夕焼けの光がいつも以上に強く輝き、瞳の中へと痛い程に差し込んでくる。

その光の強さのあまり、瞼を半分閉じながら見詰める視界は滲んでいた。周囲もぼやけて良く見えない。


唯、視線を向ける先……荒地が続く中、他とは少しばかり小高い丘の上に、小さな人影が見えた。

人影は微かに震えているように見える。その人影は荒地に一人座り込んで、胸が苦しくなるような嗚咽を漏らしていた。


『……本当に珍しい光景だな』


ガークは気だるげに呟くと、ズボンのポケットに両手を入れたまま、ゆっくりと人影に近付く。

ザッ、ザッ……という荒地に突き出た瓦礫を踏む音が響く中、乾いた風が頬を撫でていった。


やがて、ガークは人影の背後まで足を進める。

ガークとほんの数メートル程の距離を開けて、地面に座り込む女性。座っていることで背筋は曲がっているものの、肩から背にかけての身体の線は細く、滑らかであった。

夕日を受けて煌く、黄丹色の頭髪は柔らかく流れ、一本一本が眩い程の光を反射させている。……だが、彼女から放たれる輝きも、今は幾分静まっているようだ。


『いつまでそこにいる気だよ、フェリス』


ガークは肩を震わせて泣いているフェリスに、背後から話しかけた。

彼女は振り返りもせず、泣き止みもしなかった。唯、目の前に置かれている頭一つ分程の大きさを持った石へ、涙で濡れた顔を向けている。

ガークは溜息と共にそっと彼女の隣に腰を下ろした。


石……それは墓石である。その墓石の主を思い返したガークは、徐々に重い感情が湧き上がってきた。

『Sakhal』と、名前が粗く刻まれた石を、ガークは目を細めて見る。


この墓石に名を刻まれた人物は、ほんの昨日まで、自分達行き場を失った獣人達のリーダー的な存在だった男だ。

自らもGPCの被験者であり、獣人であった。勇ましく、猛々しい咆哮を突き上げる獅子の獣人。

まだ若年でありながら、その行動力といい、決断力といい……いわゆるカリスマ性を持ち合わせた彼は、今、すでにこの場にいない。


彼がいない理由は、フェリスが泣いている理由と直結している。雄々しき獅子は冷たい土に埋められ、すでにこの世にはいないのだ。


『……ッ、……皆……は?』


ガークが考えるようにして頬杖を突く中、涙で息を詰まらせながら、フェリスが震える言葉を発した。

ガークは彼女の顔を見ずに、墓石に刻まれた名前だけを静かに見詰めながら、小さな声で答える。


『皆、何処かへ行っちまった……多分、帰っちゃあ来ないだろう』


『……レパードも?』


『……ああ、コバルトもあいつの後を追って、行っちまったよ。此処にいるのは、お前と俺だけだ』


ガークが疲れたように言った。フェリスの表情はあえて見なかったが、微かな笑み……自嘲的にも取れる声が耳を掠める。


『皆、いなくなるのは、当然だよ……ね。私が……私がサハルさんを殺したのだから。皆に憎まれて、恐れられて……当然だよ……』


『俺は何処にも行ってねぇぞ』


ガークはフェリスにほんの少し目を向けて言った。

その言葉は真っ直ぐ、正直に放たれたもので、空耳と思えるような弱い声ではなかった。フェリスは驚きと共にガークに見る。


ガークの真鍮のように輝かしい瞳が、フェリスの潤んだ碧眼を捕らえて離さない。どんなに目を背けても、心に焼き付いて離れないような力強い眼光であった。

その意志の強さが浮き彫りとなったガークの言葉に、フェリスは歯痒そうに顔を顰めたと思うと、突然立ち上がって彼の肩を掴んだ。


『ッ……ガークも、ガークも何処かへ行けば良いじゃないッ!! 私はまた暴走を引き起こして、仲間を殺してしまうかもしれないのよッ!?
ガークだって、私の傍にいたくないでしょう……?』


肩を思いっ切り揺さ振られて、ガークは咽ると同時に少し顔を歪ませる。

やがて、フェリスは突き放つようにしてガークを離したが、自棄になったような表情が和らぐことはなかった。

ガークは喉元を擦りながらフェリスの様子を伺うと、呆れたように溜息を漏らす。


『別に。そんなの関係ねぇよ』


感情的になっていたフェリスが呆然とするほど、あっさりした答えだった。


『俺は何処へも行かない。唯でさえ、こうやって駄々をこねる馬鹿がいるんだ。世話する奴がいなきゃあ、野生のヤマネコに還っちまうだろうが。それに――』


ガークは口角を曲げて笑った。


『人の死を悲しんで涙を流すような奴を、恐いと思う訳ないだろ。お前は化け物でもなんでもねぇ。万一、また暴走しかけたら俺が目ェ覚まさせてやるよ。
だからよ、そこにいつまでも座ってんじゃねぇ。お前がそんなんじゃ、お前のために死んだ奴も報われないだろ』


ガークの言葉を聞くフェリスの顔からは、薄らと涙が引いていった。

自分よりも年上の癖に、たまにこんな子共っぽい顔をする時がある。普段は口煩い姉のような存在だというのに。

ガーク自身、フェリスとは何処か近しい性質を感じていた。それだからこそ、こうやって対等な喋り方が出来るのかもしれない。


張っていた気が抜けたように、フェリスが肩を落とす中、ガークがふいに拳を突き出した。


『約束だ。お前が暴走しても、俺が止めてやる。もうお前に、仲間の命を奪うような馬鹿な真似、二度とさせねぇよ。お前みたいな陽気な奴が泣く顔も、見たくないしな』


『……約束?』


フェリスは言葉を反芻して、そろそろとガークの手に自分の手を当てる。

普段は自分を殴ってくるような忌々しい手ではあるが、今の彼女の手は、まるで脆いガラス細工のように華奢に思えた。

だが、温かさはゆっくりとだが感じ取られる。ガークはフェリスの手を左手でそっと掴み返した。


『ああ、そうだ。俺が約束するんだから、お前も破るなよ』


笑いかけてくるガークに、フェリスは一瞬、苦しげに顔を歪めたが、その顔は次第に緩んでいく。

やがて、フェリスは目元を力強く拭うと、すっきりした笑みをガークに見せた。


「……ええ、ガーク!」






――――――――






身体が熱い。

鼓動が速くなり、手足が引き攣るような感覚が襲ってくる。視界はより鮮明になり、敵であるヴィクトルの顔に焦点が重なった。

人の理性さえ押し潰しそうな程の獣の本能。それはある種の快楽のようにも感じるし、理性で押し留めようとすれば身体中を苦痛が苛む。

四肢の感覚が少しずつ麻痺していき、指先は痙攣しているかのように小刻みに震える。だが、反対に身体の奥から響いてくる振動だけはいやに強く感じられた。

恐いと思うと同時に、懐かしささえ感じるこの感覚……フェリスは歯を食い縛る。


(獣人化……!)


ずっと両腕のみの変化に抑えていたそれは、胸元を中心に侵食を広げていく。


全身の獣人化を抑えていたのは、理性を失って仲間を傷付けてしまう事態を恐れていたからに他ならない。

BRを崩壊させることに発展した事件を境に、フェリス自身、獣人化をすることがトラウマになっていた。

だが、戦うためには止むを得ない変身。せめて理性を押し留められるレベル……両腕のみの形で戦ってきたのである。

もちろん、部分的な獣人化であるために、能力は完全に発揮出来る訳ではない。しかし、逆に言えば、全ての獣人化をすることで限界まで能力を引き出すことが出来るのは確かだった。


獣毛が見る間に両腕を覆い、骨格の変化に伴って肩が持ち上がる。整った目元は額に少し寄り、目尻が吊り上った。

犬歯を筆頭とする歯列が食肉目特有の鋭さを形成していく中、フェリスは唸るように牙を剥き出す。


その獣人化過程を見ていたヴィクトルは興味深そうに瞼を上げた。


「ほう、暴走してまで私を殺そうと思うのか? 自我を失うぞ」


「……ッ自分のことなんて知ったことじゃないわよ! 唯、ガークを殺したあなたは絶対に許さないッ!!」


言下、フェリスは獣の咆哮と共にヴィクトルの腕を払うと、獣人化を遂げた爪を素早く突き出した。

上位種獣人の誇る速さは、ヴィクトルでさえ驚く程のものであった。彼は負傷した右腕を庇い、代わりに左手でフェリスの攻撃を受け止める。


ザクッ、と、ヴィクトルの手をフェリスの爪が貫く。彼の手甲から突き出たフェリスの鉤爪は、鮮血で真っ赤に染まっていた。

硬質な鱗に包まれた鳥人種の手を貫くとは……ヴィクトルが痛みに目元を引き攣らせる。


「むッ、予想以上に力が跳ね上がるものだな。――だが」


ヴィクトルは貫いてきたフェリスの手を掌で包み込むようにして、がっちりと掴み返した。

ぎしぎしと音を立てて身体中の獣人化を遂げていくフェリスは、鼻筋に深々と皺を寄せる。


「ぐが、がぁあッ! あぁああァァ」


鋭く伸びた犬歯を本能的に剥き出し、フェリスは獣の声音で吼えた。

……意識が削ぎ取られるようだ。フェリスは何とか理性を繋ごうと歯を食い縛り、きつく目を閉じて俯く。

今此処で暴走した所で、ヴィクトル以外を攻撃対象にすることはないが、ガークやレパードとの約束を破りたくない。

獣に乗っ取られ理性を失い、BRを崩壊に導いた醜悪な容姿を、他の仲間に見られるのは耐えられなかった。


完全な獣人化を遂げた後で、少しでも人の心が残っていてくれれば……親友の命を奪い取った憎い敵を粉砕するためだけに、力を注ぐことが出来る。


だが、不慣れな獣人化を行う中で冷静な判断を失った彼女にとっては、今の状況は圧倒的に不利であった。

始めからヴィクトルの能力はフェリスを凌いでいる。何と言っても、常に獣人化している常時発現型の獣人なのだ。

獣の容姿から人に戻れない代償に、常に獣人化し続けることで強大な力を宿している。例え負傷しているとはいえ、彼の力はフェリスの比ではなかった。

理性と本能の葛藤を続けるがために、ヴィクトルを攻めあぐねていたフェリスは、身体を苛む苦痛に大きく息を吐く。


「ぐ、うぐぅぅ……」


「くく、最後は獣に堕ちるか。その苦しみを持続させないためにも、今すぐに命を絶ってやろう。……惨めな姿のまま死体となるが良い!」


言下、ヴィクトルはフェリスの腹に強靭な膝を打ち当てると、首を一気に引いて嘴を突き出した。

硬質な骨と角質で形成された嘴は、鳥類の大きな特徴であると同時に、武器の一つでもある。

その鋭さと硬度を兼ね備えた嘴を容赦無く額に打ち当てられ、フェリスは呻く。患部からは出血を伴った上に、軽い脳震盪が起きて、足元がよろめいた。


激痛と血液で視界を奪われたフェリスは体勢を崩し、思わず足を浮かせる。ヴィクトルはその瞬間を見逃さなかった。


「! がッ」


ヴィクトルは自らの掌を貫いていたフェリスの爪を、力任せに無理矢理引き抜き、猛禽特有の脚で彼女の胴を踏み付ける。

両腕を塞がれていても、彼は脚という強力な武器がある。衝撃で地面に突っ伏したフェリスはヴィクトルの強靭な圧力を感じて顔を顰めた。


「安心しろ。さっきの犬と同じ殺し方にはしない。……お前が傷付けてくれた右腕で葬ってくれようじゃないか」


ヴィクトルは焦げ付いた右手を見せ付けるようにして持ち上げた。

ヴィクトルの脚で肋骨が締め付けられ、内臓を圧迫する。肺が潰れるような息苦しさと激痛に、あっという間に体力を削ぎ取られた。


もがくフェリスを傲然と見下ろすヴィクトルは、右手を月光に向けて振り翳し、一思いにフェリスの喉へと爪を突き出した。

フェリスが目を瞬いたその瞬間、ヴィクトルの爪が月明かりに反射して、残酷な光を放つ。


(精神を保とうとして、獣人化が間に合わない……)


少しずつ獣人化を遂げていくに伴い、人の姿を失いつつある今も、心の奥底で獣に堕落するのを恐れている。

全身に広がる獣の侵食は、やがて精神をも蝕むのだ。自分を見失って、本当の化け物と化すその瞬間が、あまりにも恐ろしくて仕方がない。


だが、今この状況において、その自分の心の弱さが再び悲劇を生んだのだ。……親友の死は、獣人化の恐怖よりも遥かに暗くて、底の見えない恐ろしさだというのに。

どうしても失いたくないもの……それは決して自分の心なんかでは無かった筈。


(本当に失いたくなかったのは、友達だったのに……!)


「自分なんか、どうなっても良いから……! うがぁあああ!!」


フェリスが喉も裂けよと咆哮を上げる。

フェリスは獣声の勢いのまま身を乗り出し、放り出していた右手を挙げて、ヴィクトルの脚に深々と爪を立てた。その悪足掻きのような攻撃で、彼の動きが一瞬止まる。

真っ赤な血が視界を覆い、異様な恍惚感と共に身体の変化が佳境を迎えた。自身に掛けていた理性というリミッターを破壊すると同時に、一気に獣人化速度が速まる。


音を立てて踵が突き上がり、地面に押し付ける背骨もしなやかに曲線を描く。

そして、喉まで達していた獣毛の侵食が、いよいよ顔に移ろうとした――




ドフッ




半分獣になりかけていたフェリスの顔に、唐突に血液が飛び散った。

肉を貫く鈍い音。ヴィクトルに身体を打ち抜かれたのだろうか。一瞬そう思ったが、視界に映った光景を見て、その考えは払拭される。


「……なッ……?」


ヴィクトルは喉声を漏らすと同時に、橙赤色の目をぐっと見開く。彼の半開きになった嘴を伝って、粘度を持った鮮血が零れ落ちた。

彼が荒い呼吸と共に震える顔を下へ向けると、そこには自分の胸を貫いて飛び出している、黒い獣腕が目に入った。

その血に濡れた手は見覚えがある。……つい先程の戦いにおいて、自分の脇腹を抉った手……


「それ以上、俺の友達に触れるんじゃねぇ」


低い男声が、ヴィクトルの耳を過ぎった。その声に彼は驚愕した様子で首を後ろにやる。


「ば、馬鹿な……貴様……」


そこには絶命したと思っていた、黒狼ガークの姿があった。

ついさっきまで光を失っていた瞳は、月光を浴びてギラリと野性味を帯び、力強くヴィクトルの顔を睨みつけている。

その彼が突き出した腕が、ヴィクトルの分厚い背筋をも穿ち、胸を貫いて血に濡れているのである。


ヴィクトル以上に驚きを隠せなかったフェリスは、呆然とした眼差しでガークを見詰めていた。


……確かに、ガークが立っている。黒い狼の容姿に、同じく黒を基調とした粗野な服装。

何よりも、その声が疑いようも無い程に耳に懐かしかった。ほんの数分程の時間が、あまりにも冷たく、長く感じられたのだから。


「……ガーク?」


「言っただろ、お前が暴走しかけたら止めてやるって。……約束を破る程、俺は軽い男じゃねぇよ」


その彼の凛とした言葉は、フェリスの心に確信をもたらした。……親友である、ガークが生きているという事実を受け止めた時、彼女の目元からは涙が伝う。


言下、ガークは咆哮と共にヴィクトルの胸から手を引き抜いた。

動脈を切り裂いたように血泉が噴き上がり、ヴィクトルが苦痛の声を漏らす暇も無く膝を突く。


「グハッ、があぁ……! 貴様……よくも」


忌々しそうに睨み付けて来るヴィクトルは、立ち上がる余力が失われているのか、胸に手を押し付けて呻く。

しかし、その橙赤色の眼は尚もこちらを捉えて離さない。身体は動かせずとも、その気迫は身の毛のよだつような殺気を纏っていた。


その醜悪な様を敢然と見下ろすガークの眼が、次第に不愉快そうに細められる。


「……とっとと失せろ。てめぇの血の臭いは汚泥以下だ、嗅いでいると吐き気がする。これ以上、そんなモンに触ってられるか」


ガークは舌打ちと共に吐き棄てると、倒れていたフェリスに肩を貸して介抱する。

二人の様子を尻目にヴィクトルはずるりと起き上がると、顔をガーク達に向けて鼻で笑った。


「く……くくく、 貴様らの名はフェリスとガークだったか? 私に牙を剥いたことは忘れんぞ……」


ヴィクトルの顔には苦痛の表情とは打って変わって、恍惚とした、何処か不気味な笑みが浮かんでいた。

その容姿だけでも人から懸け離れているというのに、鳥顔に浮かぶ暗い満足感は更に異様なものを感じさせる。


「次に会う時は容赦せん。延々と続く苦しみと絶望の中で、のたうち回って死んでいくと良い……クハハハッ」


彼は喉元にまで込み上げた血を、水音と共に吐き出して笑う。背筋が凍るような邪笑にガークもフェリスも顔を顰めた。


――言下、ヴィクトルは足元の砂を払い退けたと思うと、眼に力を込めてガーク達を睨んだ。

パリッと、空気中に青白いパルスが生じ、突如として二人の頭に激痛が走る。


「ぐあッ!」


唐突に脳内に走った痛みにガークとフェリスが声を上げて、一瞬目を閉じる。

……再び二人が目を開いた時、その視線の先からヴィクトルの巨躯は姿を消していた。


小さな隙を突いて、彼は雨上がりの靄の中へと消えていたのである。唯、夥しい血の跡だけが彼のいた場所に残されていた。

その血痕は靄の奥……廃墟の街がある方向とは逆の、平地の広がる荒地の方へと落ちている。そうなるとすぐにでも追えば、相手の姿を捉えて止めを刺すことも可能だろう。

だが、二人共ヴィクトルの後を追おうとしなかった。むしろ、追えなかったと言った方が良いかもしれない。すでに体力が枯渇しているために、深追いをする真似はしなかった。


相手もそれを察していたのだろう。――彼が姿を消すと同時に、ガークはその身体をぐらりとよろめかせ、その場に崩れ落ちた。

戦いで張っていた気が抜けたのか。フェリスが慌ててガークの身体を支えてやる。


「! ガーク……ッ」


フェリスはガークに肩を貸して、小さな悲鳴を上げた。

何と言っても、彼は満身創痍である。今も胴から血が流れ落ちており、傷が塞がっている様子は無かった。


「……逃げる気なら、最初から来るなよ……あの鶏野郎め」


ガークは悪態を吐きながらも、次第に獣人化を解いていく。

直立耳が頭頂から位置を下げ、縁を丸く描き、長い口吻は徐々に沈みながら人の顔を形成した。

黒い被毛も人肌へと素早く変化する。フェリスの腕の中で人の姿に回帰したガークは、身体を屈ませて骨折の痛みに呻いた。


「ぐ……」


「ガーク、動いたら駄目よっ」


折れた骨が内臓を傷付けたのか、ガークの口の端から血が流れ落ちていく。ガークからの出血により、地面には赤黒い血溜まりが生々しく生じた。

まずは止血をしなければ、と、フェリスはガークの体重を支えて、自らの姿勢を少しずつ下げていく。

フェリスが焦燥感と共にガークの体勢を安定させようとしていると、唐突に彼が掠れた笑い声を漏らした。


「はは……やっぱりお前はその顔の方が美人だよ。獣じゃない、人間の顔がな」


「! 顔……」


ガークの藪から棒な言葉に、フェリスは慌てて自分の頬に手をやってみる。

掌に触れた頬の感触は、人肌の柔らかいものだった。……どうやら獣人化は解けているらしい、掌に熱が広がっていく。

あの時、ほんの僅かでも気を抜いていたら、今の自分はいなかったのかもしれない。獣に呑まれて、息をしていたガークにまで爪牙を向けていた可能性も充分にあっただろう。


そうならなかったのは、ガークのお陰である。フェリスは目をそっと閉じると、複雑な表情のまま俯いた。


「ごめん、ガーク。私は……また……」


「ま、強いて言うなら、そうやってしおらしい顔ばっかりしておけば、もっと良いんだけどな」


ガークはフェリスの重い言葉を気だるげに払いのけて、苦笑を浮かべた。

予想外に陽気な声で話してきたガークに、心配していたフェリスは悔しそうに歯噛みし、頬を染める。


「もうっ、今は話さなくて良いわ。とにかく手当てを……」


「フェリス」


ガークの身体の止血をしていたフェリスは、低い声で名前を呼ばれて顔を上げた。

ガークは夜空に浮かぶ月を遠い目で見詰めながら、小さな溜息を漏らす。


「……もっと自分を大事にしろよ。俺達にとっちゃあ、大切な仲間なんだ。……お前がいなくなっちまったら、誰を相手に喧嘩をすれば良いんだよ……」


「ガーク?」


徐々にその声は小さくなっていき、最後の言葉は途切れるようにして消えてしまった。思わずフェリスが聞き返してみたが、ガークからの返答は無かった。

ガークはその言葉を最後に、そっと目を閉じていた。その様子を目の当たりにしたフェリスが、息を呑んで彼の喉元に指を当てる。……どうも眠ったらしい、脈はあった。


「……お互い様ね。こんな傷だらけで」


フェリスは溜息を吐くと、続いて安堵したように頬を緩める。

雨上がりの透き通った空気。涙の流れた跡が、妙に冷たく感じられた。だが、不思議と嫌な感触ではない。

そっと自分の手を見やり、フェリスは静かに目を閉じる。その手は、見た目も、握り締めた感覚も、全て人間の物と変わりなかった。


その嬉しさが、安堵感と重なってじわじわと込み上げてくる。心に残る理性や記憶まで、自分はこの戦いで放棄しようとしてしまったのだ。

挙句には、ガークが交わしてくれた大切な約束を破ろうと……フェリスは両手を握り締めると、ゆっくりと瞼を開いた。


――ふと、フェリスは月を見詰めるようにして空を仰ぐ。


凛とした冷たい空気は、夜特有の静謐さを物語っている。その漣さえ立たない湖面のような雰囲気は、先程とはまるで違っていた。


「……波動の乱れが……戻っている?」






――――――――






「! むっ」


敵である牛獣人の頭部を鷲掴みにしたまま、レオフォンは病院の窓を睨んだ。

レオフォンの足元には、彼の爪牙で打ち倒された獣人達が、呻きながら横たわっている。この廃病院で激戦の火蓋が切って落とされた時から、丁度半刻程の時間が経過していた。

倒れた敵兵達は、いずれも戦意を喪失しており、再び立ち上がって襲ってくる様子は無い。彼らのものであろう、夥しい血の跡が院内の廊下や壁に散っていた。


激戦も終結に向かう中で、血の臭いで満ちていた空気が、割れた窓から流れてくる風によって払拭されていく。

レオフォンは蛇行していた空気の乱れが、一斉に落ち着くのを肌で感じた。


「波動の乱れが整っていく……? これなら……」


レオフォンは荒い息を吐きながら呻く牛獣人から手を離してやると、おもむろに背後を振り向いた。

そこには足の腱を切られて倒れ込む少女……ペルセの姿があった。血溜まりに沈む白衣の少女は、苦しげに目を閉じている。

上位種には劣るだろうが、彼女も優れた獣人個体だ。足の傷は重傷であるが、体力面から見ても命に別状は無いだろう。


唯、今は立ち上がる余力の無い少女。此処で留めを刺さなければ、再び戦う羽目になるということは、ある程度予想が付く。

だが、レオフォンはあえてペルセの身体から顔を背けた。


「……命を奪うつもりは無い。出来れば追ってくれるな」


言下、レオフォンは大きな音と共に翼を広げると、力強く床を蹴り上げて、病院の窓を突き破る。

院内に残っていた敵兵達が追う術も無く見詰める中、レオフォンは月光の照らす夜空へと飛び立っていった。




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