(う……)
遙は身体を襲う、凄まじい倦怠感に悶える。まるでかなり長時間眠っていたかのように身体が重い。
(身体が熱い……)
遙は額に脂漏を浮かべながら、身体の熱を発散しようと深い呼吸を繰り返す。
――目を瞑っている間、何か、途方も無い力が身体中から噴出した気がした。
燃え盛るように血液が駆け巡り、自分が自分で無くなっていくような恐怖感。徐々に意識が遠退き、何か別のものが自分を乗っ取る感覚。
自分の行動に歯止めが掛からない、獣に似た本能的部分のみで身体を動かそうとする欲求が、今までに無い程昂っていたような気がした。
どうしていきなりそんな不可思議な状態に陥ったのか……果たしてそれが何を意味するのか、遙は分からなかった。
だが、今はそんな感情の揺れも幾分落ち着いているような気がする。まだ脈は早いが、身体の熱は耐えられない程ではなかった。
遙は少し眉根に寄せる力を緩めると、目を覚まそうと、指先に微かな力を入れた。
(……あれ? 私、何をしていたんだろう?)
ふと、脳裏に疑問が過ぎった。
先ほど、あの怪物のような犬獣人に捕らえられて……それから。
(! 身体を、貫かれたんだッ、あの傷は……)
遙は驚きと共に肩をびくっと動かすと、素早く眼を開ける。
すると、ガークとフェリスの、二人と目が合った。二人共、遙が目を覚ますなり、ほっとしたように肩を弛緩させる。
遙が目を瞬く中、ガークが肩の力を緩めて、静かに話しかけてきた。
「眼が覚めたか? 遙」
ガークに問い掛けられて、遙は夢見心地の気分で小さく頷く。
あの犬獣人と獅子獣人の二人は? ガークとフェリスは無事なのか? そんな疑問が次々と湧いてきたが、疲労感のあまり口を動かすことが出来なかった。
「……安心しろ、あの二匹は追っ払ったよ……。此処は、俺らの家みたいなところだから、まだ横になっていろ」
遙の不安げな様子を感じ取ったガークは、微笑を浮かべて言う。
彼の言うとおり、廃屋とは違った雰囲気の部屋で、遙は寝台に横たえられていた。
廃墟ではなく、壁や天井もしっかりしている。木製の天井に加え、左手に見える窓もガラスは美しい透明感を持って日差しを受け入れていた。
遙はそのことに安堵感を覚えた。……ガーク達は、無事だったのだ……
やがて、遙は少しずつ状況を理解しようと身体を捻る。まず腹部に負った筈の傷を確かめるつもりで、痺れた手を持ち上げてみた。
慎重に手をずるずると腹部に当てる。……すると、腹に何か濡れたような、明らかにヒトの肌とは違った感触が触れてきた。
そのことに不審を覚えた遙は、眼を自らの手へと向けた。
「!! 何、何……これ?」
遙は掠れた声を絞り出して、思わずそう呟いた。
自分の手だと思っていたものは、人間の腕ではなく、明らかに異質なものになっていたのである。
それは碧と黒の鮮やかな羽毛に包まれ、指先の平爪はまるで猛禽類のような紅色の鉤爪へと変貌していた。
肘からは漆黒の飾り毛が伸びており、自分の胴に垂れている。更に、その獣腕はおろか、自分の身体中には真っ赤な血液が飛び散っていた。
見たことも無い怪物の腕に加え、凄まじい返り血の跡。遙は目を見開いてその腕を視認した途端、大きく息を吸い込んだ。
「い、いやぁあぁぁッ! ば、化け物!!」
「遙!」
フェリスとガークの二人に身体を押さえつけられ、錯乱状態に陥った遙は身動きが出来なくなった。
それでももがき続ける遙は、小さな悲鳴を断続的に上げながら目を見開く。
どうして、どうしてこんな獣の腕が……まさか、これは……
「わ、私の腕……なの!? 違う、こんなの、私は化け物じゃないッ!! 離してッ!!」
「落ち着け! 落ち着けば、獣人化も解ける。だから暴れるな!」
混乱する遙の口元を、ガークは怒声と共に掌で押さえつけた。
遙は息を詰まらせると、ガークの腕を獣腕で掴む。自分の意思でその腕が動いたことに、遙は衝撃を隠し切れなかった。
(動いた……!? これは、本当に私のものなの?)
血に濡れた獣腕。扁爪はおぞましい紅色の鉤爪へと変化しており、まるで御伽噺にでも出るような怪物の腕そのものであった。
遙はその現実に涙を浮かべる。その腕を震わせながら眼に留めていた遙は、やがて身体の疲れのせいか、呻きながら、次第に身体を弛緩させていった。
次第に遙が身体の動きを止めると、ガークは彼女の口から手を離し、疲れたように溜息を吐いた。
「信じられないかもしれねぇ、信じたくないのも分かるさ。……だが、此処にいる以上、いや、お前が獣人である以上、隠しておく訳にもいかない」
「違うよ……」
遙は涙を流しながら首を振った。
「私は化け物じゃないよ……! こんな腕、私のものじゃないッ、獣人なんかじゃない……」
遙は思わず自分の腕に爪を立てて、必死になって現実を否定しようとする。
当然の行動だった。こんなこと信じたくないのだから。自分があんな獣人という化け物と同類であるなど、受け入れがたい事実に他ならなかった。
しかし、遙の鋭利な爪が皮膚を突き破る寸前で、フェリスが素早く手首を掴んで留めてきた。
「遙、落ち着いて」
フェリスはしっかりした声音でそう言うと、激しく脈打つ遙の胸にそっと手を当てた。
遙はフェリスに促されるようにして、深呼吸を何度か繰り返す。しかし、中々呼吸が落ち着かずに、遙は何度も唸った。
「う、うぅッ」
「大丈夫。此処にはあなたの敵はいないわ。……ゆっくり、息を吸い込んでみて」
フェリスが静かな声で告げる。遙は咽つつも、出来る限り大きく息を吸い込んだ。
息を吸い込んでは吐き出す……それを繰り返して、少しずつ呼吸を整えると、ほんの僅かだが、気持ちが治まった気がした。
呼吸が整ってきた遙にフェリスは笑いかけ、続いて胸から額に手を当ててくる。遙は瞬きをした。
「もう一度、深呼吸をしてごらん? ゆっくりで良いから……」
フェリスに言われるまま、遙はもう一回、大きく息を吸い込み、吐き出した。
すると、激しく打ち鳴らしていた心臓の高鳴りが収まっていき、身体中の熱が冷め始める。
そして、最も大きな変化が、遙の目の前で起きた。
自分の腕を覆っていた羽毛が皮膚に沈み込むようにして消えていき、代わりに元の人肌が形成される。
鉤爪も扁爪へと形を変え、ほんの一分程の時間で、自分の腕は元の状態へと回帰したのだ。
血の跡こそ残っていたが、遙は手の角度を回して、それが以前の自分の手と同様のものであると確信する。
何と言っても、その驚く程の腕の変化に、遙は目を見開いた。
「ど、どういうことなの? 私、人間に戻った……?」
「言っちゃあ悪いが、それは一時的なものだ。お前のDNA中に挿入された獣遺伝子が眠りについただけの話だよ」
「獣の遺伝……子? どうしてそんなものが私の身体に?」
遙は浅い呼吸を繰り返しながら、ガークに問い掛けた。
彼は遙の問いに、苦虫を噛み潰したような渋面を浮かべると、幾らかトーンダウンした声音で話し始める。
「さっきの戦いの中で言ったが、GPCという世界的製薬企業。お前も名前ぐらい知っているだろ? その企業が、お前の身体に獣の遺伝子を導入したんだよ」
「GPC……って、あの、最先端のバイオテクノロジー技術を駆使して、人工臓器の開発とか、ゲノム創薬を作っている、ていう会社のことですか?」
GPC――正式名称はゲノムプロジェクト・カンパニー。
ガークの言ったとおり世界的な製薬企業で、黎峯にもGPCで作られた薬品は多く販売されている。
もちろん薬品製造だけでなく、iPS細胞を用いた臓器の生成による再生医療への貢献、その社名のとおりのゲノムプロジェクトで様々な生物のゲノム解析を行っている。
会社の売り上げに関しても、一部は貧しい国家へと寄付金として提供しているということさえ聞いたことがある。評判も世界的に良い。
いずれにせよ、そんな善良的な面が多いGPCが、獣の遺伝子を人間に導入するなどといった研究内容はまるで聞いたことが無かった。
「その会社は良い噂しか聞かないよ。幾らなんでも獣の遺伝子を人に入れるなんてことは……」
遙が力無く言うと、ガークは感心したように眉を上げた。
「何だ、意外と詳しいんだな。まぁ表向きの顔はいい、問題は、そのGPCの『裏の顔』のことだ。
お前は、此処に来る以前、蝙蝠の化けモンと女に会ったと言っていただろ? 恐らくそいつらは、GPCの手先だ。……お前を、実験動物として拉致しにきたんだよ」
ガークの言葉に、遙は驚いて身体を起こした。
「実験動物って、そ、そんなこと、違法じゃないんですか? 人間を実験動物として使うなんて、倫理的に問題だってある筈ですよ。
幾らなんでも、あの世界的な企業がやることとは……」
「本当のことよ。むしろ、あれだけ大きな企業だからこそ、政府や軍さえをも欺いている。誰も、口出しすることは出来ない程、GPCの権力は強いのよ」
フェリスは厳しい口調で遙に言った。
遙は彼女の言葉に息を詰まらせると、自分の胸にそろそろと手を当てた。
「……じゃあ、私は被験者として攫われたということですか? でも、私、獣人にされている間の記憶なんて……無いんです」
遙は俯いて言った。
そう、記憶が無いのだ。だからこんなことを言うのかもしれないが、あまりにも不可解なことが多過ぎる。
獣人の存在。そして、その存在に自分が改造されたこと……その改造した組織が、世界的企業であるGPC。
何もかもが唐突過ぎる。遙は次第に痛みを伴ってきた頭を、両手で押さえつけた。何が起きているのか、理解し切れない。
懊悩する遙の様子を、ガークは複雑な表情で見詰めていた。
「そうか、お前は実験所にいるころの記憶が抜けてたんだっけな。獣人にされる間の副作用、って考えるのが妥当か。
……どちらにせよ、お前は暫くは此処にいなきゃならねぇ。何たって、もう人間じゃないんだからな」
ガークから発せられた非情な言葉に、遙は頭から手を離して叫んだ。
「! そんなこと、簡単に言わないでよッ! いきなりそんなこと言われても、分からないよ……!
どうしたら、元に戻れるの? あなた達は……」
遙が泣きそうな声で問い掛けると、フェリスもガークも暫く無言を保った。
数分の沈黙の後、吹っ切れたようにガークが溜息を漏らす。
「俺らだって知りたいんだ、戻れる方法を……お前と、同じ獣人だからな。簡単に受け入れろとは言わない。
唯、気持ちの整理は早い所付けておけよ。奴らは、GPCは待ってはくれないんだからさ……辛いだろうけどよ。今日はゆっくり休め」
「ちょっと、待って……!」
遙が呼び止めようとしたのだが、ガークは立ち上がり、振り返りもせずに部屋のドアを開けて出て行った。
すぐに彼の後を追おうとする遙。しかし、身体に襲い掛かってくる疲労は相当なもので、足が全く言うことを利かなかった。
フェリスと二人取り残された遙は、唇を噛んで簡素な寝台へと倒れこむ。……あまりにも唐突過ぎる話ではないか。
「遙……」
フェリスは遙の身体に付着した血を、湯で濡らした布で拭き取ってやった。
少しずつ血の匂いが引いていく中、遙の涙はその量を増していく。涙は耳を通り過ぎて、枕へと染み込んでいった。
「私は……人間……本当に、目覚める前までは普通の高校生で……何があったんですか? 教えて下さい……どうしたら、元に戻れるのか……」
「それは私にも答えられない。元に戻りたい、人間に戻りたいのは、私もガークも同じよ」
嗚咽と共に問い掛けた疑問に対して、フェリスは静かに首を振って返した。遙は涙で濡れた顔を上げる。
「あなたも……獣人、なんですか? 元は、私みたいに、人間だったんですか? GPCに攫われて、獣人にされて……」
「ええ、もちろん。獣人は人間をベースに生み出す生命体だから。ほんの半年ぐらい前まで、人間だった。
変な話よね。信じろって言う方が、おかしいのかもしれないけど。全部現実だって思えるまで、私も随分時間を要したわ」
粗方血を拭き取った遙に、清潔なシーツを被せてやりながら、フェリスは言った。
遙はシーツを首元まで手繰り寄せながら、訝しがるようにして彼女を見る。
「でも、フェリスさんの変身は、腕だけでしたよね? ガークさんは全身の変身をしていて……」
「私もガークみたいに全身の獣人化は出来るわ。導入された遺伝子の元がヤマネコだからあんまり大きくはならないけど。
腕だけに収めているのは、ちょっとした事情があってね」
「……それじゃあ、私も、私も腕だけじゃないんでしょうか? この身体が全て獣に変わる……」
遙は怖さがあった。……それは、全身の獣人化のこと。
腕だけならまだしも、身体中から獣毛が湧き出し、この顔すらも人間のものでなくなる。
指先でなぞる顔立ちは、まだ以前と同じように人間そのものだったが、もし全身に獣人化が広がったら、自分はどんな姿になってしまうのだろうか。
ガークのようにオオカミに? それとも、ライオンやフェリスの言うヤマネコのような姿になるのかもしれない。
それ以上に、先程の腕を見る限りでは、どんな姿になるのかさえ想像出来なかった。
遙の不安を察知したフェリスは、苦笑しながら答える。
「多分、遙は腕だけの獣人化しか出来ない。……あなたの記憶が無いみたいだから、GPCにどれぐらいの時間いたのか分からないけど。
恐らく、あなたはまだ不完全な状態よ。私達よりは、人間に近い存在ね」
フェリスが苦笑して言ったが、遙は彼女の言葉にはっとした。
皆は自分のように、腕だけではない。もし自分がそうなってしまったら……全身が獣の容姿になるとしたら、それこそ気が狂いそうだというのに。
彼女らはもっと苦しい思いをしているのだろう。元の自分とは懸け離れた容姿を見て、どう感じているのだろうか。
それに比べて、自分はまだ人間に近い。……遙は心が痛んだ。
二人は暫く無言だった。
しかし、数分の後、遙は寝返りを打ってフェリスから目を離しつつ、
「……家に帰りたい……」
ぽつん、と呟いた。それこそ、自分でも耳を澄まさなければ聞こえないような声量で。
母親はどうしているのだろう。友人も……もう数年も会っていない父親も。
だが、帰ったとして、獣人である自分の話を聞いてくれる人はいるのだろうか? 自分を受け入れてくれるのだろうか?
自分も、異形の容姿を持つ獣人に対して、人間とは懸け離れた存在である、という意識が無くなった訳ではない。
獣人にされた自分でさえ、心の奥底では忌避しようとしている存在なのだ。それを、普通の人間はどういう眼で見詰めてくるのだろうか。
そんなことを考える内に、遙は涙が止まらなくなった。
「怖い……こんなこと、まるで夢みたい。夢なら、覚めてくれればいいのに……」
遙は嗚咽と共に呟いた。
「そう、そうね、本当に。……でも今はお休み、遙。まだ、先は長いだろうから……」
フェリスの静かな言葉を反芻しながら、遙は疲労のためにゆっくりと瞼を下ろしていく。
少し経って睡魔が押し寄せてきたが、完全に目を閉じた後も、涙は止まらなかった……
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