「……ッ、ぐく」
遙は脇腹の傷を庇いながら、ずるずるとコンテナの山を押していた。身体に力が入ることで傷口が開き、出血が再び始まる。
それでも遙はコンテナを動かすことを止めなかった。すでに外から雨音は聞こえない。薄らと、割れた窓から月光が差し込んでくる。
しかし、湿気の強い空気は相変わらずで、コンテナを押す際に足元が滑る。
(あと少し……)
遙はリフトの手前まで複数のコンテナを押したところで、途端にその場に尻餅を突いた。足元が滑りやすい材質で出来ているらしく、上手く力が入らない。
だが、それだけではないだろう。僅かな動きで息が切れる。傷も完全に止血されていなかった。……体力が底を尽き掛けている証拠だ。
それでも……と、遙は頬についた血汚れをぐっと拭う。コンテナを見詰める視界が、酷く霞んでいた。
遙は歯を食い縛り、必死になって自分の身体を叱咤する。
「くそ……此処で倒れたら駄目だ……まだ……」
遙が自分を勇気付けるように独白する。
だが、身体が持ち上がらない。手足の痺れがどんどん酷くなってくる。遙は舌打ちした。
夏だというのに全身を襲う寒気。身体中に鳥肌が立ち、残り少ない体力も削り取られていく。
――その時だった。遙の弱り切った身体に、突き抜けるような戦慄が走る。遙は目を見開いた。
正確に言えば、身体が波動の流れを捉えたのだ。こちらに向かってくる、獣の波動を……
(この波動は……まさか)
遙は出来る限り意識を集中させる。凍りつくように冷たい殺気。身体に纏わりつくような、禍々しく歪んだ波動の流れ。
……間違いない、これは敵の……チャドの波動だ。先ほどの戦いで感じていた彼の波動の型に、遙は身震いする。
この場所にいることはすでに分かっている筈だ。チャドの能力を見る限り、波動や匂いを感じ取れない訳がないだろう。
(……落ち着け……出来るだけ息を潜めるんだ……)
遙はコンテナを押すのを止め、身体を縮める。相手から見付からないように、物陰に隠れながら。
息を潜め、目をそっと閉じる。心臓の鼓動のみが、いやに鼓膜を揺らす中、冷汗が幾筋も額から伝ってきた。
口元を腕で塞ぎ、出来るだけ物音を立てないように。それは巨大な四足獣に怯える小動物、というよりも、獲物が来るのを待つ大型肉食獣に近い感覚だった。
極限状態に陥っていても、戦う姿勢を崩さない、いや、崩せないのは、自分に植えつけられた獣の本能なのかもしれない。
どんどん距離の狭まってくる波動を感じて、遙は唾を飲み込んだ。
――その時、ずしゃっ、と、外から水溜りと瓦礫を同時に踏み拉く足音がした。
「……いるのは分かっているぜ? ハルカ」
チャドの舐めるような声。遙は肩の震えを止め、ぐっと両腕を抱く。
相変わらず皮膚を貫くような殺気を放つチャド。だが、こちらとて今更逃げる気など毛頭も無い。
知らず知らずの内に遙は牙を剥きだしていた。今だ両者ともお互いの姿を確認してはいないものの、張り詰めるような闘気だけは感じている。
「逃げ惑うのはお前も性に合わないだろ? 俺に限界まで猛り狂ったキメラの力を見せ付けてくれよ」
チャドの足音が廃工場の中心辺りにやってきた所で、遙はそっと眼を開いた。瞼が持ち上げられた時、鮮血のように赤い瞳が闇の中に浮かび上がる。
そして、丁度足元にあった錆付いたボルトを手に取ると、物音を立てないようにして身体を捻り、リフトの昇降路に向けてそれを投げ捨てた。
キンッ、という金属同士が衝突し合う、乾いた音が響き渡った。
その音は静寂を保っていた廃工場全体に、突如として反響する。当然、チャドは耳をくるりと動かし、音のした方向へと脚を向ける。
「ん? そこにいるみたいだな。……ククク、生殺しにはしたくないんでね、早いとこ引き摺り出してやろうじゃないか」
チャドは足元に散った無数の瓦礫をもろともせずに、悠々と音のした方向へと進んでいく。
……獣は窮地に立たされたとき、恐ろしい程の力を発揮するものだ。その本能を受け継いだ獣人も変わらない。
遙もまた、死を目前にした時、その力を真に覚醒するだろう。チャドはニヤリと不吉な笑みを浮かべた。
チャドは金網の足場が張った、鉄筋に囲まれた場所まで来て立ち止まった。
先ほどの音の原因か、ボルトがコロコロと弧を描きながら転がっている。チャドは頭上を見上げた。
その視線の先には、二階らしき段差があった。しかし、月光の光が嫌に強く、それが逆光となって様子が上手く分からない。
だが、遙がいるのは確かなようだ。波動と血の匂いが同時にチャドの五感へ流れ込んでくる。
「何だ、上にいるのか?」
チャドがそう呟いた瞬間だった。――遙の怒声に近い声が響いたのは。
遙は獣の近い咆哮を上げると同時に、先ほど押していたコンテナの山に向けて、余力を振り絞り突進した。
ずっ……、と、砂利と擦れるような音がしたと思うと、けたたましい音を立ててリフト上にコンテナ群が伸し掛かる。
コンテナに乗せられているのは無数の金属片だ。その総重量は相当なものだろう。
当然、引き千切れかけたワイヤーロープはその重量に耐え切れず、崩壊寸前のストランドがブツブツと切れ始めた。
チャドが頭上を仰いだその途端、バツンッ!! という激しい音と共に、コンテナを乗せたリフトの籠部分が落下する。
「な、なぁッ!! ……グァッ!!」
チャドは予想外の出来事に声を上げたが、全身に走った強烈な衝撃と共にその声は悲鳴に変わる。
肉を押し潰すような嫌な音と共に、ズズゥウン……という鈍い音が続いて響き渡った。
遙は引き千切れたワイヤーロープが飛んできて、ざっくりと頬を切られたが、すぐに立ち上がって下を見る。
チャドのものらしき、巨大な翼手が籠の下からはみ出ていた。どうやら籠とコンテナの下敷きになったらしく、その光景を見た遙は大きく息を吐いた。
身体の傷を確かめ終えると、遙は滑る階段を手摺を掴みつつゆっくりと降り、チャドの潰されたリフトの前まで移動する。
コンテナに乗せられていた金属部品は辺りに四散し、プラスチック製のコンテナの一部は落下の衝撃で砕け散っていた。
どれ程衝撃が凄まじかったかを物語るようにして変形した金属部品やコンテナ群。当然、その下敷きになったチャドにもその衝撃は伝わった筈だ。
彼の身体は動いていない上に、遙の足元にまで薄い血が流れてきていた。……死んだのだろうか? そう感じた途端、遙は顔を酷く歪めた。
敵であり、自分を連れ去った張本人でもあり……恨みが絶えない相手ではあったが、何故かその姿を見て歓喜の笑みを浮かべるようなことは出来なかった。
(この人だって……人間だったんだ……)
遙は酷く疲れたように溜息を漏らし、目の前でそっと両手を合わせて目を閉じた。
これ以上此処に長居は出来ない。身体の傷も回復していない今、新手が来たら対応出来ないだろう。
一刻も早く、仲間達の場所へ戻らなければ……そう思って、遙はすぐに踵を返した。
――しかし
「がっ!」
急に背中から何かに身体を掴まれた。
ガシッ、と、遙を背後から鷲掴みにする巨手。その握力はぎりぎりと強められ、遙は思わず息を詰まらせた。
「ぐぁ……あぁ!!」
強烈な握力に、遙の肋骨が悲鳴を上げた。遙は苦痛に顔を歪めながら、おそるおそる背後を振り返る。
血に濡れた手が、遙を背中から掴んでいた。……その手はリフトの下から伸びており、遙は戦慄する。
「くだらねぇ小細工だなハルカ……」
リフトの籠がぐらりと持ち上がったと思うと、獣の怒声と共に、チャドが跳ね起きた。コンテナに乗っていた金属部品が四散する音が虚しく響き渡る。
チャドの獣毛に覆われた体は、下敷きになった衝撃で打撲による出血を至る所から引き起こしている。
その出血量は夥しいものがあるだろう。遙の鼻腔にも、強烈な血臭が刺すように流れ込んできた。
だが、その出血でありながらも、チャドが倒れる気配は無かった。彼は額から流れ出る血液を舌で舐め取ると、遙の驚愕した顔をギラリと睨み付ける。
「……獣の戦いに、ニンゲンのくだらない理性を介入させる必要は無ぇだろ? 血に飢えて狂い、敵味方の見境も無く暴れてみせろよ。
最も、お前にそんな機会はもう与えるつもりはねぇ。せめてもの、俺の怒りを止めてみせろよハルカァ!!」
チャドの獣声が上がった途端、遙の全身が地面に叩き付けられる。
受身も取れず、遙は全身を激しく打った。唯でさえ余力の残っていない状態であったのにも関わらず、更に体力を絞り取られる。
もちろん、叩き付けるだけでチャドの攻撃が収まる筈も無かった。すぐにチャドは遙の頭を足で押し潰す。
「う……ッ」
「ククク、死に際に良い眺めを見せてやるよ。ハルカ」
言下、チャドは遙の頭を足で鷲掴みにした。頭部にかかる強烈な圧力に、遙はもがく。
だが、遙がチャドの脚を掴み返す前に、彼は翼を広げて一気に飛び立った。そして、そのまま廃工場の天井に空いた穴を潜り、夜空へと飛び出す。
急劇に全身にかかる気圧の変化に、遙は耳鳴りを覚えた。
そして、身体中に冷たい風が吹き付けたと思うと、遙は慌てて目を開く。……すでに眼前には夜空が広がっていた。
青白い月が、遙の頬を濡らす。チャドの両足が、遙の頭に続いて胴を強く掴み、身動きが全く取れなくなった。
「ぐ、ぐあぁッ!」
突如として、鋭い爪が腹部に食い込み、遙は苦痛の声を上げた。まるで紙に爪を通すような容易さで遙の腹が貫かれる。
中空に血飛沫が散り、遙の苦しむ様子を見下ろすチャドは残酷な笑みを貼り付けた。
「空を飛ぶのは初めてか、ハルカ? 最も『落ちる』のは二度目の感覚だろ?」
チャドの言葉に遙はハッとして下を見た。
崩壊したビル街に加え、先ほどの廃工場もすでに見えないほどの高さにまで飛んでいる。
冷たい夜風が残酷な現実を突きつけるかのように全身を薙ぎ、遙は血の気が引くのを感じた。
見るだけで眩暈のするような高さだ。同時に遙の全身に鳥肌が立った。
(まさか……)
遙は息を呑んだ。チャドの残虐な仕打ちを予測して、遙の背筋が凍る。
だが、チャドはいかにも楽しげに、遙の怯える様子を堪能していた。それを裏付けるように小さく笑い声を上げる。
「痛みは一瞬だろ? これ以上、生殺しにされるようなマネは嫌だろうからなァ。
ククク……GPCの奴らが、お前に飛べる遺伝子を与えなかったことを存分に恨んで逝け!」
言下、チャドは遙を振り落とした。
遙は一瞬何が起きたか分からなかったが、前身に吹き付ける猛烈な風が、嫌な音を耳元で騒がせる。
下にあるのは倒壊したビル街。それに達するまでに受けのようなものは存在しない。当然、この高さから落下して無事な筈がない!
見下ろす地面が遠い……いや、近付いて来ている。徐々に徐々に……死が、近付いている……!
(嘘だよ……)
遙は目尻に涙を浮かべた。涙は中空に浮かび、月光に反射して消えていく。
まだ何もしていない。友達との約束だって果たしていない……まだ全てが始まったばかりだというのに……!
それなのに、もう死ななければいけないのだろうか? 今度こそ、全てが終わる……終わってしまうなんて!
「いや……いやぁああぁぁぁぁ!!」
遙は死の恐怖に絶叫し、その眼を硬く閉じた。
――――――――
雨雲が晴れる……明けた空は真っ暗だ。
唯、薄らいだ月光が頬を照り付け、夜風が全身を薙いでいく。涙が伝った跡に、冷たい冷気が張り付いた。
雨の止んだ今、周囲に漂う血の臭いがいやに強く感じられる。累々と散った死体の山と……ガークの、仲間の倒れた姿。
その悲惨な光景の全てに目をやり、フェリスは崩れ落ちたガークの背から、そっと手を離した。
そして、涙で濡れた眼を一度だけ閉じると、再びゆっくりと眼を開く。
「……困ったものね」
淡々とした口調で、フェリスは呟いた。いつもよりも遥かにトーンダウンしたその口調には、紛れもない殺気が込められている。
だが、彼女の目の前に傲然と立ちはだかるヴィクトルは、その殺気を鼻で笑った。
「ふん、仲間の死を紛らわしたいのか? 何も困ることは無いだろう、すぐにお前も後を追わせてやる」
「そのあなたの傲慢さが困るって言っているのよ」
フェリスは震える声音で呟きながら、顔を上げた。その碧眼が見る見る内に憎悪の色に燃え上がる。
並の者が見れば、一瞬で魂を引き抜かれそうなほどに研ぎ澄まされた眼だった。まるで相手を一撃で殺すことだけに研がれた刃のように、その眼は月光に反射する。
悠然と佇むヴィクトルの姿を睨みつけながら、フェリスは尚も続けた。
「自分の精神に歯止めがかからなくなる。半分獣だからか分からないけど……怒りを抑えられなくなることがあるのよ」
「くく、私に対する憎しみか。良いことだ。本能に歯止めがかからないことは、獣人として完成した証のようなものだからな」
フェリスの言葉を聞いたヴィクトルは両手を広げた。
逆光を受けて不気味なシルエットを浮かび上がらせる中、彼の橙赤色の瞳がギラリと燃え上がる。
「折角与えてやった力だ。獣人は人間よりも優れた生命だよ。武器を持たぬ人間は自らを護るために文化を生み出した。
だが、文化の介入しない獣の世に入り込めば、それこそ脆弱な生き物だ。何一つ抵抗する術など持っていないのだからな」
フェリスは荒い息を吐きながら、黙ってヴィクトルの言葉に耳を傾けていた。
「だが獣人は違うだろう? 人間の文化という盾を持ち、獣の爪牙という矛を手にした存在。
獣人は人間などとは違う。お前も一度ぐらいはそう考えたことがある筈だ。私と同じ、力を持った者なのだからな……」
「……そうね、獣人は確かに人間とは違う。人間と比べると、明らかにね」
フェリスはそっとその場から立ち上がった。血に塗れた顔に、嘲笑にも似た笑みが張り付く。
「獣人は人間より明らかに劣る存在よ。……私達が戦う理由ぐらい、察して欲しいわ」
フェリスはそう言うと、ゆっくりと獣腕を構えた。彼女の答えに、ヴィクトルは僅かに驚いたように眼を見開く。
「どうして今の自分よりも低劣な存在に戻ろうだなんて考えるかしら? 私達の目的は『元の人間に戻りたい』……唯それだけよ。
貴方の言う、獣人なんて存在は、しょせん人間の欲望から造り出された異形の生命体。造物主である人間を、越えることなんて有り得ない」
「愚かな、獣人よりも人間の方が優れていると考えるのか?」
「ええ、少なくとも……心は圧倒的に優れているものよッ!」
言下、フェリスはヴィクトルの胸に向けて、強烈な突きを繰り出した。
ヴィクトルは間一髪で避けたが、その白い胸毛が何本か引き千切れる。彼は眼を細めた。
「その人間の姿を留めて戦おうとするのも、それが理由か? 舐められたものだ」
初撃を避けられつつも、すぐに体勢を整えたフェリスは、再度ヴィクトルに肉迫した。
夜風が意識をこの上無く冴えさせる。だが、憤怒の炎を打ち消すには温過ぎる。フェリスは薄らと笑みを浮かべた。
「それもあるけど、もっと大きい理由があるのよ」
フェリスの二度目の攻撃を掌で受け止めたヴィクトルは、彼女の眼を凝視する。
彼女の『内』から、激しい脈拍を感じた。並みの獣人よりも、遥かに優れた波動の強さも、獣のそれを越える戦闘本能も湧き出している。
なるほど、と、ヴィクトルは鼻を鳴らした。こちらほどではないが、獣人の中では圧倒的に強力な個体だ。……だが、それと同時に欠陥が無い訳でもないが。
「……さっきの台詞といい、その上位種獣人特有の波動の流れといい……貴様は獣人化時に『暴走』を引き起こすタイプか。
クク、お前が承諾するならば、再び研究機関に連れ帰ってやっても良いぞ? 今度は私の手でより強力な個体にしてやろうじゃないか」
「本当に私の製作者に文句を言いたいわ。その言葉を聞く限り、あなたじゃないみたいだけど。まぁ、もう一回あなた達の元でモルモットになれっていうのなら断るわ。
次は、何をされるか分かったものじゃないから。この周りに倒れている人達みたいに、傀儡にされたくはないしね」
二人は組み合った形で止まり、フェリスはヴィクトルの圧力を受けながらも、冷厳な笑みを消さなかった。
力を弱めた方が、瞬時に身体を砕かれる。両者から噴出した殺気がそれを物語っていた。フェリスは腱が引き千切れそうになりながらも再び口を開く。
「この暴走体質のせいで、少し前に嫌なことがあってから、ずっと戦いで完全な獣人化するのを避けていた」
フェリスはまるで独り言を呟くかのように言った。
ヴィクトルは無言でフェリスの話を聞いていた。その無言を保つ姿勢も、決して余裕が無いという訳ではないだろう。
むしろ、その気になればこちらの身体を押し潰すことも出来るかもしれない。あえてそれをしないのは、こちらの力を伺っているのだろうか。
こちらの本気を見て、それが自分にとって有益な能力値であれば、生け捕りにして連れ帰るつもりか……舐められたものだと、フェリスは唇を噛んだ。
「……ガークが倒れた時点で悟ったわ。……力を出し惜しみしていても、こんな結果を招くぐらいなら……」
フェリスは牙を剥き出す。それこそ、静観を保っていたヴィクトルが、戦慄するほどに彼女から畏怖を覚えた。
「いっそのこと、全力で敵を薙ぎ倒した方が良いってね。見せてあげるわよ、貴方達が生み出した獣人の醜さを!!」
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