「エラン・ヴィタール……?」


遙は唖然として瑠美奈の言葉を復唱した。

瑠美奈は遙の言葉に頷くと、真剣な表情を浮かべて話を続ける。


「EVは無政府状態に則って国連条約を破棄する国への強制力に加え、各国で起きているテロを抑圧するなどと言った目的を担う機密組織よ。
非公開ではあるけれど、この黎峯にもEVの部署が幾つか存在しているの」


瑠美奈は強い言葉で言った。


「テロの中でも、ウイルスや細菌といった病原体を利用する……いわゆるバイオテロの対策部門の一つが、現在獣人に目を付けて、その研究を行っている。
獣人の持ち得る身体能力ももちろんだけど、保有しているウイルスによる環境への懸念も否めない。そのために、今この地に点在する獣人の『保護』を進めているの」


「保護、ねぇ。つまり……お前達の言うEVとやらの研究所に連れて行っているということか?」


相変わらず不機嫌そうなガークが、胡乱な目付きで瑠美奈を見返した。


「ええ、この絶対不可侵区域から獣人を保護し、任意のデータ提供によって人間に戻す治療法の研究も同時に進行させている。
此処数ヶ月の期間で、数十人の獣人が承諾して組織の元へ同行しているわ。私の後ろにいるレオフォンとコバルトもこのことに同意してくれて、研究以外でも様々な面で私をサポートしてくれているの」


「そ、それなら……」


瑠美奈の台詞に、ガークは顔を険しくした。


「もしかして、俺らがこの半年間、自分の仲間達を見付けられなかった原因は、それのせいなのか? 道理で、幾ら探しても見付からない筈だ……。
でもよ、瑠美奈の言うことが本当なら、レオのおっさんもEVの関係者なんだろ? どうして俺らにその事を教えてくれなかったんだ」


「それは、少し理由があってな……」


ガークの問いを聞いたレオフォンは、軽く咳払いをすると、伏目がちに話し始めた。


「実はと言えば、この獣人の研究は殆ど瑠美奈殿の独断なのだ。獣人を保護することは、その製造者であるGPCの手によって、罪を押し付けられることも考えられる。
EVは極秘の組織……EVに獣人がいたとすれば、GPCは万が一に備えて良い口実になる。獣人を造り出していたのは、GPCではなく、我々、EVの側だったと……」


「! そんなことまで……じゃあ、お母さんの身が……」


「始めから覚悟の上よ、遙。……私はその獣人という存在を生み出した、GPCの元研究員としてやらなければならない事をするだけ。
関わっていないと言っても、存在を知ってしまった以上、黙過し続けることは出来ない」


瑠美奈の厳しい言葉に、遙ははっとして思わず口を噤んだ。

重い空気が漂う中、再びレオフォンが話しを始める。


「それともう一つ。瑠美奈殿の独断であること、つまり他のEV研究員にとっては、獣人の存在自体が受け入れ難いものなのだ。
GPCという黒幕の手に加え、獣人そのものも、人が忘れかけた獣の本能を持ち合わせている。同じ人間として、見てくれぬ者も少なくは無い」


「……! それが原因で、レオさんは私に言えなかったのね」


フェリスは無念そうに目を閉じた。その姿に、心境を察した遙も複雑な面持ちになる。


彼女はGPCから脱走した獣人達が集まって出来上がった組織BRを、自らの暴走を原因として崩壊させたと思っている。

それは決して自分の意思ではなかったものとはいえ、それが発端となったことが、彼女は今でも忘れられない筈。

詳しくは知らないが、レパード達との一件以来、彼女達が胸に秘める確執は深いものがあるということだけは嫌でも思い知らされた。

獣人同士ですら、そんな隔たりが生じている。つまり、こちらの事情を知らない一般的な人間から見れば、確かに恐ろしいことなのだろう。それこそ、命の危険を覚える程に……


「俺達は危険分子として見られている訳か……保護するのは良いが、時として暴走でも起こされたら手の付けようが無い。
人命さえも奪いかねない獣人の存在が、他の研究員には気に食わないってことか」


ガークは悔しげに舌打ちした。遙も胸を痛めながら母に問いかける。


「でも、そんな理由がありながらも、どうしてお母さんは此処へ? 他の研究員達が承諾していないのなら、お母さんだって唯じゃ済まない筈」


「……本来なら長い説教を聞かされるでしょうけど、今回は特別な指令でね。私が所属している研究施設の所長自らが、仲介人として私を此処へ向かわせたの」


瑠美奈が放った言葉に対して、皆が一斉に顔を上げた。視線を受けながら、瑠美奈はやや疲れたような様子で話を続ける。


「……指令の内容は『希少なキメラ獣人個体であるハルカの保護』。簡単に言い直せば、遙、あなたをEVに連れて来いと言われている」


「ど、どうして私だけを……」


予想もしなかった台詞に、遙は困惑して問い返した。


「GPCが血眼であなたを追っている。特に、レオフォンが秘密裏に報告してくれた先日の件では、大幹部までもがあなたに狙いを付けて行動しているそうね。
あなたがEVへ来れば、キメラ獣人と言う存在の貴重なデータの採取も可能な上、GPCに対する『人質』としても使えるかもしれない……と」


「なんだとッ! それじゃ遙は組織にとって都合の良い道具みたいな扱いじゃねぇか!」


ガークが眉を怒らせて激昂した。厳しい言葉に、瑠美奈も渋面を浮かべて俯く。


「だからこそ、あなたの意見を聞きたいのよ、遙。所長の指令とはいえ、私自身はあまり強制したくない。
遙が此処に残りたいというのなら、私の手の届く限り、GPCの追手からあなた達を保護するつもりよ」


「……」


瑠美奈の言葉に、全員が押し黙った。中でも遙の心境は複雑に葛藤を繰り返す。

急に突きつけられた母の提案に戸惑いを隠せなかった。……だが、自分自身、EVに行くのは悪くないと思っている。

例え研究材料として扱われようとも、自分達獣人が人間へ戻る手がかりとなるのであれば、むしろ進んで引き受けたいとさえ考えていた。

このまま指令通りにEVの元へ行けば、再び母と共に暮らせる、という微かな希望も……GPCとの戦闘さえ、皆無に等しいことになるだろう。


だが、遙が決断に迷う理由は他にあった。


(お母さんの言う指令は、私だけを連れて行くこと……)


つまり、自分以外の者達は此処に残らざるを得ない可能性が高い。ガーク達が危険分子として見られているのなら、尚更だ。

自分が行けば、皆に苦痛の日々を押し付けることに繋がる。何よりも、自分を匿ってくれたガーク達は、必ずGPCの者達に追われるだろう。

ガーク達は大切な仲間であり、命の恩人に等しい。あの時、彼らが助けてくれなければ、今、自分は此処にいないのだ。


遙は歯痒そうにぐっと唇を咬んだ。


「……私は、その指令に従う」


沈黙を突き破るようにして放った遙の言葉に、皆は息を呑んだ。


「けれど、条件を付けさせて。私以外の獣人の人達もEVに連れて行って欲しい。……もちろん、ガーク達の意見もあるだろうけど、せめて選ばせて欲しいんだ。
私が貴重な研究体であって、人質でもあるというのなら、このぐらいの我侭は聞いてくれると思うの。何より、私が今此処にこうしていられるのは、ガークやフェリスさん達のお陰だから……」


「お、おい遙! そんな事言ったら、お前まで」


「……遙なら、そう言うと思っていたわ」


瑠美奈が苦笑を漏らしつつ、ガークを遮って言った。


「こればかりは、あなたの本心を聞かない限り、どうすることも出来ない事だったから。ガーク達も連れて行けるよう、上にも取り合ってみる」


「じゃあ、俺らにも選択権をくれるってことか? 此処に残るか、EVの部署へ行くか……」


「そういうことになる。唯、元の家へ戻りたいという願いは聞いてあげられないわ。GPCの魔手が更に広がる恐れや、内在するウイルスが生態系等の環境へ及ぼす影響も懸念出来ないから……。
万が一のことを考えて、申し訳無いけれども二択の中で選んで欲しい。その上、もしEVへ行くというのなら、明日にも出発する予定だから、今晩中には決断してもらわないといけない」


瑠美奈は指を二本立てて言った。それを聞いたガークとフェリスはお互いの顔を見合わせると、二人揃って吹っ切れたように肩を竦める。


「まぁ、それなら可能性のある方へ行きたいモンだな。他の仲間達もEVにいるのなら、尚更だ。遙のヤツも一人にさせておくと母親にべったりだろうし」


「そ、そんなことッ」


ガークの嘲笑に、遙は恥ずかしさで顔を真っ赤にした。

……だが、そんな遙も徐々に顔を俯けていき、やがて口篭る。スカートの上で両手を握り、何か言いたげな雰囲気だった。

その遙の様子を見たフェリスは苦笑を漏らして、横のガークの肩を指先で突付く。


「今晩中なら、私はもう少し考えてくるわ。――ほら、ガーク。此処を出るっていうのなら、自分の荷物ぐらい纏めて行きなさいよね。私も手伝ってあげるから」


「! いでっ、いててて、耳を引っ張るな! 行くから離せよ!!」


フェリスに強引に引き摺られるようにして、ガークは悲鳴を上げながらも早々に部屋を後にした。

相変わらずな二人の雰囲気に遙は苦笑いを漏らす。そんなガークとフェリスの様子を静観していたレオフォンとコバルトも、思い付いたようにして顔を見合わせた。


「……私も外の見張りをしてきましょう。GPCの者達が来ないとも限らないですから」


「んじゃ、俺は本部へ連絡を通しておきますので、この辺で一旦お暇させて頂きますよ。折角ですから、ゆっくりしていて下さい」


レオフォンが巨躯を揺らしてドアを開き、コバルトもそれを追うようにして歩きながら、こちらへ向けて右手を振った。

間髪を入れずにドアが閉まる音が虚しく響き、残った遙は皆が出て行ったドアを唖然として見詰める。


(……みんな)


気を遣ってくれたのだろうか? 久し振りの母との邂逅に、二人きりにしてあげようと、皆思ったのかもしれない。

しかし、色々と長い話を聞かされて頭が混乱するよりも先に、遙は久し振りに見た母を前にして、急に口を紡げなくなった。

さっきまでは、皆がいてくれたからこそ、普通に会話が出来た。だが、二人きりになった今、異様な緊張感を感じてしまう。

ずっと会いたかった人。獣人にされてからというもの、その思いは日に日に強くなっていた。獣人にされた境遇と、その真実を受け入れてほしいが為に……


「後から、皆にお礼を言っておかないとね」


「! お母さんッ」


瑠美奈が微笑を浮かべてそう呟いた時、遙は突然弾かれたように椅子から立ち上がった。その動作で、座っていた椅子が背後へと反動で倒れ込む。

急に椅子を倒して立ち上がった娘に、少々驚きの様子を湛えながらも、瑠美奈は俯き加減の遙の顔を見た。

両掌が、じっとりと汗ばむ感覚……遙は唇を強く噛んで、少しずつ顔を上げると、母を真っ直ぐに見詰める。


「見ておいて、欲しいものがあるの」


「遙……まさか……」


瑠美奈の問いに答える前に、遙は静かに両手を持ち上げて深呼吸をすると、腕にぐっと力を込めた。

その途端、緩やかだった鼓動が唐突に早鐘を打つ。それは、緊張からではない。体中の血液が激しく循環を繰り返し、カッと肉体が熱く燃え上がった。

血圧の急激な上昇にあわせて身体の血管が浮き出、脈拍の強さに遙は額に汗を滲ませる。そして、低い呻き声と共に、両手の指をぐっと曲げた。


その時、指先の平爪の先が見る見る変形し、先を窄めて鋭い鉤爪へと変化する。それにあわせて、指先から腕全体へと、鮮やかな羽毛の波が一気に広がっていった。

黒と碧の鮮やかな配色を持ったそれは、二の腕程の所で変化が止まり、肘には漆黒の長い飾毛が噴出すようにして生じた。

獣人化の苦痛で食い縛った歯も、ゆっくりと犬歯が伸びていく。薄く開いた目元では虹彩が鮮紅色を宿して、瞳孔もネコ科のように縦のスリット状に変化した。


全身に力を込めていた遙は、獣人化を終えた途端、大きく肩で息を吐く。急激な変化に伴う疲労に足が震えそうになりながらも、遙は小さな声で話し始めた。


「……これが、今の私なの……もう、人間じゃないんだ」


遙はそう言いつつ、確認するようにして自分の腕を見る。それは、すでに人間のものではなく、異形の腕へと変貌を遂げていた。

獣人という存在になった証である、その肉体変化を再度目の当たりにして、知らず知らずの内に涙が頬を伝い始めた遙は、強く瞼を閉じる。


「変、だよね。心は昔と変わらないのに、身体はまるで別のものみたいで……本当に、自分が何なのか、分からなくなるの……」


あの日から……獣人の実験体としてGPCに拉致された日から、すでに二ヶ月近くが経過していた。

それでも、まだ自分自身に宿る獣人の力に対して、不可解な感触を忘れることは出来ずにいる。身体の一部となっているにも関わらず、馴染む感覚は今だにはっきりしない。

恐らく、今も心の何処かで、自分の中に眠る獣人の力を否定しているのかもしれなかった。決して、獣人という化け物ではないと、心だけは人間だということを信じていたいのだから。


「こうやって、獣人の姿になって、戦う時。獣の血に飲まれて本能が剥き出してきて、どんどん自分が失われていくようで、凄く、怖くて……。
このまま獣人という存在であり続けたら、もう、人間の自分は消えて無くなってしまんじゃないかと、ずっと――」





――ふと、身体に誰かの熱を感じて、遙はそっと眼を開いた。


「遙……」


瑠美奈の静かな声が、耳を掠める。瑠美奈は遙の背に手を回していて、思わず遙が苦しく感じる程に強く抱き締められていた。

だが、それは決して辛いものではなくて、久し振りに、本当に久し振りに感じた母親の温もりだった。ずっと感じていたいと思える程に温かいその感触に、薄らと頬が染まる。

一瞬、夢見心地になった遙は急に抱き締めてきた母に、驚いて眼を向けた。視界が白衣で埋もれて顔こそ見えないが、小さな嗚咽のような声が聞こえてきている。


「ずっと、ずっと、遙を抱き締めたかった……。あの日から、ずっと……」


「お母……さん?」


遙はそっと母親の背に手を回す。

両手に備わった羽毛が緩衝材のようになり、母の白衣の感触は分からなかったが、その熱はしっかりと伝わってきた。


「遙が獣人にされてしまったと聞いた時、もしかしたら、すでに私の知っている遙じゃなくなっているのかもしれないと、正直、怖かった。
だけど、此処に着いて、あなたが昔と同じようにしがみ付いて来たのを見て、急に身体が軽くなったような気がしたの」


瑠美奈は遙から身体を離し、肩に手を置いて、真っ直ぐに顔を見詰める。

自分と同じ鳶色の瞳が、夕日に反射して潤んでいた。母とは、もう何年も会っていないかのような、不思議な感覚が遙の頭に過ぎる。


「遙は遙で、獣人になってもそれは変わってないということを、実感出来たから……。――ごめんね、遙。
私がもっと、あなたに付いていてあげられれば、こんなことには……」


「……お母さん」


遙は母親の手に、恐る恐る自分の震える獣手を近付ける。

だが、瑠美奈は躊躇いもせずに遙の手を優しく取った。指を交差する形で、お互いの掌が押し付けあう。

すると、徐々に遙の腕の羽毛が剥げるようにして人肌へと戻り始めた。元の人間の時と同じように、柔らかい皮膚の感触に戻ると同時に、母の掌の熱がはっきりと伝わってくる。


「うう、う……お母さん……」


獣人化が完全に解除された瞬間、遙は自分から瑠美奈の胸にしがみ付いた。

獣人という異形の姿になっても、自分を受け止めてくれた母の鼓動を耳にして、遙の目元から堰を切ったように涙が零れ落ちた。


「辛かったね、遙……」


瑠美奈が頭に手を置いて、静かに耳元でそう言った。その言葉を聞いた遙は、手の力を強めて喉を鳴らすと、次第に肩を震わせ始める。


「うぁ、うう、うわぁああぁあああッ……ッ!!」


今まで溜め込んでいたあらゆる感情が涙となって一気に溢れ出し、遙は久し振りに母の胸に抱かれて、泣いた。









――それから、どれぐらいの時間泣いていたのか分からなかった。

唯、涙で濡れてしまった母の胸から顔を上げた時、窓から見える空はすでに紺色に染まり始めていて、少し冷気を持った風が頬を撫でていった。


「……何だろう、変な気持ち……」


思いっ切り泣いたお陰で頬が真っ赤になった遙だったが、不思議と心が澄み切った感覚に小さく呟く。

獣人となった日からずっと胸の蟠りが晴れずにいたが、母に寄り縋って泣いたことにより、まるで氷が溶けるようにして気分が楽になったようだった。


「少し、疲れてるんじゃない? 暫く見ない間に随分痩せちゃって、ちゃんとご飯は食べてたの? ……身体も傷だらけじゃない……」


瑠美奈が遙の首に巻かれた包帯を指先でなぞると、遙はむず痒くなって身を捩った。


「そ、そんな心配しなくても大丈夫だよ。私も子供じゃないから」


「まぁ、そんなこと言って。大体、一時間以上も私にしがみ付いて泣きじゃくってたのに、今更子供じゃないなんて言わせないわ」


遙は母の言葉に、思わず何も返せなくなって俯いた。羞恥のあまり、益々頬が紅潮する。

この部屋に今、ガーク達がいなくて良かったと心底思った。同時に、久し振りに会えた母に対して、何処か奇妙な戸惑いを感じる。

獣人として生活してきたことが、ある種の自信に繋がっているのかどうか分からないが、もう子供ではないと思う余りに、母の優しさが少々疎ましく思えるのだった。


「全く、不貞腐れちゃって。……それじゃ、私は一足先に休ませてもらおうかしら?」


「え?」


遙が呆気に取られた顔で母を見ると、瑠美奈は長々と背伸びをしてから椅子を立ち、部屋のドアノブに手をかけた。


「何処へ行くの?」


遙の問いに瑠美奈は目を瞬き、顎に指を当てて天井を仰いだ。


「何処って……遙の部屋に。この部屋に寝台は無いみたいだし、此処の所徹夜続きだったからね。早めに休もうかと……」


「!! じゃあ私が寝る場所が無いよっ」


「一緒に寝れば良いでしょう? 大体、恥ずかしいだとか何だとかで気を張り過ぎなのよ。もう少し肩の力を抜きなさい、遙」


そう言い残すと、瑠美奈はあっさり部屋を出て行ってしまった。無論、遙も慌ててドアを開け放つ。


「ま、待って……!」


薄暗い廊下を早足に進んでいた瑠美奈は、背後から必死になって追ってくる遙を見て、思わず苦笑を漏らして立ち止まった。


久し振りに見た強引な母の行動に、遙はすっかり調子が狂ってしまう。普段なら苦にもならない階段を駆け上がっては、すぐに息切れしてしまう程に肩が凝った。

だが、不思議と嫌悪する感覚ではない。……まるで、人間だった時の生活を思い出すかのような、素朴な幸福感が胸を満たしていた。


やがて、自分の部屋が設けられている三階の一番端までやってくると、遙は瑠美奈を案内するような形で自室のドアを開けた。

もちろん、私物の類は皆無に等しい。以前故郷に戻った際に持ってきた、必要最低限の着替えぐらいしか置いていなかったため、部屋は垢抜けた開放感が漂っている。


部屋の中央まで歩いて、室内を見渡した瑠美奈は感心したように眉を上げた。


「意外と綺麗にしてるじゃない、この部屋なら、景色もはっきり見えるわね」


「うん、月の綺麗な晩には、降るような星空が見えるの。街じゃ見れなかったのに、此処に来て、初めて知ったんだ。こんなに夜空が綺麗だってことも……」


親子で寝台に腰をかけながら、遙は背後に空いた窓へと目をやった。満天の星空が、遙の瞳に光をちらつかせる。

母との他愛無い会話が、自分の置かれている状況を忘れさせてくれる。決して元の生活に戻れた訳ではないと言うのに、心が静かな湖面のように落ち着いていた。

そうやって気分が落ち着くと同時に、遙はずるずると寝台に身体を横たえさせる。この三日間、眠り続けていたようだが、それでも母との邂逅といい、これからの生活といい、色々なことで疲れが生じていた。


瑠美奈も遙に釣られるようにして寝台に横になると、眼鏡を外して遙の顔に目をやる。


「久し振りね、遙と一緒に寝るのは、何年振りになるかしら?」


「そうだね、小学校の三年生になった時から二階で一人で寝るようになったから。……事故で入院してたお陰で、一人で眠るのにも慣れてしまったもの」


遙は名残惜しそうな顔をして視線を上げると、母と目が合った。

ガークとレオフォンにも言われたが、こうして見ると、本当に鏡を見ているように母と顔が似ている気がする。

他の同級生の母親と比べると、ずっと若々しい外見で、フェリスやレパードと年齢が変わらないのではないかと感じる程だった。


遙の神妙な視線を受けていた瑠美奈は、硬い表情を浮かべる遙を見て、思わず噴き出す。


「ふふ、そうやって見ると、本当に小学生の時から顔は変わらないわ。泣いた後もしっかり残ってるし」


「ち、違うよ……! ちゃんと背も伸びたし、少しは身体も強くなったんだから!」


遙は必死になって言い返したが、ふと、身を捻った際にスカートのポケットに違和感を覚えて手を差し入れる。

すると、間髪を入れずに母から受け取っていたPDAが出てきた。遙はそれを慌てて母に向けて差し出す。


「あ、これは、お母さんのだよね? 返すよ、何だか機密情報がいっぱい書いてあるみたいだし」


遙に差し出されたPDAを見て、瑠美奈は目を瞬いた。


「それは、遙にあげるわ。元々、あなた用に情報を纏めたPDAだからね。そのために黎峯語で簡単に語句を記述しているのよ。
情報入力以外にも、スケジュール表の作成やメモ帳代わりにもなるから、好きなように使いなさい」


「……そうなの? じゃあ、貰っておこうかな。有難う、お母さん」


遙は母に笑顔で礼を言うと、PDAをそそくさとポケットにしまい込んだ。

それから暫くの間、会話を交わすこと無く静かな時間だけが経過していったが、やがて遙は糸が切れたようにして脱力し、枕元に頬を押し付けて囁くような声で話し始めた。


「ねぇ、お母さん……」


「何?」


「……お父さんとは、別れちゃったの?」


遙の発した言葉に、瑠美奈は一瞬息を呑むと、やがて口篭るようにして目を伏せた。


「ううん、違うよ。お父さんは、帰って来られないだけ……」


理知的な母が言うには、少々幼稚な言い方だった。まるで、幼い子供に言い聞かせるような、漠然とした答え。

だが、それは遙も想像していた通りの返答で、同時に、何かを隠していることも、ずっと昔から感じ取っていた。

隠し事をされている。それも、愛する父の所在と現状について。今、父が何処で何をしているのか……何故帰って来ないのだろうか。


瑠美奈の返事を受けた遙は、薄らと目元を潤ませて、静かに目を閉じた。


「嘘だよ……五年も経って、小さかった私も背が大分伸びたから……こんなに長時間、帰って来ないのはおかしいよ。何があったのか、教えて……」


「……」


遙の訥々とした言葉には、強い思いが込められていたのは嫌でも伝わってくる。

……だが、瑠美奈は思惟に耽るようにして黙って窓の外を見詰めるのみで、再びその件について口を開こうとはしなかった。

父のことを聞いても、母は何も答えてくれない。それは初めて問いかけた時から、変わらない事実だった。遙はシーツを口元まで引き寄せて、小さく溜息を吐く。


「……いつか、また、一緒に暮らせたら良いな……お父さんと……」


遙は最後にそう呟くと、やがて静かな寝息を立て始めた。その言葉を聞いた瑠美奈は、隣で眠る遙へとそっと視線を戻す。

深い眠りに就いているのは確かだが、何処か、悲しい寝顔だった。


「……いずれ、分かる時が来るから……今はお休み、遙……」


瑠美奈は遙の額をそっと撫でてやると、淡い月の浮かぶ空を見上げた。







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