「あなたは……ッ」


遙は愕然として、戦慄く唇を動かす。

目の前に立っている女性の、その黒尽くめの姿には見覚えがあった。彼女の切れ長の眼に、遙の動揺する容姿が静かに映し出される。


全ては、今から一ヶ月程前の日に遡る。あの日の晩、自分は母の帰りを待って河原に座り込んでいた。

幾ら日の長い春の季節とはいえ、十九時も過ぎれば空は暗闇に染まってくる。連絡よりも母の帰りが遅いことを悟った自分は、家で待つことにしたのだ。


そして立ち上がった時、呼び止められて目にした人の姿――今、目の前に悠然と佇む女性の姿と、記憶の容姿が完全に重なった。

あの時と同じだ。自分の記憶の中の、最も忌まわしい出来事の……運命の歯車を狂わせた時の記憶と……


「……少し到着が遅れたんだなァ、クロウ様」


遙が硬直する中、チャドが揶揄するような口調でそう言った。

チャドがクロウと呼んだ黒尽くめの女性は、一つに束ねた頭髪を右手で払って、冷笑を浮かべる。


「私が遅れた訳じゃないわ。あなたが予想以上に手子摺っただけの事。でも、あなたの下らない遊びで遙の力を覚醒させたことは褒めてあげる」


クロウは笑みを浮かべながらも、刺すような声音でチャドに言いつける。


二人の会話を聞いていた遙は、稲妻に打たれたように身動きが取れなかった。

何故だろうか。この女性、クロウは拉致される時に見た人物……それは分かっているのだが、何か異様な程の恐怖を感じる。

そもそも、彼女が人間なのか、獣人なのかさえはっきり分からなかった。今まで見た獣人達は、人間の姿をしていても、何らかの『匂い』のようなものがあり、ある程度は判別が出来たのだ。

しかし、彼女には匂いが無い。だが、同時に人間のようにも思えない波動が、遙の全身を銛のように貫いて肉体の自由を奪っていた。


クロウは赤く錆付いた手摺から降り、羽のような軽さで床に足を立てると、震える遙に視線を移した。


「さて、久し振りに会えたわね、ハルカ。手間取ったとはいえ、ようやく迎えに来ることが出来たわ」


クロウは遙に向けてそっと手を差し伸べた。

穏やかな口調でありつつも、何処か裏を感じる言葉。相手の意図を感じ取った遙は、驚きと微かな悲鳴と共に彼女の手を払い除ける。


「いやッ!」


思ったよりも強い勢いで振り払われたクロウは、少し眉を上げて自分の右手を見る。

遙の手に備わる獣爪で少し掠ったらしく、手袋ごと破られた皮膚には薄い切り傷が生じていた。


戦慄した遙はずるずると後退りしながら、歯を食い縛る。


「あなたは、あなたは……私を攫った人……。どうして、こんな所に……ッ」


「? あら、それだけではない筈よ。あなたに構って上げたことを、忘れているのかしら?」


「し、知らないッ。私は、あなたと会ったのは一度だけ。……私を攫った、河原で会ったあの時の……」


遙は驚愕と共に肩を動かして、両腕を構える。気が付くと、全身から冷や汗が噴き出ていた。

本能的に、背筋に悪寒が走る。今、遙自身が持ちうる記憶の中では、彼女と会ったのは拉致された時のみの筈。

なのに、相手のクロウは何度も会ったかのような口ぶりである。……遙が見詰めてくる中、やがて、クロウは思い付いたように笑みを漏らした。


「ああ、確かあなたは記憶を失っていたとか。回復したペルセから聞いていたわ。……道理で、私に対して口答えすると思った」


「ッ……その言葉、やっぱり、私の記憶を意図的に消した訳ではないんですね」


遙は喉を鳴らして唾を飲み込むと、両足を叱咤してクロウを睨み付けた。

だが、相変わらずクロウは笑みを見せたまま、その長い足を少しずつ遙の元へと進め始める。


「ええ、予想外だったわ。あなたの記憶が消えていることも、私達GPCの研究機関から逃げ出したことも、ね」


悠然としたクロウの言葉に、遙ははっと息を呑んだ。


「あなた達が、私を棄てた訳ではなかったの? じゃあ、私はどうしてこの地に……」


「そう、その事が一つ。あなたの記憶が消えてしまったせいで分からない。……そしてもう一つ」


クロウは遙へ足を進めながら、次第に眉を顰めた。


「獣人にされている間の記憶が消えたお陰で、随分と小生意気な口を聞くようになったわね、ハルカ。……もう一度、躾直すつもりは無いわよ!」


言下、唐突にクロウがコンクリート床を蹴り、身構えた遙に迫った。彼女の身体から放たれる気迫に、遙は恐怖を感じて構えを解く。


――しかし、クロウの手が遙の身体に触れる寸前で、彼女の足元を巨大な手が遮った。思わず、クロウは足を止める。

手の主は、避雷針に固定されているチャドその人であった。彼は鼻口部に深い皺を寄せて、口角を曲げた。


「よう、俺を無視して話を進められたら困る。まだ決着は着いていないだろ? こんな中途半端な時に、ハルカを持っていかれるのは癪だぜ」


チャドの舐めるような口調を、機嫌を殺がれたクロウは鼻で笑って返す。


「……ならばどうして欲しいのかしら? それ以上、あなたがハルカと戦った所で勝ち目は無いわ」


「どうだかなぁ、この避雷針さえ離れればまだ戦える。今はちいっと自由が利かないだけさ。生きてはいるからな」


チャドが嗜虐的な欲望を吐露すると、クロウは溜息を吐いて、彼と遙を交互に見た。

クロウと視線が合った遙は、再び腕を構えなおす。その眼はやや怯えの色が伺えるものの、獲物を前にした闘争心で燃え上がっていた。

クロウは遙のその様を見て、思わず笑みを浮かべると、チャドの頭上でそっと右手を上げた。


「いいわ、すぐに自由にしてあげる」


クロウがそう言った瞬間、彼女は目にも留まらない速さで右腕を振った。

ヒュンッ、と、風を切る音が耳を霞める。――刹那、遙の顔に血飛沫がこびり付いた。


「ギガァァアァァッ!!」


風切音と同時に、チャドの咆哮が鼓膜を震わす。遙が戦慄して目を凝らす中、チャドは身を捩るようにして地面に身体を擦り付けていた。

遙は足元に流れてきた赤黒い液体を目の当たりにして、言葉を失う。よろよろと立ち上がったチャドは、右腕のあった場所を左手で強く押さえて荒い息を吐いた。


――チャドはクロウの手によって右腕を切断されていた。避雷針の根元には、彼の翼手が生々しく取り残されている。

彼女とチャドの距離はあった筈。なのに、クロウはその場から動くこともなく、チャドの右腕を奪っていたのだ。


「グ……ギィイ、貴様……」


チャドは血に濡れた形相で、嘲笑を浮かべるクロウを睨み付けた。


「良い眼ね、チャド。……でも、向ける相手は私ではない筈よ」


クロウは右腕再び振り下ろす。

すると、血が点々と地面に散った。その血に濡れた彼女の手からは、鋭く伸びる爪が生じている。

まるで鋭い刃のように、数十センチ程の長さを持ったそれを、クロウは自分の目先に持ち上げた。黒光りする爪を、赤い血が音も無く伝っている。

あのチャドの強靭な腕を、いとも簡単に引き裂く程の爪……その矛先が、ゆっくりと遙に向けられた。


「あなたの相手はハルカ。それだけ大言壮語するのなら、今のあなたでも倒すことは造作も無いでしょう?」


「! 何てことを」


チャドが言い返す前に、見かねた遙が前に出て来た。


「それがあなた達、GPCの者達がすることなんですかッ!? チャドはもう戦えない、これ以上傷付けるようなことは――」


「敵に背を向けるなよ、ハルカッ!!」


遙は背後から凄まじい殺気を感じて、素早くその場から離れた。

直後、チャドの振り下ろしてきた爪が、遙のいたコンクリート床を大きく抉り取る。頑丈な筈のコンクリートが、ガラス細工のように粉々に砕け散っていた。

彼の攻撃は失血のためか、すでに以前のようなスピードは欠けており、体力の少ない遙でもすぐに軌道を読むことが可能だった。

すでに勝敗は目に見えているというのにも関わらず、彼の眼からは異様な程の執念と闘争心が露になっている。右腕を奪われたチャドは、大量の血を流しながらも、遙に向けて牙を剥き出した。


「俺に戦えないって言うには少し早いぜ……その台詞は俺の死体に向けて言うべきだ」


「! そんなッ、私はあなたを殺したくは無いよ……! これ以上、自分の手で命を奪うような真似をしたくないッ」


「綺麗事だッ!!」


チャドの繰り出してきた第二撃目も避けつつ、遙は歯を食い縛った。

いずれにせよ、チャドの出血を見る限り、彼の命はそう長くは無いだろう。だが、どんなに恨む相手でも、引導を渡すようなことはしたくない。

ましてや、こうやって人の理性が保たれている状態で、元は人間であった相手の命を奪うことは耐えられない。


「も、もうやめてよっ……これ以上、これ以上……私に人を殺めさせないでよッ!!」


遙が叫んだ。その目尻から大粒の涙が零れ落ちる。

遙の叫びを聞いたチャドは、血に濡れた左手を止めた。彼は遙の発した言葉を反芻するようにして、口元を震わせる。


「人だと……? 俺のこの姿を見て、獣人だと思っていないのか? つくづく清いことを言う奴だ。
俺もお前も獣人だ。化け物同士であって、人間じゃない。お前がやることは、人間を殺めることじゃあないぞ?」


「違う……あなたは化け物なんかじゃない。どんなに獣の姿で取り繕っているとしても、心は人間のままよ」


遙が自分に対しても言い聞かせるように、一言一言、しっかりした声音で告げる。

遙の言葉に、チャドは訝しげに眉を顰めた。


「何を言い出すかと思えば、唯の屁理屈か」


「……そうかもしれない。だけど、あなたを化け物だと言ってしまえば、私自身を化け物だって認めることになる。
見た目は人とは違う、獣人かもしれない。けれど、決して心まで化け物に堕ちた訳じゃない。……あなたの心まで化け物に染まっていると言うのなら、私に同じことを言うのと変わらない」


遙は眼を閉じて静かに顔を俯かせると、そっと両腕を降ろす。

完全に戦意を喪失している遙を見て、チャドは愕然としながらヨロヨロと後退すると、やがて掠れた笑い声を上げた。


「下らねぇ……獣人じゃないって言うのか。ハハハ、『人間』を殺しても、つまらないだけだ」


チャドは手摺の無くなった塔屋の縁に立ち、血塗れの左腕を持ち上げた。

右腕の傷口からの出血が、いよいよ途切れてきている。月光を背景に映る彼の姿が、遙の網膜に焼き付いた。


「ハルカ、お前は俺の心を人間のものだと思い込んでいるのかもしれないが……」


チャドは焦点の合わない赤眼を暗い夜空に向けながら、血の滴る口元を動かして続けた。




「……どんなにお前に否定されようが、俺は化け物だよ。心も身体もな」




――言下、チャドは左手を動かしたと思うと、鋭利な爪を自らの胸に食い込ませた。

真っ赤な鮮血が、遙とクロウの身体を濡らしていく中、チャドはその巨躯ぐらりと弛緩させる。


「チャド!」


遙が叫ぶと、弓形に身体を反って崩れていくチャドは、不気味な水音と共に掠れた声を絞り出した。


「嫌な目だハルカ。人間の目をしたお前を殺すのはつまらない。……生憎、俺は『ニンゲン』という下等な生き物に命を奪われるのは御免なんだよ。
俺は獣人の……化け物の手で死んでいくのがお似合いさ」


言い終わると、チャドはずるり、と胸から腕を引き抜いた。栓になっていた左手が抜かれたことで、一気に血泉が噴き上がる。

その血飛沫を引き摺ったまま、チャドは塔屋から身体を落下させた。


「お前がこれからの戦いで、獣に堕ちることを祈っているぜ……戦いの続きは、地獄でやろうじゃないか……ハハ、ハハハ……ッ!!」


「……!」


遙はチャドの身体に掴みかかろうと走ったのだが、彼は笑い声を上げながら、高層ビルから転落した。

夜の闇で地面である底は見えない。暗闇の中に沈んでいく彼の姿を追いながら、遙は言葉を失った。



……やがて、落雷のように鈍い音が、高層ビルの根元付近で響き渡る。



遙はその音を聞くと同時に、自らの頬に手を当てた。

真っ赤な血が、頬を濡らしている。それは自分のものではない。チャドその人の血であった。

最期の最期まで、彼は獣人であることを貫き通して……自分とは全く正反対な意志を持ったチャドとしては、それが本望だったのかもしれない。

彼の過去を深く知っている訳ではない。だが、連続殺人犯として、人間としての生を失った彼が求めた行き先は、獣人としての人生だったのだろうか。

だが、どんなに獣人の姿をしていようが、彼が痛みに声を上げる瞬間や、最期に見せた力無い笑みが、彼の人間の心そのものだったように思えて……遙は苦しげに吐息を漏らした。



(チャド……)




遙が後ろ髪を引かれる思いと、複雑な心境でビルの底を見詰める中、クロウの笑い声が耳を掠めた。


「馬鹿な獣だわ。……つまらない思想を戦いに介入させるなんて、最期まで役に立たない個体だったわね」


「! あなたはッ!」


彼女の非情な言葉に、遙は思わず激昂してクロウに踊りかかった。

だが、渾身の力を込めて放った攻撃は、意図も簡単に避けられる。遙の爪が描く赤い軌跡は、虚しく空を切った。


攻撃を避けたクロウは、眉一つ動かさずに腰に手を当てて遙を見やる。


「あなたもよハルカ。下らない考えを持ったお陰で、上手い具合に獣人の力を覚醒させることが出来ないみたいね。相変わらず手間の掛かる子だわ」


「ッ……あなたは、一体何者なんですか? チャドを弄んで、私を連れ去ったあなたは……」


遙の問いに、クロウは眉を上げて髪を払った。


「フフ、名乗るのは二度目になるかしら? 私の名前はクロウ。黎峯のGPC地下研究機関を統括、監理をしている者よ。
……まぁ、あなたにはGPCの幹部研究員と言った方が分かり易いでしょうね」


「! GPCの幹部……ッ?」


クロウの返答を聞いた遙は、驚いたように肩を動かした。

彼女はつまり、GPC機関の中でも重要なポストにいる研究員。そうなると、GPCの大きな闇である獣人研究にも深く関わっている可能性がある。

遙は一歩足を踏み出して、眼に力を込めた。


「そういうのなら、あなたは獣人の研究を直に行っている人なのですか? ……あのペルセという人と同じ……」


「半分正解、と言ったところね。残念ながら、ペルセは私の助手ではなく『作品』とでも言っておきましょうか。
彼女は特殊な獣人でね。獣士(ぺクス)という、我々GPCに絶対的な忠誠を誓うように造り上げた存在。もちろん、ベースとなったのは一般人よ、あなたと同じね」


「そんな!」


遙はクロウの高慢な口ぶりに、怒りを隠し切れずに迫った。


「人の命を何だと思っているんですかッ!? 人の大切な人生を利己的な考えで狂わせて……! そんなことが、許される訳が無い!!」


「下らない倫理観は、常に科学の進歩を数歩遅らせる」


遙の言葉を、クロウは跳ね除けるように言いつけた。


「宗教や思想に惑わされて、あらゆる病原菌の存在や生命の進化論を否定し、人々は自らの首を締め付けるような真似をしてきたことも否めない筈よ。
科学の進歩によって新薬の開発や新しい治療法が確立されていき、昔は不治の病とも言える病気を、薬一つで治せるような時代にまで発展した。
……これは全て、人が科学の存在と有益さを受け入れたことで成し遂げられたことよ」


「だからと言って……!」


遙は尚も足を踏み出す。


「何の罪も無い人達を使って、獣人を生み出すなんてことが、一体何に繋がるというんですかッ!?
獣人なんて、私利私欲に汚された欲望の塊……私には、それが人々の救いになるなんて思えないですよ……!」


「……全ての人々の救いになるための研究ではないわ、ハルカ」


予想だにしなかったクロウの一言に、遙は顔を上げた。




「全ては、ハルカ。あなたのための研究よ」




「……え?」


遙は思わず問い返した。

クロウの唐突な一言。この忌まわしい獣人研究の目的が、全て直結した先にあるもの……それが、私自身?


「どういうこと、なんですか……?」


「あなたが今知る必要は無いわよ、ハルカ。知りたいと思うのなら……」


クロウは静かに右腕を上げた。


「大人しく私達に付いてくることねッ」


言下、クロウの右腕に備わる爪が、遙の眼前に迫る。その血に濡れた黒爪は、月光に反射して残酷な光を放った。

遙は本能的に身体を捻って、辛くもそれを避けたが、続いて左手から繰り出されたクロウの爪に、反応しきれずに行動をとめた。


「! うッ」


クロウの左爪は遙の右肩を抉り、真っ赤な血が迸った。

追撃を受けないように、すかさずクロウから離れ、塔屋から幾分足場の安定した屋上へと身体を降ろす。

狭い場所ではリーチの長いクロウの方が圧倒的に有利だ。そう思って、ビルの屋上に降りたものの、足元が船に乗っているかのようにふらつく。


チャド達との激戦、暴走、翼の発現。それら全てが遙の体力を大きく削いでいた。

すでに枯渇寸前の身体で、チャドの上官に当たる彼女を退けることは難しいだろう。


一方で、相手のクロウも屋上に降りると、遙から十メートル程の距離を置いた。

やはりこちらを殺めるつもりは無いらしい。彼女も、本気で掛かってくることは無いだろう。……そうなれば、必ず隙がある。

遙は一か八か、屋上の端に立って両腕を開いた。こちらには翼がある。飛ぶことさえ出来れば、相手から逃れることぐらいは出来るだろう。


――だが


「ぐあッ!!」


突如として、クロウの爪が遙の両翼を貫く。

槍の如く伸びるそれを、クロウはそのまま縦に動かして遙の翼を大きく抉り取った。真っ赤な血が点々と屋上の床へと散り、クロウの爪は再び元の長さまで戻る。

羽毛と羽が血と共に舞い落ちる中、クロウに翼を引き裂かれた遙は、その場に膝を着いた。


「あぁぁ……ッ、うぐ……」


遙が苦痛の声を漏らすと、骨まで断絶させられた翼が徐々に縮み、背中にゆっくりと収納されていった。

翼が消えた後の背には大きな裂傷が生じ、激しい出血が熱と共に延々と続いている。


痛みのあまりに這い蹲る遙の元へと、クロウは静かに歩み寄った。


「ふふ、万策尽きた、と言う所かしら? 腕の獣人化は維持出来ても、翼はコントロールが利かないみたいね」


「……くッ」


遙は素早く立ち上がって、クロウの足元を薙いだ。

しかし、クロウはそれを軽い足裁きで避ける。それでも尚、遙の眼光は力を失わなかった。


「まだ、まだ戦える……ッ。私達を、被験者の人達を物みたいに扱って、命を奪ったあなたは許さない!!」


遙は再び獣爪を振った。

その赤い軌跡は何度も空を切る。体力の差……というよりも、クロウはまるで遙が繰り出す動きが見えているかのように避けるのだ。

遙が次の攻撃をする位置を決め、行動に移すまでのほんの僅かな時間。それを跨いで、彼女は遙の動きを見切っている。


「……ッ……はぁッ」


「ふふ、体力も底を尽きかけているというのに、随分としぶといわね。研究所にいた頃とは段違いよ」


クロウは遙の攻撃に怯むどころか、唐突に近付いて耳元で囁きかけた。 遙はそのスピードに愕然とする以前に、反射的に彼女の身体に爪を向ける。


しかし、またしても手応えは無かった。まるで、相手は実体の無い影のようなものではないかと疑いたくなるほど、攻撃が当たらない。

クロウは恐らく、遊んでいるつもりなのだろう。殺気も感じない。それ以上に、彼女の気配さえまともに感じることが出来なかった。


「くッ……」


息が切れてきた遙は、急に襲ってきた眩暈に攻撃を止めた。

身体が鉛のように重い。指先も、小刻みに痙攣している。身体全体の神経が、麻痺していた。

……だが、此処で退いてしまえば、クロウに捕らわれることになる。それは、二度と外に出ることが出来ないことを示唆していた。


「……どうして私達と戦おうとするのかしら? ハルカ」


唐突な質問。遙は汗で濡れた顔を素早く上げた。

見上げる先……目の前にクロウが立っている。その赤い眼は、遙の眼を睨むようにして見詰めていた。


「私……私は、戦わないといけない……人間に、戻るためにも!」


遙が言った言葉を、クロウは嘲笑った。


「人間に戻る? 随分と面白いことを言うのね。……私達、GPCの者と戦えば、人間に戻る方法が見付かるとでも?」


「ッ……!?」


遙は言葉を失った。

今まで戦ってきたのは、人間に戻るため。獣人に改造した張本人がGPCであるのだから、戻る方法も握っている筈……


「あ、あなた達が、人間を獣人に変えることの出来る技術を持っているとするならば、獣人を人間に戻すことだって――」



「それなら、こう言い換えましょうか。獣人を人間に戻すような技術は『無い』。つまり、あなたがどんなに踏ん張った所で、望みは叶わないわ」



「!!」


クロウの一言に、遙は足の力が抜けていくのを感じた。

この忌まわしい獣人の力を棄てることが……人間に、二度と戻ることが出来ない? そんな、そんな――


「信じられない、よ……! 私を、私達を、人間に戻してよッ!!」


遙は絶叫と共に地面を蹴った。

傲然と佇むクロウに向けて、自暴自棄になった攻撃を繰り出す。

怒りと悲しみと……やり場のない悔しさのあまり、相手のいる位置すら正確に分からない。それでも、遙は攻撃をやめることが出来なかった。


自分を見失いかけた遙は、暴走に達するような体力は無かったものの、その速さはクロウも驚く程のものであった。クロウは攻撃を避けて、興味深そうに遙の顔を見詰める。


「その体力と精神状態でも、あなたのスピードは悪くないわ。だけど、どうして当たらないかが不思議で仕方が無いようね」


言下、クロウは遙の獣腕を素早く取った。

追撃のつもりで突き出した左手を掴まれて、遙は動きを止めてしまう。

左手を掴むクロウの握力は常人離れしており、押しても引いてもびくともしなかった。あの拉致された時よりも、ずっと強い力であり、遙の腕の骨がぎしぎしと軋む。


慌てて、右腕で振り解きにかかったのだが……


ズッ


(……え?)


微かな水音を含んだ鈍い音と共に、右手が急に動かなくなった。

目の前に迫るクロウの冷厳な顔に冷たい笑みが浮かんだと思うと、その青白い頬に鮮血の赤が散る。

その様を見た遙は、ゆっくりと自分の右手に視線を落とした。


……クロウの漆黒の爪が、右腕を穿ち、遙自身の身体を貫いている。串のように固定されたそれは、無論、全く動かなかった。

彼女の手に備わる、五本の爪が身体を貫いて……その事実を悟った途端、遙は痛みよりも意識が遠退くのを感じた。


「全ての生命体に流れる生体電気の流れ。それを事前に察知して、あなたの攻撃の軌道を避けていただけの話よ。
……とは言っても、今のあなたには聞こえているかしら?」


クロウの言葉を反芻しながらも、遙は返答することも出来なかった。遙の乾いた口元から、赤い血が噴き出る。

爪がずるりと引き抜かれ、身体を弛緩させた遙は地面に崩れ落ちた。生々しい血溜まりが、静かに範囲を広げていく。


(……寒い……私は死んで……しまう、の?)


全身の感覚が痺れ、凍り付いて行く……遙は生温かい血液に頬を押し付け、瞼を閉じた。




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