四方が白い壁に囲まれた、薄暗い廊下。背後から青白い光が照り返し、自分自身の影を行く先に落とした。

等間隔で天井の縁に小型の監視カメラが設置されており、音も立てずに廊下を横切る者へと視線を向ける。

塵一つ散っていない床を、その人物は大きく蹴って歩く。足音以外に物音のしないこの空間では、その音が異様に響き渡った。

やがて、口元に薄笑いを浮かべた人物は、一つの扉の前で足を止めた。その白い扉は固く閉じられており、ドアノブのようなものはない。

代わりに、扉の横には小さなセンサーのようなもの……生体認証装置(バイオメトリクス)が取り付けられている。


丁度目線の位置に設置された、その黒いセンサー部分に、人物は目元を近づけた。

すると、間髪を入れずに小さな機械音がし、白い扉がゆっくりと開く。



「おかえりなさい、チャド」


ドアが完全に開き切らぬ内に、声がかかった。部屋に踏み込もうとしていた人物――チャドは目を瞬く。

チャドが視線を向ける先には、こちらに背を向けてデスクの前に座る女性がいた。

チャドはその姿を見て、再び感じの悪い笑みを口元に浮かべる。


「クク、ドアを開ける前に刺されるかと思ったが、そうでもなかったみたいだなァ。慈悲深いクロウ様」


「あなたの返答次第では、どうなるか分からないけれどね」


椅子を回して、チャドへと顔を見せたのは、冷艶な笑みを浮かべた黒髪の女性――クロウであった。

普段纏っている漆黒のトレンチコートとは裏腹に、現在は真っ白な白衣を着ている。

だが、その冷徹な印象があまり変わらないのは、相手の意識を穿孔するかのような瞳のせいなのだろうと、チャドは心の中で苦笑した。


「出来れば勘弁願いますよ。それで、どのようなご用件で?」


クロウは吹っ切れたようなチャドの問いに、冷笑を浮かべて答える。


「ペルセから事情を訊こうかと思っていたけれど、答えきれない程に痛めつけられていたわ。代わりにあなたから訊かせて貰おうかと思って。
今回のハルカとの接触で何か掴めたことと……どうして連れ戻すことが出来なかったのかを、ね」


「そりゃあ、参ったね」


チャドは言葉とは打って変わって余裕の笑みを見せながら、蓬髪を掻き揚げた。


「何、特に報告なんてモンもない。唯、あのハルカは、あんたの造り出した黒虎も倒せる程の力を持っているってことだ」


「そして、あなたもやられた、ということ?」


「ククク、俺は本気を出してあいつに飛び掛った訳じゃあない。この額の傷は油断から出来たモンさ。その気になりゃあ、いつでもやれる相手だよ。
ペルセとやらの力量は相当なモンだと思っていたんだ。あいつ一人で十分だと踏んでいた結果がこれさ」


「そう。でも命令違反に違いはないわ。……今回は容赦してあげるけれども、次は無いと思いなさい」


「以後、気を付けますよ……」


チャドは前髪に隠れた目を細めながら答える。その言葉に、クロウが微かに肩を揺らした。

その動作で、彼女の背で見えなかった、デスク上のパソコンがチャドの視界に曝け出される。

チャドはクロウの隣まで移動して、パソコン上の画面へと視線を落とした。


「あなたにしては珍しいわね。これが気になる?」


画面には、心電図のようにも見える折れ線グラフに加え、数字や英字が羅列している。画面は随時更新されているようで、次々と違った英数字が流れていっていた。

チャドが物珍しそうに見詰める中、クロウが背凭れを鳴らした。


「ハルカの細胞から抽出したサンプルを、DNAシーケンサにかけているのよ。ペルセの身体に付着していたものを採取して……ね」


クロウはパソコンの左側に置かれた、一見金庫のような形をした大型器具を指差しながら言った。


「この機械で、ハルカのゲノム配列情報を分析して、あの子のDNA内にどれ程獣の遺伝子が含まれているかを調べているだけよ。
……とは言っても、採取したサンプルの損傷が激しかったから、完全に検査することは出来ないけれど」


「クククッ、えげつないねぇ……」


チャドは身体を持ち上げて、肩を鳴らした。

クロウを含め、GPCの研究員らは、被験者達を実験動物程度にしか見ていないのだろう。同じ人間としては見ていない。

……いや、すでに人間ではないか。自分といい、クロウといい、完全に人間から逸脱した存在だ。


「ま、強い者が弱い者を支配するってのは、自然の原理だな」


「? いきなり何を言い出すかと思えば。……そういうことなら、私の命令から背かないことね」


背筋を音も無く這い上がる、ゾッとするような殺気に、チャドは内心辟易した。

まさに、数日前に感じた、あの遙と同じぐらいの――


ふと、チャドは顔を上げた。




「……そうだ、ハルカのことだが。あいつは『飛べる』のか?」


何気なく漏らした一言だったが、クロウは眉を上げた。


「あら、興味深いことを言うのね。どうしてそう思うのかしら?」


「俺は学校の屋上からハルカを突き落とした。下までは受けもない、人間なら即死って感じの高さだった。
それなのに、あいつは次の日もピンピンして生きていたんだよ。仲間が助けに入った波動も感じなかった」


チャドは顎を擦りながら呟いた。

確かに、あの時の状況で遙が生きているわけが無いのだ。幾ら再生力に優れた彼女でも、落下の衝撃に耐えられる程ではあるまい。

遙は半端なキメラ獣人。しかし、それ故に、体内に眠る遺伝子の種類は不確定だ。飛行能力を有した遺伝子を持っていても可笑しくない筈。


「何の遺伝子を挿入したか、教えてもらいたいモンだなぁ。あいつの本気ってヤツをこの眼で見てみたいからな」


チャドは自分の目を指差しながら言った。

遙の『本当の姿』。あの両腕だけでも何の遺伝子が含まれているのか特定出来ない。

そうなるとありとあらゆる遺伝子が組み込まれている可能性は十分にある筈だ。それらが全て発現した時、遙はどんな姿になるのだろう。


しかし、チャドの期待に対して、クロウは嘲笑で返した。


「……残念だけど、ハルカについてのデータは機密事項よ。あなたには教えることは出来ないわ。
それよりも、次のことについて考えないとね……チャド」


(……やっぱり教えちゃくれねぇか。まぁ当然のことか)


クロウの答えを聞いて、チャドは不吉な薄笑いを浮かべた。






――――――――






開放した窓を通して、室内に広がる爽やかな風。

風に混じって、若葉の馨しい香りも流れてくる。清々しい空気が肺に満たされる感覚……何とも心地の良いものだった。

そうやって何度か深呼吸を繰り返していると、睡魔が襲ってきた。薄く開いた視界が微かにぶれ、瞼が酷く重くなってくる。

痛んだ身体を、優しく包み込むような風の流れに、遙は睡魔に逆らうこともなく静かに瞼を閉じた。


(……気持ち良い)


丁度良い温度を持った寝台のシーツに背中を預け、布団も被らずに遙は横たわっていた。

こうやって長閑な一時を過ごすのは久し振りである。

故郷に戻った時も、ゆっくりと過ごすことが出来なかったせいか、今日はやけに時間の流れが遅く感じた。

獣人に追われる心配もない、自由で快適な時間。今から続く日々を思えば、ほんの一時かもしれなかったが、今はこの時間が長く続くことを望んだ。


(今頃、皆はどうしているんだろう。学校に行っているのかな……?)


「ズル休みみたい……」


ふと思い浮かんだ情景に、遙は思わず独り言を呟く。この場所……絶対不可侵区域に戻ってきてから、一週間が過ぎていた。

こっちに戻ってきてからというもの、落ち着けない日々が続いていたのだから、こうやって故郷のことを思えるのも久し振りである。


コン、コン


ふと、耳に届いたノックに、遙は薄らと瞼を開けた。夢見心地だった意識が、すっと冴えてくる。


「はい……?」


遙が寝そべっていた上半身をゆっくり起こしながら返事をする。


『遙、私だ。入っても大丈夫か?」


「あ……大丈夫です。どうぞ」


すっかり聞き慣れた落ち着いた男声を聞き受け、遙はもう一度ぎこちない返事を返した。







「もう怪我は平気か?」


その巨体が微かに身体を動かすと、ギシッ……と椅子の脚が悲鳴を上げた。

真っ白な鬣が微風で静かに靡いている。背から伸び上がる逞しい翼に加え、威厳漂う獅子面。

遙はその獣顔を陶然と見詰めながら、小さく頷いた。


「はい。もう大丈夫ですレオフォンさん。昨晩にはもう塞がってました」


「それは驚きだ。だが、無理はするものではない。今暫し、ゆっくりしていると良い」


白い獅子獣人の姿をしたレオフォンは安堵の笑みを含みつつそう言った。

遙はもじもじと両手を絡めながら、レオフォンから目を逸らす。

絶対不可侵区域へ戻ってきてから、遙は何かとレオフォンに頼るようになっていた。

そんな遙の甘える様子を見て離れ辛くなったのか分からないが、レオフォンはもう暫くこの場に留まると告げていた。

ガークやフェリスもそうだろうが、何処か父性を感じさせる面がある彼に、遙は幼い記憶に残る父親を投影させているのかもしれなかった。

遙自身ははっきりと気付いていないのだが、やはり父親がいない不安は拭えないものだったのである。

そんな所で出会ったレオフォンには、何だかんだで甘えずにはいられなかった。しかし、もう高校生の身である。自立すべき時でもあるだろう。


(もう十五歳だから、恥ずかしさもあるのだけれど……)


遙は甘えっ子な自分に対して気恥ずかしさを覚えて、小さく溜息を漏らした。

ふと、レオフォンが身体を僅かに捻り、部屋の左手に置かれた机の上から、小さなコップを取り出す。


「今、起き上がれるか? 少しの間だけで良いのだが」


遙はレオフォンの声に反応して、ぱっと顔を上げた。

レオフォンの差し出すコップの中に、薄く緑がかった液体が入っている。

差し出されたそれを、遙は身体を起こしながら無言で受け取った。両掌に、僅かな熱が伝わってくる。


「これは?」


「この辺りに自生している薬草を煎じたものだ。少々熱いが、身体の回復を助けてくれる。飲むと良い」


レオフォンが答えながら向けた視線の先には、遙の右足があった。

少女らしい、華奢な脹脛に白い包帯が巻きつけられている。遙もレオフォンの視線に気付いて、そっと足を縮めた。


――この怪我をしたのは、二日前のことだった。






――――――――






身を抉るような殺気。血と肉が腐敗した臭い。それを運ぶ生温い風。

曇天の空から降り注ぐ小雨が、遙の身体を容赦無く濡らした。


「はぁ、はぁ……」


遙は崩れ落ちた建物の壁に背を預け、前方を睨んだ。

ずるずると這って移動するのは、獣人として完成されなかった生命体……狂獣人(ベルセルク・ビースト)

元々人間だったとは思えない程に肉が溶解し、獣同士が絡み合ったような醜悪な容姿だけでも、遙を脅かすには十分だった。


「くっ……」


狂獣人の群れに、遙は獣人化した腕を構える。

ほんの一刻程前に、ガーク達が狂獣人の存在を察知してからというもの、あっという間にその数は膨れ上がった。

狂獣人との戦いを余儀なくされたものの、レオフォンの言い付けで、まだ幼い遙は戦場から離れた場所に移されたのだ。

本当は拠点の部屋に隠れているように言い付けられたのだが、自分のせいで皆が危険に晒されているのは確かなのだ。黙って見ていることなど出来なかった。


しかし、遙が逃れた場所も、今まさに狂獣人の姿が見受けられる。敵が現れた以上、安全な場所など、存在しないのかもしれなかった。


「戦わなきゃ……死ぬわけにはいかないんだ!」


言下、遙の眼前に狂獣人の一匹が飛び掛ってきた。その骨張った後肢の力によって、粘土質の土塊が跳ね上がる。

狼をベースとしたような狂獣人。遙は狂獣人の牙を寸前でかわして、相手の露出した腕の骨へと獣爪を叩き付けた。


「ギシャッ」


相手の狂獣人は、遙の一撃でも軽く吹き飛んだ。攻撃力こそ長けているだろうが、その身体はすでに崩壊寸前である。

痙攣を引き起こしてひっくり返っている狼の狂獣人を脇目に、遙は別の狂獣人へと再び狙いを定めて飛び掛った。

血の匂いに混じって、強烈な腐敗臭がする。獣人化の功罪と言った所か、感覚が鋭敏になり過ぎて、逆に集中力が途切れる。

思わず軽く咽せ、顔を俯かせる。――すると、顔を上げた時には、すぐ近くにまで一匹の狂獣人が迫っていた。


「ガル……ガルルァッ」


「わっ!」


鋭い獣爪が眼前に迫る。遙は痛みが来るのを恐怖して、本能的に目を閉じた。



ウォオォォォン



その時だった。近くで遠吠えが響き渡る。その遠吠えに反応してか、寸前で狂獣人が遙から手を引いた。

そして、聞き覚えのある狼声に続いて、黒い影が遙の眼前を横切る。

遙を横から攻めようとしていた狂獣人が鈍い音と共に跳ね飛ばされ、遙は顔を上げた。


「何を余所見してんだよッ! あと少し頑張りゃあ、終わる。それまで俺の傍を離れんな!」


獣人化したガークがマズルに皺を寄せながら吼え、遙に告げた。

遙は唇を引き締めて無言で頷き、再び前を見た。周囲を這いずっていた狂獣人は突然現れた狼獣人に警戒して、仕切りに唸り声を上げている。

一斉に襲い掛かってくる様子は無かった。ならば――と、遙は身体を動かして、目の前の一匹へと飛びかかろうとする。


しかし、その刹那、遙の足元に広がる泥が盛り上がった。


「……!」


「ギガァァッ」


虎か猫か、全く検討の付かない形相をした狂獣人が地中から飛び出してきた。

死角だった足元から、突然現れた相手に、遙は呆然と立ち尽くすことしか出来なかった。


その直後、奇襲をしかけてきた狂獣人は、躊躇なく遙の細い足にその牙を食い込ませる。

めりっ、と牙が皮膚を貫く感触に加え、骨にまでその衝撃が走った。


「うぐ、あぁあぁぁッ!!」


遙は激痛に叫喚した。すかさずガークが遙に噛み付いた狂獣人の頭部を踏み砕く。


「ちっ! モグラかてめぇッ!! 遙! 大丈夫か――」


ガークが遙を抱き締めてやり、再び目の前に視線を移した瞬間だった。

すでに複数の狂獣人の牙が、唸りを上げて迫っていた。思わずガークも遙も顔を引き攣らせる。


「ちょ、ちょっと待てよコノヤロー! 急に襲ってくるとか……」


ザンッ


ガークの悲鳴と共に、骨と肉を両断するようななんとも言い辛い音が遙の鼓膜を揺さ振った。

出血と痛みのせいで薄れる視界に目を凝らすと、噴出す鮮血を縫って、真っ白な鬣が目に映る。遙は顔をほんの僅かに起こした。


「レオ……フォンさん?」


遙の呟きに答えるかのように、荘厳な獅子の顔が遙の視界を覆った。


「済まん、ガーク、遙! 遅くなった」


「レオのおっさん!」


ガークが歓喜に似た声を上げる。遙も思わず安堵の笑みを零した。


「予想以上に敵が多いのよ〜。まさかこっちまで蔓延っているとは思わなかったわ」


続いて、レオフォンの声とは裏腹な、何とも能天気な女声がした。その声に、ガークの耳がぴんと立ち上がる。

突如としてガークの背中にしがみ付いてきたフェリスに対して、彼は先ほどよりも酷い悲鳴を上げた。


「ぎ、ぎゃあぁぁぁ!! く、くんな! お前の助けはいらねぇんだ!!」


「あら、そんなこと言って良いの? ……狂獣人は、まだ全部片付いていないッ」


フェリスの語尾が切れたその瞬間、彼女の裏拳が背後を襲ってきた狂獣人の腹部を強打する。

もんどりうって倒れた相手を睨みながら、フェリスは素早く立ち上がった。


「悲鳴を上げる暇があったら、敵から目を逸らさないで。……遙をお願いね、ガーク」


「な、なな、チクショウ!」


ガークは近くに転がっていたまだ息のある狂獣人に一撃を浴びせると、周囲の狂獣人を威嚇するかのように吼えた。

その猛々しい咆哮で、周りに散らばる狂獣人が、怯えるように後退る。……すでにその数は半分以下となっていた。

狼の猛る咆哮を耳に留めながらも、遙の視線はずっとレオフォンの背を追っていた。


(レオフォンさん……)


自分ひとりでは、あれ程苦戦していた狂獣人が、レオフォンの一薙ぎで瞬く間に倒れていく。

唸り声一つ上げず、息も乱さずに……的確に急所を突き、一瞬の内に絶命させていくのを見ると、途轍もない力量の差を感じずにはいられなかった。


血に濡れる姿を恐ろしいと思うと同時に、遙はその強さに憧れた。

自分も、あんな力を持っていれば……遙は茫洋とした視界を駆けるレオフォンの姿を焼き付けた。






――――――――






あれから程無くして、狂獣人の集団はその身を泥に沈めた。

二日経った今、雨も止み、すっかり夏らしく蒸し暑い気候が戻って来ている。


遙は戦いの光景を思い出しつつも、受け取ったコップの縁に唇を当てた。

そのまま静かに口内に湯を流し込んだのだが、間髪を入れずに咽込む。


「む……」


液体の熱さではなく、急に広がった強い苦味に、遙は顔を顰める。


「苦い……です」


「はっは、薬とはそういうものだ。何、夜になればフェリスが旨い料理を作ってくれるだろう。
早い所、身体の調子を整えておかないとな」


レオフォンが笑って告げ、遙も思わず笑みでそれに返す。

そのせいか、国語の授業で習った『良薬は口に苦し』という諺をぼんやりと思い出した。

本来の意味はすっかり頭から抜け落ちてしまっているのを考えると、授業に随分と後れを取っている気がする。


(勉強……戻ってきた時にちゃんと分かるのかな)


今更GPCの者達に幾ら文句を投げつけても何も解決しないのだが、やはり将来の不安は拭えないものがある。

去年の今頃は学校にいたのだろう。コップの湯に移った自らの顔を見詰めながら、遙は目を細める。

まさか、一年後にこんな事件に巻き込まれようとは、当時の自分は思ってもみなかった。当然といえばそうだが、運命とは不思議なものだと思う。


(運命っていうのは、一人の力では変わらないものなんだろうな……)


様々な因果が結びついて今、自分が此処にいる。

自分が獣人にならなければガーク達に出会うことは無かっただろう。

ガークも言っていたように、こうやって国籍を越えた友人を作ることが出来たのが何よりの救いなのかもしれない。


遙は次第に微笑むと、再びコップを持ち上げて、口に湯を運ぼうとした――




「うおーい、遙、起きてるか? ……って、レオのおっさんも一緒だったのか」


ノックも無しに遙の部屋へと入ってきたのはガークだった。

寝起きらしく、いつもより一段と蓬髪の跳ね具合が激しい気がする。

遙は思わず頬を真っ赤にして咳き込んだ。まさかいきなり入ってくるとは思わなかった。


「げほ……っガーク、入るならちゃんとノックしてって言ったじゃない!」


「知るかそんなこと! 別に見られても困るようなモンもねぇだろ?」


欠伸をしながらガークは答えた。その直後、レオフォンが椅子から立ち上がる。

ガークも遙よりずっと背が高いのだが、レオフォンと並ぶと、そんな彼も小さく見えてしまう。

ギシギシと床を鳴らしながらガークの目の前まで移動したレオフォンは、僅かに口吻に皺を寄せて告げた。


「こら、ガークよ。そんなこと言うものではない。遙は女の子なのだから、もう少し気遣ってやらんか」


「なんだよー、おっさんもフェリスも揃って同じこと言うんだなぁ。分かった分かった、今度から気をつけるさ」


「返事は一回で良い」


レオフォンはガークの頭頂に拳骨を浴びせた。

日頃の頑丈さを見るに大した効果は無さそうだが、ガークは渋面を浮かべて身を屈める。


「むぐぐ……ったく。まぁ、それよりもだ。遙」


「何? ガーク」


遙はコップから口を離し、顔を上げた。


「ちょっと出掛けないか? 『街』まで……な」


ガークはニヤニヤと不吉な笑みを浮かべている。遙は何か悪い予感を感じた。

大体、街と言っても、此処は絶対不可侵区域である。全て廃墟と成り果てたこの地の何処に街があるというのだろう。

まさかこの間のように、下水道を通って『外』に出るとも思えない。遙は眉を顰めてガークを見返した。


「ま、街って何処の……?」


「行けば分かるさ。色々と、欲しいモンあるだろ。簡単な身体慣らしってとこで、一緒に来いよ」


説明になっていないガークの台詞だったが、遙は取り合えず頷いた。

確かに、この二日間、殆ど動いていなかったのもある。ガークの言うとおり、良いリハビリになるだろう。

遙は疑惑の念を抱きながらも、再びコップの湯を口に流し込んだ。




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