雷光で幾人もの敵のシルエットが映る。黒く照らし出される彼等は、いずれも叫び声一つ上げずに襲い掛かってきた。

雨音と雷鳴で遮られる聴覚、夏特有の豪雨にによって、視界までもが狭まる。

ガークもフェリスも互いを庇い合いながら、間髪を入れずに次々と現れる敵を薙ぎ倒した。

敵一人の力は大したことはない。例え敵がGPC内で戦闘訓練のようなものを仕込まれているとしても、こちらは実戦交じりの戦いを繰り広げてきたのだ。

敵とは圧倒的な経験差がある。……だが、数の多さに加え、天候を含めたこの状況は、思いのほか二人の動きを鈍らせた。


「中々しぶとい奴らだ。戦闘能力も高いと見える……とはいえ、手元に残しておきたい程、優秀な個体ではないな」


ヴィクトルは戦いを傍観しながら、嘲るような声音で言った。今この場で何より厄介なのは、彼の放つ波動の乱れだ。

まるで無数の線虫が全身を這いまわるような感覚……フェリスは舌打ちする。


「力が半減した気分ね……まさかこんな小細工をしてくる相手がいるなんて……」


「ったく、あの鶏野郎め。出来ることなら今すぐ殴ってやりたいぜ」


「奴の周りに、集中して敵が固まっているみたいね。面倒だけど、全部倒さなければ、近付くことも出来ない」


突如として鋭い爪を振り翳して襲ってきた豹の獣人を、フェリスは攻撃を躱して素早く反撃する。

フェリスの重い回し蹴りを受け、盛大な水飛沫を上げつつ豹獣人は卒倒した。


「……ッ」


続いて、他の敵に攻撃を仕掛けようとしたのだが、急に襲ってきた肉体の倦怠感に、フェリスは思わず瞼を擦る。

手足が鉛のように重い……。上位種獣人の体力を持ってしても、此処まで疲弊するとは。

まだ敵の数は半分にも減っていないだろう。こんな状況で倒れる訳にはいかない。その上、出来るだけ体力を温存しておかなければ、ヴィクトルにも歯が立たないだろう。

フェリスは肩で息をつき、気を取り直したように再び顔を上げた。


「グルルッ……ガァッ」


突然、目の前に巨大な口腔が広がる。熊らしい、太く鋭い牙が唸り声と共に迫ってきた。

すぐさま避けようと身体を捻ったのだが、咄嗟に足が泥濘に取られ、そのまま地面に尻餅を突く。

相手は熊の獣人だ。その顎の力は、大型のネコ科にも劣らないだろう。首を咬まれたならば、正直言って唯では済まない。


「ウオオッ!!」


「!」


熊の野太い咆哮が鼓膜を揺るがし、フェリスが咄嗟に目を閉じた瞬間、頬を風が吹き抜ける。

ズザッ、という砂利を軽く踏み散らす音に加え、濡れた体毛同士がぶつかり合う鈍い音が響いた。

おそるおそる目を開くと、熊獣人の鼻に咬み付く狼獣人ガークの姿があった。


「何ふらついてんだよッ!!」


ガークは怒声と共に熊獣人の鼻面を噛み潰した。骨が拉げる嫌な音が響き、何とも言えない苦悶の声が漏れて来た。

熊獣人が地響きを立てて崩れ落ちるのを見て、フェリスは苦笑いを浮かべると、すぐさま立ち上がる。


「ごめん、ちょっと手を抜いただけだよ」


フェリスは無理に笑って見せた。その血汚れの付いた顔を見て、ガークが苦笑する。


「……それが余裕のある顔かよ。せっかくの美貌が台無しだぜ?」


ガークは言下、背後から迫ってきた牛獣人に回し蹴りを浴びせ、上から強襲してきた身軽な猫獣人に拳をぶつける。

ガークの想像以上に素早い動きと重い一撃に、二人共その場に倒れこんだ。これだけ敵が多ければ、なるべく一撃で敵を倒す必要がある。

後から後から押し寄せる敵の群れ。軽傷程度の者なら、すぐにでも襲い掛かってくる。流石にガークもフェリスも疲弊の表情が浮かんでいた。


再び体勢を立て直したフェリスも、間髪を入れずに迫ってくる敵を素早く蹴散らした。

どれ程の敵を倒したのか分からない……だが、確実に敵の数は減っているだろう。少しずつだが、攻撃の数が減ってきている気がした。


「あと少しか?」


小声でガークが囁く。フェリスは頬の血痕を力強く拭い、僅かに頷いて見せた。

ガークが呟いたとおり、ヴィクトルが悠然と立つ場所に敵が集中している以外、他は散漫としている。

足元には倒した敵が累々と折り重なっており、この豪雨の中でも血溜まりが生々しく生じていた。


……生きるか死ぬかの瀬戸際だ。相手に情けをかけている暇は無いとは言え、この悲惨な光景に、二人共罪悪感を覚えずにはいられなかった。


「出来ればこれ以上は殺したくねぇ。これだけ数が減っているんだ。後は軽く戦闘不能にするぐらいで良いだろ?」


「そうね。死なない程度に倒していけば――」


途端、フェリスの言葉が切れた。彼女の近くに倒れていた犬獣人が、突如として起き上がる。

すでに戦闘不能だと思い切っていたその犬獣人は、焦点の合わない眼でフェリスを睨み付けると、すぐさま彼女の足に咬み付こうとした。

フェリスは驚いて、本能的に相手の顔面に蹴りを浴びせる。そのイヌ科特有の長いマズルから、骨の軋む音がしたと思うと、犬獣人は声も上げずに崩れ落ちた。


「! どうしてあの状態で動けたの?」


フェリスは血塗れで絶命した犬獣人の無残な姿を見て、苦しげに独白した。元々、この犬獣人はガークに首を咬み切られていたのである。

並の人間を越える体力を持つ獣人とはいえ、動脈を切られて時間が経てば、失血で動ける筈が無いと言うのに、この獣人は立ち上がって襲ってきたのだ。


――その時、雨音に混じって嘲笑が聴こえてきた。

いまだに残る、敵兵の奥に佇む、鷲の鳥人……ヴィクトルは腕組みをしながら目を細める。


「ククク、生体とは単純なものでな。死にかけの肉体であっても、脳に微弱な電気を与えてやればそのように動くのだよ。
まぁ、絶命寸前の生体だ。今のように軽く脅かす程度のことにしか使えん」


「てめぇ! 幾ら何でも趣味が悪過ぎるぜ!!」


ガークは背後から襲ってきた虎獣人に激しい肘鉄を浴びせると、ヴィクトルを睨み付けた。

だが、ヴィクトルが怯える様子など当然無く、彼は他人事のように続ける。


「もう一つ良いことを教えてやる。この獣人達の脳内には特殊なナノマシンが埋め込んであってな。
それで思考を軽く操作して、GPCに絶対的な服従をさせているのだよ。実に利口な生き物だ」


「!! ペルセと同じね……あなたの行為は命そのものに対しての侮辱よ。生きている資格なんて無いわ」


フェリスもガークも、ヴィクトルの言葉に憤怒を覚えずにはいられなかった。

今、この場で自分達に襲い掛かってくる獣人達。そのどれらも声一つ上げずに攻撃を繰り出してくる。

元は一般人であろう彼等が、相手を殺すことに対して抵抗も見せないということは、元の意識は無いようだ。

これではまるで傀儡に等しい。何の罪も無い命に対して、此処まで冷酷な仕打ちを与えるなど……


「ガーク」


フェリスが渋面を浮かべつつ、小声でガークに告げた。


「……このままじゃ無駄に命を奪うだけよ。ヴィクトルを叩いた方が良い」


「んなこと言っても、あいつの周りはまだ敵兵だらけだ。しかも、波動を乱されちまうだろ?」


ガークの言うことは尤もであった。このまま突撃しようとも、敵兵に塞がれて、ヴィクトルには攻撃一つ届かないだろう。

しかも、彼が波動でこちらを操ってくることも十分に考えられる。……フェリスはヴィクトルの方へ目をやった。


今もそこは敵が集中して固まっている。ガークもフェリスも戦闘能力に秀でているとは言え、強行突破は難しい。


フェリスは目を細めて、静かにガークに言った。


「ガーク、あのヴィクトルの前にいる獣人達の所へ走ってくれない? 私も後から行くから」


「はぁ? 何だそりゃ、俺だけ玉砕しろって言ってんのか!?」


「違う、ガークは敵兵の前まで走ってくれるだけで良いから。私が追いついたら、すぐに後方へ回って。……私がヴィクトルを仕留める」


殺気の篭ったフェリスの言葉に、ガークは微かに身震いした。

普段は何かと軽い雰囲気を漂わせる彼女だが、実戦ともなると、まるで別人のような冷厳さを見せる時がある。

一度言い出したら自分と一緒で、他の意見など耳も貸さない。……だが、彼女の案に、ガークは何か感じたように耳を立てた。


「ちょっと待て、お前、『獣人化』するつもりじゃないだろうな? 昔の約束、忘れたとは言わせねぇぜ」


ガークの神妙な表情を見て、フェリスは眼を閉じた。


「……私はもう二度と獣人化しない。そして、ガークもさせる気が無いでしょう? 大丈夫、そこまで大袈裟なことはしないわ」


ガークとフェリスはほんの刹那、眼を見つめ合った。

やはり嘘を吐いているようには見えない。あのヴィクトルの首を、一撃で獲る気だろう。ガークは舌打ちした。


「ちっ……まぁいいさ。このままじゃ罪の無い奴らを殺すだけだからな。信用しとくぜ!」


言下、ガークはフェリスを置いて、一直線に走り出した。

ヴィクトルの方向へ……フェリスも群がる敵兵を蹴りで弾き、水飛沫を上げてすぐにガークの後を追う。


「てめぇら、殺されたくなかったら退きやがれ!!」


ガークは正面切って踊りかかってきた牛獣人に頭突きを浴びせる。

ガークの一撃に、牛獣人の頭骨が悲鳴を上げた。ガーク自身も軽く脳震盪を引き起こしたが、今はもうこの敵兵全ての殲滅が目的ではない。

……フェリスの言うことだけが頼りだった。彼女の攻撃が成功すれば、この無意味な戦いに終止符が打たれる。


ガークの想像以上の迫力に押されたかのように、相手が一瞬動きを止めた。……そこへ、全力疾走のフェリスが飛び込んでくる。


「ガーク、ちょっとごめんね!」


「いでっ! フェリス!?」


フェリスは軽く跳躍すると、続いてガークを踏み台にして、一気に飛び上がった。

雷光に照り返り、フェリスの姿が黒いシルエットとなって、曇天の空に浮かび上がる。

その脚力はガークも驚く程だった。彼を踏み台にしているとはいえ、軽く十メートル近く跳躍しているのではないかと言うほどだ。当然、敵の攻撃が加えられる筈も無い。


(凄ぇ、まるで鳥だぜ……本当に化け猫だよ)


ガークが度肝を抜かれて見上げる。脚力に長けるフェリスは、悠々と敵群の遥か頭上を飛び越えた。

だが、その直後、雷鳴が轟く。ガークはその音にハッとして、すぐさま体勢を切り直した。敵は目の前に大勢いるのだ。


「てめぇらに構っている暇は無ぇっつうの! ――フェリス!」


ガークが目の前の敵を弾き返し、一旦バックステップで距離を取った時、すでにフェリスはヴィクトルの目の前に迫っていた。

その様子を見たヴィクトルは、少しの焦りも見せない。冷徹な眼が、静かに細められる。


「ほう、見事な脚力だな」


ヴィクトルが陶然と呟いた。――そして、肉迫するフェリスに向けて波動を放つ。

無数の針が全身を射抜くような感覚が走った。中空で、フェリスは歯を食い縛る。


(! ……波動の乱れ……生体電気の流れを乱すつもりね――だけど)


「二度も同じ手は喰らわないわよッ!!」


言下、フェリスは意識を集中させる。静かに目を閉じるフェリスを見て、ヴィクトルは笑った。


「威勢よく飛び込んできたというのに、死を覚悟したか? 自分自ら、その首を断つが良い」


ヴィクトルの放つ波動がフェリスを捉える……しかし


「!」


フェリスの攻撃は止まらなかった。一瞬、パチンッという電気が散るような音が生じる。

ヴィクトルは自らの指先が弾かれたのを感じ、ほんの僅かに眼を見開いた。


(波動同士の相殺か……思った以上に器用だな)


ヴィクトルは口には出さず、鼻で笑った。

フェリスは自分からも波動を放出し、ヴィクトルの波動を中空で相殺したのだ。

フェリスもこちらほどではないが、波動を……生体電気を体外に放出するような芸当をやってのけたらしい。

これならば肉体の支配を受けない。フェリスが口元に笑みを浮かべる。その獣人化を遂げた腕が持ち上がり、雷光に反射して鋭い獣爪が剥き出された。


「その生意気な喉笛ごと、引き裂いてあげるわよッ!!」


言下、ヴィクトルの眼前に獣爪が突き出される。そのスピードは目にも留まらない程で、ヴィクトルの動脈の位置を確実に狙っていた


……そのフェリスの渾身の攻撃が、ヴィクトルの羽毛に触れる瞬間に、彼は目元に笑みを浮かべる。






「……ッ!?」


直後、パシッ、という乾いた音がした。フェリスの身体が、急に止まった衝撃で前屈みになる。

そっと顔を上げてみると、フェリスの腕はヴィクトルの鱗だらけの手に掴まれていた。

彼女の獣爪は、まさにヴィクトルの皮膚を貫く寸前だったらしい。その白い羽毛に、微かに紅色の鮮血が生じている。


「そんな……」


フェリスは唖然として彼の鷲顔を見た。

想像以上の反応速度である。今まで、どんな敵が相手だろうと、速さに劣ることは無かったのだ。

それがこうもあっさりとヴィクトルに止められるとは。フェリスの戦慄く様を見て、ヴィクトルは手に込める力を強めた。


「雑魚は放っておいて、頭をやれば全て済むとでも思っていたのだろうがな。甘い考えだ」


刹那、ヴィクトルはフェリスの足を払った。

あっさり体勢を崩したフェリスが地面に腰を着く前に、ヴィクトルの手が彼女の首を鷲掴みにする。


「ぐあ……ッ」


フェリスは気管を締め付ける力に呻いた。地面から足が離れ、彼女の身体は易々と持ち上げられる。

ヴィクトルは苦痛の表情を浮かべるフェリスを見ながら、優越感に浸るようにして目を細めた。


「まさかこの状況で頭を潰すのが一番難しいことだと言うことに気が付かないとはな。お前達の身体能力の高さは認めてやる。
こんな手下共では満足いかないだろう。もっと強力な敵が相手ではないと……な」


ヴィクトルの傲慢な言葉を、フェリスは息苦しさに眉を顰めつつも、うんざりした様子で返した。


「じゃあ、あなただけで戦えば済むことでしょう? 私達二人ぐらい、簡単に捻り潰せると思っているみたいなんだから」


「そのとおりだ。……だが、何故この状況で私がお前達に手を出さないか分かるか?」


ヴィクトルが手に込める力を徐々に強めていく。

フェリスは手足の痺れを覚えて、ヴィクトルの腕にかけていた自らの手を離す。……しかし、相変わらずその強気な姿勢を崩そうとはしなかった。


「ッ……逆らった者に、対する仕打ち? ……本当に趣味の悪い人達ね……」


フェリスが吐き捨てるように言った。ヴィクトルは嘲笑する。


「クク、良い答えだ。我々研究員に逆らうだけならまだしも、お前達は主の『所有物』にまで手を出したのだからな。まさか楽に死ねると思ってはいないだろう。
お前達が罪の無い者だと言う、同じ実験動物共と無用な命の奪い合いをし、最期に私の手によって葬られる……わざわざ私が手をかけてやるのだ、有り難く思うんだな!」


途端、ヴィクトルの手の力が急劇に強まった。首の骨がギシギシと嫌な音を立てる。

ついに窒息したフェリスは、意識が急速に失われるのを感じた。目の前が暗くなっていき、眼を開いているのかさえ分からなくなる。


「がッ……」


「フェリス!!」


背後からガークの声がした。フェリスの手放しかけた意識がほんの微かに引き戻される。

酷い耳鳴りで殆ど音も聴こえない状態だったが、ガークの力強い咆哮はしっかりと届いてきた。

振り向くことは出来ないが、少しずつ彼の気配が近付いてくるのを感じる。……このまま、このままやられている訳にはいかない。


フェリスは痺れた手を持ち上げて、ヴィクトルの腕にかける。その時、ガークの声が再び響き渡った。


「てめぇだけ先に逝かせたりしねぇよ!」


ガークは敵を無造作に蹴散らし、一直線にフェリスの元へと向かった。

彼女のスピードを越えるヴィクトルの能力に驚きはしたが、今は何よりもフェリスを救う方が先決だ。


(……俺の前でヒトが死ぬような目に遭うのは、もう懲り懲りだ!)


ガークは敵の群れに向けて跳躍し、彼等の頭を無造作に踏み付けると、そのまま敵を踏み台にしてフェリスの元へと駆けた。

狼獣人のガークを視界に収めたヴィクトルは小さな嘲笑を漏らす。


「ククク、この女を助けるつもりか? つくづく学習能力の無い奴らだ。……お前の手で、この女を殺すと良いさ」


「!」


ヴィクトルが視線をガークに合わせ、その瞳を凄ませる。フェリスはヴィクトルの様子を見て、はっと息を呑んだ。


(ガーク……!)


フェリスは眼を出来る限り後ろに傾けると、視界の端にガークの姿を捉えた。黒い狼の容姿を持ったガークは真鍮のように煌く眼を滾らせている。

このままでは、彼はヴィクトルの波動に操られるだろう。ヴィクトルの言うとおり、学習能力は無いかもしれないが……


「……頭が切れる……奴よりも、ずっと、良いけど……ね……」


「ほう、まだ喋る元気があったのか。少し手を抜き過ぎたようだな」


ヴィクトルはフェリスに視線を移して、そう呟いた。

フェリスは近付いて来ているであろうガークに対して、消え入りそうな笑みを浮かべると、すぐさまヴィクトルの鳥頭をギラリと睨み付けた。


「……こ、のッ!!」


フェリスは声を絞り出し、ヴィクトルの腕を両手で力強く握り締めたと思うと、彼女は眼をぐっと閉じた。




「! むっ……」


直後、青白いパルスが闇夜の中に照らし出された。バチンッ、という火花の散るような破裂音が響く。

ヴィクトルが軽い呻き声を上げ、フェリスから手を離した。ヴィクトルから離されたフェリスは、受身も取れずに地面に崩れ落ち、身体を震わせる。

周囲にキナ臭い匂いが漂っていた。その匂いと先ほどのパルスに、ガークは記憶の中の光景を思い返す。


「あの光……」


ガークはペルセと戦った時のことを思い返した。

彼女もまた、フェリスに対して同じようなことをやったような気がする。ペルセの腕から、青白いパルスが走ったことを、ガークは鮮明に覚えていた。

フェリスが言うには、一種の感電状態になったとぼやいていたが……今のヴィクトルは身体を僅かに痙攣させ、肩膝を突いている。


まさか……


「ぐくッ……貴様、よくも……」


ヴィクトルは素早く立ち上がった。――鱗に包まれた右腕が、黒く焦げ付き、血の固まった痕が痛々しく浮き出ていた。

その重傷を負った右腕を彼は左手で押さえながら、地面に倒れこむフェリスに向けて、忌々しげに言う。

一方で、濡れた地面に頬を押し付けたフェリスは、肩で息をつきながらもヴィクトルを睨み返した。


「……丸焼きにするまでには至らなかったみたいね……でも、利き腕を奪われたのは痛いんじゃないかしら?」


フェリスの言葉に、ヴィクトルがいよいよ眼を剥いた。


「貴様、初めからこうするつもりで襲ってきたのか? それほどまでに死を望むと言うのなら、今すぐ――」


「うらぁぁぁぁ!!」


直後、ガークの咆哮が轟く。彼はフェリスを跳び越えてヴィクトルの胸部に突進した。

ガークの肘による強烈な衝撃に、ヴィクトルは流石に後ずさる。鳩尾に打ち込まれた一撃は、彼の意識まで揺るがした。

ヴィクトルは何とか体勢を保ち、左手を胸に押し付けながら、荒い息を漏らす。その嘴の端からは、微かに血液が流れ落ちていた。


「ぐ……」


ヴィクトルが僅かに身体を屈ませる。初めて彼が見せた苦痛の表情に、ガークが鼻を鳴らした。


「ったくよぉ、こっちは二人だぜ? 雑魚はもう粗方片付けた。どう考えてもお前が不利だろ?」


「よくもそんなことを言えるものだな」


ヴィクトルはガークの言葉に抵抗するように言い放った。

そして橙色の目をガークに向けると、彼はゆっくりと両腕を構える。


「波動だけが私の武器である訳ではないぞ!」


言下、ヴィクトルの身体がガークの眼前に迫った。ガークはヴィクトルの突進をかわし、すかさず回し蹴りで反撃する。

微かに羽毛を掠めた感があったが、当然、手ごたえらしい手ごたえがあった訳ではない。相手は想像以上のスピードを持っているのだ。簡単に捉えられる筈がないのである。

ガークは舌打ちすると、素早く体勢を立て直して、再び襲い掛かってきたヴィクトルの右脇腹に獣爪を向けた。


「俺が解体してやんよッ! 肉屋にでも卸されとけ!!」


言下、ガークの咆哮と共に突き出された金色の爪が、ヴィクトルの胴をザックリと抉った。

……今度こそ確かな手応えだった。狼獣人の鋭い爪は、羽毛はおろか、ヴィクトルの強靭な筋肉さえも引き裂く。


しかしその直後、真っ赤な血が眼前を濡らし、一瞬ガークは意識を逸らしてしまった。

ガークが腕で血飛沫を拭おうとしたその時、彼の右肩をヴィクトルが荒々しく掴む。


「!」


「そんなものか? くだらんな」


彼は横暴にもガークの首に手を回し、ヴィクトルはあっさりとガークを地面へと叩きつけた。

それこそ、ものの数秒の時間でだ。その素早さに、疲労で横たわっていたフェリスは目を見張った。


「ガーク!」


ヴィクトルは相変わらず右脇腹から激しい出血を引き起こしているが、まるで痛みなど感じていないかのように動いている。

獣人は元々強靭な生命力を持つが、彼はその中でも並外れた能力を持つ個体だ。一見致命傷に見える傷でも、彼からすれば大した怪我ではないのかもしれない。

想像以上に大きい身体能力の差……フェリスは初めて戦慄を覚えた。恐らく同じ上位種個体だろうが、此処まで差が生まれるものなのだろうか。


「ぎががッこの鶏野郎」


フェリスが見詰める先で、ガークはすぐに立ち上がろうとしたが、それを阻止するようにヴィクトルの足ががっしりと胴を踏み付けてきた。

巨大な鉤爪を持った足は、その全体の体重に加え、ギリギリと身に爪を食い込ませてくる。ガークはマズルに皺を寄せて唸った。


「クソッ、退けよてめぇ!」


ガークは腕を背後に振って、ヴィクトルの脚に爪を立てた。……だが、硬質な鱗に遮られて、大した傷も与えられない。

仕切りにもがくガークを見下しながら、ヴィクトルは嘲笑を浮かべた。


「クク、フェリスとやらはそこで見ていると良い」


「!? ガーク!」


ヴィクトルの言葉に、フェリスは嫌な予感を覚えて、すかさず立ち上がろうとした。

だが、先ほどと同様に身体が言うことを利かない。放電のショックで自分自身にもダメージを受けていた。

手足が痺れ、身体中が鉛のように重い。激しい頭痛と眩暈までが身体を苛む。

慣れない技を使用した反動か……フェリスは歯を食い縛り、ガークの助けに入ろうと必死になって身体を捩った。


「フン、本来、鳥類に『手腕』という部位は存在しない。なんと言っても翼というものがあるからな。
……猛禽類が最も武器として使用する身体部位は何処か分かるか?」


ヴィクトルの問いに、フェリスは息を呑んだ。


「『脚』なのだよ。鋭利且つ強固な鉤爪に加え、獲物を圧死させることすら出来る筋力。
それが今、こうやって人間を越えるサイズを持った鳥人種に置き換えられたとするならば、その力は更に跳ね上がるだろう」




「!! がぁぁッ!」


直後、ガークが絶叫した。ヴィクトルが脚に力を込めて、ガークの胴を締め付ける。

肋骨が折れるような音と、肉が引き千切れるような……身の毛のよだつ音に、フェリスは思わず叫喚した。


「ガーク! ガークッ!!」


フェリスが全身に力を込めて立ち上がる。

やっとの思いで立ち上がったとはいえ、足がふらつき、目の前が揺れる。だが、身体の苦痛に甘えている暇はないのだ!

仲間の死など、二度と見たくない。それが、自分のせいであるというのなら尚更だ。


「動いて……動いてよッ!! ……お願いだから……ッ」


フェリスがそう叫んだ途端、目の前にドサッと音を立ててガークが転がった。

その背中から胴にかけて、凄まじい血が流れ落ちている。内臓にまで傷が達したのか、口からも出血が見て取れた。


「フン、まるで軟弱な子犬を捻り潰した気分だな。想像以上に脆いものだ」


ヴィクトルが放り投げた事実を知り、フェリスは彼の言葉を聞きもせずに、慌ててガークへしがみ付く。

握り締める手に、血の溢れる嫌な感触が伝わってくる。その上、豪雨の中でも掻き消されずに漂う強烈な血臭。


「ガーク!」


尚も続く夥しい出血。フェリスが裏返した掌には真っ赤な鮮血が付着していた。

ガークは瞼を硬く閉ざし、立ち上がる素振りを見せない。豪雨に打たれる身体から、どんどん熱が引いていく感触がした。

ほんのさっきまで、勇猛果敢に飛び掛り、豪勢な声を上げていた彼が、今、まるで糸の切れた人形のように臥している。

唐突に突きつけられた、受け入れ難い現実に、フェリスは頬に雨とは違う液体が流れるのを感じた。


嘘……こんなこと……


「ガーク! ガーク……目を覚ましてよッ」


フェリスはついにガークの身体を揺すった。

そうでもしなければ、何か感情の抑えようが無くなる……自我が崩壊するような気がした。

それでも、彼は何も反応してくれない。フェリスは歯を食い縛って、俯いた。


(……もう、嫌なのに……『あの時』誓った筈なのに……)


「二度と、自分のせいで人が死ぬことが無いようにって……!」


応える声は無い。雨と血に濡れる感触が、果てしない絶望を際立たせる。

あまりにも残酷過ぎる現実だった。苦しさや悔しさ、悲しさ……言葉では言い表せない感情が次々に込み上げてくる。


「嫌……こんなことッ! ガーク……いやあぁぁああッ!!」


フェリスは稲光の走る空を仰ぎ、雷鳴を掻き消すような勢いで慟哭した。





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