遙は目を覚ました。

開いた視界を覆い尽したのは、斑の無い真っ赤な空。目が痛くなるようなその色に、遙は既視感を感じる。


(此処は……)


ずるり、と身体を起こすと、開いた掌にはタールのように黒い液体がこびり付いていた。

背中にも似たように濡れた感触がする。見た目こそ違うが、感覚としては浅い沼地のようだ。正面に視線をやると、そこは黒い地面に赤い空……以前、夢で見た光景と酷似している。

まるで黄昏に沈んだような場所。無音に等しい広大な空間。どす黒い、液体のような地面と、血に濡れたように赤い空。遙は目を瞬いた。


おもむろに辺りを見回すと以前見た夢とは違って、獣のような影は見えない。座っていても状況が掴める訳でもなく、遙は立ち上がって足を進める。

一歩進める度に、ずぶ、と、足が深く地面に沈み、泥濘に取られたように重く感じる。それでも、遙は何かに惹かれるようにして足を動かした。


そうやってどれ程の距離を歩いたかは定かではなかったが、次第に、黒い地平線から小さな突起のような物が見え始める。

それに近付いていくと、紙に水が染みて広がるように形を成していき、やがて一本の樹木が現れた。


あまり大きくなく、決して立派とは言えない樹。高さも街路樹より少し大きいぐらいだ。

樹皮の状態や木の葉の全てがシルエットのように黒く映し出され、影のようになったそれが樹と呼べるかどうかは分からなかったが。


遙が顔を上げてその樹を見上げると、ふと、右手に生える細い枝の辺りから、金色の双眸が浮かび上がる。

丸い目を持ったそれは、丁度、烏程の大きさだ。恐らく鳥の類だろう。遙はその影の正体を確かめるようにして、立ち止まっていた足をそっと樹に近付けた。


"ソレ以上近付クナ"


影が唐突に告げた。遙は足を止める。

ノイズの混じった、壊れたラジオのような声音だった。当然、鳥の放つ鳴き声の類としては受け取れない。その不安定な言葉で、影は直接脳内に語り掛けてきた。


"オマエは私ニ気ヲ取ラレテイル場合デは無イ筈ダ"


(あなたは……あの時の鳥?)


遙は故郷で見た夢を思い出して、そう呟いた。

玲との邂逅の晩、不思議な夢を見たのである。その時と状況が違えど、赤い空や黒い地面といった場面は共通していた。

唯、あの時の夢では、影は一匹ではなかった筈。もっと多くの獣の影がちらほらと目に付いていたようだが……


遙の問いかけに対して、鳥の影は頷くようにして頭を下げた。


(やっぱりそうなんだ。あの時はあなただけ、何処かへ行ってしまった……)


"違ウ"


影は唐突に遙の言葉を遮った。


"私ガ逃ゲタ訳デハナイ。オマエが私ヲ受ケ入レナカッタノダ"


(受け入れなかった……?)


"ソウダ。オマエに取り込マレタ獣達トは違ッテ、私はオマエに取ッテ受ケ入レ難イ存在ナノダカラ"


影の発する言葉の意味を、遙は理解出来ずに首を捻る。


(……どういうことなの? 良く分からない)


"オマエと取リ込マレタ獣達ニは共通スル物がアル"


影は丸い目を、半月状に細く縮めて言った。


"猛牛ノヨウニ泰然ト佇ムコトモ、狼ノヨウニ敢然ト駆ケルコトモ、山猫ノヨウニ決然ト構エルコトモ……荒レ狂ウ獅子ノヨウニ猛然ト襲イ掛カルコトモ、オマエは知ッテイル筈"


影は聞き取り辛い声で、早口に告げた。


"ソレは『本能』トイウモノダ。人間モ、長イ歴史ノ中デ忘レテキタ生命ノ記憶ヲ、身体ノ奥深クニ刻ミ込ンデイル。
……ダガ、オマエニは知ルコトノ出来ナイ本能ガ、私ヲ受ケ入レズ、拒絶シタママにナッテイル"


(知ることの出来ない、本能……?)


遙の問いに、影がゆっくりと肩を持ち上げる。

すると、赤い背景に映えるように、黒い翼が現れた。風切羽の内、初列風切が突出して伸びる美しい翼は、間違い無く鳥類の誇る部位である。

遙が見入るようにしてその翼に目をやっていると、影が再び口を開いた。


"コレは、オマエはオロカ地上ニ生キル者は必要トシテイナイモノダ。……シカシ、オマエは一度、コレヲ望ンダ事ガアル"


(……私が、翼を……?)


"オマエはコレヲ好奇心ヤ羨ミデ欲シタノデはナイ。本能ノ原点デアル『生きる』トイウ目的ノ為ニ必要ト感ジタ。
ソノ時ダケ、オマエは私ヲ受ケ入レタノダ"


影が言い聞かせるようにして、一際大きな声で話す。その言葉に、遙ははっと息を呑んだ。


(生きるために、受け入れた……まさか……あの時の……)


嗜虐的な蝙蝠獣人であるチャドと、血に塗れた死闘を繰り広げた学校の屋上。

激痛で自暴自棄となった彼が、人質であった玲を屋上から投げ出したあの時。親友であった彼女を救うために、自らも宙に身体を投げ打ったのだ。

友人を救わなければいけないと感じていたあの瞬間、成す術も無く、二人揃って死を目前にしていた筈……


――空さえ飛べるのであれば、友人を救える上に、獣人として死なずに済む。直感ではあるが、そう思った気がした。

頭で考えたというよりも、それは本能的なものだったのかもしれない。そして、そう感じた結果が……


遙は合点がいって目元を潤ませると、鳥の影に向けて震える手を差し出した。


(あなたが、私達を救ってくれたの?)


"私ニ救う力は無イ。私は、オマエに切欠ヲ与エルダケノコト。ソレを受ケ入レ、ドウ扱ウカは、オマエ次第ナノダカラ"


そう言って影はパッと枝から飛び立つと、遙が差し出した手の先にふわりと降り立った。

軽い……まるで、羽が一枚乗っただけのように、殆ど重量を感じなかった。本当に実体の無い、影そのもののように。


遙の驚く顔をじっと凝視してきながら、影は口を開いた。


"ソロソロ、時間ガ無クナッテキタ……ガ、最後ニ聞イテモ良イカ?"


(何?)


"オマエは、何故戦ウノダ?"


影は鶏のように首を傾げて問い掛けてきた。影の唐突な問いに、遙は目を瞬くと、そっと俯く。

自分は何故戦うのだろう。これ程苦しくて、先の見えないような戦いを放棄せずにいるのだろうか。

遙はふと、自分の左手を見た。それは人間の手、そのものである。もちろん、獣人化した時のものとは、質感も見た目も懸け離れている。


(戦う理由……)


そうだ。もう一度、この手の感触を取り戻したい。二度と、獣の侵食を受けない、元の、人間の姿を。

遙は目元を引き締めて顔を上げると、一拍置いて影に告げた。


(戦わなくちゃいけないんだ……元の人間に戻るためには……!)


"何故、人間ニ戻リタガル?"


影は再び問い掛けてくる。遙は息を呑む。


(人間に戻る、理由……?)


どうして人間に戻りたいのだろうか。

親友以外の、他の人にも人間として認められたいから? この激しい戦いの日々から逃げ出したいから?

親友である玲は、自分のことを獣人という化け物ではなく、今まで通り、人間である『遙』として見てくれた。

玲が自分を認めてくれたことは、ある意味、自分の居場所が存在することになる。この戦いを放棄して、故郷に戻ることだって可能かもしれない……


――そこまで思ったところで、遙は顔を上げた。


違う。自分は何のために、振り返りもせずに故郷からこの地へと戻って来たんだ。

故郷に戻ったのは、自分の気持ちに区切りを付けるため。戦いの中で、迷わないように……人間に戻るために、唯前を向いて、戦うために。


人間に戻りたいと願うのは、決して戦いから逃げたい訳ではない。

唯、もう一度、もう一度だけ……


(私が戦う理由は……人間に戻りたい理由は……)


遙は眉を怒らせて影に叫んだ。




――!




……かなり大きな声量で叫んだ筈なのに、自分にその声が届くことは無かった。

しかし、手に乗る影は、不思議なことに目元をそっと緩めたように見えた。……まるで笑っているかのようだ。

呆気に取られて、遙が目を瞬いてそれを見詰めていると、急に周囲の光景が歪み始める。

赤い空と黒い地面にビシビシと白い罅が生じたと思うと、辺りはガラスが砕け散るように崩壊していき、あっという間に真っ白な虚の空間に投げ出された。


ぽっかりと白い空間に取り残された遙は呆然として、手に乗る影を見詰める。


"目を覚ませ……ハルカ!"


影がカッと口を開いて、遙に告げた。その声は、ノイズが混じったような聞き取り辛い声ではなく、はっきりと遙の心へと響き渡る。

その瞬間、影は黒い翼を開いて飛び立ち、白い空間の彼方へと吸い込まれるようにして消えていった。


(!)


……いや、あの影が遠ざかっているのではない。まさか、自分が、落ちている?










「――ッ!!」


遙は『目を開いた』。

あの影の鳥は……中空に浮くチャドの姿に取って代わる。その距離はどんどん開いている。――自分は、落ちている!


方向転換がまるで利かない中、首だけを回して下を見ると、もう地面との距離は数十メートルの場所にあった。

轟々と風が吹き付ける中、遙は歯を食い縛る。あれだけの高さから叩き落されたのだ。このまま地面に激突して助かる訳が無い。


この絶体絶命の状況から命を繋ぐ為には……遙は夢の光景を思い出して、グッと両手を握り締める。


(あの時と同じ……生きるために、力を発現させる……!)


生存本能。それは全ての生命に共通して有されたものだ。自分も例外ではない。

自分はキメラ獣人であり、複数の本能を共有している。人間として生まれたために、立つこと、走ること、跳ぶこと、それは本能として知っている。

だが、もう一つ。獣人にされてから、本能の奥底に眠っていた行動を思い出して、遙は目を見開いた。


「うあああぁあッ!」


遙は夜空に向けて大きな声を上げた。直後、肩の皮膚が背筋に引っ張られるような感覚が走る。

脈が次第に速まる中、肩甲骨が不気味に音を鳴らして変形し、皮膚が持ち上がるのに合わせて両腕の腱が引き攣った。

背中に起きる変化を見ることは出来ないが、何が起きているのかはある程度予想が付いた。


(腕以外の部位が、獣人化しているんだ……)


その時、激痛と共に何か硬いものが皮膚を突き破る感覚が走った。背筋に駆け巡る痛みと熱に、遙は小さな声を上げる。

まるで細いパイプが曲がるように、パキパキと音を立てて背中に何かが構築されていった。背筋に断続して生じる違和感に、遙の身体は自然と縮まる。

だが、顔中に吹き付ける風が少しずつ弱まっていく。驚く程の勢いで空気抵抗が生じ、遙の身体は軽い浮遊感に包まれた。

その時、ふわりと、碧色を宿した一枚の羽が、遙の目の前に散ってくる。それを見て、遙は吐息を漏らした。


「な、何ぃ!? その獣人化は……!」


上空でチャドの驚愕した声が聞こえた。

遙は思わず背後を振り返ると、そこにはある筈の無い巨大な風切羽が視界の端に映った。


「嘘……」


碧色の初列風切は流れてくる空気を受け止め、風を裂いて空の道を飛んでいく。

やや硬直気味に大きく開いたそれは、ぎこちないものの、確かに飛翔する役目を果たしていた。

翼で強い空気抵抗が生じたお陰で、高速で地面に激突することは無く、ゆっくりと遙は身体を降下させていく。


やがて、地面まで足が付くところまで近付いたのだが、遙はそこまで来て顔を引き攣らせた。


「う、うわっ」


上手い具合に翼の動かし方が分からず、遙はうつ伏せの状態で地面に顔を押し付ける羽目となった。

水飛沫が上がり、泥水に濡れた遙は、口に入った砂利の感覚に呻く。

……だが、怪我らしい怪我はまるで無い。着地の際に、地面に押し付けた膝を少し擦り剥いた程度だった。

本来ならば、間違いなく命を失っていただろう。遙は実感が上手く沸かずに、震える唇をぱくぱくと動かした。


「はぁ、はぁ……生きてる、の?」


遙はゆっくりと両腕を見た。獣人化した手ではあるが、力を込めると思い通りに指が曲がる。

両手の羽毛の感覚もしっかりと伝わり、己の鼓動も耳に痛い程に聞こえていた。


そして、何よりも……


「これは、私の翼?」


遙は首を最大限に曲げて背中から伸びるそれを見た。青い、澄んだ蒼穹のような色合いを持つ風切羽が背中から生えている。

本能的に翼にも力を込めてみると、それは遙の意思に従って、大きく羽が開いた。思わず、何度も開閉させてみてる。

翼を動かす度に大きな風が巻き起こり、雨に濡れた髪の毛が静かに揺れた。背中に掛かる重みも、より翼の存在を明確にしている。


本当に、本当に……これは、自分の翼なんだ。


遙はじわじわと実感が沸きあがってきた。自分の指先を羽に近付けて、擦るように手を動かす。

今しがた発現したばかりのそれは、雨に濡れた感触も無かった。柔らかく、その大きさとは反比例して非常に軽い。


しかし、遙が自分の翼を陶然と見詰める中、上空から凄まじい風音が聞こえてきた。

風が押し潰されて悲鳴を上げるような、荒々しい羽音。遙は思わず耳を塞ぐ。


「ハハハッ、驚いたぜハルカ! まさか本当に翼を出せるなんてなぁ!!」


「! チャド」


遙はその声に反応して素早く振り返るが、あっという間にチャドの脚に備わる爪が視界を覆いつくした。

ほんの刹那の時間差で彼の爪は空を切り、そのまま濡れた地面へと足を押し付ける。遙はその場から身体を動かし、跳躍してチャドの攻撃を避けていた。

だが、不意打ちということもあって、完全に避け切れた訳ではない。チャドの爪を避け損ねたお陰で、頬に薄らと切り傷が生じる。


「はぁ、はぁ、……うッ」


急降下の衝撃で一瞬の隙を見せたチャドへすぐに反撃に出ようとしたのだが、地面を蹴りかけたその瞬間、ずるり、と翼の重量が身体に掛かる。

翼は、本来ならば人間が扱い方を知り得ない部位なのだ。地上に立つ間は、身体の俊敏性を欠いてしまう。

遙が鼻に皺を寄せてチャドの動向を伺っていると、チャドは翼手を広げたまま土塊を跳ね上げ、こちらへ突進してきた。


その獰猛な牙を生やした口が、歓喜の声と共に大きく開かれる。


「クックク、ご自慢の翼で付いて来てみな! 出来るものなら、だが!」


「! くっ」


そのまま駆けて来るかと思いきや、彼は十数メートル程の距離で地面から脚を離し、低空飛行のまま遙に襲い掛かった。

身体を中空で器用に回転させ、一気に足の爪を振り下ろしてきたチャドの攻撃を、遙は両腕を交差して受け止める。

鋭い爪が遙の腕を大きく裂き、血飛沫で目の前が赤く染まる。尚もぎしぎしと押し付けてくるチャドの体重と勢いで、遙は支えきれずに吹き飛ばされた。


勢いよく撥ねられた遙の身体は、ビルが崩壊した瓦礫の山に突っ込む。

幸い、瓦礫に含まれていたの鉄骨やガラス片などの、鋭い部品に身体が食い込むことは無かったが、それでも衝撃は凄まじいものであった。

ガラガラと廃材が身体に降り注いでくる中、遙は脳震盪でぶれた視線をチャドに向ける。


「ッ……くそ……」


遙は咳をして、大きく息を吐いた。

唯でさえ獣人化には力を費やすのだ。翼を発現させてしまったことにより、温存していた体力は限界に近付いている。

チャドは遙を突き飛ばした後に上空へ昇ったのか、空からこちらを見下ろしており、どうも地上戦に持ち込むつもりは無さそうだった。


傲慢そうに獣声を上げるチャドに、遙はぎりぎりと歯を食い縛った。


(私にも、翼はあるんだ……!)


遙は足元のコンクリート片を払って、瓦礫の山から飛び出した。

地面に立った遙は、自慢の脚力を活かして一気に助走をつける。どんどんスピードを増していく中、遙は翼を開いた。


「やぁッ!!」


遙は掛け声を上げて地面を蹴り、背から伸びる翼を思い切り羽ばたかせた――


……しかし、上下にバタバタと動いた翼は風を受け損ね、遙はバランスを崩して地面へと再び足を付けた。

ほんの僅かに宙に浮いたものの、上昇するには至らない。数メートル程進んだ所で、遙はたたらを踏みながら足を止める。


(飛び方が分からない……)


よくよく考えてみたが、翼が生えたからと言って、すぐに飛べる筈が無い。

何しろ、滑空は出来ても羽ばたき方がまるで分からないのだ。どのように動かして、風を受け止めれば良いのだろう。

普通の鳥のヒナでさえ、ニ、三週間の時間を経て巣立つのだから、ものの数分で空を飛べるような芸当は少々無理がある。


(だけど、今飛ぶことが出来なければ、チャドになぶり殺しにされるだけだ……)


遙は眉を顰めて目を閉じると、意識を集中する。自分の記憶の中に、何かヒントがあるかもしれない。

鳥の飛ぶ姿を思い返そうとするのだが、普段から意識して見ていた訳ではない。……だが、それでも何か手掛かりがある筈。



……黒い鳥



全身が影のような、目しか視認することの出来ないそれは、夢の光景で見たものだ。

別れ際に、あの黒い鳥の影が飛んでいく姿……翼を、規則正しく動かして飛び去る姿を……


遙はカッと目を開く。


「チャドッ!」


遙は激しい怒声と共に、再び地面を蹴った。

疲労が重なって震える足を叱咤し、大地を力強く蹴り上げて疾走する。


三十メートル程の助走を付けた先……地盤が盛り上がり、道路が丁度ジャンプ台のように傾斜を持った場所に差し掛かった。

遙はそれを一思いに駆け上がり、道路が切断された部分で大きく跳躍した。


「……ッ!」


飛べ! そう思って大きく翼を開くと、そのまま上下にゆっくりと動かす。

すると、ふわっ、と身体が浮いた。遙は驚きと共に、バランスの取り方に焦りを覚える。


そうだ、このバランスを取ろうとして翼の動作を忘れてしまっているのだ。翼を規則的に動かせば、地面に叩き付けられることもない。

遙はなるべく翼の動きだけに意識を集中させていく。飛ぶ高度が不安定に変動し、中々安定した飛行が出来なかった。


そんな遙の様子を上空から見下ろしていたチャドは、耳障りな嘲笑を上げる。


「ハハ、鳥の雛以下だ! そんなハリボテみたいな飛び方じゃあ、俺の攻撃を避けることも出来ないぜ!」


言下、チャドは翼を垂直に立てて、再度急降下をした。

翼で飛行する種であるために、走行よりも圧倒的なスピードを誇っている。見る間にチャドの巨躯が迫ってきた。

中空で浮いていては、翼を巧く利用しない限り避ける術は無い。遙は翼を大きく開いたまま、チャドに顔を向けた。


距離の縮まってくるチャド。遙はその動きを吸収するように凝視し、彼が目前に迫った瞬間、翼を下に向けた。


(……今だ!)


突進してくるチャドの軌道を寸前で避け、遙は風を受けて上昇を開始した。

本物の鳥と同様に帆翔し、素早く高度を上げていく遙のスピードに、チャドは思わず目を見張った。


「うおっ!?」


「……飛べた!?」


そう叫ぶ間も、遙はどんどん高度を上げていき、やがて街全体が見渡せる程の高さで羽ばたき飛行を開始する。

ホバリングをするような技術はさすがに無く、遙は規則的に翼を上下させながら、ゆっくりと夜空を旋回していた。


顔に当たる風が心地良い。レオフォンと飛んだ時と同様の爽快感であった。


「……私、飛んでいるの!? ……凄い」


戦闘中であるということを、忘れるような清々しい光景であった。

月光に照らし出される廃墟の街。地面から見上げていた高層の廃ビルは、今や玩具のような大きさだ。

同じ場所を見ているというのに、空からは別世界を眺めているようである。鳥の眺める光景は、こんなものなのだろうか。


……不思議な気分だ。同時に、何処か優越感さえをも感じる。


しかし、飛べたからと言って、全てが終わった訳ではない。まだこれはほんの助走に過ぎないのだ。

何と言っても、あのチャドと空中で戦わなければならない。唯でさえ不慣れな飛翔を、あとどれぐらい保てるかも分からない。


だが、遙は両腕をぐっと握り締めた。……心臓の大きな拍動と共に、身体の奥からじわじわと力が溢れてくる。


「チャドッ!!」


遙は決然として名を叫んだ。

巨大な翼を広げた遙は、月光を背景にシルエットを生じさせている。その姿は、まさにキメラ獣人というべきものか。

地面から遙の姿を見上げていたチャドは、急に姿勢が大きくなった彼女に、思わず笑みを零す。


「良いぜ、威勢の良い声を出すじゃないか。その姿勢がいつまで続くか……もう一度その顔を恐怖で引き攣らせてやるぜ!」


言下、チャドは水飛沫を上げて一気に上昇し、あっという間に遙と同等の高度まで飛び上がってきた。

遙は旋回速度を弱め、出来る限り空中での位置を整える。一瞬の膠着状態の後、二人の赤い視線が交差した。

空中戦でこそ、彼は本領を発揮するのだろう。相手の姿を見失えば、それこそ一撃で沈められる。遙は喉を鳴らして唾を飲み込んだ。


――その時、チャドが僅かに距離を開けたと思うと、突進するようにして迫ってきた。


「御自慢の翼、二度と飛べないように引き裂いてやろうじゃないか!」


チャドの鋭利な牙が、遙の喉笛を狙う中、遙は姿勢を変えて飛行する体勢を取る。

まるべく空気抵抗を受けないように、水平な姿勢で……すると、遙は肉迫するチャドへ向かって飛び始めた。体格差といい、突撃されただけでも遙は吹き飛んでしまうだろう。

この遙の無謀な行動には、チャドも思わず苦笑を漏らした。


「おいおい、空が飛べたからって、ちょっと浮かれ過ぎているんじゃ――」


ふと、チャドの言葉が切れた。目の前から遙の姿が消失したのである。

遙はチャドに突撃する寸前で、開いていた翼を素早く閉じていた。遙は消失したのではなく、急な方向転換をやってのけたのである。

その行動で遙の身体は一瞬高度を下げ、チャドの牙は虚しく空を切った。


「ちっ、妙に巧みな飛行を……」


舌打ちするチャドの腹下を素早く通って、遙は再び翼を開く。

まるで野生のヒヨドリのように波状飛行を行った遙に、チャドは驚きを隠せなかった。

飛翔を開始して数分しか経過していないというのに、遙は鳥のように空を舞うのだ。


それは頭で理解しているようには見えない。全ては本能によるものか……チャドはニヤリと笑った。


「良いぜ、そうこなくっちゃな。俺も殺し甲斐が無くなるってモンだ!」


遙はこちらに向かってくるチャドの様子を伺いながら、ひたすら前方に向かって飛ぶ。

視界は良好で、廃墟の街並みやその周辺に広がる荒地の岩石等もしっかりと視認できた。翼を動かす度に、冴え渡った夜風が身体を撫でていく。

遙は目に吹き付ける風に微かに目を細めながらも、少しばかり高度を下げて、横目で廃墟のビル街へと目をやった。


(速さなら問題は無いか……)


遙は振り返って彼との距離を伺う。チャドが追いつかないということは、少なくともスピードに完全に劣っているという訳でもない。

だが、体力の差を考える限りでは、追い付かれるのも時間の問題だ。飛翔に使う筋力は予想以上で、普段使い慣れていない背筋に熱が篭る。

走るよりも、ずっと体力の消費が激しかった。遙が顔を顰めていると、視界の端に一つのビルが見える。


そのビルは唯一原型をしっかり留めているもので、高さも高層建築物のレベルに達していた。

壁面は月光に反射して藍色に煌いており、割れていないガラス窓が残っていることを示唆している。

遙は何かに引かれるようにしてそれをじっと凝視していると、やがて、その屋上に目を付けた。

広さを持った屋上には、塔屋や給水タンクが設置されており、空調機器のようなものも見て取れる。


(……あれなら……)


遙は屋上に設けられた塔屋に目をつけて、ゴクリと喉を鳴らすと、そのビルに向けて方向を転換させた。

体力を温存するためにも、速度を出来るだけ落とし、チャドを誘導するようにして……


「くく、少し元気が無くなってきたじゃないか」


徐々にスピードを落としていく遙を見ていたのか、背後から揶揄するようなチャドの声が聞こえた。

確かに、飛翔に使う体力は相当なものだ。遙の表情は相変わらず険しく、額には汗が浮かんでいる。


だが、相手から疲労しているように見えているのならば、こちらには好都合だ。チャドが追って来るのを確認しながら、遙は高層ビルを目指す。

激しい風音だけが耳を霞めていく中、ビルの屋上まであと五十メートル程、と言う所で、チャドの咆哮が響き渡った。


「さぁ、追いかけっこは終わりにしようじゃないか!!」


はっとして振り向くと、チャドは急速にスピードを上げて、遙の身体に迫って来た。

更にスピードを増して肉迫するチャドに遙は驚愕したが、彼の牙が遙の足に食い込む寸前で、攻撃を避けるように一気に急上昇を開始した。


チャドが呆気に取られる中、遙は上空で弓形に軌道を変え、標的を失って勢い余ったチャドの背後へと急降下する。

遙は両手をぐっと開き、降下と共にチャドの両足に爪を食い込ませて彼の身体を引っ張った。


「ぐあッ!」


遙の爪ががっちりとチャドの足に食い込み、中空に血煙が散る。

この土壇場で繰り出した、信じられない遙の力とスピードに、チャドの方が驚きを隠せなかった。


遙は猛然と力を込めてチャドの巨躯を振り回し、ビルの屋上に向けて飛び上がる。

体勢を崩したチャドは成す術も無く遙に捕らえられていたが、ふと、視界に入ったビルの屋上に、ギラリと光るものを発見した。


――遙の目指す先に光るもの……避雷針!?


「お、おい、まさか……」


チャドが顔を引き攣らせる中、遙は笑みも無く、獰猛に牙を剥き出して叫んだ。


「これで終わりよッ!!」


遙の持つチャドの身体は今、避雷針の上空にあった。そこに至るまでの距離に、障害物は見当たらない。

真下に設置されているものは、月光に反射して鈍く光る避雷針のみ。遙は躊躇無くチャドの身体を巨大な避雷針に向けて振り下ろす。


グンッ、と、身体が振り回され、チャドは獣の悲鳴と共に叩き落とされた。


「グガァッ!!」


ズズンッ、と地響きが轟き、高層ビル全体が大きく揺れる。

チャドは全身に走った凄まじい衝撃に、暫し身体を硬直させていたが、次第にゆっくりと目を開いた。

血が溢れた様子は無い、チャドは唸り声と共に身体を起こそうとした……が、右腕が動かなった。


「な……?」


不思議に思って自分の右腕を凝視してみると、皮膜部分を太い避雷針が貫いているではないか。

皮膜には薄い血がじわじわとその範囲を広めている。それを見たチャドの額に青筋が浮かんだ。


「ちぃッ! 舐めた真似をしやが……」


チャドが忌々しげに避雷針に手を掛けたその瞬間、正面から身体全体を射抜くような殺気を感じた。


驚いて顔を上げた途端、遙の獣爪が眼前で光る。血に濡れた赤い爪は、一点の狂いも無く、チャドの額に突き付けられていた。

顔の位置は固定したまま、視線だけを上に上げていくと、遙の鮮血のように赤い眼と焦点が合った。身震いが止まらない程の、まるで本物の猛獣にも引けを取らない程の眼光である。

畏怖さえ感じるその彼女の眼差しに、チャドは戦慄した。


「動かないで。次は容赦しないッ!!」


憎悪の込められた声には、以前のような柔和な面影は感じられない。

遙の言葉からは、違えようも無い殺気を感じる。……これが真のキメラ獣人の力なのだろうか。


チャドは引き攣った笑みを浮かべて、脱力するように顎を地面に押し付けた。


「……くっくく、まだ中途半端だってのに、これだけの力があるのか? その自分の力を棄てたがるお前は本当に勿体無いぜ。人間に戻りたいだなんて、どうして思うんだ?」


「……私はこんな人を殺めるような力なんて望んでいない。唯、もう一度……人間に戻りたい」


遙の頬に薄く涙が伝った。

……あの獣の夢の中で、鳥らしき影に問い掛けられた時と同じ言葉を、今度はチャドの口から差し向けられている。


彼の問いに、遙は迷い無い透徹した声音で叫んだ。



「私は、人の中で人として生まれたから。もう一度、人の中で人として生きて行きたいんだ!!」



自分の戦う理由の全てが、この一つの目的に繋がっている。本当はこんな戦いをしてまで、自分は人間に戻るべきかと迷ったことさえあった。

だが、どうしてもこの理不尽な運命に逆らわずにはいられなかったのである。人の優しさに包まれて、人間として生きた記憶が、ひたすら遙の足を進めていた。

自分の心の中に、人間としての記憶が残り続ける限り、この目的が曲がることは無いだろう。獣に、この意識を引き渡さない限りは……


遙の叫びに、チャドは嘲笑うかのように鼻を鳴らした。彼は疲れたように口を開く。


「……綺麗事だ。立派な言い分だが、お前の戦う理由には、大事な根拠って奴が無いぜ?」


チャドは低い声音で、遙に言った。遙は眉を上げて、焦れたように問い返す。


「それは、どういう――」




パチパチパチ……


ふと、遙達の会話を割って、場に合わない拍手が聞こえてきた。

遙とチャドが思わず音のした方向へと、素早く目を向ける。そこには、塔屋に設置された手摺があり、その上に長身の人影が立っていた。



「ふふ、予想以上の出来よ、ハルカ」


雲に隠れていた月明かりが、人影を照らし出した。妖艶な声と共に姿を現した女性は、切れ長の赤眼を遙に向けている。

烏の濡れ羽のように黒い頭髪を後ろで一つに束ね、身体には黒のタートルネックの上に、紺色のトレンチコートを纏っていた。

何よりも威光を放っているのは、彼女の鋭く赤い双眸である。まるで、人間ではないものに睨み付けられているような眼光を見て、遙は目を見開く。


「あなたは……ッ」


全身に鳥肌を浮かせた遙が驚愕と共に声を絞り出すと、女性は口元を曲げて笑みを浮かべた。


「迎えに来たわよ、あなたが帰るべき所から……ね」


身体中を貫くような悪寒に、遙は言葉を失った。




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