レオフォンは豪雨を掻き分けながら飛翔していた。
今だ翼を動かす体力に支障は無いものの、稲光が照らす中、全身を付き纏うような波動の乱れを感じる。
普段ならすぐに遙の波動を察知することが出来る筈だというのに、今の状況では何処に誰がいるのか分からない。
視覚、聴覚、嗅覚までもが殆ど利かないこの状況では、波動を捉える触角だけが頼りだ。そしてそれがこのようにして乱されるとは、予想外の出来事である。
(この波動の歪みは……一体……何者の仕業だ。場所が特定出来ないとは……)
レオフォンは顔を顰める。GPCの仕業だろうが、このように波動を乱すようなことが出来る相手が存在しようとは思いもよらなかった。
GPCの技術力の進歩は、自分達が研究所にいた頃に比べると、更に向上しているだろう。だが、その技術の進歩のために、多くの犠牲者が生まれたのは容易に想像が付いた。
これ以上、仲間の内から犠牲者を生み出すようなことは出来ない。そのためにも、遙の救出を急がなければいけなかった。彼女が再び研究所に連れ戻されたのならば、二度と救出は叶わない。
しかし、遙を連れ去った蝙蝠の獣人の位置は、相変わらず特定出来なかった。その姿をあっという間に晦まし、今なお、何処にいるのかが分からない。
この状況において、こちらを拡散するために敵が複数いることは明らかだ。遙を連れ戻すために、ようやく本腰を上げ始めたか……
このままでは遙はもちろん、ガークとフェリスも危ない。それに、この絶対不可侵区域にいる他の仲間たちにも、危害が及ばないとは言い切れないだろう。
レオフォンは一旦、絶対不可侵区域の場所を確認するために、一際高い、高層建築物の屋上に向けて飛んだ。
屋上のコンクリートは所々が砕け、以前は光を灯していたであろう航空障害灯も割れている。緊急避難用のためか、ヘリポートの設置された屋上にレオフォンは降り立った。
豪雨に若干視界が遮られているものの、周囲の中層建築物がちらほらと目に付く。目を凝らせば、マンションの跡地や巨大なアンテナを持った送信所なども見えた。
ぱっと見渡す限り、この場所はこの間ガーク達と来た場所に近いだろう。
しかし、この場所は本来ならば最初に飛び立った廃工場から大した距離はない。そうなると、波動の歪みに惑わされて、堂々巡りをしていたことになる。
(……大分飛んだつもりだったが、まさか波動の歪みで道を外れていたか?)
レオフォンが顔を顰めたその時だった。彼の脳内に、微かな波動が流れ込む。
弱々しい、本当に微かな波動の流れ。この歪み、乱れた波動の中を伝って、それは届いた。
……遙の波動
レオフォンは曇天の広がる頭上を仰いだ。
キメラ特有のあらゆる物が混濁した、何とも不可解な波動の型。……間違いない。
「遙か……!」
レオフォンは遙の波動を感じると、翼を広げ、両足に力を込める。
足に込めた力をバネのように解き放ち、彼は一気に上空へと飛び上がった。豪雨が背中に吹き付ける中、遙の波動を感じた北西の方へと移動する。
以前として続く嵐。しかし、レオフォンの翼は暴風にも揺らがず、ひたすら遙の波動を正確に伝った。
やがて、高層建築物の立ち並ぶ街から外れ、以前は郊外であっただろう場所に出る。周りは民家の名残が砂に埋もれ、焼け落ちた跡が幾つも見受けられた。
その中で、比較的小さな店舗や住宅街の並ぶ一角に、一つだけ古ぼけた建物が突き出ていた。
全体的に風化が進み、その外壁は泥と雨水で汚れている。……だが、赤十字の紋が刻まれたそこは、以前は病院であったことを伺わせていた。
一部にはカーテンウォールが設置されていたような跡があったが、今はもちろん開放感が感じられるような形ではなく、骨組みのみが痛々しく残っていた。
その病院跡地から、遙の波動が流れ出していた。レオフォンは顔を引き締める。
彼は入り口は無視し、カーテンウォールの跡を一気に突き破ると、建物内へと飛び込んだ。
「遙!!」
骨組みに残ったガラス片を風圧で噴き散らし、レオフォンは病院の廊下に出た。
豪雨のせいで院内にも雨水が浸透し、黴臭い臭いが鼻腔を突いた。左手には手摺の折れた階段があり、床の素材も所々が剥げ、コンクリートが剥き出している。
院内の廊下の左右には、病室に出入りするための引き戸があるが、いずれも固く閉ざされているか、何らかの衝撃で壊れているかのどちらかであった。
照明が無く、闇に包まれた院内……レオフォンが周囲の様子を確かめるように、顔を上げた時だった。――廊下の一番奥に誰か人影が見える。
「……!」
人影の背後に開いた窓から、稲光が差し込み、女性らしいシルエットを浮かび上がらせた。
遙……レオフォンはそう思って、一歩足を踏み出す。しかし、突如としてレオフォンは身構えた。
微かな違和感。波動の型は遙そのものだが、そのシルエットは遙とは少しばかり違う雰囲気を持っていた。
「貴様……何者だ?」
レオフォンが人影に対して静かに問い掛ける。すると、その人影が振り向いた。
振り向くと同時に、赤い双眼がギラリと光る。左頬に双筋の黒い縞が走った顔立ちは、凍り付いたように無表情であった。
ぱっと見た目は十六、七歳程の少女。しかし、若い少女とはいえ、その表情はあまりにも冷徹過ぎた。人間味というものが感じられない程に……
「此処にハルカはいません。……私はGPCの研究員、ペルセと申します」
訝しがるレオフォンに、少女がはっきりと告げた。淡々とした口調には、何の感情も込められていない。
抑揚の無いその言葉を聞いて、レオフォンの顔が複雑な表情に歪む。
(……馬鹿な……波動は確かに遙のもの……)
「驚きましたか? 確かに、貴方のように数年も前に生み出された獣人にとっては、考えられないことかもしれませんね」
ペルセはレオフォンに向けて、一歩、一歩、静かに足を踏み出した。
レオフォンが構えたまま睨み付ける中、ペルセは言葉を続ける。
「唯、私が『ハルカの波動』を真似て放っていただけに過ぎません。貴方を此処に引き付けるために……」
「!? ……波動の擬態……だと。俄かには信じられんものだな」
レオフォンは驚いた様子で言った。
波動の型など、本来真似出来るものではない……しかし、それはあくまでこちら側の常識である。
世界的な企業であるGPCの技術は日進月歩。当然、日々生み出される獣人の能力も向上し、その中で優れた者が一人、二人出てきてもおかしくはない。
このペルセとやらも、数多く生み出された獣人の中でも優れた個体の一人なのだろう。波動の擬態という特殊能力までをも付与された獣人……
……いや、それだけではないか。レオフォンは冷静さを保つ瞳を、ゆっくりとペルセの視線と合わせる。
少女の姿を見詰めながら、レオフォンは疲れたような口調で言った。
「……哀れな、その心……全て、偽りのものだな。GPCの傀儡のように動かされるとは」
彼がそう呟いた刹那だった。周囲の空気が一瞬にして凍り付く。辺りから、鋭い針のような視線を幾つも感じた。
レオフォンは背後はおろか、左右からも多くの敵の気配を感じて、全身を殺気立たせる。
このペルセは囮か。恐らく、こちらを足止めするつもりなのだろう。遙がいないこの場に、長居をする理由は無い。
「出来るだけ命は奪わないでおいてやろう。……長くは付き合えん」
言下、獅子の咆哮が大地を揺るがす。その真紅の双眸が、雷光に照り返り燃え上がった。
病院内に一斉に沸き立つ殺気。レオフォンの咆哮を打ち消すかのように、ペルセも獣声を張り上げた。
――――――――
小雨が降りしきる中、全身から血を流した遙は、足を引き摺りながら歩を進めていた。
雨は幾分小降りになったが、当然、疲労までが回復する訳ではない。周囲の状況が鮮明になったのが、唯一の救いだった。
先ほどまでは激しい豪雨のせいで、殆ど視界が利かなかったが、今は空気も澄み始めており、辺りの様子が少しずつ視界に届くようになる。
遙はなるべく、水溜りの少ない、足場の固まったアスファルト上を歩いた。元は広い道路だっただろうが、今となってはガラス板を割ったように砕け散っている。
右手で押さえ込む腹部から止め処なく血が流れ落ち、僅かに衝撃が加わるだけで、悲鳴を上げそうな激痛が襲い掛かってきた。
「くぁ……うぅ……皆……」
遙は激痛に呻いた。残る体力を駆使して波動を伝おうとするが、味方の気配は周りに無い。
痛みと寒気、徐々に増していく疲労……体力はすでに枯渇しかけているだろう。遙は咳き込み、喉元を伝う血液独特の苦味を無理に飲み下す。
血糸が流れる足がふらつき、視界が揺れた。首を上げる気力も無く、何処に進んでいるのかも分からない。唯一視界に映る、アスファルトの亀裂を辿るようにして歩いた。
止まっていてはチャドに殺されるだけだ。少しでも遠くへ、チャドに見付からない場所へ……
「……うっ!」
遙は一瞬、意識を手放しかける。身体を支える力が弱まり、遙はそのまま地面へと倒れこんだ。雨水と一緒に血液が飛び散る。
倒れた衝撃で全身に痛みが走り、遙はその痛みで意識が覚醒するのを感じた。歯を食い縛りながら睡魔を振り払い、再び身体を持ち上げる。
「眠るな……まだ、眠ったら駄目だ……!」
遙がぱっと顔を上げたその時だった。――目の前に一つの巨大な建築物が現れた。
ずっと俯きで歩いてきていたせいで周りを見ていなかったが、背後を振り返る限り、他の建築物と比べると随分と古い建物だった。
大きさ的には、自分の母校と同じぐらいだろうか。唯、建物全体の内、半分が焼けて倒壊しており、元々はもっと大きな建造物だったに違い無い。
外壁のコンクリートは風化して所々が崩れている。赤く錆付いた鉄筋が生々しく浮き出ており、残ったコンクリート壁にも汚水が垂れた跡が黒くこびり付いていた。
砕けた外壁の欠片の一つに、遙は視線を落とした。泥に汚れてはいるが、それは白い塗装を施されたものだというのは分かった。元は白を基調とした建物だったらしい。
崩落する恐れがありそうな上、多少の不気味さもあるが、遙は吸い込まれるようにその建物内へと足を進めた。
選り好み出来る状況じゃない。生き延びるためにも、建物内の何処かに隠れて、傷を癒そうと思っていた。
建物の内部へと入ると、天井に穴が開いているようで、ぽたぽたと雨水が滴り落ちてきて頬を濡らす。
カビ臭い空気に、錆の匂いも漂っている。クロムの光沢を放つタンクや、ベルトコンベアなどのあらゆる大型器具が設置されているのを見ると、工場であることは確かなようだ。
思った以上に内装は落ち着いており、薄青色の廊下や白い壁、まだ原型を保っているコンピューターのようなものも少なからず目に付く。
製鉄工場のように複雑な鉄筋が組まれたような内装ではなく、現に近くに水利のよい場所は存在していない。この衛生的な感触のする内装は、もしかしたら製薬工場なのかもしれない。
「……」
遙は一頻り辺りを見回すと、近くにあった錆付いた階段を昇り、二階へと上がった。
出来るだけ見付かりにくく、時間稼ぎが出来るような場所……そう思い、遙は鉄製の機材が詰まった、プラスチック製のコンテナが積まれた場所の隙間へと潜り込む。
コンテナ同士の隙間に座り込んだ途端、全身から凄まじい倦怠感が襲い掛かってきた。痛みはあるが、それ以上に睡魔が強かった。
遙は三角座りをして、そっと息を潜める。じきにチャドに見付かるだろう。そのことを考慮して、遙は出来るだけ体力を回復させようとした。
ぴちょん、廃工場の天井から滴る水滴の音……外の雨よりも一層響くその音を、耳で捉えながら、遙は静かに眼を閉じる。
……だが、閉じた暗い瞼には、ぞっとするような戦いの風景を映し出させた。遙は驚いて眼を開く。
(……私は……)
薄らとだが、暴走時の記憶が想起されてゆく。身体が戦闘本能の赴くままに動き出し、敵を引き裂く感触が嫌でも込み上げてきた。
血の匂い、味、生温かい感触……それら全てが、今、肌が粟立つ程の嫌悪感となって襲い掛かり、遙は唐突に嘔吐いた。
「……ッ! げほ、私は……また……人を殺したの?」
肩で荒い息を吐きながら、遙は呆然と呟いた。突きつけられた現実に、唇が戦慄く。
先ほど襲ってきた敵は、間違いなく自分達の意思を持っていた。肉体こそ獣人であれど、心は人間のままの者達だ。
記憶に残る悲鳴と絶叫が何度も木霊し、頭の中が激しく痛む。あれ程恍惚としていた精神が、一瞬で瓦解するかのような不快感だった。
人としての理性を無くした途端、自分は獣と化してしまうのだ。
血を求め、狂い、吼え、目に付くもの全てに襲い掛かる……人間の感覚を取り戻した今となっては、それがあまりにも恐ろしいことだった。
「うぅ……ぅ」
知らず知らずの内に涙が零れ落ちる。生きるために同種でも殺めるのは獣の性かもしれない。しかし、今の心は人間なのだ。
本能よりも理性を重視する中で生きてきた記憶が、人間としての記憶が、より遙を苦しめた。
獣と人との狭間に位置する自分達獣人にとっての最大の苦痛……理性を取り戻した瞬間に襲い来る現実と凄まじい罪悪感が、涙となって零れ落ちる。
「どうして……こんなこと……私は望んでいないよッ。獣人を……人を殺すことなんて、『今は』考えられないのに!」
遙は目の前に設けられた金網に向けて、拳を固めて一撃を放った。全身に衝撃が伝わり、痛みが走る。
――その時、ぶつん! という、何か硬いものが引き千切れる音がした。建物全体にその音が響き渡り、残響をちらつかせる。
その音に反応して、遙は涙で濡れた顔を上げると、目の前を良く見る。
拳をぶつけた金網は、廃工場の荷物を昇降させるためのリフトの入り口に当たる部分だった。
どうやら、今自分の周りに置いてある機材の詰まったコンテナも、このリフトに乗せて上げて来たものらしい。
「これは……」
遙は痛む身体を叱咤して、リフト内にそっと入る。
眼を細めて見ると、リフトを支える二本の太いワイヤーロープが、水滴を浴びて錆付いているではないか。
数年に及ぶ侵食により、そのワイヤーロープを構成するストランドが赤い錆に変色し、所々引き千切れている。
遙の一撃を受けた衝撃で、残っていたワイヤーロープの束も殆どが引き千切れてしまっていた。
あともう少し重い荷物が乗れば、ワイヤーロープが切れて、籠そのものが落下するだろう。
遙は落下の危険を察知して、籠から慌てて出ると、眼を何度か瞬いた。
(もしかして……これなら……)
遙は口を引き締め、機材の詰まれたコンテナ群の背後へ回り込んだ。
――――――――
「drei...zwei...eins...」
チャドは雨が小雨に変わる中、鼻歌でも歌うかのように悠々とカウントダウンをしていた。
遙が見えない所まで逃げ出した所で、少しずつ雨雲が晴れ始めた。今は夜独特の凛とした空気が身体に吹き付ける。
雲が風で流されてゆき、薄らと月光が視界に差し掛けた。その光を感じた途端、チャドは丸い弧を描く耳を軽く微動させる。
「null……さて、約束の五分だ。ハルカ」
チャドはその皮膜をそっと広げ、高い声で笑った。巨大な蝙蝠のシルエットが、月光を浴びて浮かび上がる。
「ククク、あいつの覚悟とやらを見せてもらわないとな。死ぬ時はせいぜい足掻いてくれよハルカァ!」
言下、チャドは水飛沫を吹き上げ、一気に空へと飛び上がった。
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