえされていなければ、今頃、学校に通っているのだろう。

今すぐ帰られる状況ではない。同時に、遙をこの地に引き止めてしまう、自らが獣人という現実があった。


帰りたいのに、帰られないような。何とももどかしい気持ち。

遙が呟いて俯くと、ガークが欠伸を漏らして口を開いた。


「俺も行きたいよ馬鹿。折角大学に受かったのになぁ……。GPCのせいで華々しいキャンパス・ライフが『ボンッ』だ」


「ボ、ボンッ……て。何それ」


「パァ〜になっちまった、終わっちまったってことだよ! そのぐらい空気読んでスルーしろよ」


「分からないんだもの。……でもガークは、ロムルス出身なんでしょ? どんな所にいたの?」


遙が話題を変えて訊いてきた。ガークは肩をびくりと揺らして、顔を背けながら、ぼそぼそと話し始める。


「……お、俺はな、ロムルスの中でも、黎峯に近い土地で暮らしてたからさ。こっちの風土とか言葉とかは割と良く分かっているんだ。
東洋街とでも言うべきかな? 黎峯人もロムルス人もゴッチャ混ぜな土地だったからよ、俺も純血のロムルス人じゃないんだ」


ガークは真鍮のように輝かしい瞳を薄らげて、瞼を閉じる。

だが、遙は興味津々の様子で聞き入っていた。海外になど、行ったことがないのだから、こうやって言葉を交わせるだけでも嬉しかった。


「そうなんだ。でも、私、普通のロムルス人の瞳の色より、ガークの金色の目が好きかなぁ……」


「そ、そぉかぁ? 俺は純血のロムルス人っぽく、燃えるような赤い瞳が良かったぜ」


「……皆、色んな過去があるんだ」


遙がポツリ、と言葉を漏らした。その言葉を拾って、ガークは目を瞬く。


「じゃあ、お前はどんな所にいたんだよ? 黎峯人なんだろ?」


遙は思わず顔を上げたが、ガークの問いに、そう簡単に答えられなかった。


「……そうだね。黎峯の北で生まれて、普通の家……普通の家庭で育った。そう、思う……」


結局、漠然とした答えとなってしまったが、ガークはそれでも、両手を頭の後ろに組んで、半分程納得したように溜息を吐いた。


「何だよ。じらすような言い方しやがって。まぁ、良いけどよ。まずは、生き残る……というより、前向きに生きることを考えようぜ。
生きていれば、必ず、元のように戻れる筈さ。そう簡単に、他人に人生曲げられて堪るかっての。お前も、明日に備えて、ちゃんと寝ろ」


「う、うん! ガークも、おやすみ」


ぶっきらぼうな言い方だったが、遙は幾分、心の内が楽なった気がした。ごそごそとシーツを被りながら、遙は枕に右頬を押し付ける。


……皆どうしているのだろう? GPCの者達は、自分と関連のある人々をも攫って獣人にしてしまうかも知れない。そう思うと、心配でならなかった。

自分を心配している人のためにも、一刻も早く自宅へ戻りたいとは感じていた。


しかし、何より問題なのはGPCの目的そのものである。

昼間襲ってきた、アルダイト達……他にも獣人がいるというのなら、より沢山の敵が今後襲ってくることも容易に想像が付いた。


(これ以上、皆に迷惑をかけていられない……)


遙はシーツの中で手を固める。大切な仲間である、二人のためにも……やはり、この場に留まることは出来ない。

優しくしてくれる二人が傷付くことなど、これ以上見たくなかった。


(ごめん、二人共……)


――やがて月が雲に隠れ、室内はゆっくりと暗がりに染まった。




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