「よお、フェリス。……なんで今更部屋の掃除なんざしなきゃならねぇんだ?」


建物内の一階に設けられた食堂で、フェリスから手渡された食器を布巾で乱雑に拭きつつ、ガークが問いかけた。

彼の隣で台所の整理をしていたフェリスは、視線を変えずに作業を続けながら淡々と口を開く。


「だって、いつ此処に帰ってくるか分からないでしょ? 暫くは誰も使わないだろうし、この際整理してしまおうかなって」


「その台詞を聞く限り、お前も行くつもりでいるんだな。……はぁぁ、何か気が滅入るぜ、全く」


ガークは拭き終えた皿を両手で持ったまま、青い溜息を漏らした。


「大体、もう帰って来るかどうかも分からないじゃねぇか。色々と支度しなきゃいけないってのによ、俺の手伝いしてくれるって言ったのは何処のどいつだ?」


「……此処は、皆の心の拠所だったから」


ぽつん、と呟いたフェリスに、ガークは思わず眉を上げた。


「私があんな事件を起こすまで、皆、此処にいたのよ。ガークだって、分かってるでしょ? そう思うと、何だか離れ辛くて、せめて綺麗にしておきたいの……」


珍しく湿っぽい声でフェリスが呟いた。


確かに、ほんの半年程前まではこの拠点も仲間達で溢れ返っていた。国籍や人種、言語もそれぞれ違えど、皆が獣人という存在に変えられた共通の痛みを抱いていたのである。

幸か不幸か、その境遇を皆が持ち合わせていたため、不思議と心を許す者達が固まりあって生活していたのだ。無論、性に合わない者も少なくは無かったが、決して同士打ちなどすることは無かった。

半年前までの生活は、必ずしも幸福とは言い辛い状況だったとはいえ、それでもいつも希望を胸に抱いていたのである。それは今でも変わらないのだが、フェリスの言い様は最もだった。


その彼女の言葉を聞いたガークは、申し訳無さそうに慌てて顔を逸らした。


「わ、わりぃ、責めるつもりじゃなかったんだ。昔の仲間達がいつ戻って来ても良いように、俺も手伝ってやるからよ」


「あら、そう? じゃあ残りは全部任せるわ」


途端、まるで掌を返したように、陽気な声でフェリスが答えた。ガークはぎょっとして振り返る。


「はぁ!?」


「私はもう少し考えておきたいことがあるから、残りは宜しくね、ガーク」


「ち、ちょっと待て、俺の手伝いしてくれるって言ったのは……」


「もう子供じゃないでしょ? そのぐらい、自分でしなさいよ。――それじゃ、また後でね」


裏のある笑みと共にそう言い残すと、フェリスは洗い終えた食器を重ね、あっさり踵を返して食堂を出て行ってしまった。

残されたガークは暫し唖然として立ち竦んでいたが、やがてわなわなと肩を震わせ始めたと思うと、苛立ったように布巾を壁に投げ付けた。





食堂を出たフェリスが薄暗い廊下を抜けて真っ先に向かったのは、二階に設置されたバルコニーだった。

主に洗濯物を乾したり、天気が良い時は昼寝のスペースに使われていた場所だが、夜になった今はその温かみも幾分冷めて見える。

フェリスが板張りの床に足を付けると、僅かに木材が軋む音がした。その音に躊躇することなく真っ直ぐに歩きながら、縁から伸びる手摺に手を乗せる。

おもむろに空を仰ぐと、様々な所を掃除していたお陰で、すっかり夜の闇に覆われた空には、満天の星空と明るい月が浮かんでいた。


フェリスは欄干の上の埃を払って両手を組み、腕の間に顎を押し付けて溜息を漏らす。


「……お母さん、か。……何か、羨ましいな」


『意外と顔に似合わないことを言うんだな』


唐突に背後から聞こえた男声に、フェリスは息を呑んで素早く振り返った。

振り返った先には、葡萄酒の瓶を片手にしたコバルトの姿があった。バルコニーの出入り口であるガラス製の引き違い戸の縁へ身体を預けた形で、悠然とこちらを見やっている。

人間の姿に戻った彼は、獣人化時と同様に鮮やかな青の頭髪を持ち、毛に覆われて分かり辛かった刺青の模様も、今ははっきりと視認することが出来た。


彼の視線を受けたフェリスは、つまらなそうに手摺に頬杖を突く。


「コバルトか。あなたの気配に気付かないなんて……」


「俺は仕事柄、尾行には長けてるんでね。獣人にされた今は、人間だった時よりも更に磨きが掛かってるさ」


ひらひらと手を振って答えたコバルトを横目に、フェリスは再び視線を夜空へと戻した。


「何か用?」


「いいや、別に。月を見ながら酒でも飲もうかと思っていたら、たまたま君がいただけだ。邪魔しにきた訳でもないさ」


「酒? ……その葡萄酒って、この建物の貯蔵庫に置いてあったヤツじゃないでしょうね?」


フェリスの問いに答える前に、コバルトは何処からか取り出したナイフを使って、慣れた手つきでコルク栓を引き抜いた。


「はは、ちょっと失敬させて貰った。どうせ、此処に置いていても宝の持ち腐れだろう? ハルカもガークも飲まないみたいだからな」


「ちょっと! それは――」


焦るフェリスを他所に、コバルトは彼女の目の前で豪快に葡萄酒を喇叭飲みすると、何とも爽快な息を吐いた。


「ぷはっ! これは、良い物だ。キャリッジブルクの高級葡萄酒なんて、手を付けられるとは思わなかったからな。……フェリスも飲むかい?」


「ったく、これだから……」


悪態を吐きつつも、フェリスはコバルトの手から荒々しく酒瓶を奪い取った。コバルトに飲まれたものの、量としてはまだ半分以上残っている。

フェリスは鼻を鳴らすと、そのまま息も吐かずに一気葡萄酒を飲み乾して見せ、空になった瓶を軽々とバルコニーから放り投げた。


「おーう……凄いな。明日には出発するってのに、倒れるかもしれないぜ?」


酒瓶の割れる音が下で虚しく響き渡る中、コバルトは抜けた顔でフェリスに忠告した。


「……一つ言っておくけど」


フェリスは口元を力強く拭うと、一息吐いて口を開く。


「私を酔い潰して襲おうって魂胆なら、無理な話よ? こう見えても酒には強いからね、レパードみたいにビール一杯で倒れる事も無いわ」


「ありゃ、そうだったか? とは言っても、別にそんな邪な考えは無かったさ。大体、隊長に酒を飲ますなんてこと最初から出来ないですよ……『お・ひ・め・さ・ま』」


コバルトの放った最後の一言に、フェリスはあからさまに機嫌を損ねたようにして眉を顰めた。そのフェリスの表情の変化を見たコバルトは、唐突に真剣な眼を見せて静かな声で続ける。


「……あなたの顔を見れば、分かる人には分かりますよ。特にオーセルの出身の人なら尚更だ。リオも薄々気付いてるかもしれない」


「誰の話かしらね……」


フェリスは欄干を背凭れ代わりにして、ぎしっと軋ませると、視界を覆い尽くす星空を茫洋と見詰めた。


「私はフェリスよ。唯の山猫であって、今はもう人間ですらないんだから」


「そりゃ言い過ぎだ。……ま、詮索されるのはお互い嫌みたいだしな」


コバルトは肩を竦めて苦笑した。


「最後に一つ。あれだけ酒飲んだ上でそんな格好してると、冗談抜きで転落しかねない。眠るのなら、ちゃんと自分の部屋に戻ってくれよな」


踵を返しつつコバルトはそう告げる。だが、一方でフェリスは疲れたように溜息を漏らした。


「眠るのは嫌い。だから、いつも二徹するのが普通だもの。おまけに夜行性の血を引いたお陰で、今夜も眠れそうにもないわ」


「へぇ、珍しい。ネコなのに寝るの嫌だなんて」


コバルトが思わず振り返って返答すると、欄干を背にしたフェリスは強く唇を噛んで俯いていた。


「……夢を、見るから。思い出したくないのに……」


憔悴した様子でそう呟くと、フェリスはずるずると腰を下ろして、バルコニーの床に座り込む。


「……そうか。まぁ、明日は早朝には迎えが来るらしいから、今晩ぐらいゆっくりしておくと良いさ。俺は、もうお暇させて頂きますよ」


コバルトは一息に告げると、手を振ってバルコニーを後にした。

彼の背中を半目で見送っていたフェリスは、ゆっくりと三角座りの体勢を取って、膝の上に顎を押し付ける。先程の酒が回ってきたのか、身体が妙に熱く、頭が鉛のように重くなった。


「……全く、らしくないわ」


眼を閉じる寸前、フェリスは吐き捨てるように小さく呟いた。






――――――――






いつも以上に眩い月明かりが、瞼越しに感じられる。


その月光の明るさに瑠美奈はそっと目を開くと、熟睡した様子の遙が視界に飛び込んできた。その穏やかな寝顔には、安堵の表情が浮かんでいる。

……いつの間にか眠っていたらしい。やや不安定な体勢で横になっていたためか、痛みの生じた背筋にぐっと力を入れて上半身を起こした。

隣では遙がシーツを奪い取って眠っているが、相変わらず目を覚ます様子は無かった。瑠美奈はその様子を見て苦笑すると、遙の襟元へ手を伸ばす。


「胸が開けてるじゃない。風邪でも引いたりしたら……」


その時、瑠美奈の手が止まった。……遙の鎖骨から腹部にかけて広がる、深く針が突き刺されたような赤黒い点滴痕を目にして。

無論、胸部や腹部の一部にはまだ戦いで負った傷のために包帯を巻いているものの、その隙間や鎖骨部分にははっきりと痕が浮き上がっていた。

それが何の痕なのかは、瑠美奈も理解していた。思わず唇を噛み、無念そうに目を伏せる。


(遙……)


瑠美奈は複雑な表情になって、遙の胸の傷跡に震える指先をそっと触れた。

だが、指が触れた途端、遙は顔を顰めると、嫌がるようにして身体を丸める。目を覚ますことは無かったが、苦しげに小さな呻き声を漏らした。


「……」


その反応を見た瑠美奈は、無言のまま遙の細い身体にそっとシーツをかけ直してあげると、物音をを立てないようにして静かに部屋を出て行った。




瑠美奈は足音を忍ばせて階段をゆっくりと昇り、何かに引き寄せられるようにして屋上へ繋がる扉の前にやってきた。

引き手であるレバーの付け根が何やら修理したような歪な跡が見受けられたが、瑠美奈は躊躇いも無く扉を押す。扉が開くに釣れ、鈍い音と共に夜風が吹き込んできた。


屋上へ足を踏み出した途端、ジャッ……と、硬いものが転がる音が耳に届く。足元を注意深く観察して見ると、絶対不可侵区域の荒地から吹き上げられた砂利が蓄積していた。

顔を上げた先には、大地の地平線が静かに燃え上がっている。見上げる東の空が薄らと緑色に染まってきているため、どうも夜明けが近いようだ。

肌寒ささえ感じる風に、少し身体を縮めながら瑠美奈は小さく溜息を吐く。


「眠れませんか?」


ふと、頭上から聞こえた声に、瑠美奈はそっと顔を上げた。

今しがた自分が扉を押して出てきた塔屋の上に立つ、巨大な翼を持つ白獅子――レオフォンが口角を曲げて見詰めてきていた。

見張りに徹していたのだろうが、その顔に疲労というものは感じられない。むしろ、清々しい程の生気が伺えた。

彼の姿を視界に収めた瑠美奈は笑みを漏らす。


「レオフォン。あなたこそ、少しは休んだらどう? ずっと気を張っていたら身体に毒よ」


「いえ、私は獣人ですから、多少の無理は問題ありません。出発までまだ時間が御座いますし、もう少し休んではいかがでしょうか?」


「……そうね、少し夜風を浴びたら、また一眠りさせてもらおうかしら」


瑠美奈は微笑みを浮かべて返すと、自らも塔屋への梯子を伝って、レオフォンの隣に立った。

眼前に広がる絶対不可侵区域は想像以上に広大で、所々にビルや住宅街が崩れた跡が生々しく残っているものの、ガラス片や剥き出した鉄骨が朝焼けに照らされて星のように煌いて見える。

文明の崩壊した世界……終末、というよりも、黎明と言うべき程にこの地が美しく見えた。瑠美奈は目を細めて、東の空に滲む陽光を見詰める。


「久し振りに、遙に会えた。レオの言うとおり、昔と全然変わらなくて、素直で優しい子。……親馬鹿かしら?」


「はは、本当のことですよ。それに、親が子を褒める事は当然です。親子の絆は、例え姿形が変わろうとも、そう簡単に切れるものではないでしょう」


「……でも、遙に『あの人』のことを聞かれて、答えが返せなかった。遙はもう、何年も前から聞いてきているのに、未だに打ち明ける事が出来ないの」


レオフォンは瑠美奈に視線を向けた。


「遙の……父親のことですか?」


「ええ。……あの子も、いずれ分かる時が来る。だけど、今は出来る限りあの子に負担をかけてあげたくない。
唯でさえ、獣人という存在にされて、想像さえしていなかったような日々を押し付けられていたのだから……」


そう話す瑠美奈の鳶色の瞳が、次第に陽光に照らされていき、音も無く滲む。


「今の遙には、教えることが出来ない。……あの人は、もう……」


――その時、一陣の風が吹き抜けていき、瑠美奈の言葉を遮る。東の空が徐々に燃え上がってゆく中、静かな風の音だけが耳を掠めていった。






――――――――






――記憶に残る父の姿は、いつも幅の広い背だけで、顔も声も不思議とはっきり思い浮かばない。


靄がかかったような景色の中、幼い私はリビングのソファーに腰をかけて、母と何か会話している父の背を見詰めていた。

左手に黒い鞄を提げて白衣を着た父は、どうも今から仕事に行く様子だった。私は両親をぼんやりと見詰めていたが、やがて父が振り向いたと思うと、こちらに向かって歩み寄ってくる。

私が目を瞬くと、父は私の頭に手を置いて、何か告げるように口を動かした……が、結局、その声は聞こえなかった。何と、言っていたのだろうか……


――


「おい! 遙、いつまで寝てんだ!? もうすぐ出発するって、置いていくぞコラァ!!」


ガークが乱暴に遙の部屋のドアを叩いた。彼の拳がドアに当たる度に、戸全体を支えている建具金物がミシミシと悲鳴を上げる。

部屋の中で、朝日を顔に浴びながらも中々起きれずにいた遙は、唐突に響き渡ったガークの大声に煩わしさを感じて眉を顰めた。


「うぅ……ッ。もう……言われなくても分かってるからっ」


そう返しつつも、久し振りにぐっすり熟睡出来たために、身体は一向に眠気から解放されない。

心地良い眠りの中、何やら夢を見ていた気もするのだが、ガークの大声のお陰でまるでどんな内容だったかは覚えていなかった。

遙は気分を害して軽く寝返りを打つと、手探りでシーツを引く。


「あれ……?」


その時、微かな違和感を覚えて、遙は薄らと目を開いた。……昨晩、一緒に寝ていた母の姿が無い。

何処に行ったのだろうか、もう起きて、EVとやらに戻る準備をしているのかもしれない。そう思うと、流石に起きない訳にはいかなくなってしまった。


遙が重い身体を軋ませて起き上がった途端、バキンッ! と乾いた崩壊音が響き、ガークが凄まじい怒号と共にドアを蹴り上げて闖入してきた。


「きゃッ!!」


寝台近くまで吹っ飛んできた木片に驚く前に、のしのしと大股で近付いてくるガークにの形相に、遙は悲鳴を上げた。


「人がわざわざ起こしに来てやったのに、いつまで布団に包まってんだこの馬鹿! とっとと荷物の整理して身支度済ませろッ!」


「朝から何でそんなに怒って……」


「うるせぇッ! フェリスのせいでロクに眠れなくて気が立ってんだよ! それに、お前以外の奴らはもう下に降りてんだからなッ」


ガークが耳元で叫び、あまりの声量に遙はビリビリと脳が痺れた。

だが、そんなガークの怒りが幸いしてか、眠気が一気に吹き飛ぶ。遙は慌てて寝癖を押さえ付けて立ち上がった。


「も、もうそんな時間に……って、まだ五時……」


遙は嘆息すると、寝台を下りると同時に襟元を直して、慣れた手付きで茜色のネクタイを締めた。そういえば、昨晩は色々な事に振り回されて制服のまま眠ってしまっていたのだ。

やや皺の目立つブラウスを仕切りに伸ばして、スカートの位置を直す。……すると、スカートのポケットから、昨晩受け取ったPDAが寝台の上に転げ落ちた。

そのPDAを見た遙は、慌ててそれを拾い上げる。


「あっ! これ、眠っていた時に壊してないかな……ポケットに入れてるの忘れてた……」


「ああ、それか。そいつもだが、他に忘れモンするなよ。大事なものを持ってきてるのなら、いつ此処に戻ってくるか分からないんだ。しっかり点検しとけ」


「うん……とりあえず、服ぐらいしか持って来てないし、最初からバッグに詰めて使っていたから、それを持っていけば大丈夫だよ。後は自分の鞄かな……」


そう言いつつ、遙はPDAを見詰めた。

一方で、棒立ちになっている遙の横を通り、衣服を詰めたバッグを背中にかけたガークは、ドアを出る寸前で立ち止まる。


「荷物は俺が下に運んでおくからな。そんなモン見てないで、お前も早く降りて来いよ」


「あ、うん、すぐに行くから」


ぼんやりとした返事を返すと、ガークは不機嫌そうに鼻を鳴らして廊下へと足を進めていった。

彼を見送った遙はPDAをもう一度見ると、再びポケットの中へとしまう。


(昨晩はあんまり見ることが出来なかったけど、他には何のデータが入ってるんだろう?)


やや後ろ髪を引かれる思いで自分の鞄を背負い、慌てて外へ向かおうとした時、思わず立ち止まった。

……もう、此処には戻って来ない。僅かではあるが、此処で生活した記憶が懐かしく思い出され、足が止まってしまう。


「……行かないと。皆が待ってる……」


時間にして五分程、部屋を見詰めていたが、遙はやがて視線を引き剥がすようにして、力強く踵を返した。






「GPCのレーダーに対するジャミングにカモフラージュ、センサー類の回避……っと、ハルカはまだ起きて来ないのかい?」


小型端末を片手で忙しく操作しつつ、コバルトは顔を上げた。

コバルトの足元に座り込んだフェリスは昨晩の酒が効いたのか、やや気分が優れない様子で青い溜息を漏らす。


「うーん……そういえば遅いわね。ほんの数日前まで大怪我もしていたし、あんまり体調が良くないのかもしれない。ガークは何か聞かなかった?」


頭痛を抑えるように、額に指腹を押し付けながら、フェリスはガークに問い掛けた。

彼女の問いを受けたガークは、遙の部屋から持ち出した荷物類をコンクリート片の上に一旦置いて、大きな欠伸を漏らす。


「唯の寝坊だよ、別に今のお前程ぐったりはしてなかったさ。ったく、お前がそうなったのも、俺をからかったバチが当たったんだよ……お?」


ガークが大儀そうに返した時、拠点の玄関戸が静かに開いたかと思うと、学生鞄を背負った遙が姿を現した。

紺のベストを着用した制服姿で、頭には以前ガークから受け取った黄色のリボンを巻いており、風に煽られてひらひらと翻っている。

数日前に負った大怪我も、包帯を外している状態を見る限り、すっかり回復した様子だった。遙はゆっくりとガーク達の元へと歩み寄る。


「ごめん、遅れちゃって。……それにしても、これは……」


遙が見上げる先には、ツインローター式の大型ヘリが着陸していた。マットブラックの重厚な装甲色を持ったそれは、淡い陽光に反射して銀色に照り返っている。

まるで、大国ロムルスの軍事基地にでも置いてありそうな大型ヘリだった。初めて間近で見たヘリの造型に、遙は感心したように吐息を漏らす。


「凄い、ヘリの音なんて気付かなかった。私が眠っている間に飛んできたの?」


「EV自慢のステルス機さ。一見普通の機体に見えるだろうが、ローターブレードや外装といった各部に特殊な設計を施している。
一度航空すれば、騒音はおろか、機体の姿もあまりはっきり見えなくなる仕様さ。君が気付かないのも当然だ」


「高所はともかく、騒音が殆ど無いのは助かるわ」


意気揚々としたコバルトの説明を聞いたフェリスが苦笑した。遙も釣られて笑みを零す。


「おい、駄弁ってるのは後にして、とっとと行かないとマズイんじゃないのか? GPCの奴らの目を躱すのは、そう簡単な事じゃ……」


「ええ、GPCの探索網を避けるためにも、そう長い時間は此処にいられない」


ガークが遙のバッグをヘリの中へと横暴に放り込んだ途端、その荷物類を避けて瑠美奈が機内から顔を出した。

裾の長い純白の白衣を纏った瑠美奈の姿に、皆の視線が一気に引き寄せられる。


「うお! 中にいるのなら言っとけよ、心臓に悪ぃ」


「? 別に何も驚かすようなことはしていないわよ。皆揃っているかしら?」


瑠美奈が周囲に目を配らせた時、遙が恥ずかしそうに顔をそらした。


「お母さん……」


一晩明けたとはいえ、今は周囲の目がある。母にはまだ沢山聞きたいこともあったが、それも今は出来そうに無かった。

そのはっきりしない遙の様子を見た瑠美奈は、思わず苦笑する。


「ま、遙は相変わらず寝坊しちゃったみたいね。……そろそろ、此処とのお別れも済んだかしら?」


「別れ、ねぇ……そうだな」


瑠美奈の言葉を聞いたガークとフェリスは拠点を見上げた。遙にとっても、此処は獣人として目覚めてからずっと生活していた大切な場所だった。

戦いの日々に加え、人間に戻れるかどうかも分からない不安の中、それらを忘れるかのように、ガークに連れられて絶対不可侵区域内を遊び回ったこともある。

決して、嫌な思い出だけが詰まっている場所ではない。むしろ、初めて獣人同士の仲間と出会えた、大切な拠り所だった。


拠点を名残惜しげに見つめていた遙達は、やがて三人で顔を見合わせて、小さく噴出した。


「全て終わったら、また此処には戻って来ると思う。……獣人である私の、第二の故郷みたいなものだから」


遙はそう言って瑠美奈に笑いかけた。吹っ切れたような、何処かすっきりした遙の笑みに、瑠美奈も微笑を浮かべて返した。


「――それなら、出発しましょうか」


瑠美奈の言葉に、遙は決然とした顔でしっかりと頷いた。

ヘリのドアから皆が内部へ入っていくのを横目に、遙は最後まで絶対不可侵区域の地に経っていた。

此処に戻って来るのは、いつになるか分からない。此処に再び足を付けることが出来る日は、自分が人間に戻って、元の生活をすることが出来る時か……それとも。


「おい、遙ぁー! 置いて行くぞ!?」


機内から聞こえたガークの声に、遙はびくりと肩を揺らすと、自分も慌ててヘリのドアに駆け寄る。

遙が入ったのを確認した上でドアが閉まっていく中、遙はもう一度振り返った。……一ヶ月前に、玲達と別れた時と同じように、この瞬間もまた節目に当たるのだろう。

これから先、自分達がどんな事になっていくのか分からない。だが、その未来に対して悲観的になる事は無かった。


「人間に戻る事が出来たら、また探検したいな。今度は、ガークだけじゃなくて、皆で」


誰にも聞こえないぐらいの小さな声でそう呟いた時、ドアが完全に閉まり、ローターの回転音が静かに耳を掠め始めた。






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