「……はぁっ、はぁっ!」
遙は間髪を入れずに攻撃を繰り出してくる獣人達に対して、防戦の一方となった。
相手が複数となると、反撃をする間に他の相手から攻撃を加えられる。
その上、相手の獣人はどれも攻撃系に特化したような者ばかりだった。遙の小さな身体など、一撃を受けただけでも大怪我は免れないだろう。
今は攻撃を避けることしか出来ない。だが、遙は着実に敵の爪牙によって、掠り傷を受けていった。
(獣人化しないと……これ以上、人間の身体で持たせることは出来ない!)
遙は頬の切り傷を腕で拭うと、小柄な体型を活かして、敵同士の間に生じた隙間に一気に飛び込んだ。
そのまま敵の環から外に逃げ出そう試みる。遙の唐突な動きに、相手の攻撃がほんの一瞬、止んだ。
(抜けた……?)
遙は後方を振り返りながら、素早く立ち上がった。背後にはこちらを追い駆けてくる獣人がいるものの、逃げ切れない速さではない。
しかし、これで全て解決する訳ではなかった。まだ獣人化が不慣れな遙にとって、フェリスのように素早く獣人化を遂げることは出来ないのだ。
もっと敵を引き離して、集中しなければ……遙がそう思って、再び前に視線をやった時だった。
「おっと、逃げられちゃあ困るぜ?」
耳元で突然、チャドの声が響いたかと思うと、遙が声を上げる暇も無く喉元を咬み付かれた。
蝙蝠とはいえ、牙を持たない訳ではない。それだけではなく、その頑丈な顎の力は相当なものだった。遙は息が詰まり、仕切りに手足を動かして抵抗する。
「クク、此処でお前を殺すつもりはねぇ、唯、折角これだけの『餌』を用意してきたんだぜ? もっと遊んでやってくれよな!」
そう言うと、チャドは口を離し、遙を放り投げた。
衝撃と共に、再び敵陣の中に落下した遙は、慌てて頭上を見上げる。――しかし、そこにはすでに巨大な獣腕が迫っていた。
「! ……ぐぁッ」
驚きのあまりに目を閉じた途端、首に凄まじい圧力がかかる。
遙の首を鷲掴みにして持ち上げたのは、雄々しい鬣を持つ獅子獣人であった。
雨で濡れた獣顔。その口吻には皺が寄り、下顎から覗く犬歯は、遙の喉笛などいとも簡単に引き裂けそうな鋭さだった。
本能的に恐怖を覚えた遙は、獅子獣人の手に爪を立てる。……しかし、それで相手が揺らぐ訳でもない。
「……これがキメラ獣人とは、笑わせてくれる。あのチャドがこんな小娘にやられたというのか?」
「はぁ……はぁ……はッ」
獅子獣人は憮然とした様子で呟いた。その低くしゃがれた声が遙の耳に届いた刹那、首を絞める力が強まる。
気管が押し潰され、声はおろか、息さえ吐き出せない。脈に合わせて頭が激しく疼いた。
「フン、つまらんな!」
言下、獅子獣人は遙を地面に叩きつけた。
途轍もない衝撃に、遙の肋骨が何本か悲鳴を上げる。肺の空気が全て押し出されたお陰で、声さえ出なかった。
更に、相手は獅子獣人だけではない。遙が倒れ込んだのを機に、灰色の体毛を持つ狼獣人が喉元へ咬み付いて来た。
……今度は締め付ける形ではなかった。狼獣人はそのまま首を引き、遙の喉を引き裂く。
「!!」
一瞬何が起きたか分からなかった。唯、真っ赤な鮮血が顔を濡らす感覚が鮮明に映し出される。
死が直前に迫る感覚? 違う、凄まじい痛みが熱を持って駆け上がってきた。
「うぐあぁぁッ!!」
遙は痛みに声を上げた。
身を捩って喉を押さえ込む。引き裂かれた箇所は鎖骨に近い部分だったらしく、喉の付け根辺りから噴き出すような出血が起きた。
心臓が激しく脈打ち、口の中に血が逆流してくる。遙は堪えきれずに血を吐いた。
「はぁ、ぐぅう……うう」
敵は再び攻撃してくる様子は無かった。生け捕りが目的だからだろうか?
……しかし、そう思った途端、目の前に巨大な足が見えた。
蝙蝠の足……遙は霞む目を少し上へと上げる。そこには傲慢に立ちはだかるチャドの容姿があった。
「どうした? えらく苦しそうだな、ククク……そんなもんじゃないだろう、お前の力は」
チャドは揶揄するような口調で遙に言った。
遙は息を吐きながら、眉を顰める。首の出血により、声を出すことは出来なかった。
「言い事教えてやるよ。獣人化ってのは、獣人の肉体でしか生産されない、ある種のホルモンが分泌されることで引き起こされるらしい。
特に獣人化した時には、血中のホルモンの濃度が急劇に跳ね上がるらしいぜ?」
何を言って……遙は瞼を閉じかけながら、チャドの言葉を聞いていた。
――ふと、頬に雨粒以外の液体が付着する感触がした。
首を僅かに上げて見ると、チャドの手から血液が滴ってきている。
遙は眉を訝しげに曲げながら、彼の行動を見ていた。その茫洋とした遙の視線を受けながら、チャドはニヤリと笑う。
「獣人化出来ねぇっていうのなら、無理にでもさせてやろうじゃないか」
「! がぁっ!」
言下、チャドの掌が口元に押し付けられ、遙はもがいた。
口の中に流れ込んでくる血の味と臭い。鉄錆のような苦味が口内に広がると、遙は咽込んだ。
鼻も押さえられていたため、呼吸が出来ず、遙は喉を鳴らして反射的にチャドの血液を飲み込む。
……その途端、全身が焼けるような熱を帯びた。
脈拍が跳ね上がり、瞳孔がカッと見開く。手足が急速に重力から解き放たれていく感覚……
だが、遙は身体の劇的な変化を抑えようとした。普通の『獣人化』の感覚ではない。
(暴走……!? 止まれ……ッ)
意識の侵食はゆっくりとしたものではなく、激しい波のように遙の理性を奪い去っていく。
遙はチャドの手を離そうともがいた。しかし少女の力で離れる訳が無い。
視界が狭まる中、人としての意識が無くなりそうな恐怖に、遙はチャドの手に爪を立て続けた。
(嫌だ……獣に、呑み込まれる……意識が無くなって……)
その刹那、遙は激しい心臓の拍動を感じ、ついに意識を手放した。
――――――――
「波動の……波動の乱れが激しい方へ。そこに何か仕掛けがある筈よ。此処ら一帯の波動を乱す何かが……」
フェリスは獣人化したガークに告げながら、先導して豪雨の中を走り続ける。
すでに空は暗がりに染まり、時折、大地が轟く程の轟音を響かせて、稲妻が曇天の空を切り裂いた。
雨のお陰で、荒地には幾つもの水溜りが生じ、思わず足が取られる。いつものような速さが出し切れないもどかしさで、ガークは唸った。
「ちぃ……ッ、こんな時に雨なんてついてねぇぜ。後どれだけ走ればいいんだ?」
「分からない。けれど、少しずつ近付いている……それは分かるよ」
フェリスは頭を押さえながら答えた。しかし、その直後、泥に足を取られて真正面から転ぶ。
「ぶわ!」
「な、何やってんだ……まったく」
フェリスは慌てて起き上がり、泥水で濡れた顔を服の袖で拭っていると、横からガークが手を差し出してきた。
「きついんじゃねぇか? さっきから俺よりも足が遅い気がするぜ」
「そんなことないわ。大体、ガークは獣人化してるし、体重が重いから足を取られにくいんでしょ?」
フェリスが強がりつつ再び立ち上がろうとすると、ガークは素早く彼女の腕を掴んだ。
驚く彼女を他所に、ガークは強引にフェリスを背中に乗せる。フェリスは顔を赤くして叫んだ。
「ちょっとガーク、私は大丈夫なんだからッ、降ろしてよ! 余計な気遣いは必要ないから……」
「何か雨が強くなってきたなーってな」
文脈を無視して、ガークはわざとらしく空を仰ぎながら言った。
ガークの言葉にフェリスは首を傾げたが、彼は相変わらず空を眺めたまま続ける。
「雨脚が強まってきたからな。水に濡れるのが嫌だからよ、お前が雨合羽代わりになんねーかな、なんて」
「……嘘が下手糞なんだから、全く。私を抱えていても平気なの?」
フェリスが問うと、ガークは犬歯を剥きだして笑みを漏らした。
「お前こそ遙の五倍ぐらい体重ありそうだけどな。今は筋トレの一環として運んでやるよ。ほら、方向はどっちだ?」
「ったく、その言葉を忘れたら駄目よ。この件が終わったらちょっと付き合ってもらうからね!
……此処から見て右側……東の方角よ、もっと奥の方に『乱れ』の中心がある気がするわ」
「ははッ、悪ぃ、匂いは覚えておける自信はあるが、てめぇの愚痴まで覚えておける気はしねーよ。じゃ、とっとと行くか!」
ガークはすぐさま走り出した。稲光で照らし出される周囲の風景が、あっという間に霞んでいく。
フェリスは溜息を漏らしつつも、ガークの黒い背に身体を預けた。
久し振りに他人の背に身体を預けた気がする。……フェリスはガークに分からない程度の微笑を浮かべた。
――――――――
チャドが手を離した時、遙は気を失っていた。
薄目を開けたまま倒れ込んだ遙を、チャドの部下である獣人達が見下ろす。
「何だ、全然大したことない相手ではないか。獣の血を与えたのにも関わらず、意識を失うとは……」
獅子獣人が呆れたように吐き捨て、遙の小さな頭を踏み付けた。
その様子を見たチャドは眼を細める。
「クク……どうだかな。お前が思う以上に、化け物かもしれねぇぜ?」
チャドは身を翻し、道路が盛り上がった高台へと降り立った。
そこにどっしりと胡坐を掻き、獣人達の視線を浴びる中、ニヤリと笑う。
「感じないのか? キメラの鼓動とやらを……死にたくなければ、離れた方が良いぜ?」
「? 何を言う。お前こそ臆したのではないか?」
獅子獣人が言い終わった直後だった。……遙の指先が微かに動く。
指先が動いたと思うと、次は手がゆっくりと動き、地面に爪を立てる。踏み付ける足を通して、遙の静かな鼓動が伝わってきた。
遙の変化を見て、獅子獣人は目を見開く。
「ほう、まだ動く気力が残っていたのか。……だが、無駄な抵抗だ。大人しくしておくがいい」
そう言って、獅子獣人は遙の頭を踏む力を、更に強めた。
しかし、遙は立ち上がろうとするのをやめない。逆に、その手が獅子獣人の足を掴んだ。
「……がぁ、ぐぅぅ」
獣の唸り声を発した遙の身体に、少しずつ変化が訪れる。
ぎしぎしと遙の腕が軋み、手足に血管が浮き出ていく。身体の筋肉が引き締まり、鼓動が徐々に大きくなり始めた。
と、その時、遙の頭が、獅子獣人の足を持ち上げる。
踏み付ける力を強くしても、遙は伏せなかった。それどころか、足を掴む右腕に劇的な変化が訪れた。
手の甲が黒灰色の羽毛に、掌側は碧色の美しい羽毛に覆われていく。肘からは漆黒の房毛が吹き出した。
そして、平爪が鋭利な鉤爪へと歪曲し、鮮血を彷彿させる紅色に染まる。獣人化を遂げた遙は、唐突に腕へ力を込めた。
「! グアッ!!」
ざくっ! と、鈍い音を立てて、獅子獣人の足に遙の爪が食い込む。
まるで紙を破るような容易さで、強靭な筋肉を具えた足から血が噴き上がった。
足の力が弱まった途端、遙は獅子獣人を押し退け、信じられない程のスピードで起き上がる。
「がぁ……ぐがぁぁぁッ!!」
遙が大地を震撼させるような咆哮を上げた。少女のものとは思えない凄まじい咆哮に、周りを取り囲んでいた獣人達も慄く。
声帯にまで変化が及んでいるらしい。遙は咆哮を止め、周りをじっくりと見回した。
遙がすぐに動く気配は無いと見ると、引け腰になっていた獣人達もゆっくりと間合いを詰め始める。
遙の背後に回っていた獅子獣人は、僅かに警戒していたものの、戦慄するまでには至らなかった。
「まさか俺の身体を押し退けるとはな。……だが、二度目は――」
その遙の無防備な背に向けて、巨大な拳を放った――筈だった。
しかし、その手は寸前で止まっていた。……止められていたのだ。
遙の獣腕が、獅子獣人の腕をがっちりと掴み、彼が押しても引いても動かなかった。
その時初めて、獅子獣人は遙の恐怖を感じる。全身を貫くような殺気が遙から解き放たれた。
「何だと? こんな小娘に……ッ」
「がぁッ!!」
遙が牙を剥きだして吼えた。ほんの刹那、獅子獣人の腕が切り離される。
ザンッ、と肉と骨を両断するある種の湿った音。その音を聞き取った獅子獣人だったが、痛みが回ることは無かった。
――腕を切断したその直後には、遙の返した右腕が、彼の喉笛を易々と貫いていたのである。
即死した獅子獣人は、目をぐっと見開いたままその場に崩れ落ちた。
そのあまりにも速過ぎた光景に、周りにいた獣人達は遙から本能的に後退る。
「ぐるる……」
遙は喉を震わせて唸り、鮮血のように赤い眼で他の獣人達を見る。
その眼光に、皆が皆、『恐怖』を感じた。現に獣人達の内の何人かは逃げ出す構えを見せている。
……だが、すでに遅かった。
遙はゆっくりと指先を曲げる。鮮血色に染め上げられた瞳が、自分の敵である周りの獣人達を全てマークした。
「がぁぁぁあッ!!」
その刹那、遙は再び咆哮を轟かせ、敵に向けて襲い掛かった。
Back Novel top Next