激しい雷雨の続く中、ガークは稲光を頼りに東へ向かっていた。
どれ程時間が経過しただろうか……ガークは軽く苛立って、背中に乗せたフェリスへと問い掛ける。
「どれだけ走れば良いんだよッ! 本当にこっちで合ってんのか!?」
「合っているわよ! どんどん乱れが強くなっていく……頭が割れそうだわ」
「いいさ、少しぐらいその生意気な脳ミソ撒き散らしとけ!」
「さり気無くグロいこと言わないでよッ」
ガークはフェリスを背に抱えたまま、延々と走り続ける。
もう軽く十数キロは走っているのだ。それなのに、まだ相手は掴めなかった。
相変わらずの豪雨が続く絶対不可侵区域は視界が悪く、敵が出てきても即座に対応は出来そうにない。
足元の泥濘に体力が奪われ、息が上がってくる。瓦礫の山や崩壊した家屋などは見付けても、生き物の気配はまるでしない。
こんなに走り続けるぐらいなら、敵と一発やり合った方がまだマシだ……そんなことを思いながら、ガークは舌打ちした。
「ちぃッ、お前の波動が使えないってのは、不便なモンだな。敵が何処から来るか分からねぇ……」
「そうね、今はガークの波動も捉えるのがやっとなぐらい。……でもそれほど乱れが強いってことは」
唐突にフェリスが言葉を切った。ガークもフェリスの視線に気付いて、反射的に足を止める。
――前方に、人影が見えたのだ。
雷光で一瞬のシルエットを浮かび上がらせる、ぽつんと立った不気味な人影。
その人影とは二十メートル近く離れているだろうが、普通の人間よりも巨大な影を持っていた。それこそ二メートル以上はありそうな巨躯である。
「あれは……」
……まさか、と、二人揃って息を呑む。すると、相手からこちらに近付いて来た。
じゃりっ、じゃり……という水に濡れた砂利が擦れ合う、鈍い足音。
ガークはゆっくりとフェリスを背から降ろし、両腕を構え、足を引いた。フェリスも呼吸を整えると、静かに相手を睨み付ける。
「……ほう、どれ程の勢力が来るかと思えば、たった二匹とは、笑わせる」
その人物は、ガーク達から五メートルほど離れた所立ち止まり、嘲笑交じりに呟いた。
相手は全身に黒いローブを纏っている。顔はおろか、身体全体がどのようになっているのか上手く視認出来ない。
唯、目を引くのはその大きさだった。獣人化したガークよりも更に頭一つ分大きい。
波動も匂いも断ち切られたこの状況下で、すぐに相手を獣人と決め付けることも出来ない。
依然として警戒していた二人だったが、その人物が漏らした言葉に、ガークもフェリスも眉を顰めた。
「何だよ、いきなり現れたと思ったら早速喧嘩腰だなコラ。……その喉笛食い千切るぞ」
ガークがマズルに皺を寄せて唸った。
だが、一方でフェリスは苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。
「ガーク。こいつよ……こいつが乱れの中心にいるヤツだわ」
「何だって……? 機械とかそんなんじゃなかったのか?」
ガークがフェリスに聞き返すと、相手が笑い声を上げた。
「そっちの犬は何も感じ取れないようだな。さぞ足手纏いだろう。……波動を扱うことが出来れば、色々と役に立つものだ。――こんな風にな」
その人物が呟いた瞬間だった。フェリスが目にも留まらぬ速さで、ガークの喉元を鷲掴みにする。
ほんの刹那の間に腕の獣人化を完了させた彼女の一撃に、反応出来る訳も無く、ガークは地面に転倒した。
「のわっ! 何すんだこの馬鹿ネコッ!!」
急に襲い掛かってきたフェリスの頭を掴み返しながら、ガークは叫んだ。
しかし、フェリスは喉元を離さない。その碧眼が、苦しげに歪んでいる。ガークは眼を見張った。
「……身体……が……言うこと……を、利か……な……いッ」
フェリスが片言に口を動かした。ガークはハッとして人物に目をやる。
「驚いたか? 何、生体電気の流れを軽く支配してやっただけだ。流石に思考回路まで操るような芸当は出来ないが、仲間と争わせるのは十分な能力だな」
「仲間割れしろってか……!? 趣味が悪いぜこの野郎!!」
ガークは咄嗟に力の弱まったフェリスを引き離し、瞬時に地面へ叩き付けた。
彼女には悪いが、今はそれ所ではない。ガークは地面を大きく蹴り、波動をかけた人物に向けて疾走する。
「その生意気な面を、見せやが……れッ!?」
ガークの爪による攻撃が、寸前で止まる。身体が、それ以上動かないのだ。
身体が硬直する……もとい、全身が痺れるような感覚に包まれ、息をすることさえ難しくなる。
もしや、と思って、目の前の人物に眼をやると、その人物は顔を覆うフードに手を掛けた。
「ようやく分かったか、そこの女と同じ感覚を味わう気分はどうだ? ……そんなに顔が見たいというのなら、見せてやろうじゃないか。冥土の土産にな」
そう言うと、人物はフードを引き裂いた。
バリバリという繊維が裂ける音がし、黒く濡れたローブが翻ると、その人物の全容が明らかになった。
――巨大な鷲の顔。
鋭利に歪曲した嘴に、猛禽類独特の獰猛な瞳。濡れた全身の羽毛が、雷光に照り返って美しく反射した。
嘴から顔にかけて黒い色素で覆われいるが、頭部から背にかけて焦げ茶色の羽毛が生え、胸部及び腹部は純白に染まっている。
……だが、鳥類にとって最も特徴的である『翼』は無い。翼の代わりには人間と同様に『腕』が備わっていた。
山吹色の鱗を持った足は、まさに獲物を圧死させることが出来そうな程に強靭である。
更にその手足に備わった鉤爪は鎌のような鋭さだった。筋力と爪の鋭さを合わせた攻撃を喰らえば、唯では済まないだろう。
ガークが無言で人物――鳥人とでも呼べばいいのだろうか――を見ていると、相手が静かに目を細めて言った。
「驚いたか? 鳥人種(ガルーダ)を見るのは初めてのようだな」
「……何だよ、翼もねぇ鳥ってか? んなモン鶏みてぇなもんじゃねーか」
ガークは腕組みをして、鼻を鳴らした。
相手はレオフォンと同じぐらいの体格を持っている。パッと見る限りでは完全なパワータイプだろう。
少しずつ足を進めてこちらへ来る、その鳥人を観察しながら、ガークは手足に力を込める。
そのガークの行動が、相手からは怯えに見えたのか、鳥人の男は微かな嘲笑を漏らした。
「フン、虚勢を張るのはやめておけ。見苦しいだけだ。……まぁ、お前ら実験動物共にはお似合いか」
「……何だと?」
鳥人の言った『実験動物』という言葉に反応して、ガークは金色の目を剥いた。
「一応、教えておいてやろうか。私の名はヴィクトル。こんな容姿でもGPCの研究員の一人だ」
鳥人の男は胸に手を置いて、静かにそう名乗った。
「研究員のクセに獣人なのね……全く、自業自得よ」
ふと、二人の会話を遮って、ガークに叩きつけられていたフェリスが起き上がった。
地面に叩き付けられた衝撃で、口の中を切ったのか、唇の端から血糸が流れている。
憎悪の篭った眼で睨みつけてくるフェリスを見ながらも、ヴィクトルは余裕の表情を崩さずに話を続けた。
「自業自得? 腑抜けたことを。……私は自ら進んで実験に身を捧げたのだ。一人の女性のためにな。
……残念ながら、人の姿を失う結果にはなったが、それでも強大な力を手にすることが出来た」
ヴィクトルはその特徴的な、鱗に包まれた腕を持ち上げて言った。
「一言に鳥人種と言っても種類は幾つか分かれている。
普通の鳥類のように飛行に特化した鳥人もいれば、私のように地を駆けることに特化した者もいるのだよ」
「鷲の顔をして、走禽類みたいなヤツってことね」
フェリスが血を地面に吐き捨てながら言った。
「要するに鶏だろ? もっと恐い獣人ってのはいっぱいいるもんだぜ!」
ガークが挑発するように叫ぶ。すると、ヴィクトルの橙色の瞳が静かに縮まった。
じりじりと、皮膚を粟立てるような殺気が、ヴィクトルから漏れ出す。だが、二人共引く姿勢は見せなかった。
「……なるほど、随分と躾のなっていない奴らだ。実験動物が、主である研究員に逆らうものではない。
長い自由の時間に酔いしれて、研究所にいる頃の恐怖を忘れたか?」
「そんなもの始めから無かったさ」
ガークはヴィクトルにはっきりと言った。
「研究所はそんなに恐ろしくも無かった。唯、あったとしたら、お前達研究員全員が気に食わなかった。それだけだ」
「今でもあなた達は許せないわ。獣人にされるだけならまだしも、そのお陰で色々と迷惑被っているんだから。
……手加減する理由はない。覚悟してもらうよ」
ガークもフェリスも怒りを露にして、その身を構えた。
さしものヴィクトルもつまらなそうに目を細める。
「大層な口を利くな……その虚勢が何処まで続くか見物だ」
そう言うと、ヴィクトルは指を鳴らした。すると、周囲から幾つもの獣人の気配が現れる。
依然として続く豪雨に紛れて、視界は殆ど無い。波動の乱れも継続して残っている。
敵である獣人達の『気配』は感じ取れても、その相手の居場所や種族までもを視認することは出来なかった。
ガークとフェリスは互いに背中を合わせた体勢を取りながら、呼吸を整えた。
「あの鶏が波動を使ってくることも考えられるな……油断は禁物って所か」
「相変わらず波動が乱されているお陰で、視覚に頼るしかなさそうだよ。……出来る限り、対応出来るようにしたいけれどね……」
フェリスがそう言った刹那、周囲の水煙を潜り抜けて、幾人もの獣人達が牙を剥いた。
――――――――
「ひぃ……ッ!」
狐の容姿を模した細身の獣人は、猛り狂う遙の攻撃から逃れて、崩壊した家屋の陰に身を潜める。
次々と遙の爪牙に打ち砕かれていく仲間達。ある者は喉を一文字に裂かれ、ある者は心臓を一突きにされ……
遙が同じ相手に二度攻撃することは無かった。一撃で絶命させられていく光景……その力量の差は歴然としていた。
狐獣人は遙の様子を物陰から見ていたが、依然として止むことの無い豪雨と血飛沫が入り混じり、その姿はあまりはっきり視認出来ない。
だが、確実に届くのは肉と骨を断つ音と、遙の怒り狂った咆哮だった。遙は血を浴びては牙を剥き出し、次々と獲物に飛び掛っていく。
その姿はまるで獣人さえも越えた……まさに『化け物』だった。いずれ自分にも手が回ってくることに恐れながらも、狐獣人はその場から離れることさえ出来なかった。
……ふと、背後に冷たい気配を感じて、彼は慌てて振り向いた。
顔を上げた先には、嫌らしい笑みを浮かべたチャドが立っている。
「チ、チャド、お前、どうしてあんなことを……」
狐獣人が問い詰めると、チャドは遙に視線を向けたまま、小さく笑った。
「どうしてって、俺はハルカの本気が見てみたいんだよ……まぁ実際は見るだけじゃなく、戦いたいんだがな」
「そういうなら、今すぐ出て行って、ヤツを止めろよ! あれじゃあこっちは全滅してしまう……!」
「そんなのハナっから分かっているんだ。全滅なんざ、予想の範囲だよ」
チャドは部下の言葉を跳ね除けた。狐獣人は呆然とした表情になる。
「何のためにお前達をハルカに『与えた』と思っているんだ。
ハルカは獣の血を浴びることで更に力を増す……お前達を全員殺す頃には、俺にも全力で向かってきてくれると思ってな」
「そんな……馬鹿な、オレらは唯の餌だっていうのかよ……」
「そのとおりだ。そういうことで、お前もハルカに食われろ。なぁに、ヤツは苦しむ暇も与えないぐらいの速さで殺してくれるさ」
「ふ、ふざけるなッ! いつまでもてめぇになんか従ってられるか!」
いよいよ身の危険を覚えた狐獣人が、踵を返して逃げ出そうとするのを見て、チャドは眼を細めた。
――そしてその刹那、目にも留まらぬ速さで狐獣人の後頸部に爪を突き刺す。
「!!」
狐獣人は目を剥き、口から血を噴きだした。そのまま崩れていく様を見詰めながら、チャドは笑う。
「はっ、死ぬってのは簡単なモンだったろ? 難しいのは生き延びることだよな」
チャドは狐獣人の亡骸を放置し、血に濡れた指先を口に含むと、勢い良く息を吹き出した。
ピィッ! と、甲高い口笛が響き渡る。それは豪雨の嵐をも突き抜けて、遙の耳に届く。
「ぐる……」
遙は熊獣人の重い首に喰らい付いたまま、チャドに眼を向けた。
チャドの姿を視認すると、遙は死骸の首から口を離す。そして、眼をギラリと光らせると、一直線にこちらへ向かってきた。
「がぁぁッ!!」
遙は刮目に値する程のスピードで、チャドに肉迫した。
遙の吼え声と、紅色の爪が風と雨を切り裂く冴えた音が、チャドの耳に届く。
その遙の鋭利な爪が、チャドの心臓に吸い込まれようとしたその時……
パシッ
遙の手が止まった。……チャドの手が、遙の腕を掴んでいたのだ。
「どうした? えらく遅いじゃないか。それがお前の全力なのか?」
「がうぅッ!」
遙は人の言葉で返さず、唸り声をチャドに浴びせた。
その理性を失った顔立ちは、すでに獣に近い感じが漂っている。人としての心を持った遙は、今此処にいなかった。
憤る遙の形相を、チャドは待っていたとばかりに凝視した。敵である相手への容赦や躊躇を一切払拭した、殺気に満ちた顔立ちを……
チャドが陶然とした様子で見詰めていると、遙がすかさず空いた左腕を突き出してきた。
「おっと、危ないな」
チャドは遙の左腕も掴み取り、ニヤリと笑った。
遙は依然として憤慨した様子でチャドを睨み付ける。その血に濡れた口元から、鋭い犬歯が剥き出された。
「ぐがぁぁッ、ぐるるッ!」
「……あんまり吼えるヤツは、弱いヤツの証拠だぜ? ハルカァ!!」
言下、チャドは遙を両手を掴んだ状態で持ち上げ、勢いをつけて地面に叩き付けた。
遙はその強烈な衝撃に身体が付いていかず、ほんの一瞬、隙を生じさせる。
その隙を、チャドは逃さなかった。
「ハッハァーッ! 嬉しいぜ、戦おうってするお前の、その燃え上がった眼がよぉ。その勢いで俺を殺れるモンなら殺ってみな!!」
チャドは続いて遙の頭を鷲掴みにすると、近くにあった家屋の壁に激しく押し付けた。
コンクリート製の壁が衝撃に耐えられずに崩れる。遙の額から血が噴き出た。
「がッ……」
遙が脳震盪で意識を手放しかけると、チャドは間髪を入れずに彼女の左腕を掴む。
獣人の腕力で左腕の関節が押し潰された。ミシッ……と鈍い音がし、遙は呻く。
(熱い……身体が、熱い……!)
ふと、遙の中に、ほんの微かだが『人間』の意識が舞い戻ってきた。
だが、痛みは感じない。唯、異様な熱を帯びて全身に血液が駆け巡っている。
チャドに喉を咬み付かれ、軽く引き裂かれても、血が流れても、痛みが無かった。
それどころか、全身の戦闘本能は猛る一方である。……獣の生存本能が、ついに牙を剥いた。
「がぁッ!!」
遙はチャドの猛攻を無理に手足を捻って掻い潜り、素早く太い首に咬み付く。
しかし、ぎりぎりと顎に力を込めるが、相手の襟首に生える剛毛が皮膚に牙を通さない。
それでも牙を立て続ける遙に、チャドは憮然とした面持ちで溜息を漏らした。
「……何だぁ? 予想以上に、お前は弱いんだな。もっと強さに期待していたんだが」
チャドは遙の肩を掴み、強引に牙を引き離す。
襟首の獣毛が何本か持って行かれたが、血液が滴った様子は無かった。引き離された遙は咽込む。
苦しげに呼吸をする遙を持ち上げたまま、チャドは耳を伏せて鼻を鳴らした。
「頭に血が昇り過ぎたか、それとも、怯えているのか……どちらにせよ、期待はずれって所だよ」
その途端、チャドは遙の脇腹に獣爪を突き立てた。バッと血が噴き上がり、遙の口から血が流れ落ちる。
内臓を貫かれる激痛。痛みが稲妻のように全身へ駆け巡り、遙はその瞬間、一気に意識が引き戻されるのを感じた。
「が、うぐああぁぁ!!」
チャドが手を離すと、地面に転げ落ちた遙は、泥水の上でもがいた。
急速に戻ってきた『人間』の意識。理性を取り戻した瞬間、身体中に走ったのは耐え難い激痛だった。
臓腑が焼け付くような熱に、手足がもがれるような痛み。……頭が混乱する程の痛みに、遙はチャドの存在すら忘れかける。
遙は今すぐにでもこの場から離れようとするが、出血に身体が言うことを利かなくなっていた。
「はぁッ、はぁッ、うぅぅぅ……」
遙は傷口に両腕を押し付け、仕切りに出血と痛みから逃れようとする。
だが、その様をチャドが見逃す訳も無い。遙がはっと顔を上げた瞬間、視界を黒い影が覆い尽くす。
「がっ」
チャドが遙の頭を踏み付けた。
頭を押さえ付けられたお陰で、額から再び出血が始まる。遙は言いようの無い不快感を覚えた。
「どうした? ようやく夢から覚めたか、ハルカ」
チャドの声だ。遙は茫洋とした視界を治めながら、チャドの言葉に耳をやった。
返答はおろか、全く反応を示さない遙に、チャドはほんの少し笑みを浮かべる。
「クク、良い顔だったじゃないか。いつ見ても良いモンだぜ、ああいう顔は……
我を忘れて痛みも感じなくなったヤツが、死ぬ間際に唐突に理性を取り戻して、絶望に襲われる様はな」
チャドは遙の頭から足を離して言った。
「ちょっと昔を思い出すぜ。まだロムルスで軍に捕まる以前のことでな、今のお前と同じような女に会ったことがある。
綺麗な黒髪をした、軍人の女だったか……」
チャドは酔いしれたように眼を細めて話し始める。
「俺の仲間に我を忘れて飛び掛って、銃を突きつけてな。恨みでもあったのかもしれねぇ。
まぁ、今となっちゃ分からないさ、何しろ、俺が背後からナイフで肺を一突きにして殺してやったんだからな……こんな風に!」
「! がぁッ!!」
言下、チャドの爪が遙の背に食い込んだ。
あまりにも唐突過ぎる激痛に、遙の心臓が激しく脈打つ。眠りかけていた意識が一気に覚醒した。
「まだ眠るなよ、お楽しみはこれからなんだぜ?」
チャドは遙の背から爪を引き抜き、呻く遙を見詰めながら残酷な笑みを浮かべた。
「クックク、俺もそこまで鬼じゃないんでな。お前に少しの間チャンスをやろう。今から五分間だけ時間をやるよ。その間、俺は何もしない」
遙は逆流してきた血を無理に飲み下し、荒い息を吐く。
その間も、チャドの嗜虐的な言葉は耳を掠めて行った。
「俺に向かってくるも良いし、何処かに逃げて回復を待つのも良い。……もちろん、仲間を呼びに行くってのも良いぜ。
出来ることならって所だが、ハハハハッ」
チャドの笑い声に、遙は歯を食い縛った。
「早いとこしねぇと、『あの方』が来るからな。さっさと始めさせてもらうぜ」
その途端、チャドは遙を蹴り飛ばした。水溜りに頬を押し付けた遙は苦痛に耐えながら身体を起こす。
「はッ……はッ……」
遙はチャドに視線だけを向ける。相手は依然として笑ったまま言った。
「急いだ方が良いぞ? 俺は五分後には容赦無しにお前に牙を剥くぜ」
遙はゴクリと唾を飲み込むと、全身に走る凄まじい痛みに耐えながら、ゆっくりと起き上がった。
そして、傷口を庇うように身体を屈めると、時折倒れ込みそうになりつつも、その場から早歩きで立ち去る。
「……うぅ」
ふらつきながらも、途中から駆け足に変わって行く遙の背を見詰め、チャドは口笛を吹いた。
「逃げた……か。賢明な選択だ。生き残ることを考えれば……な。何もそこまで馬鹿じゃないらしい、クックク」
チャドの笑い声が響く中、走り去る遙が背を、稲光が何度も照り付けていた……
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