幾度と無く反響する硬い足音。――白を基調とした長い廊下を、クロウは足早に進んでいた。
天井に走るライトが白い空間を照らし、その場を進むクロウの黒髪をより一層引き立てる。
廊下の左右にはレバー式のドアノブを付けた、厳重な重みを持った扉が等間隔で設置されており、白特有の清楚な雰囲気、というよりも隔離施設のような息苦しさを醸し出していた。
その扉の奥……何かしら部屋がある事は間違い無いのだろうが、そこから呻き声のようなものが廊下に鈍く響いてきている。
人間の耳には聞こえないレベルのものだが、獣人としてずば抜けた五感を持ったクロウの聴覚には、幾人もの人の絶叫が響いていた。
……この扉の奥は、素体となる被験者へ獣の遺伝子を導入する手術――いわゆる獣人に改造するための手術を施す部屋が設けられている。
廊下にまで漏れ出ている苦悶の声は、全て被験者のものだ。男女も年齢も問わず、あらゆる悲鳴が耳を掠める中、クロウは眉一つ動かさずに奥へと足を運んでいった。
歩き続けること数分。やがて、彼女は廊下の最奥にあったエレベーターと思われる扉の前に立った。
扉の右手に設置された、生体認証装置の黒いセンサー部分に目元を近付けると、小さな機械音と共にエレベーターのドアが開く。
エレベーター内部に階数を示すボタンは無く、飾り気の無い無骨な内装は何処か異様なものを感じさせた。
クロウが瞑目する中、静かに浮上していくエレベーターはほど無くして止まり、ゆっくりと扉が開く。
エレベーターの扉が開けた先、そこは巨大な庭園が広がっていた。
廊下といい、エレベーターといい、無機質を貫いていた雰囲気とは一変し、まるで小鳥の囀りでも聞こえてきそうな空間である。
鮮やかな葉を茂らせる木々と、色とりどりの花が絢爛に咲き誇る庭園。ドーム状に広がった天井には天窓が張り巡らされ、眩い明かりが差し込んできている。
そして、その庭園の中央、クロウの目先には水を滾々と湧き上げる噴水と純白のガーデンテーブルセットが設置されており、そこの椅子に一人の人物が腰をかけていた。
燦然と照り輝く庭園の中、その人物の姿ははっきりとは視認出来ないものの、確かに人がそこにいるということは分かった。
その不確定な人物は、椅子に腰を掛けたまま、室内に入ってきたクロウに背を向けた形になっている。クロウはその人物の背に向けて、口を開きかけた――
『随分と梃子摺ったようだな、クロウ』
人物……椅子に腰を掛けた男が、振り向きもせずに言った。
クロウは彼の声を聞いて何とも言えない顔立ちになり、静かに俯く。
「……絶対不可侵区域内に所在する、キメラ試験体『ハルカ』の回収は失敗しました。全て、私の不手際が原因です」
クロウはそう告げると、眉を寄せて苦しげに目を閉じた。
『過ちを認めるとは、結構な事だよ』
クロウの言葉を耳にした男は、ゆっくりと椅子から立ち上がる。
椅子は軋む音さえ立たず、彼は背を向けたまま、地面に足を付けた。裾の長い白衣を纏った彼の背中はやや小柄で、頭髪は脱色したような白さを持ち合わせている。
背景に溶け込むような白衣の男は、眩い頭上を仰いで話を続けた。
『君は優秀な人材だ、クロウ。だが、今回の件では珍しく大きく出過ぎたな。……君の行動のお陰で、『彼等』が感付いた』
「……グレンデル殿のことですか?」
クロウは目を開いて、聞き返す。
『君が察するとおり、彼は随分と機嫌が良さそうだよ。何しろ、『死んだ』と思っていたハルカが、生存していたということが分かったのだからな』
男は言いながら顔を俯かせた。
「キメラ個体であるハルカ、及び彼女に関わるデータの詳細。これらは全て一部のプロジェクトチームにしか公開されていなかった。
上層部の中でも、ほんの一握りの人物しか、ハルカの現状は伝わっていない。その中でも、私や君は更に深いデータの閲覧を許されている者達だ」
「……」
男の言葉に、クロウは無言のまま眼を瞬いた。
『グレンデルにハルカのデータの全てを与えなかったのは、彼が我々の作り上げた研究成果を独占しかねないからこそ、だ。
彼の抱く野心は、我々の研究に障害を与える可能性を孕んでいたからな。だから、彼を含め我々を除く研究員には『偽の情報』を与えていた。……これは、君も分かり切っているだろう?』
「はい……」
クロウは即答し、頭を垂れる。
『ハルカは手術中に命を落とした、と。彼女もまた、キメラ獣人の完成体には届かない存在だということを、グレンデル達には言っていた。
ところが、今回君がわざわざ出向いた先にいたのは、紛れも無い彼女そのものだったのだ。死んだ筈のハルカが、生存しているという事実を、グレンデルが掴んだ訳だよ』
男は嘲笑混じりに言った。彼の告げた言葉に、クロウは音も無く眼を細める。
「……グレンデル殿を始末しろと?」
『今はそこまでしなくとも良い、それよりも好きなだけ泳がせて、ハルカを奪取することに専念して貰おうじゃないか。彼らがハルカを手にしたその時に、我々は動けば良い。
今すぐにでも手を出す必要は無い。……だが、唯待つのでは手持ち無沙汰だろうからな、ハルカが帰ってくるまで、君にはこれから三つの事をしてもらいたい』
クロウが意外そうに眉を上げる中、男は静かな声で続ける。
『まずはハルカが脱走した原因究明と、グレンデルが持ち得るキメラ獣人の研究資料の把握だ。彼が何処までキメラ獣人に対するデータを握っているか、確認して欲しい』
「はっ……」
殊勝に頷くクロウ。彼女の様子が見えているかのように、彼は背を向けたまま笑みを含んだ声で告げる。
『……それから、引き続き『例のプロジェクト』の進行を』
その言葉を聞いたクロウは、一瞬、眼を強く見開いたが、すぐに頭を垂れた。
「分かりました」
『私としても、君を失うのは惜しいからな、今後の働き振りに期待しているよ。……私も、あの方も含めて、な』
不敵な笑みを漏らすと同時に、男は次第にその姿を掠れさせ、音も無くその場から『消えた』
ホログラムによる幻影か。男が足音さえ立てずに庭園を去った後、一人残されたクロウは冷艶な笑みを口元に浮かべた。
――――――――
「本当よ! 本当に飛べたんだってば!!」
雲一つ無い晴れ空が広がった絶対不可侵区域の一角、ガーク達の拠点に、遙の甲高い声が響いた。
大声で抗議する遙は、寝台から上半身だけを起こした形で、訝しげに頬杖を突いたガークに向けて叫ぶ。
「だって、私の制服を見れば分かるでしょ? 背中に穴が開いてて……ッ」
「……駄目だこりゃあ。フェリス、こいつぁ、まだ夢見心地になっているみたいだぜ。暫く寝かしておくのが吉ってもんだ」
遙の必死な言葉を一蹴し、ガークは隣で林檎の皮を剥いていたフェリスに話を振った。
フェリスは何とも言えない様子で柳眉を八の字に下げ、小さな溜息を漏らす。
「遙の言うことを信じたいけど、肝心の制服はズタボロになっているからねぇ。……ま、それだけ大きな声が出せるのなら、私も一安心だわ」
「本当なんで……むぐッ」
遙が再び口を開きかけた途端、フェリスは切ったばかりの林檎の切れ端を遙の口に押し込んだ。
「分かっているわよ。特別なキメラなら、不思議なことでもないわ。とにかく、今は身体の傷を治すことに専念しなさい、遙」
不服げに眉を顰めていた遙だったが、フェリスからフォークごと受け取って、大人しく林檎を咀嚼し始める。
そんな遙の身体には、まだ白い包帯が巻き付けられていた。あの日の晩から三日過ぎた今日、遙はずっと眠り続け、今朝になってようやく意識が回復したのである。
失血のためか、遙は目を覚ました直後も意識が朦朧としており、ガークもフェリスも心配していたのだが、先程いきなり身体を起こしたかと思うと、発端の言葉を発したのだった。
言っていることはともかく、遙が元気を取り戻したことにより、二人はほっと胸を撫で下ろした。
台詞を聞く限り、出血と体力の消耗でまだ記憶がはっきりしていないのだろうが……そう考えるガークは大きな欠伸を漏らしてフェリスの手から林檎を奪い取り、むしゃむしゃと咀嚼する。
「ったくよぉ、今回は肝が冷えたぜ。俺らは次の日にはある程度傷は回復したのに、お前は死んだみたいに眠り続けてさ。
寝言はともかく、元気になって良かったな。安心したぜ」
「寝言じゃないよ! 本当に黒と青の綺麗な翼が生えて、空も飛べたのよっ。怪我が治ったら、絶対見せてあげるんだから!」
「分かった分かった。大体、病み上がりに獣人化なんかしたら体調ぶり返すに決まってんだろが、全く」
そう言いつつ、再び林檎に手を伸ばし始めたガークにフェリスは咎めるように手を引いた。
「もう! 林檎が欲しいなら皿ごと持って行けば良いじゃない。ちょっと口開けて」
「おお、悪ぃ」
フェリスが差し出した林檎を、ガークは彼女の手から口で受け取った。
その様を見ていた遙は思わず目を瞬く。
「……なんか、ガークとフェリスさん、仲良くなりましたね」
「あ? いつもどおりだろ、林檎を口に入れて貰ったぐらいで何を言うんだよ」
「あら、私は感謝してるわよ、ガーク。あの時助けてもらったことをね」
そう言ったフェリスは直後、ガークの頬に軽く唇を押し付けた。
それを感じ取ったガークは一瞬、雷に打たれたように固まり、次第に身体を痙攣させ始める。
見る見る内にガークの頬が赤く染まり、その劇的変化を傍で見ていた遙は何度も眼を瞬いた。
「な、なななな……ぎゃあああ!!」
「ガ、ガーク!?」
やがてガークは椅子を慌しく蹴って立ち上がると、遙の左手に空いた窓に走り寄り、映画ばりの勢いで外へと飛び出した。
慌てて遙が窓の外へと目をやると、素早く獣人化して小さな吼え声を上げながら走り去っていくガークの姿が目に留まる。
子犬のような声に合わせて、獣のように四足で器用に地面を蹴りながら、彼はあっという間に姿を消してしまった。
あまりにも急な展開に、遙は呆然としてガークの行き先を見詰めていた。
「い、行っちゃった」
「初心よねぇ、頬にキスしたぐらいなのに。でも、遙は怒ったりしないのね」
「? 何がですか」
振り向いた遙はきょとんとしてフェリスに問い返した。
天然なのか、それとも隠しているだけなのか分からないが、恐らく前者だろう。思わず、フェリスは苦笑した。
「あはは、何でもないよ。とにかく、今はまだ横になっていなさい。また敵が来たら厄介だからね」
「はい。……」
フェリスの優しい言葉に笑顔で返し、遙はゆっくりと寝台に身体を預けた。
眠っていた間に傷は殆ど塞がり、今はあまり痛みも感じない。身体の重みはまだ続いているが、寝返りを打てるぐらいの余裕は十分にあった。
枕に頭を押し付け、シーツを喉元まで被り、フェリスから顔が見えないようにしながら、遙は表情に陰りを浮かべる。
……仲間達には何事も無いように振舞いつつも。遙の心境は複雑であった。
"獣人を人間に戻すような技術は無い"
クロウというGPC幹部の女性が呟いた一言。それがいつまでも遙の心に引っ掛かって取れなかった。
目覚めてすぐ、仲間にもそのことを告げようとしたのだが、思わず言い留まった。代わりに別の話題で場を和ませようとしたつもりだったのだが、自分の心はどうも晴れずにいる。
(……あの人の言うことが本当なら、私達は、何のために戦っているの……?)
ガークもフェリスも、皆が最終的に人間に戻ることを望んでいる筈。それが唯一の希望の筈だ。
言葉の信憑性はともかく、仲間の希望を絶つようなことは、そう簡単に切り出せるものではなかった。遙は眠るふりをしてそっと目を閉じる。
このまま獣人から戻れなかったら、友人の玲と裕子には何と言えば言いのだろう。……そして、まだ会っていない母親にも……
コンコン
ドアを叩く小さな音に、眠りかけた遙はぱっと目を開いた。
「はーい。レオさん?」
遙に代わってフェリスが代返をすると、彼女の予想通り、大柄な体躯を持つレオフォンが部屋に入ってきた。
純白の毛皮に覆われた身体に、紫苑色の巨大な蝙蝠の翼。それに加え、立派な鬣を生やした荘厳な獅子面は、やはり並の迫力ではない。
遙は身体を起こしながら、そんなレオフォンの顔をゆっくりと見上げると、挨拶代わりにそっと頭を下げた。
「あ、おはようございます……」
「無理に起きなくていい、遙。ゆっくり横になっていなさい」
レオフォンは遙の行動を右手を上げて制止すると、先ほどまでガークが腰掛けていた椅子に座り込む。
彼は眼を瞬いて部屋を見回すと、丸い縁を描く耳を上下に動かした。
「む、ガークは何処へ行った?」
「ちょっと外へ散歩ですよ。そのうち戻ってくると思います」
嘲笑に近い笑みを浮かべたフェリスが、あっさりそう言い、思わず遙は苦笑した。流石に、キスをされた恥ずかしさのあまり、窓から飛び出したという、ガークの行動を考えると言えなかった。
一方でフェリスのその言葉を聞いたレオフォンはそれ以上詮索せずに小さく溜息を漏らし、続いて遙へと視線を移す。
「ふむ、身体は大丈夫か、遙? 何か、具合が悪いところは……」
「平気です。傷もあんまり痛みませんし、意識もはっきりしてますから。もう大丈夫だと思います」
遙は出来る限り明瞭な声音でそう答えた。遙の放ったその言葉にレオフォンもそっと肩の力を抜く。
「そうか、良かった。今回は、皆が酷くやられてしまったな……」
レオフォンが珍しくも弱い言葉を吐き、それを聞いた遙はすかさず顔を上げた。
「そういえば、レオフォンさん達も戦って……」
遙の言葉に、レオフォンは渋面を浮かべて耳を下げた。
「ああ。遙も目覚めたことだし、あの時のことを伝えるとしよう」
それからレオフォンは激戦となった数日前のことを簡潔に話し始めた。
敵は複数で、遙を捕らえ易くするために、こちらの戦力を分散させるように動いていた事。
GPCの意のままに動く、洗脳された獣人兵、鳥人種という稀有な獣人種の存在、幹部自らが出向いて来たことも……
レオフォンの話を聞いていくうちに、遙も表情を深刻にしていった。
「そんなことが……皆、私のせいで傷付いてしまって、何て言ったらいいか……」
「何、お前が気にすることはない。だが、今回これだけ大きく出られたということは、今後はもっと激しい攻撃が繰り出される可能性もあるな」
レオフォンは顎を摩り、唸った。
「GPCは一枚岩じゃないかもしれないってこと、遙には以前話したことがあったね。GPCが総勢を引き連れてくれば、遙を捕らえる事はそう難しいことじゃない。
けれど、それをしないのはGPCの中でも希少な実験体を巡って、幾つかのグループに分かれているんじゃないかって」
フェリスの発した台詞に、レオフォンは耳を立てる。
「その可能性は高いな。だからこそ、奴らは少数で動いてきた訳か。……しかし、今回は幹部が複数もこの地にやってきた上に、負傷させたという事は、少なからずGPC内に伝わるだろう。
そうなると、遙を狙う他のグループが今後は動いてくるかもしれん」
「で、でも、どうしてあのクロウという人達だけが私を狙ってくるんでしょうか? 以前戦ったチャドやペルセという人も、皆、クロウの名を口にしていた気がする……。
他のグループがいるとするのなら、競争して私を狙ってくると思うんです。けれど、今まで見た敵は、全てクロウの息のかかった人たちのみたいで……」
遙は項垂れながら言った。本来なら、次々と敵が襲い掛かってきてもおかしくない状況だというのに。
クロウ以外のGPCの勢力は、一体どうなっているのだろう。考えれば考えるほど謎が深まるばかりで、ますます頭が痛くなってくる。
「いずれにせよ、何らかの理由があるのだろう。……しかし、こちらも早めに動いておくべきかもしれんな」
レオフォンは腕組みをして遙を見た。
「今度敵が現れる時は、我々だけでは対処出来ぬかもしれん。今回の戦いでさえ、まだGPCの一角に過ぎん勢力だったのだ。
此処に留まり続けるには、あまりにも危険過ぎる。遙も、他の仲間達もな」
「それってもしかして……」
遙は顔を上げた。
「此処から移動する、ということですか?」
「ああ、そういうことになる」
「でもその場合、当てはあるんですか? 街に戻るにも、あの地下道はもう一度通ってしまったから、GPCの者達が気付かないとは思えない。
レオさんが一人一人運ぶにしてもちょっと無理が……」
フェリスが訝しげに放った言葉に、レオフォンは苦笑した。
「相変わらず鋭いな。……実は、一つだけ当てがある。唯、そこは――」
「……!」
レオフォンが言いかけたその時、ガタンッ、と軋む音を立てて、遙が素早く寝台から立ち上がった。
何事かと思ったが、遙は視線を窓の外に向け、廃墟の街が連なる荒地を睨み付けている。まるで、何かに警戒しているような様子だった。
あまりにも急な遙の行動に、フェリスはおろかレオフォンまで目を見開く。
「どうした、遙?」
レオフォンが問いかけると、遙は視線だけを二人にやって、囁くような小さな声で答える。
「……今、外から知らない獣人の気配が。もしかしたら、敵かもしれない」
「まさか、私は何も……」
フェリスも怪訝そうに言ったが、直後、彼女はふと流れ込んできた波動に、弾かれたように立ち上がる。
その微弱な波動の流れを受け止めつつ、フェリスは愕然として遙を見やった。
(そんな……私よりも先に気付くなんて……)
波動の察知なら、フェリスもレオフォンも他の獣人とは比べ物にならないほど優れているのだ。
未完成の獣人として覚醒している上に、日もそう経っていないにも関わらず……遙はすでにこちらの五感を超越しているというのだろうか。
自分よりも早く相手の存在を察知した遙の感覚の鋭さに、フェリスは思わず舌を巻かずには入られなかった。
二人が唖然とする中、遙は尚も波動の流れを手繰り寄せる。
「数は……一人だけ、他にいる気配は……ありません」
遙が眉を顰めながらそう言った所で、フェリスも思い出したように感覚を集中させてみる。
凛、と澄んだような波動だ。だが、同時に敵意ではない――それにこの波動は、何処かで感じたことがある……程なくして、フェリスは苦笑して目を開くと、緊張している遙に笑いかけた。
「大丈夫よ遙。この波動は、敵じゃないわ。私の知っているヒトのものよ」
「ギャフッ、ギャンギャン!」
フェリスの接吻を受けたガークは、自分でも想像できない程のスピードで地面を蹴って進んでいた。
獣人にされて半年以上の期間を一緒に過ごしてきて、フェリスからは数え切れない程からかわれたが、今回ばかりは最大級の怖気を感じてしまった。
思い返しただけで身の毛が弥立つ。ガークは思わず尻尾を腹にくっ付ける体勢を取ってしまい、そのお陰で荒地に生じていた出っ張りに足を取られ、悲鳴と共に転がった。
「ギャウッ」
瓦礫の欠片が寄せ集まって生じた砂山に、口吻から突っ込んだガークは、咳とクシャミを繰り返しながら立ち上がる。
「ガフッ、ギャフッ……うおっ、此処はどこだ!?」
ガークはバタバタと身震いをして周囲を見回すと、拠点の影は無く、廃墟が立ち並ぶ風景が続いていた。
フェリスの予想外の行動のせいで悪寒が走る程の衝撃を受けたガークは、全身の毛を逆立たせると、やがて吹っ切れたように地面に寝転んだ。
「チッキショウ! あの下女! 外道! 舐めやがって! からかうつもりぐらいでキスしやがって、クソッ!! 二度と助けてやらねぇ!!」
大声で空に叫びながら、ガークは鬱憤を晴らしていた。見上げる大空は皮肉にも済んだ青色を宿しており、薄い雲が悠々と流れていく。
接吻の一つで羞恥心のあまり逃げ出してきた自分に対しても沸々と怒りがこみ上げて来たが、やがて虚しさも心に渦巻き始める。ガークは耳をへなりと下げた。
「……ああ駄目だ。何か、情けなくなってきた。何やってんだ、俺は……とっとと帰ろう」
ガークは再度身体を震わせて砂を払うと、やおら立ち上がって足を進める。
空は透徹しているが、風は強く、砂を含んだ視界は悪かった。この湿った強風は雨が近いのかもしれない……ガークは頭を掻くと、歩く速度を少し速めた。
「雨が降られると拠点までの匂いも消えちまうな。ちょっとペース早めるか……ん?」
そこから二、三歩程歩いた所で、ガークは思わず立ち止まった。
……何処からか、匂いがする。それも知らない奴のものだ。ガークは周囲を見回し、すかさず警戒態勢に入る。
足を開き、いつでも駆け出せる体勢を作り――その時、足の裏に生じている掌球に違和感を感じ、ガークは視線を下に落とした。
「……!」
ガークは素早く地面に鼻を近づけた。間違いない、この下から匂いが流れてきている。
そこは何かが下に埋まっているように瓦礫と砂の山が形成されていた。匂いとその不審な盛り上がりを見る限り、どうも、何者かが潜んでいるようだ。
(誰だ……? こんなところに……それも、俺の知らない匂いとなると)
敵の可能性がある。地中に潜って不意打ちを狙うような敵もいないとは断言出来ない。
ガークは舌打ちすると、警戒しながら砂を払ってみた。
すると、砂に紛れて、白い服が見えてきたと思うと、次第に人型のような輪郭が浮かび上がってくる。
だが、粗方砂を取り払って現れたそれは、ガークが予想さえしていなかった相手であった。
「なんだ、こいつは……?」
思わずガークが呟く。
砂嵐に巻き込まれて倒れていたのは、獣人ではなく……一人の、若い女性だった。
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