「お母さん……っ!!」


遙は震える声でそう叫ぶと、唖然とするガークの横を通り抜けて、瑠美奈の身体に顔を押し付けた。

周囲の視線を憚ることなく、遙は瑠美奈の肢体にしがみ付いて嗚咽する。想像さえしていなかったその遙の行動に、ガークは顎が外れそうな程に呆気に取られた。


「お、お母さんって……」


唐突な状況にガークはおろか、フェリスまでもが目を見開いて立ち尽くす。あまりにも急な出来事に、頭の回転が追い付かなくなりそうだった。

……だが、苦笑を浮かべる瑠美奈の顔立ちを見たフェリスは、記憶を辿るようにして、次第に眉を顰め始める。


(あの顔何処かで……そういえば、遙の家の写真……)


以前、遙の家に行った際、リビングの棚に置いてあった写真……恐らく、中学生であろう遙と共に立っていた女性……


「あの時の写真……本当に、お母さんだったの?」


今の瑠美奈の顔と、記憶の容姿が重なった時、フェリスは目を瞬く。その若さから、姉や親戚の人ではないのかと疑っていたが、遙が母親だと呼んでいることが彼女の正体を仄めかしていた。

一方で、瑠美奈は泣きついてきた遙の頭に手を置いてやりながら、そっと苦笑を漏らした。


「遙……」


「お、お母さんだよね? 本当に、夢じゃなくて……」


遙は確かめるように尋ねる。何しろ、今目の前に立っているのは、誰よりも会いたかった、自分が最も愛する母その人だったのだから。

だが、遙の問いかけに瑠美奈が答える前に、不審げに顔を歪ませたガークが、図々しくも二人の間に割り込んできた。


「おいッ、邪魔して悪いがよ、一体何なんだ? 俺達にも状況を説明してくれ」


「そうだな、ガーク達にも詳しく話しておかなければなるまい」


ガークの声を聞いて、彼らの後方に控えていたレオフォンがそう告げた。









急な出来事にしどろもどろになりながらも、拠点内の客室へと瑠美奈を招き入れたガークとフェリスは、二人揃って顔を見合わせた。


「……どうしてガークが遙のお母さんを連れてくるのよ?」


「う、うるせぇっ、知るかよそんなこと! 俺だってたまたま砂嵐の中に倒れていたこいつを拾っただけのことで」


ガークは慌てて言い返す。その言葉を聞いたフェリスは、紅茶を淹れながら小さな溜息を漏らした。


「……何だか頭が痛くなるわ、一体どういうことで……遙のお母さんは」


フェリスは腑に落ちない様子で室内に目を配る。

テーブルを挟んだ先に座る瑠美奈に加え、彼女の背後にはレオフォンと人型に戻ったコバルトが仰々しく立っていた。

その対面に当たるこちら側には、遙が緊張した様子で肩を竦めながら座り込んでいる。想像さえしていなかったであろう、母との邂逅に、彼女もどうにも落ち着かない塩梅だった。


ガークも舌打ちと共に何度も足踏みをし、機嫌を損ねた様子で相手を睨み付けている。フェリスは彼の表情を横目に、瑠美奈へと紅茶を差し出した。


「正直、状況が良く分かりません。レオさんも、コバルトも、一体どういうつもりなんですか?」


「そうね、改めて自己紹介しておくわ」


フェリスから受け取ったカップの縁から口を離し、瑠美奈は一拍置いて話し始めた。


「私の名前は東木 瑠美奈。お察しの通り、そこに座っている遙の母親よ。職業は遺伝子工学関連の研究員で、研究分野は遺伝子機能の解析。
その他にも、DNAの機能を解明する新たな手法の開発などを専門としているわ」


「まだ言うことあるだろ、お前。……GPCの、研究員だったんだろ?」


ガークのトーンダウンした言葉に、真っ先に息を呑んだのは他ならない遙だった。

彼の発した台詞を聞き、瑠美奈と向かい合う形で椅子に座り込んでいた遙は、弾かれたように身を乗り出す。


「ほ、本当にGPCの……研究員だったの……?」


「? 遙、あなた、もしかして……」


唐突な遙の問いかけに、意外そうに瑠美奈が眉を上げる。


「遙は、GPCに関する記憶だけが欠如してしまっているようなんです。恐らく、獣人にされた副作用だとは思うのですが……」


瑠美奈の疑問に答えるようにして、フェリスが伏目がちにそう告げた。

遙は何とも言えない、複雑な表情で母を見詰める。そんな表情になったのも、母がGPCの研究員であったという事実を、裕子から聞かされてからずっと危惧していることがあったからに他ならなかった。

その遙の様子を見た瑠美奈は、彼女の心中を察したかのように静かな笑みを漏らした。


「GPCにいた時は、獣人の開発には関わっていないわ。あくまで『表側』のGPCに勤めていた。……GPCの、裏の顔も知らずに、ね」


瑠美奈は小さく溜息を漏らすと、記憶の糸を辿るように、遠くを見詰めながら話を続ける。


「少し長くなるけれど、私がGPCに勤めた……いえ、正確には雇われたと言うべきかしら。GPCに誘いを受けたのは、私がまだ大学に在学している時だった。
私は当時から遺伝子の機能について研究していてね、その私に目を留めたのが、世界規模で会社を展開する製薬企業ゲノムプロジェクト・カンパニー。
入社してくれるのであれば、最新施設の使用、研究費の援助といった特権を与えてくれると言われて、今から丁度五年前まで勤めていたわ」


「それなら、今はGPCの研究員じゃないの……?」


遙の胡乱な問いに、瑠美奈は小さく苦笑を漏らした。


「ええ、今はもうGPCとは関わっていない。……そうなったのも、ある日、GPCの暗黒面である獣人開発の事を極秘裏に聞かされたからに他ならないわ」


瑠美奈の台詞に、遙達は固唾を呑んだ。


「生きた人を実験材料として扱う、非人道的な研究内容。確かに、それは今まで誰も踏み入れたことの無い、未知の領域だった。だけど、私は目的も無しにそんな研究をする気にはなれなかった。
――その極秘裏の研究内容を拒否して抜け出したお陰で、今はGPCには追われている身よ。恩師である人が、運良く私を手助けしてくれたから、まだ捕まってはいないけどね」


「恩師……?」


「そう、私の父と交流があった人で、昔から私の面倒を見てくれていたの。その人も、GPC程ではないけど、大手の製薬企業を設立している。
今は表向きではそこに勤めている形になっているけど、その傍らで『別の仕事』を受け持っているのよ」


そこまで言った所で、瑠美奈は急に白衣のポケットに手を差し入れたと思うと、電子辞書程の大きさを持った小型のPDAを取り出して、遙に手渡した。

夕日に反射して黒光りする、見慣れない端末を手にして、遙は困惑したようにそれを見渡す。


「これは、何?」


「起動して見れば分かるわ」


瑠美奈の指示した通りに、遙は慌てて起動ボタンを押して端末を立ち上げ、慣れない手付きでキーを入力しながらパスワードロックを解除する。

すると、間髪を入れずに表示された画面に、思わず遙は目を見開いた。


「これって、まさか……獣人の、情報!?」


「何だって!? ちょっと俺にも見せてみろ!」


遙の言葉に反応して、ガークもPDAの画面を凝視する。

PDAの画面に表示されている難しげな文字群に混じって映し出された写真には、確かに獣人の容姿や、電子顕微鏡写真によるウイルスのような画像までが表示されている。


「よりによって黎峯の文字か……何て書いてあるんだよ」


「獣人の生態に関する情報も記載されているけど、より正確に言えば、獣人を造り出すために必要な『ウイルス』の情報が纏めてあるわ」


「ウイルス?」


遙はPDAの画面から顔を上げて、瑠美奈に問い返した。


「獣人はある遺伝子操作で生み出されたレトロウイルスを介して造り上げられている。レトロウイルスは平たく言えば自分の遺伝情報を宿主のDNA中に挿入して感染するウイルスのことよ。
そのウイルスに動物の遺伝子を導入したものを人間に感染させて、獣人は生み出されているの」


瑠美奈の発した言葉に、遙は慌ててPDAの画面を再度凝視した。

思わず目を皿のようにして、その画面上に表示された文字列を読み上げる。


「人工的に生み出されたレトロウイルス……通称『ambush(アンブッシュ)』は、その名称の通り、予測出来ない周期で自らの遺伝子情報の発現と抑制を繰り返す特徴を持つ……。
このambushに動物の遺伝子を組み込み、人間に感染させて造られた存在が……獣人」


――このウイルスは宿主のレセプターに合わせて表面のタンパク質を変異させる特異性を持ち合わせ、細菌、植物、動物といったあらゆる生命体に感染する。

一度細胞に感染を終えると、十日程度の期間を経て、このタンパク質変異の特性は失われ、他の細胞へと感染を広げることは無くなる。

また、ambushは感染すると同時に、宿主の視床下部に寄生する形で小型の器官を形成し、此処から特殊なホルモンの分泌を行う。

このホルモンはambushに感染した細胞の受容体に結合することで、抑制されていたambushの遺伝子情報の発現を促す。

ホルモンの作用は長くて十数時間程持続し、その間は遺伝子情報が発現し続けることとなる。理論上はこのホルモンの作用によって獣人化という症状が生じるのである。


PDAに書かれた文の一部を早口に読み上げ、遙は目を瞬いた。


「……ウイルスの感染が原因……じゃあ、一種の病気ってことなの? それなら、どうにかして元に戻る方法が……」


遙が懇願するようにして、一息に言い放った。

ウイルスが原因且つ、そのメカニズムも少なからず解明されているようである。それを確認した時、遙の胸に小さな希望が生じた。

此処まで分かっているのなら、投薬などの手法で完全に獣人の能力を消し去ることも難しくない……だが、遙の問いに、瑠美奈は顔を険しくした。


「……言い辛いけど、現段階でははっきりとした治療法は無いわ。一度感染すると、全ての遺伝情報が組み替えられてしまう。それから獣の遺伝子だけを抽出することは難しい。
それに、ウイルスである以上は細菌と違って抗生物質のような特効薬がある訳でもない」


「何だとッ!? それじゃあ、俺らは一生このままでいろってのか!」


「やめろ、ガーク!」


瑠美奈の言葉を聞いて、今にも飛び掛ろうとしたガークが、彼女の後ろに控えていたコバルトとレオフォンに押さえ込まれる。

自棄になったように暴れるガークに、母の言葉を聞いて凍り付く遙。二人の様子を見たフェリスも、珍しく焦れた表情を見せて迫る。


「他に、他に方法は無いんですか? ……遺伝子情報の除去が出来ないのなら、せめて、獣人化だけでも抑え込むことが出来れば。
それに、レオさんが持ってきてくれた『この薬』は、それに似た効力があったと思うのですが……」


フェリスが懐から取り出した一つの白いカプセル剤。それは以前、遙も服用したことがある薬だった。

副作用こそ少なくなかったが、薬を服用してから十時間近く獣人化が抑え込まれ、自ら変身を望んでも発現するにはかなりの体力を要したのである。


フェリスの持つカプセル剤を目に留めた瑠美奈は、机の上で手を組んで小さく息を吐いた。


「フェリスの持っているそのカプセル剤は、私が考案したものなの。初歩的なものだから、その分副作用も生じてしまうけれどね。
獣人化がホルモンを原因として発現するということは、そのPDAに描いてあるとおりだけど、同時に獣人化を抑え込む作用のあるホルモンも見付かっている。
どちらも獣人の身体にしかない特殊な物質で、獣人化の抑制を促すホルモンを結晶化して取り出した産物が、フェリスが今手にしているそれよ」


「それなら、その薬を服用し続ければ、私達は獣人化することも無いんじゃない?」


遙の言葉に、瑠美奈は首を横に振った。


「最初はその方向性で治療法を考案していたの。遺伝子の発現に関わる遙の持っているPDAに書かれているように、獣人化を促進させるホルモンの分泌さえ留めれば、遺伝子情報の発現は起きない」


「じゃあよ、そのホルモンを分泌する器官とやらを切除しちまえば、獣人化を抑えられるんじゃないのか?」


ガークが憤慨した様子で問い詰める。


「理論上はね。けれども、視床下部に寄生するような形でその器官は形成されているから、切除した後に人体に重大な副作用を被る可能性が高い。
……その上、獣人化はホルモンの分泌だけで起きるような代物でもないのよ、だから、フェリスの持っているその薬も副作用が生じる上に、一時的な効果しか生み出せないわ」


「どういうことだ?」


ガークは苛立ちを見せた様子で再度聞き返した。


「あなた達が獣人化を発現する時、自らの意思で行える者が大半でしょう? それも、ものの一分程度の短時間で全身、または部分的な変異を遂げる。
それは、ホルモンが血中を流れるスピードでは追い付かない速さよ。この現象は、獣人化はホルモンだけじゃなく、ある一定の電気信号でも発現することを示唆している。
神経伝達物質なら、全身を駆け巡るまでそう時間は掛からないわ」


「そんな……」


瑠美奈の言葉を聞いた遙は、PDAを握り締めて俯いた。

胸に抱いた一瞬の希望さえ、あっさりと砕けてしまったのだ……あのGPCの幹部である、クロウが言っていたことも、嘘ではなかったということになる。


"お前の戦う理由には、大事な根拠って奴が無いぜ?"


先日の死闘の時、チャドが言い残した言葉が、ふと脳裏を掠めた。

彼の言っていたことは、この事だったのだ。GPCと対峙した所で、獣人から人間に戻る術は存在しない、見付かることはないと……


「それじゃ、私達はもう、戻れないの? 本当に……獣人として、一生を過ごさないといけないなんて……」


遺伝子工学に精通する母が現れたことにより、人間に戻れる可能性はぐっと上がると思っていた。何らかの方法があると、心の奥底ではずっと信じていたのである。

遙が唇を咬み、画面上に額を押し付ける。突きつけられた現実に、絶望が頭を過ぎる中、思わず頬から涙が伝った。



「――だけど、あくまで今の現状では、ね」


唐突に、瑠美奈が神妙な顔でそう告げた。遙は涙で濡れた顔を素早く上げる。母の顔に、安堵を抱かせるような微笑が浮かんだ。


「さっき、別の仕事を受け持っていると言ったけど、私は今、獣人の研究をしているの。GPCのように獣人を生み出すためじゃなくて、元の人間に戻す方法を探っている。
現在の研究が進んでいけば、獣人化の症状を失くして、普通の人間と同等の生活を送ることも夢じゃないわ」


「……だから、此処に来たんですね」


フェリスがぽつりと発した言葉に、遙達の視線が一斉に彼女に向けられる。


「獣人を人間に戻す為の研究には、莫大な獣人のデータが必要になる筈。
それに、GPCの暗黒面である獣人の研究を行っているということは、公には公開出来ない研究施設があるのでは無いですか?
今は一人でも多くの獣人にデータを提供して貰いたい、それを告げるために、此処を尋ねてきた……」


「相変わらず頭の切れるヒトだな……」


瑠美奈がフェリスに返答する前に、コバルトが苦笑しつつ言った。


「そこまで勘付いているのなら、今更遠回しに隠す必要も無いわ」


瑠美奈はそう言うと、決然として遙達を見る。


「私達は今、世界の主要国が連合して極秘に作り上げた組織エラン・ヴィタール、通称EVと呼ばれる組織に所属している。
此処に来た理由は、フェリスの言うとおり、あなた達獣人にその力を貸して欲しいからよ」


「エラン・ヴィタール……?」


その言葉を聞いた、遙の目の色が変わった。







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