「ウオォォオオオッ!!」
コヨーテを模した獣人が声を上げて牙を剥き出す。
追跡型捕食者の遺伝子を持つ相手は、その素早い動きと持久力で何度も咬み付きを繰り出してきた。
相手の牙で何度か頬を掠りながらも、ガークはその攻撃を避け切り、遙を抱えたまま逃走を始める。
遙がいるとはいえ、身体的にも精神的にもまだ戦闘慣れしていない。実質三対一の圧倒的不利を悟ったガークは眉間に皺を寄せた。
唯の雑魚が何人かつるんでいるというのならまだ対処出来るが、相手のボス格にアルダイトがいるのだ。彼の戦闘力は一人で三人分はあるだろう。
敵の三人から背を向けて、ガークは廃墟となった街の先へと走り出す。
「ちぃッ! やっぱお前は連れてくるべきじゃなかったぜ!」
「ご、ごめん」
「謝る必要は無いさ。俺の独断だからな……それよりも、お前をどこか安全なとこにやらないと」
ガークはキョロキョロと周りを見回す。
先ほどは廃墟が多い場所であったが、この場は広い荒地が見えるばかりだ。
本当はもっと建物が複雑に入り組んだ場所に行きたかったのだが、三人に塞がれていて潜り抜ける余裕は無かったのである。
走れば走るほど、建物は少なくなり、砂で埋め立てられた荒野が視界に広がってくる。とてもじゃないが、遙一人此処で逃がした所で、隠れる場所など無い。
それに、仮に隠れたとしても、獣人の五感であっさりと見付けられてしまうだろう。どうしようもない状況に、ガークは舌打ちした。
「くっ……このままじゃ逃げ切れないな。流石にお前を抱えたまま、三匹相手はちょっと――」
「ガークッ」
遙は歯を食い縛って、獣毛に包まれたガークの胸元を掴んだ。
「私を降ろして! お願いだから……」
遙の急な要求に、ガークは耳を立てた。
「何だと?」
「あの人たちと話がしたいから……此処から出られる可能性があるんでしょ?」
「馬鹿野郎!」
遙の言葉に、ガークは頭上から怒鳴った。
「GPCにもう一度捕らえられたら、此処から逃げ出せるってレベルじゃないぞ! それこそ、光も当たらない地下室に死ぬまで閉じ込められる。
逃げ出すことも出来ねぇ、逆らうことも出来ねぇ、唯、実験動物として死ぬのを待つだけだ」
悔しげに語るガークの言葉に、遙はその小さな肩をびくりと揺らした。
記憶が無いから、自分はこんなことを言うのだろう。……ガーク達は悲痛な記憶を持っているからこそ遙に叱声を浴びせたのだ。
遙は複雑な心境だった。相手も、元は人間の筈だ。少しぐらい、こちらの話を聞いてくれるのではないだろうかと心の中で思っていた。
だが、やはり身体を刺すのような殺気は尚も感じる。……GPCは敵だ。それだけは、忘れてはいけない……遙は顔を上げる。
「……ガーク、私も戦うのは……駄目?」
「はぁ!? 何血迷って……んだ!?」
唐突に背後から激しい土塊が跳ね上がったと思うと、ガークは遙を抱えたまま吹き飛んだ。
ズズゥウン、と、身体を芯から揺らすような地響きが辺りに広がると、続いてアルダイトが豪快に砂埃を上げながら走ってくる。
衝撃でガークの手から離れた遙は咳き込みながら振り返った。
背後には、遙の身長分はあるだろう巨大な岩石が転がり落ちていた。それは、先程までは無かったものだ。
さっきの衝撃といい、もしや、彼が此処まで投げ付けたのだろうか? そのあまりにも人間離れした能力に、遙の顔が青褪める。
相手は人間ではない。それを越える化け物だ。こんな巨大なものを、軽々と放り投げるなんて……
(戦える……? でも、相手は私が狙い……それなら……)
「畜生ッ、遙!」
ガークの声が唐突に聞こえ、遙は息を呑んだ。
彼は衝撃で遙を放してしまったため、互いに数メートルの距離が生じている。遙は慌ててガークの元に走り寄ろうとした。
しかし、ガークが再び立ち上がろうとした時、彼の背中にネコの獣人が圧し掛かる。コヨーテの獣人も続いて襲い掛かってきた。
コヨーテの爪にざっくりと足の脹脛を切られ、ガークは呻き声と共に地面に顎を押し付ける。じわじわと、地面に血の跡が広がっていった。
「てめぇらっ……」
「生憎だなぁ、だが、俺達だってやらなきゃあいけないんだよ。今更、譲歩出来る余裕なんてねぇさ」
ネコの獣人は高い声で笑うと、痛みで這い蹲るガークの喉元に、鋭い鉤爪を突きつけた。
「ガーク!?」
ガークの元に近付いていた遙は、二人の獣人が現れたのを見て、その場に立ち竦んだ。
まだ獣人化の制御も出来ない、戦い方さえ、ロクに知らない遙が、この状況を打破出来る可能性は限り無く低い。
それでもガークを助けようと、汗ばむ拳を握り締め、遙は地面を蹴った。
無謀な行動に出た遙の姿を見たガークは、表情を引き攣らせる。
「!? 馬鹿ッ、遙……逃げろ!!」
ガークが叫ぶ。――言下、背後から巨大な影が被さり、遙は思わず振り返った。
一瞬の内に目の前の光が遮られ、暗闇に視界が覆われる。その途端、自らの細い胴に凄まじい圧力がかかり、遙は呻いた。
「うああぁッ」
視界が反転し、霞んだ空が映る。気が付いた時には、アルダイトが遙の身体を持ち上げていた。
もがく遙を片手で軽々と掴み上げ、彼は低い笑い声を上げた。
「はっはっは、ガークに負けず劣らず馬鹿な娘だな。そんな犬コロ捨てて逃げてしまえば良いというのに、わざわざ助けようとするなど。
まぁ、仮に逃げていたとしても、すぐに捕まえられたがな」
「遙!! クソっ、てめぇら! 仮に遙をGPCにやったとしても、奴らはお前らにどんな仕打ちをするかぐらい想像が付くだろ!?
GPCのことを忘れた訳じゃねぇだろがッ、それなのに、どうして奴らに加担する!?」
ガークは息を切らし、裏返った声を荒らげながらアルダイトに叫んだ。
アルダイトは遙を持ったまま、その赤く濁った目を憤慨したように見開く。
「黙れッ! 何もお前に言われるまでもない。奴らがどれだけ非道かどうかなど、とっくに分かっている!
……だが、奴らに逆らって、脱走した結果がこれだぞ」
アルダイトは左腕を広げて、周囲の荒地を指す。
そこには、不毛な大地と崩れ落ちた人間の文明があるのみ。生命が住むべき環境とは言い難い場所であった。
「結局、何処にも逃げ場は無い。奴らが棄てた実験体共と毎日のように死闘を繰り広げ、飢えと渇きに苦しむ日々だけが延々と続くだけではないか」
「諦めたってのか? 此処から出られる道だって、まだあるかもしれないじゃねぇか。諦めずに探し続ければ――」
「ならば仮に道が見付かったとしても、我々『獣人』が平凡な日常を送れるとでも言うのかッ!!」
ガークの言葉を遮り、アルダイトは激昂した。
「元のように人間社会に溶け込めるか? この姿を隠し続けようにも、何かの拍子に獣人化する恐れさえある。
人間達が、我々獣人を同じ人間として認めてくれれば話は別だが、そんなことは有り得ないだろう!? 現に、我々も、最初は獣人に対して脅威を抱いたのだからな!」
「!!」
遙はアルダイトの言葉に目を見開いた。
仮に外に出られたとしても、相手が人間と認めてくれなければ、自分の居場所は無くなる。
化け物呼ばわりされて、人間から追いやられて……結局、戻ってくるのはこの場所……獣人だけの崩壊した世界。
アルダイトがぎりぎりと臼歯を鳴らし、苛立たしげに足元の砂を蹴った。
「……結局、我々は獣人。獣人は獣人の中でしか生きられないのだ。
此処でいつ訪れるか分からない死を恐れながら一生を遂げるぐらいなら、GPCに信頼を受けて、奴らの正規な駒として働く方が幾分良い」
最後は消え入りそうな言葉であった。その巨体から出たとは思えない程に。
彼のその言葉には、元々人間として暮らしていた頃の記憶や心がはっきりと浮かび上がっていた。
アルダイトもまた、無理矢理獣人にされた一人なのだろう。最初は、ガークや遙と同じく、小さな希望を胸に抱いていたのかもしれない。
それが日に日に潰されていき、苦渋の選択だったであろう、GPC側に再び付くことを選んだ……
彼のその重い言葉を受け止めたガークは、金色の眼を静かに閉じる。
「……だけどよ、アルダイト。俺はどうしても諦め切れねぇんだ。此処から出ることと、人間に戻ることの両方をだ。
俺だって、お前と同じ生活を続けてきた。だが、今になって道が分かれた違いってのは、お前に分かるか?」
ガークは複雑な表情を作って続ける。
「……どんな小さな希望も、見捨てないって意志の違いだ。確かに夢物語みたいなことかもしれねぇ。
けれど、その希望が胸の中にあるだけで、生きる意味を感じるんだ。不毛なことじゃないって……」
「希望だと……? ……くく、ちゃちな言葉だ。ならば、俺もまたその小さな希望に縋っているのだろうな」
アルダイトの目元には、信じられないことに、薄らと涙が浮かんでいた。それを見た遙は心が激しく痛むのを覚える。
だが、彼は一瞬でその表情を打ち消し、自棄になったように咆哮を突き上げた。
「GPCにこの娘を差し出せば、此処から出られるという……これが俺の持つ最後の希望だッ! 奴らが約束し、俺が承諾した以上、やらねばならんのだ!!」
「!! ぐあッ! あぐ、はぁッはぁ……」
急に全身に襲い掛かった強力な圧力。遙は激痛のあまり一気に息を詰まらせた。肋骨が何本か折れるような音までが耳に届く。
恐らく、アルダイトは大した握力をかけていないつもりなのだろう。それでも、彼の力は相当なものだった。
折れた肋骨が内臓を傷付けたのか、肺が熱く燃える。まるで巨大な大蛇に締め付けられているかのようだ。頭に熱が篭り、じんじんと脈打つ。
……なす術がない。遙は霞む視界を見詰めた。
(嫌だ……GPCの元には、戻りたくない……ッ)
遙が薄れる意識の中でそう思った時だった。
微かに、鼓動が強まる。最初は気のせいだと思っていたのだが、それはどんどん激しい脈拍へと変化を始めた。
薄れていく筈の意識が、冷水をかけられたかのように覚醒し、遙は眦も切れんばかりに目を見開いた。
猛烈な熱に、身を捩らずにはいられない。執拗に繰り返す強烈な拍動に、遙は思わず眼を閉じる。
――しかし、もう一度眼を開いた時、目の前にすっと影が降り掛かった。
「グォッ!?」
刹那、アルダイトが吼えた。
咆哮と共に、遙が彼の手から解き放たれる。ぼやける遙の視界の端に映ったのは、黄丹色の頭髪を持った女性。
薄い視界でも、はっきりと碧眼が輝いて見える、高々と跳躍したフェリスの姿だった。
「ガーク、遙!」
フェリスは着地する寸前で遙を抱え、地面に降り立つと同時に、ガークに集っている二人の獣人をギラリと睨み付けた。
彼女から放たれた、まるで全身の皮が剥がれるような程の殺気。それを感じた二人の獣人は、雷に打たれたように引き下がる。
「て、てめぇ……」
畏怖したように、震える声音でネコ科獣人が呟く。だが、それ以上彼が喋る前に、重量から解き放たれたガークが立ち上がった。
「いつまでも汚ねぇ脚を乗せてんじゃねぇよ!!」
ガークは器用に身体を捻ると、イヌ科獣人の顎に向けて鉄の拳を放つ。
唐突に走った凄まじい衝撃に、イヌ科獣人は砕けた歯と血飛沫を撒き散らしながら一撃で昏倒した。
ネコ科獣人はその速さと倒れた仲間に驚いて、その場を引き下がる。ピューマのように獰猛である顔立ちには、怯えの色が浮かんでいた。
「その姿……フェリスか!? まだ生きていたのか?」
フェリスの爪で引き裂かれたのか、額をざっくりと抉られたアルダイトが、血を流しながら言った。
フェリスは頬に付いた返り血を拭い、彼に視線を移す。
「悪いけど、生きているわよ。……何も、全て忘れてのうのうと生きるつもりは無いけれども」
「貴様ッ! よくもぬけぬけと……!!」
アルダイトがそう叫んだ時だった。
遙が声にならない呻き声を上げて、フェリスの腕の中から離れようともがく。
呼吸が異常に荒く、首筋や胸元に浮き立つ血管が脈打っている。傍目から見てもはっきり分かる程に遙の拍動が強まっていた。
遙はフェリスの胸を押して、仕切りに身体を捩った。
「熱い……うぅ、離して……ッ」
「遙!」
遙は力を弱めたフェリスを振り解き、受身も取れずに地面に倒れこんだ。
だが、身体に掛かった衝撃など気にならない程に身体の熱が滾ってくる。まるで振り回されているかのように視界も大きく揺れていた。
燃え上がるような肉体の熱。遙は胸を締め付けるようにして、胸部に爪を立てる。
意識が……まるで、何かに身体が乗っ取られるような感覚だった。
額にびっしりと脂漏が沸き、痙攣するように手足が震える。息をしているのかさえ分からない程に、身体が熱くなっていく。
「うぅぅ、あぁ!! はぁ、はぁ……ぐぅうぅぅ」
遙はついに声を上げて、身体を捩った。
この感覚……分かる。昨日と同じ感覚だ……遙は狭まってくる蒼い空を見詰めながら、歯を食い縛った。
(獣人化……? 苦しい……)
「遙……!」
フェリスが遙に駆け寄ろうとした時、彼女を掴むようにしてアルダイトの手が迫る。
だが、フェリスは彼の攻撃をあっさり避けると、すぐに遙の介抱に向かった。
その予想以上の身のこなしと跳躍力に、空を切った掌を見詰めながらアルダイトは唸る。
「むぅッ! 小賢しい奴だ……!」
「今はあなたの相手をしている暇は無いわ」
フェリスは身体を中空で回転させ、遙の元まで一気に移動した。
獣人に成り立ての遙は、獣人化の制御が利かないのだ。このままにしておけば、精神を瓦解させるだろう。
「遙、しっかりして」
フェリスが慌てて遙の身体を掴む。
フェリスが言葉をかけるが、遙は焦点の合わない瞳を地面に向けたまま呻いていた。
「……かないで……」
遙が震える声音で小さく呟く。ずば抜けた聴覚を持つフェリスでさえ、殆ど聞き取れない程の声量だった。
体力が底を尽き掛けているのか……フェリスは遙を再び抱え上げる。
「大丈夫、今……助けて――」
フェリスがそう言って、遙の背中に手を当てた瞬間だった。
遙が凄まじい力でフェリスを振り解いたと思うと、大きく胸を反らし、咆哮に近い声で叫ぶ。
「近付かないで……! う、ぐぅ……あぁぁああぁッ!!」
遙が叫喚すると、彼女の細い腕から黒と碧色の羽毛が噴出す。
それは瞬く間に手を覆いつくし、指の先端には鋭い紅色の鉤爪を生じさせた。
獣人化の侵食が腕全体に及んでいない状態にも関わらず、遙は生じたばかりの爪を、驚くフェリスに向けて振るった。
「!! フェリス!」
足の脹脛をやられたお陰で、上手く移動が出来ないガークは、目の前で起きた惨劇に声を上げた。
真っ赤な血飛沫が、フェリスの右腕から上がる。遙の爪は深々の彼女の腕を引き裂き、痛みにフェリスが顔を歪めた。
「くっ……」
フェリスは右腕を庇いながらすぐに遙から離れる。
血飛沫を縫って見えたのは、鮮血と同じように赤い、遙の獣眼だった。
遙は血に濡れた爪を構え、鼻筋に深々と皺を寄せる。まるで、獣が相手を威嚇するのと同じような雰囲気を漂わせていた。
「ぐるるる」
遙は細い喉を震わせ、低音の唸り声を響かせる。
その眼はフェリスに向けるよりも、遙の様子を伺っていたアルダイトへと向けられた。
アルダイトは遙の獣人化姿を見ながら、忌々しそうに鼻を鳴らす。
「フン……あのGPCの奴らが欲していたのが、こいつなのか? こんな中途半端な個体を……」
彼の言うとおり、遙の身体は完全に獣人化していない。
獣の血が最大限に滾っている筈の今の状態でさえ、大きな変化は両腕のみしか遂げていなかった。
耳が薄らと尖り、犬歯も伸びているが、いずれにしてもそれは小さな変化である。顔立ちが大きく変わったり、全身に獣毛が広がる様子は無かった。
それらを見る限り、明らかに完全な獣人ではない。言ってしまえば、半獣人といった所だろうか?
もちろん、普通の獣人に比べれば、圧倒的に戦闘能力は劣ってしまう。本来なら、GPCではこのような個体の大半は処分してしまう筈なのだが。
「……ちっ、遙を刺激して獣人化させやがって……」
ガークは歯を食い縛りながら、遙の威嚇する様を見ていた。
……アルダイトの顔とは裏腹に、ガークとフェリスの顔立ちは強張っていた。
先日のあの暴走。遙の力は中途半端な個体でありながらも、獣人の中ではずば抜けた身体能力を誇っていることは明らかなのだ。
襲ってきた犬獣人と獅子獣人を、僅か数分足らずで絶命の状態に陥れ、それでも尚、殺気を失わずにこちらを威嚇してきた。
そして今、遙の身体から流れてくる力の波動が、あまりにも強力で、禍々しく、近付くことさえ出来ない程に闘志を剥き出している。
それは、先日の暴走時と同じレベルの力であった。ガーク達は稲妻に打たれたように動けなくなる。
一方で、遙の力を上手く感じ取れないのか、アルダイトは彼女に向けて悠然と歩み始めた。
「やめろ、アルダイト!」
ガークの真剣な叫び声に、アルダイトは耳を振った。今の彼が、静止の言葉など聞く筈が無い。
彼の向ける目先には、遙が不釣合いに長い両腕をぶら下げて立っている。遙はアルダイトの様子を伺うように、じっと凝視してきていた。
(こいつを捕まえれば……全てが終わる)
今のアルダイトにとっては、遙を捕らえることが全ての目的であった。
どんなに忠告されようとも、血を流そうとも、その先にある希望を掴み取るためには、遙を捕らえねばならないのだ。
アルダイトは口を引き、喉から暗い笑い声を上げた。
「くく、仲間割れとは都合の良い。お陰で邪魔なフェリスは戦闘不能だな。……あとはお前だけだぞ、小娘!」
「がるるッ」
流石の遙も、すぐにアルダイトに飛びかかろうとはしなかった。
牙を剥き出して、威嚇するように唸る。しかし、近付いてくる彼から引くような姿勢は全く見せなかった。
傍目から見ても、その体格差と筋肉量は圧倒的な差が生じている。まるで象と子犬を比べているかのような状態だった。
アルダイトはその眼をギラリと輝かせると、無防備な遙に向けて、巨大な拳を打ち出す。
勝利を確信したアルダイトに迷いは無い――しかし、その途端、フェリスが右腕を庇いながら叫んだ。
「駄目! 逃げなさい、アルダイト!!」
「何だとッ? ――!!」
予想外のフェリスの叫びに、彼は一瞬、遙への攻撃を緩めてしまう。
アルダイトがフェリスに向けてが言い掛けた直後……彼の目の前が真っ赤に染まった。
痛みも追いつかない速さで、意識が失われていく。アルダイトは目を見開き、震える顔を自分の肢体に落とし、口から血を零した。
「ガハ……」
一瞬の出来事だった。荒地に生々しい血痕が一斉に散る。
ガークもフェリスも絶句して、思わず戦いのことすら忘れた。
「……あ、あぁ……」
猫獣人を含む三人の目の前で起きた惨劇に、まともな言葉が紡げなかった。
――遙の獣人化した右腕が、アルダイトの胸を貫いている。あの分厚く頑丈な胸板を、いとも易々と、少女の腕は突貫していた。
遙はアルダイトの胸にしがみ付いたまま、ぎりっと、犬歯を剥き出す。開いた瞳は、まるで獰猛な獣そのものであった。
「ガホ……ッ、グアァア……」
自分の胸を貫く遙の姿と、流れ落ちる血。それを視界に収めたアルダイトは身体から一気に力が抜ける気がした。
"どちらにせよ、あんたらには脅威にしかならん存在だからな……"
先日、『あの男』が言っていた言葉が、死を目前にしたアルダイトの脳内に蘇った。
遙を捕らえてGPCに差し出せば、此処から出られる。そんな小さな希望を持った存在だった遙は、絶望そのものだった。
(これが仲間を裏切った結果なのか……)
真っ赤な血塊を大口から吐き出しながら、アルダイトは太い膝を折る。
ズウゥンッ、と、巨大な地響きを立てて、アルダイトの姿が地面に倒れ込む。死して尚、虚空を睨むその眼は、無念さと後悔が滲み出ている気がした。
遙は彼が絶命し、その身体が崩れ落ちる寸前に胸から腕を引き抜き、近くに乗り捨てられていた廃車のルーフへ飛び乗る。
「ぐがああぁ!」
血塗れの両手で、廃車のルーフに爪を立てながら、遙は獣そのもののように吼えた。
開けた口に並ぶ歯列から、突出した犬歯。牙を剥き出して咆哮を上げる遙の姿は、先程までの『人間』としての面影は無かった。
「は、遙……っ」
フェリスは身体を叱咤して、廃車の上から見下ろしてくる遙へと近付く。
遙はフェリスを見ながらも、喉を震わせて唸るのみで、ヒトの言葉を発そうとしない。フェリスは渋面を浮かべた。
……獣に、呑まれたんだ。
獣人は元々、自然界には存在し得ないもの。人間と獣という、全く別々の存在を人為的に組み合わせて生み出されたのが獣人。
人間がベースとなるために、普段は人に近い姿で、思考も元と変わらないものの、時として獣の本能が想起されるのだ。
確かに、獣の本能的な行動をすることだって稀ではない。導入された動物の遺伝子によって個体差があるものの、もちろん無害なものもある。
しかし、その獣の本能の根底に宿るのは他の命を破壊して得る、血肉への欲求。それに伴う殺戮の衝動。
人間が遥か過去の進化の歴史と、独自に築いた文化の上で、忘れつつある獣の本能を、『獣人』は持ち合わせている。
――遙は、恐らく獣人として覚醒した途端に、獣の本能も同時に解き放ってしまったのだろう。
それが、いわゆる『暴走』と呼ばれる現象だった。先日も遙はその状態に陥り、結果として今のような惨劇を生み出している。
その容姿のとおり、まだ肉体が不安定であるために、制御が上手く出来ないのだろう。遙が理性を取り戻す様子は無かった。
こうなってしまった今の彼女には、言葉は通じない。そうなれば……
(……気は進まないけれど……力で捻じ伏せるしかない)
フェリスは、そう思い至ると、裂傷で痛みの走る右腕左手で押さえながら、足を引いた。
すると、遙もフェリスの思考を感じ取ったのか、まるで獣が身構えるかのように、肩を低くして、体勢を整える。
「ひ、ひぃっ……化け物!」
ボス格であったアルダイトが一撃で絶命させられ、敵が自分だけになったことを悟った猫獣人は、遙の形相を見て、すぐさま遁走を開始した。
近くに倒れていた仲間のイヌ科獣人を叩き起こし、肩を貸してその場から離れていく。
そうやって仲間を見捨てずに連れて行く所は、今回の行動がやはり本意ではなかったことを指している。ガークはその様子に舌打ちした。
「クソッ、逃げるつもりなら、最初から逃げとけよ。お陰で、面倒なことになっちまったな……」
ガークは足を引き摺りつつも、フェリスとは反対側から遙を回り込む。
背後から忍び寄っているということにも関わらず、全身の毛が逆立つ程、凄まじい殺気が当てられた。
(信じられねぇ、遙には悪いが、本当に化け物だぜ……)
ガークは呼吸を整えて構える。遙が隙を見せた瞬間に、飛びかかろうと思っていた。
しかし、遙はガークの姿を軽く一瞥すると、目の前のフェリスに向けて飛び掛る。
「があッ!!」
(速い……!)
フェリスは突き出された遙の爪を間一髪で避ける。喉元を掠った遙の攻撃は、中途半端な獣人とは思えない程のスピードだった。
動体視力は人一倍高いつもりだったが、それでも見失う程のスピード。遙もこちらと同じく、瞬発力に長けた肉食獣の遺伝子を受け継いでいるのかもしれない。
「フェリス! てめぇ、そんな怪我で、あいつと戦える訳がねぇだろッ」
「かといって、足を怪我したガークが飛び込んでも、遙の攻撃は避けきれないわよっ。想像以上に速い」
二人共負傷した状態での戦い。暴走した遙を相手するのは圧倒的に不利である。
だが目的は遙を倒すことじゃない。彼女の獣人化を解除することにある……ガークは吹っ切れたように溜息を漏らした。
「ああ、そうかよ」
ガークはそう言いながらも、フェリスを背後にやって、自分自ら遙の目の前に飛び出した。
獣人化した姿は、遙をより刺激させるだろう。案の定、遙はガークの姿を視界に収めると、構えるようにして腕を素早く引く。
それを見たガークはニヤリと笑った。
「怪我の治療は全部お前に任せるぜ、フェリス!」
「ちょっと、ガーク!!」
その直後だった。弾丸のように地面を蹴った遙は、一気に間合いを縮めてガークに肉迫する。
ガークも怒声と共に遙に飛び掛り、遙のその小さな身体に手を向けた。
二人の身体が重なったその瞬間、血飛沫が上がり、ガークの脇を遙の爪がザックリと薙ぐ。
赤い血が噴出す中、ガークは痛みに歯を食い縛りながらも、遙の身体を抱き締めた。
そのまま地面へと二人揃って倒れこみ、遙はその重さにか、一気に息を吐き出す。
「がぁうぅぅ!!」
遙は猛る咆哮を上げ、ガークの肩に爪を立てて抵抗した。
しかし、幾らスピードに勝る遙であっても、ガークの体重が圧し掛かっては身動きが取れない。ガークは遙の憤った顔に向けて牙を剥き出した。
「落ち着け、遙! もうお前の敵は何処にもいねぇ。しっかり前を見ろ! 獣になんか飲まれてんじゃねぇぞ!」
ガークの言葉を聞いていたかどうかは分からないが、遙は次第にその唸り声を萎めて行く。
その鮮血色に染まった眼は見る見る褪せていき、穏やかな鳶色を宿したと思うと、瞼がそっと閉じた。
フェリスが駆けつけた時には、すでに遙は気を失い、その腕の獣人化も解かれつつあった。
その様子を見たガークはほっと一息吐き、同時に小さな喉声を漏らした。
遙の鋭い獣爪で抉られた創傷からは、鮮血が溢れ出している。緊張が解けたお陰で、痛みがじわじわと広がってきた。
「いづづ……想像以上に痛いぜ畜生……目覚めたら三倍返しにしてやる!」
「ガーク、無理したら駄目よ! とにかく、今は止血を……」
フェリスは自分の首に巻いた布を引き裂くと、ガークの脇腹に当てる。
出血の仕方から見て、静脈を怪我しているかもしれないが、その出血は次第に収まり始めた。
獣人の止血力は目を見張るものがある。人間であれば致命傷だが、獣人なら回復も早いだろう。
フェリスは止血を続けながら、頬についた血痕を拭い去り、どっと溜息を漏らした。
「ややこしいことになったね。まさか、アルダイト達が襲ってくるなんて……」
「あいつらは出会ったときから性悪な奴だったさ。ま、何より悪いのはGPCの連中か、そんな奴らを誑かして、襲わせるなんて」
ガークとフェリスはアルダイトの死体を見て、静かに目を閉じる。
襲ってきた相手とはいえ、元は人間であり仲間だ。此処の生活に耐えられず、已む無くGPCに加担することを選んだ。
彼とて、この行動は決して本意ではなかっただろう。元は普通の人間だということもある。標的であるとはいえ、幼い少女を連れ去るのには僅かな抵抗が見えていた。
今は負傷と疲労で動けない状態だが、遙を連れ帰った後に、手厚く埋葬してやらなければならないだろう。
「ったく、二度も暴走するとはな。……今は家に戻ろう。お前の止血も完全じゃねぇだろ? 遙だって、まだ不安定な状態だろうしな」
「ええ、次の敵が襲ってこない前に……」
と、フェリスは急に頭上を仰いだ。
彼女の視線の先には、少し高い中層のビルがあるだけだ。
半分が崩れ落ちているものの、周囲の瓦礫の山からは一つだけ突出して残っている建物である。
確かに目立つが、別段どうというものではないのだが……ガークは彼女の行動を見て、目を瞬く。
「どうかしたか?」
「いや、今……ううん、多分、気のせいね。行きましょう」
ガークが遙を抱え上げ、フェリスが彼の後を追うようにして付いていく。
やがて、二人が去った後に、乾いた風と共に砂埃が舞い、血痕を消すように吹き抜けた。
その時、フェリスの見上げていた中層ビルの屋上から、そっと小さな影が動いたことに、誰も気付く事は無かった……
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