『はぁっ……はぁ……。……うぅ……ぐ……ぁあ……!』
全身に走る鈍痛が、無意識の内に呻き声を上げさせた。感じた事のないような痛みが身を苛む。
四肢が痺れる様な感覚、きつく閉じた瞼を外部から照らす強い照明。薬品特有の、鼻腔を刺激する様な匂い。
息を荒らげて、どうにか楽な姿勢を取ろうとするが、何やら幅の広いベルトのようなもので体を縛り付けられているらしく、身動きがとれない。
『くっ……』
痛みのあまりに言う事を聞かない肉体に鞭を打ちながら、薄らと瞼を開いた。
真っ先に飛び込んできたものは、テレビで見るような手術室を想起させる、自分の肢体を照らす無影灯の強い光。
そして、無数の透明な細い管の様なもの。それはまるで、植物の蔓の様に複雑に伸び、自分の肉体に繋がっている。
点滴の様なものなのか……針が刺さっているらしく、その管が繋がれている患部が激しく痛み、思わず喉声を漏らさずにはいられない状態だった。
手首と足首にも冷たい鉄製の拘束具が取り付けられ、痛みを受け入れる他ない……それはまさに拷問だった。止め処なく襲い掛かる激痛、そしてそれから逃れられない苦痛。
自分が置かれている状況が上手く掴めず、仕切りに痛みから逃れようと身を捩るが、全くと言っていい程言う事を聞かない体に、苛立ちが募った。
そうやって幾度となく呻き声を上げ、荒い呼吸を続けている所に、舐める様な声が鼓膜を掠める。
『おや……痛みが戻って来たのか? ……思っていたより麻酔が切れるのが早かったようだ。
眠っていた方が、余程楽だろうにな。だが、どうせこの手術から逃れる事は出来ない。くく、それだけ拘束されていれば首を動かすのが関の山だろう?』
揶揄する様な、わざとらしく憂いを帯びた男の低い声。皮肉とも取れるその言葉に、半ば激昂しかけたが、悔しくも動けない。
徐々に広がりつつある視界は真っ白で、自分はどうやら寝台の様なものに寝かされ、縛り付けられている事が分かった。唯一僅かに動く首を必死に動かして、もっと状況を掴もうとする。
光に目が慣れ始めると、周りに自分を取り囲む様に佇む白い防護服を纏った、研究員らしき者達がいるのが見えてきた。
重苦しい防護マスクとゴーグルで顔を覆い、白く輝く分厚い衣服を纏った姿は、まるで何か重大な病気の感染者を相手しているような、異様な空気を感じさせる。
その見慣れぬ光景と痛みに、自分はうろたえたが、光の洪水が降り注ぐ無影灯に阻まれて、視界が上手く利かない。
聴覚だけが頼りの中、幾つもの声が飛び交うのを感じた。
『複数の獣遺伝子と、ベース体の拒絶反応が殆どありません。高い順応性があるようです。此れ程の個体は稀有な存在かと・・・』
『キメラ獣人初の完成体はおろか、上位種と期待しても構わないのでは? 今迄に無い、戦闘能力を惜しみ無く発揮出来る存在になるかもしれない』
『確かに、それも期待出来るかもしれん。だが、このまま順調に行くかが分からんぞ。他のキメラの試験体に比べて、いかに優れた個体と言えど、まだ獣人としての完成度は三十%程度と言った所だ。
これから完成するまでに、拒絶反応が起きないとも言い切れないだろう?』
研究員らしき者達は、こちらの苦悶する様子には一切関心が無いように、口々に訳が分からない事を言う。
……その時、微かな笑い声がしたかと思うと、研究員達は急に談笑を止めた。
『最も、その心配も否めないがな。しかし、こうもなれば、完成までの時間が惜しい程だ……。少し、急がせて貰おう』
最初に話し掛けてきた人物が、言い終わると同時に、眼前へと手を伸ばしてきた。
無影灯が僅かに遮られ、その闇は徐々に視界全体を覆う。
暗雲が覆い被さり、視界が埋められた。急な出来事に対応し切れず、思わず恐怖を感じてを目を閉じる。
『では、また暫く眠っていて貰おうか。キメラ試験体……「ハルカ」』
その声を聞き終えた途端、突如として首筋に走った激痛。
何が起こったか分からぬ恐怖に、本能的に喉も潰れよと言わんばかりの絶叫を上げた――
「――いやぁぁっ!!」
シーツを跳ね除け、遙は悲鳴と共に目を覚ました。
荒い呼吸の中、歯の根が合わぬ程の恐怖に駆られ、暫く思考が働かなかった。
ひとしきり昨晩までの状況を反芻すると、両手で頭を支える様にして、俯く。額や背にはびっしりと冷や汗が浮かび、四肢が震えた。
何とか落ち着こうとして、部屋の中を見回すと、パッと見る限りそこは昨晩と同じ場所であった。
簡素な部屋。板張りの天井と床。清潔なシーツの張られた寝台の上に、自分は寝ていた。
窓は固く閉められており、古ぼけた書架が部屋の隅に並べてある。……自分以外に、人の気配はなかった。
「はぁ、はぁ……夢? ……夢……だったの?」
自分に言い聞かせる様に、掠れた声音でうわ言の如く呟く。
やがて、思い付いた様に、両手をそっと頭から離し、そろそろと自分の繊手を摩ってみた。
「あっ……!」
遙は思わず息を呑んだ。
腕には無数の点滴を打った様な、痛々しい痕が見て取れたのだ。
昨日までは無かった筈……思い出したことで、傷が浮き上がってきたのだろうか?
それも、腕だけではない。腹部や両足にさえ、幾つもの同じ様な傷痕が残っている。更に、窓に映る狼狽した顔にまで、数箇所の赤黒い痕が浮き出ていた。
恐怖による動揺か……それらの傷痕が音も無く、脈に合わせるようにして疼き始める。
(稀有な存在……キメラ獣人……初の完成体)
夢の中の言葉が、怨嗟の様に耳の奥へと響き渡る……。
自分の記憶だろうか? ……はっきりと分からないが、この傷痕を見れば、GPCとやらの実験所にいた頃の記憶だと思っても、間違いではないかも知れない。
「……痛い……」
肩を落として、両腕を抱く様に屈むと、遙は唇を噛んだ。
――――――――
「Oi ! ガーク、随分と不機嫌そうじゃない」
「うお!! いきなり天井裏から出てくるなよ……!」
昨日の出来事を反芻しつつ、廊下を渋面で歩いていたガークは、突如として頭上から降りてきたフェリスを見て足を止める。
この家……廃墟でも唯一全壊を免れた住居は、廊下の上に梁が設置されているため、フェリスがそこから降りてくることは日常茶飯事であった。
だが、問題は彼女の気配の忍ばせ方であって……気配を消して頭上から降りてこられると、流石のガークも参ってしまう。正直本物のネコよりも性質が悪い。
「ったく、朝から元気な挨拶が聞けるのだけは良いが、俺の心臓を本気で止める気かてめぇってヤツは! ……おぉ?」
ガークが怒声を放っていると、ほのかに、旨そうな食べ物の香りが漂ってた。
ガークが鼻をひくつかせると、フェリスが察したようにして、両手で背後に回していたトレイを差し出す。
アルミ製のトレイの上には、主食らしいトーストを始めとした、色取り取りのサラダとフルーツ、湯気の立つスープやコーヒーが乗せてあった。
ガークはその芳しい香りを放つ朝食を見て、思わず喉を鳴らすと、一気に不機嫌が解消されたようにニヤリと笑った。
「なんだ、俺にわざわざメシを持ってきてくれたのかよ。意外と気が利くじゃねーか」
「ま、ガークなら、その辺に落ちてる木片でも齧っていれば生きていけそうだけどね。有り難く受け取りなさい」
「んだとコラ!! ったく、無駄な一言を言うからお前って奴は……?」
ガークは再び怒りの炎を燃やすと、荒々しくフェリスからトレイを奪い取った。
その手に取ったトレイから重量を感じて、ふと、彼は朝食の乗ったトレイに視線を落とす。
一人分にしては、全てにおいて量が多い。何と言ってもフォークとナイフの数が一人分増えているのだが。
……ガークはジト目になって、悠然と佇むフェリスを見返した。
「こりゃ、あのガキの分も混ぜてんのか?」
「それはそうよ、あの子、昨日から何も口にしていないんだから。私はちょっと別の用事があるから、ガークが持っていってあげて」
フェリスは微笑を浮かべて、ガークの持つトレイの縁を押した。
「なんだよ、面倒事を押し付ける気か? 子供の扱いはお前の方が上手いだろ、俺も用事があるっての」
「私から見たら、両方とも子供よ。それに、ガークの方がきっと上手く話せるわ。用事なんて、どうせガラクタみたいな宝物を地面に埋める程度のことでしょ?」
「俺はんなイヌみたいなことはしねぇッ!! とにかく――」
ガークが言い終わる前に、フェリスはあっさりと踵を返していた。
少し彼との距離が開いた所で、フェリスは立ち止まり、振り返り様に手を振った。
「私は遙に服を持ってきてあげないといけないのよ。あんな血の染み込んだのを着せてたら可哀想でしょ? ……ということで、Ate mais tarde」
フェリスは最後に母国語で告げると、ガークにウインクを飛ばした。そして、あっという間に廊下から姿を消す。
一人残されたガークは、少しずつ冷めてきた朝食に眼を落として、小さく唸った。
「ったく、歳は五つしか変わらないだろうによ。ま、頼まれたからには、行ってやらないとな」
遙を寝かせていた筈の部屋の前に立ち、ガークは眉を顰めながらも軽くノックした。
「遙ー、起きているか? 朝飯だ朝飯」
……案の定返事は無かった。まだ眠っているのかもしれない。少なくとも匂いはあるため、部屋にいることだけは確かだろう。
仕方なく、ガークはドアを開けた。鍵はかかっておらず、すんなり部屋の中へと入ることが出来た。
ガークの視線の先、遙は寝台の上で三角座りをしていた。
俯いているお陰で、顔は見えなかったが、肩が震えている。……泣いているのだろうか?
窓も閉め切られたままで、部屋には昨晩の血の匂いも僅かに漂っている。静まりかえった室内に、小さな嗚咽だけが響いていた。
ガークは頭をガシガシと掻くと、遙の寝台の横に置かれた整理棚の上に朝食を置き、疲れた様子で椅子に腰を下ろす。
だが、ガークが隣に座っても、遙は顔を上げなかった。
「……少しは落ち着いたか?」
頬杖を突きつつガークが聞くと、遙はほんの少しばかり顔を上げる。
その目は赤く腫れ、涙が滲んだ跡がはっきりと残っていた。かなり長い時間泣いていたのだろう。
ガークは遙の嗚咽する様子を見ながら、整理棚に置いていた朝食を指で勧めた。
「取り合えず、メシ食わないと死んじまうぞ。GPCの研究所にいた記憶が無いのかもしれないが、あっちじゃ経口で飯を与えるなんてことはしてくれなかったんだから」
「……良いです、食欲ありませんから……」
消え入りそうな声音で遙は言うと、再び顔を腕の中へ埋めた。
遙の身体つきはガークから見ても酷く痩せている。肌も青白く、体調が優れていないというのは確かだった。
獣人にされる手術のせいで体力が削られたこともあるだろうが、それ以上に精神的なダメージが大きいのかもしれない。
その精神的な痛みで、空腹さえもが忘れ去られているのか……コーヒーを口に運んでいたガークはつまらなそうに目を細める。
「遙。一つお前に言っておくことがあるが」
ガークの言葉に、遙は疲れきった様子で彼を見た。
ガークはひと思いにコーヒーを飲み干すと、遙に指を差して告げる。
「俺に敬語は使うな。もっと気さくに話し掛けろよ。名前だって呼び捨てで構わないから」
「ガークさ……じゃなくて、ガーク?」
遙がおずおずと尋ねてみると、ガークは少し笑って、コーヒーカップを差し出した。
「そうだよ、そんな感じ。ほら、とにかく何か口に入れろ。飲み物だけでもいいから、そんなんじゃ目の下のクマも消えねぇぜ」
遙はガークに勧められるままコップを受け取ると、口に当てた。
コーヒーの香ばしい香りが、鼻腔を擽る。悴んでいた手に、じわじわと熱が広がっていった。
(……温かい……)
遙は僅かに目を細めた。
落ち着いた香りは、遙の精神を少しずつ解し始める。久し振りにこんなに温かいものに触れた気がした。
ガークの言っていた通り、食事をまともに摂っていなかったのだろうか。口内に広がったコーヒーの風味は、とても懐かしく思えた。
遙は一口コーヒーを啜ると、目を何度か瞬いて、ガークに顔を向けた。
「……あの、ガークさん?」
「言ったそばからさん付けすんなよ、全く。どうした?」
「あ、ああ、ごめんなさい。ええと、ガーク。此処は何処なの?」
遙は慌てて訂正をしながら、窓の外へと目をやった。
廃墟と化した住宅街に、崩れた道路と歩道が走っている。乗用車のようなものも、乗り捨てられたようにして砂に身体を預けていた。
廃屋の間から見える景色は荒廃しきった大地。赤茶けた砂が風に吹かれ、まだ微かに面影を残した街並みに流れ込んでいく。
廃屋や廃ビルといった建物群は、まるで焼かれたように煤が残っていた。火薬のようなもので意図的に壊したかのような崩れ方である。
……それこそ、何か紛争の舞台にでもなったような光景。自分が住んでいた土地とは、まるで別世界だった。
遙の問いに対して、ガークは焼き立てのトーストに齧り付きながら話し始める。
「ああ、此処は『絶対不可侵区域』だ。お前も、名前ぐらい聞いたことがあるだろ?」
「絶対不可侵区域!? それって、数年前に黎峯の政府から閉鎖された土地のこと? まさか、どうして私がこんなところに」
絶対不可侵区域、という名は数年前から話題になり始めた土地だった。
場所としては、自分の住んでいる地区から六〇〇キロメートル近く離れた場所にあるそうだが、その絶対不可侵区域の周辺数百キロもまた、一般人が出入りすることは禁じられている。
絶対不可侵区域は上空の飛行さえ禁止されているため、内部の土地がどうなっているのかというのは諸説が飛び交っていた。
政府が街一つを封鎖し、居住していた住民達の避難後は、区域全体を銃火器の威力試験場として利用した、という話も出ているぐらいだ。
そもそも、この絶対不可侵区域が出来た理由ははっきりとはしておらず、有力な説が高レベルの原子力発電所事故というものだった。
だが、原子力事故と言いながらも、付近で放射性降下物が確認されることも無く、現に居住していた住民達の話とやらによるとそんな事故は無かったという噂さえある。
挙句の果てに情報は低迷し、区域内は心霊スポットだとか、宇宙人が住んでいるだとか、それこそ突拍子も無い情報までが溢れている始末だった。
遙自身、その土地を見たことは当然無いために憶測しか出来ない。……いずれにしても、情報は公表されていないので事実は分からないのだが。
遙が信じられないという顔つきでガークを見返すと、彼はフォークを回しながら続ける。
「政府が閉鎖したって言っているかもしれねぇが、此処はある生物災害が原因で閉鎖されたそうだ。それの原因が、GPCじゃないかって話が出ている。
お前が此処に居るのは、GPCの研究所の一部も、この土地にあるということに関係しているんだろうよ」
ガークの言葉に遙は顔を挙げた。
「GPCの研究所がある? こんなところに!?」
彼の言葉に、遙は驚きを隠せなかった。
とある生物災害による封鎖。そして、原因はGPC。……明らかに政府の言っていることとは異なる。一体どうなっているのだろうか。
絶対不可侵区域の真相は分からないが、宇宙人=獣人と仮定すれば、適当な噂も本当のことにはなるが、いずれにしても、GPCが関与しているというのは初耳であった。
ガークは遙の驚愕した顔を楽しむようにして笑うと、話を続ける。
「まぁ、厳密には此処にあったといった方がいいだろうけどよ。都合が良いだろ? 誰も侵入してこない、それに、被験者が逃げ出しても、人っ子一人いない土地なんだ。
馬鹿みたいに広いしな。だが、此処の研究所は、俺らが脱走してからというもの、情報隠滅のためにか数ヶ月前に埋め立てられちまった」
「ち、ちょっと待って!」
遙は両手を挙げてガークの言葉を遮った。
「ガークは脱走したって、言ったよね? じゃあ、私は、私はどうしてGPCの研究所の外にいるの? それに、ガーク達がいた研究所はとっくに埋め立てられているんでしょ?
私、私は一体何処の研究所から来たの……?」
「それは俺には分からない。俺がお前を見つけた時は、すでに廃屋のところで倒れていた。お前自身、記憶も無いんだろ?」
「……そうだけど、誰かに連れてこられたってことは、分かるんだ。私、裸足だったのに、足の裏は汚れてなくて……」
遙は目覚めた当時のことを思い返した。
あの時、既に自分は絶対不可侵区域の中にいた。崩れ落ちた廃屋に座り込んでいたのである。
獣人化という肉体変化を見る限りでは、空白の期間にGPCにいたことは明らかなのだが。
ガーク達のいた研究所は数ヶ月前に抹消されている。だが、まさか自分が数ヶ月以上記憶を失っているとは思えない。現に、季節が変わっているような気候には感じなかった。
自分から脱走する訳でもなく、ガーク達が助けた訳でもない……GPCに捨てられたのだろうか……
「連れて来られた、ねぇ。GPCの研究所から、どうして外に出す必要があるんだ。もしかしたら、お前に必要性が無くなって廃棄されちまったのかもしれないな。
何と言っても真相は分からねぇ。お前って奴は、本当に謎の多い奴だよなぁ。……ま、暫くは此処でゆっくりしろ。まだ、本調子じゃないだろうし」
「そんな、今すぐにでも帰りたいよ……人間に戻る方法だって、ガークたちは知らないの?」
遙の言葉に、ガークは顔をしかめる。
「何度も言ってるだろ? んなこと俺らが知りたい。だけどよ、この絶対不可侵区域から出る方法だって良く分からないんだ。GPCの奴らを蹴散らすだけで精いっぱいでな。
だから、少しでも対抗できるようにって、今は仲間を探している最中だよ」
「仲間……?」
仲間という言葉に対して、遙はガークに問いかけた。
遙の問いに、ガークは自慢げに胸を添った。
「そうだ、昨日、お前を見つけた時も探していた最中だったんだよ。……ちょっと前の事件で、バラバラになっちまった、仲間たちをな」
「事件? バラバラになったって、GPCがやったこと?」
「……ま、このことについてはあんまり言及しない方がいいな。特にフェリスには。安心しろよ、お前を信頼していない訳じゃないんだからよ」
そう言うとガークは歯を見せて笑い、残りの朝食を遙に差し出すと、椅子から立ち上がった。
「じゃ、俺はちょっと出かけてくる。フェリスが一階にいるだろうから、何かあったらあいつに言え」
「何処へ行くの?」
朝食を受け取って、困惑した遙は、出入り口に向かうガークに聞いた。
「仲間探しだよ。さっき言ったとおりな」
ガークは振り返ると大儀そうに言った。
その様子を見た遙は、少し考えるように俯き、暫くして顔を挙げる。
「ねぇ、私も付いて行って良いかな? もっといろんな話が聞きたいし……」
遙の提案に、ガークは眉を顰めてあからさまに嫌がる姿勢を見せた。
「あぁ? 何だよ、幾らなんでも付いてくるのは駄目だ。外には敵だっている。全てが全て、味方って訳じゃねぇんだから」
「だ、だって、何か手掛かりが掴めるかもしれないでしょ? 此処から出られる方法とか、一人で探すよりも、二人で探す方が良いと思うから……」
まだこの土地がどんな場所かも知らない上に、ガーク達を取り巻く状況だって正確に把握し切った訳ではない。
少しでも今の現状を知りたい。そうすれば、自分の家へ帰られる可能性や、もっと大きくなれば、人間に戻る方法も見付かるかもしれない。
それに、自分を助けてくれたガーク達に少しぐらい恩返しをしたかった。どんな小さなことでも、助けになるのなら、と遙はガークに迫る。
遙の必死な言葉に、やがてガークは折れたように溜息を漏らした。
「……分かったよ。だが、二つ約束してもらう」
「な、何?」
「外に出たら俺の近くを離れるな。それと――」
ガークはテーブルに置いていたフォークを手にとって、柄を遙に向ける。
「メシを残さず全部食え! 食ったら一階に来いよ、分かったな」
「! え、ああ」
遙はフォークを受け取りながら、たじたじと応える。
それを見たガークはニヤリと笑うと、ドアノブを荒々しく掴んだ。
「そんじゃ、俺は下で待っているぜ? メシ残したら殴るからな」
ガークはそう言って手を挙げると、慌しくドアを閉めて部屋を出て言った。
遙は彼の威勢に押されて辟易していたが、やがて、そっと微笑んだ。少々強引ではあるが、やはり悪いヒトではない。
朝食を手に取った遙は、自らの右腕に視線を落とした。
(そういえば、今日の夢のこと……)
遙は少しばかり身体を縮めた。体中に浮きあがった、点滴痕を隠すようにして。
今朝の不気味な夢。夢、と一言で片付けるには鮮明過ぎる光景だった。研究員のような者の声も、無影灯の強い光も、どこかで見たことがあるような気がする。
(……あれは記憶? キメラ獣人って、何なんだろう?)
遙は記憶らしき夢の内容を、そのまま胸にしまい込んで置いた。
ガークたちに話せば、記憶が戻る手掛かりが掴めるだろうに。……だが、自分でも受け入れたくないようなことが、失われた記憶の中にあるような気がする。
人間に戻りたい、そんな方法の僅かな手掛かりにもなるかもしれないが、同時に知りたくないものも記憶に残っている。それを思い出すことを本能的に遙は拒んでいた。
「思い出したくない……どうしてだろう?」
遙は左手の窓から空を仰いだ。
先ほどまでは青空が見えていた空は、少しずつ掠れた雲が溢れ始めていた。
――――――――
広さにして三十畳近くはありそうな室内。全体的に薄暗い空間の前面壁に、幅十メートル程の巨大なモニターが設置されている。
その巨大なモニターの下には、数人の人影と複数の小さなモニターも設けられている。それらの放つ青白い光源が、室内を照らす唯一の光であった。
モニターには座標で区切られた地形図が大々的に映っており、何かを指すように点滅する色彩の点が幾つか見受けられる。
画面上の情報を示しているであろう、英字の羅列した文字が左右に慌しく表示されていく様を見詰めながら、一人の人影が踏み出してきた。
「ハルカが脱走した……俄かには信じられないことですね」
短く切り揃えられた黒髪を持つ少女が、静かに言った。
少女の隣には、裾の長い白衣を纏った女性――クロウが立っている。彼女は少女の言葉を聞いて、端整な顎に指を当てた。
「脱走当日の状況については、まだ分析が続いているわ。まさか、ハルカが手術途中の身体で、強固なセキュリティを誇るこのGPCから外に出られる筈がない。
……ハルカはセキュリティを開く術さえ持たない筈だった上に、あれほど痛め付けてあげたのだから。肉体的にも、精神的にも、ね」
クロウは冷笑を浮かべると、少女に顔を向けてそう言った。
一般人であれば戦慄する程に凍て付いた笑みに、まだ十代後半の年齢であろう少女は、表情も変えずに続ける。
「ならば、手引きした者がいる可能性も否めませんね。我らの同社の者でしょうか?」
「その可能性もあるけれど、少なくとも、ハルカに関わった研究員が、不穏な動きを見せた情報は無いわ。……となると」
クロウが端整な顎から手を離した途端、モニター画面を操作していた研究員が、彼女を呼ぶようにして小さく手を挙げる。
クロウはその研究員の受け持つ画面に歩み寄り、視線を向けた。彼女の視線を確認するようにして、研究員の男は、モニターの画面を指差す。
「ハルカに埋め込んでいたGPSの発信を確認、居場所が特定出来ました。場所は……黎峯の第一絶対不可侵区域、エリア3。二人の同行者もいるようです」
「同行者?」
クロウが研究員の指差す位置を凝視する。
そこには、ハルカを示す青い点の他に、二つの赤い点も示されていた。
「この同行者とやらの情報は?」
「データベースに情報が残っています。身体的なデータを見る限り、どちらも比較的優秀な個体ですね。元々はロムルスに収容されていた被験者のようです。
『例の事件』時に紛れて脱走し、その後再び収容した黎峯の研究所からも脱走を果たした不穏分子というところです。……いかがいたしますか?」
研究員の言葉に、クロウは腕を組んで少し考えるような節を見せると、目を静かに瞑った。
「……ハルカが関わっている以上、私たち上層部は大きく動けない。今まで通り、廃棄処分予定の獣人を送り込みなさい。……命令付きでね」
「ハルカ以外は処分しても構わないと?」
研究員は振り向いて、確認を取るようにクロウへ聞いた。彼女は前髪を軽く払うと、嘲笑に近い笑みを漏らす。
「ええ、脱走した者はいずれにしても、こちら側に戻ってくることは無いでしょう。この際、全て殺処分してしまいなさい。くだらない感情が生まれる前に。
ハルカは出来れば無傷で捕えるように指示を」
「はっ……」
クロウの言葉に辟易するように、研究員は言った。
「それと、私の部下を一人か二人出しましょう。――チャド」
クロウが指を鳴らすと、背後の闇から、長い足だけがモニターの明かりで照らし出された。
全身は上手く見えない。少なくとも、『人間』の眼では。だが、次第にその人物は足を進め、人の視力でも辛うじて見える所までやってきた。
長身で、黒く短い蓬髪。服装までははっきり分からないが、闇に溶けるような暗色の色であることは確かだった。
だが、その暗い全貌の中でも、赤い双眸だけがいやに強く光って見える……クロウは長身の人物に向けて、静かな声で告げる。
「絶対不可侵区域に散らばった脱走者達を、上手い具合に誑かしてくれないかしら? 餌で釣るのは、貴方の方が得意でしょう?」
クロウの言葉に、その人物は小さく笑みを漏らした。
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