「あの先崎さんが……」


「うん。玲とは、本当に小さい頃から一緒にいるんだ。だから、苛められてた時も、いつも助けてもらった」


裕子が感慨深げに頷く中、遙は苦笑した。

玲とはもうどれぐらいの付き合いになるだろうか。両親が共働きで、幼い頃から一人で過ごすことが多かった遙にとって、彼女は大きな心の支えだった。

普段から一緒に遊んでくれるだけでなく、学校で苛められる中、身を挺して助けてもらったことも少なくない。今回の件もまた、獣人としての遙を受け入れてくれたのだ。

彼女の好意の一つ一つが優しくて温かくて、遙は嬉しかったのである。しかし、逆に玲に対して何も出来ない自分が、徐々に浮き彫りになってゆく感覚が否めないのも確かだった。


「……本当は助けてもらうばかりじゃなくて、私も何か返すことが出来たらな……って思うけれど、中々恩返し出来なくて」


遙はむず痒そうに背を縮めて、ぽつりと呟く。


「そんなことはないんじゃない?」


急に人の気配を感じて、遙は顔を上げた。

見上げた先にはフェリスが笑って立っている。その手には紅茶だろうか? 甘い芳香を放つティーカップの乗ったトレイが持たれている。

フェリスは静かに膝を曲げて遙達に視線を合わせる。


「玲って子から見れば、最高の恩返しは、きっと遙が元気でいてくれることよ」


フェリスはカップを遙に差し出し、元気付けるように軽くウインクを飛ばした。


「そ、そうかな? でも、本当に助けられっぱなしだから……これ以上、迷惑はかけられないし」


「東木さんらしいですね」


裕子はフェリスからカップを受け取って、そっと微笑んだ。


「先崎さんも、きっと同じことを言うと思います。あなたが今のままでいてあげることが、先崎さんにとっての幸せでしょう」


「そうそう、だから遙は唯そうやっていれば良いのよ。何も性格を無理に捻じ曲げたりしなくて良いって」


裕子の言葉に続いてフェリスが快活な口調で言った。

遙は心なしか気持ちがスッと晴れたような気がして、思わず目を何度か瞬く。


(そうか……ガークが昨日言っていたことも、きっと……)


自分が『遙』という事実は何が有ろうが曲げられない。例え、この身が人から懸け離れた存在にされようが、心や記憶まで変えられるものではない筈だ。

もう生物学上人間じゃないと言えど、それでもこうやって、普通に会話が出来て、人間との間に何の隔たりも無い。

心は変わらない。『東木 遙』という存在も……これからも、自分は自分でいたい。遙は僅かに顔を紅潮させて微笑んだ。


「……有難う、谷口さん、フェリスさん」


遙が感謝の言葉を二人に告げ、続いて差し出された紅茶を口に運ぼうとした途端――




「うぉい!! 遙ァァア!!」


バンッと、リビングのドアが打ち抜かれそうな音と共に、ガークが突っ込んできた。

遙は思わず紅茶を噴出し、驚愕した表情でガークを見る。


「な、何……? そんなに慌てて――」


遙がおずおずと訊くと、ガークが大股で近寄ってきて、遙の胸倉を掴み上げた。


「何もクソもあるかこのチビが! 俺を近所のイヌ呼ばわりしたとか、さっきのガキから聞いたぞコラ!」


「そ、そんなこと……」


遙はそこまで言った所で、急に顔を青褪めさせた。

ずっと忘れていたが、確かに帰宅時に、玲を誤魔化すために言ってしまった……

仕方なかったとはいえ、ガークにとってはとんでもない悪口である。そのぐらい、フェリスとの口喧嘩で分かっていた筈なのだが。


遙は何とか言い繕うために、身振り手振りを付けながら、必死の弁明を始めた。


「違うっ、それは色々と……ほら、えと……」


「うるせぇッ! フェリスが悪口を言い出したと思えば、お前まで悪口癖が伝染したみたいだな。ったく、俺がイヌならお前は雀以下の畜生だっ!」


「はいはい、もう引っ込んでなさいガーク」


今にも遙の頬に拳を打ち当てんのばかりに憤っていたガークへ、フェリスが素早く割って入り、彼の頬に肘鉄を浴びせた。

がつん! と、硬い骨がぶつかり合う嫌な音が響き、遙は怖気を感じた。


「ぎゃいん! 痛ってぇぇ!! この怪力女!」


もちろん軽くしたつもりだろうが、ガークはそれこそ野良犬が上げるような声を出してスゴスゴと引き下がる。

フェリスは馬鹿にしたような笑みを零して返し、裕子の方へと向き直った。


「ごめんね、ガークは頭に血が昇ると周囲が見えなくなるのよ」


「いえ、それにしても――」


裕子はフェリスの顔をまじまじと見ながら、何処か難しそうな顔をした。

急に顔を見詰められ、フェリスは困惑と焦りの混ざったような顔立ちになる。


「な、何? もしかして何か付いてるとか?」


「そうではないのですが……あなたの顔……何処かで見覚えがあるような」




――裕子の何気無い言葉だったが、フェリスはほんの一瞬、その表情を凍り付かせた。

だが、その顔は遙も気付かない程の刹那の瞬間であった。


「まさか」


フェリスは裕子へ向けて苦笑した。


「私はキャリッジブルクの御令嬢に顔が知られるような、そんなに偉いヒトなんかじゃないよ」


「ご、御令嬢……!?」


ガークの様子を伺っていた遙が、フェリスの言葉に反応して声を上げた。


「谷口さんって、何処の出身なの? 黎峯じゃなくて……国外?」


「顔立ちで素性が暴かれるとは思いませんでした」


裕子は頬を掻きながら苦笑した。


「東木さんの言うとおり、私は出身はキャリッジブルクです。とはいえ、父が黎峯の出身なので、純血の民族という訳ではありません」


裕子は自分の瞳を指差しながら説明をする。

確かに、キャリッジブルクの純血の民族となると、その瞳は薄く青みがかった灰色を宿すらしいが、裕子は黎峯の人間に近い。

つまり、少しばかり鳶色の色合いが混ざっているのである。裕子の美しい瞳を、遙は物珍しそうに見詰めた。


「……でも、どうして黎峯に来たの?」


「黎峯に移り住んだのは私が本当に幼い頃でした。十年以上前に、キャリッジブルクで酷い疫病が流行って、私の母もそれが原因で亡くなりました。
幸い、私は罹ることが無かったようですが、父が感染してしまって、療養のために黎峯へ来たのだと聞いています」


裕子が天井へ視線をやりながら、思い出すように話す。


「本当は数年あまりで帰郷する予定だったようですが、父はこの黎峯の風土が気に入ったようで、いつの間にか住み着くようになっていたみたいですね。
今は仕事の関係で海外に出向くことが多くて、中々帰って来れる時間が無いようですが……」


「谷口さん……お母さんが、いないの?」


唐突に遙が口を挟んだ。裕子は何処か呆けたような顔をして、小さく頷く。


「ええ、まぁ……しかし、母が亡くなった時、私はまだ幼くて、記憶も鮮明ではありません」


「……寂しくないの? お父さんも、仕事でいなくて……」


遙が震えるような口調で聞いた。

今の遙にとって、両親の死はあまりにも恐ろしいものだった。父もいない今となっては、母が唯一の家族である。

心を支えてくれている、大きな柱を引き抜かれることなど、遙自身、到底受け入れることも出来ないだろうと考えていた。


――だが、裕子の反応は予想外にも明るかった。


「いいえ。父も休みが出来れば戻ってきてくれますし、姉妹同然に育った使用人も一緒にいてくれます。寂しくはありません」


裕子が微笑んで答える。遙は目を見開いた。

不思議と重い響きを持った言葉だった。彼女は他人から見れば何不自由の無い生活をしているように感じるだろうが、実際は違った。

自分達と、何ら変わらない。それより、ずっと辛いことを経験してきている筈である。周囲から状況を理解して貰えない苦しさも、少なからずあっただろう。

だが、裕子はそんな心苦しさを表に出そうとしなかった。こうやって話をして見なければ、彼女の心の強さを感じ取ることはできなかっただろう。


「凄いなぁ、谷口さんは……」


遙はカップをテーブルに置いて、三角座りの体勢をとった。


「私は、そんなに強くなれないよ。自分の置かれた状況を、良い方向に見るのが苦手だから」


「そんなことはありませんよ……それに、東木さんの周りにも」




バタバタバタッ、と激しい物音と共に、唐突に玲が部屋へと進入してくる。

皆の視線を集める中、玲は肩でぜいぜいと息を吐き、すぐさま遙の顔を見た。


「玲……?」


「は、遙! さっきのイヌに何かされなかった!?」


「誰だ! 俺をまたイヌ呼ばわりするヤツぁ!!」


玲が素早く遙の身体にぺたぺたと触れる中、彼女の後ろから凄まじい形相を浮かべたガークが現れる。

フェリスの肘鉄による痛みで悶絶していた彼も、怒りで再び勢いを巻き返したようだった。

また玲とガークの間に火花が飛び散る中、フェリスは呆れたように額に掌を押し付けて、遙の肩に手を置く。


「全くもう、ガークがいると落ち着いて話も出来ないし……少しは黙る努力をしたらどうなのよ。ねぇ、遙?」


「え、あぁ……」


遙はしがみ付いてくる玲の身体に手を回した体勢で、フェリスの言葉にぼんやりと答える。

……ふと気が付けば、周りには沢山の人がいた。



父がいなくなって、母も仕事に追われて、学校では苛められていて……そんな幼少時代を過ごしてきたせいか、遙はいつの間にか『独り』という感覚が染み付いてしまっていた。

しかし、それは唯、自分が気付かなかった……いや、気付こうとしていなかっただけなのかもしれない。寂しさで、周りを見ることすら嫌っていたのかもしれなかった。


(だけど……今は……)


以前のように振舞ってくれる玲。同じ獣人としての痛みを分け合った仲間であるガークとフェリス。

まるで皆、遙と家族のような感覚で接してくれる。何の隔たりも生まずに、素直に向き合ってくれる優しさ。


そして――


「谷口……さん?」


「東木さんにも、沢山の人が周りにいてくれています」


向い側に座った裕子は、相変わらず微笑んでそう答えた。


「そんな……谷口さん」


遙は思わず頬を赤らめながら続ける。


「ふふ、谷口さんと私……何処か似てるよね。ほら、境遇とか、そんなのが……」


裕子が微かに息を呑むのを見て、遙は笑った。

人とは話してみなければ分からないことばかりだ。第一印象で客観視し続けても、相手の心を読み取ることは出来ない。

昔は周囲の人に辟易して、逃げてばかりいた自分。だけど、自分から進まなければ、結局何も出来ないのだ。


「私で良ければ」


遙がおずおずと、裕子へ向けて手を差し出す。


「これからも友達でいてくれる? 皆、一緒の方が楽しいし、ね?」


裕子は差し出された手を見て、僅かに瞳を潤ませた。


「……有難う、東木さん。そんな性格だから……あなたは……」




――人を幸せに出来るのですね




裕子の最後の声は遙には届かなかった。だが、気付かなくて良い。皆、そう思っているに違い無い。

自分の良さは、自分では中々気付けないものかもしれない。だが、遙は無意識の内に自覚しているだろう。

相手が欲しているものが、一体なんなのか……人から避けられる痛みを知っているからこそ、遙は他人の痛みを理解してやることが出来るのかもしれない。


裕子の掌の熱を感じて、遙は満面の笑みを浮かべた。






「……さてさて」


ぎゃいぎゃいと喧嘩を繰り広げるガークと玲を見詰めながら、フェリスは立ち上がった。


「遙……そろそろ、時間だよ」


フェリスがぽつりと告げた。

遙はさっと顔を上げる。時計は、すでに昼前に差し掛かっている。


(……そうか)


遙は名残惜しげに目を細めた。だが、いつまでも此処にいてはいけない。全てを終わらせるまでは……


「谷口さん、今日は有難う。……本当はもっと沢山話したいことや、聞きたいことがあるけれど……もう行かなきゃ」


「行かなきゃ? ……また、暫く会えないのですか?」


遙は無言で頷いた。


「どのぐらいになるか分からない。でも、必ず、帰って来るから……」


「遙……」


唸るガークを引き離し、玲も立ち上がった。

皆が複雑な心境に違い無い。裕子は遙が行く理由を知らないし、玲は遙の行き先に不安を覚えているだろう。


「本当に、早いよね。……昔みたいに、もっともっと長く、話せたらいいのに」


玲は落胆の色と共に呟いた。


「うん。でも……まだ留まっている訳にはいかないから……」


遙は自分の掌へ視線を落とした。

そして、静かに目を閉じて、意識を集中してみる。……次第に、内側から押し上げるような、微かな圧力が響いてきた。

この症状が無くなるまで……『獣人』という存在から、再び『人間』に戻るために、行かなければいけない。


遙はそこでぱっと顔を上げ、玲を見た。


「そうだ。ラボ、預ける約束してたよね」


遙は二階へと駆け上がって、ラボのケージを持ち出して来た。ラボは何処か名残惜しそうに、二足で立ち上がって柵にしがみ付いている。

その様を見て、遙は苦笑すると、ラボの鼻先を軽く指先で突いてやった。


「ごめんね、ラボ。ちゃんと戻ってくるから。その時はまた一緒に遊ぼう」


遙が玲へとラボのケージを差し出そうとした途端――裕子が遙の手を握った。

何事かと、遙が裕子を見ると、相手は控え気味に笑みを浮かべてこう言う。


「急に申し訳ありません。ですが、せめて私も東木さんのお役に立ちたいのです。……この子を、私に預けてはくれませんか?」


「良いの?」


遙が裕子と玲の双方に確かめるように聞いた。

すると玲が苦笑して頬を人差し指で掻く。


「まぁ、私の家じゃあ、家族が嫌がるかもねぇ……姉さんネズミ嫌いだし。それに、谷口さんの家なら、必ず面倒見てくれる保障付きって感じだからね」


玲の台詞に裕子と遙が釣られて笑った。


「そっか……それじゃあ、谷口さん、お願い出来るかな? ちょっと変な生き物だけれど、あんまり人に咬み付くことは無いと思うから、宜しくね」


遙はケージを差し出して、裕子はガラス玉を持つかのように、そっとそれを受け取った。


「ええ、責任を持って面倒を見ます。……ですが」


裕子は急に、昨日の昼間のような、演技の笑み……悪戯っぽい眼差しで遙を見る。


「東木さんが帰ってきた時、この子を渡す代わりに、全てのことを打ち明けてくれますか?」


「あ〜……」


遙は苦笑せざるを得なかった。

だが、全てを終わらせた後なら、何も抵抗は無いだろう。現に、相手の裕子は昨日の出来事に殆ど触れようとしていない。

その様子を見ると、ある程度……本当にある程度だろうが、予想が付いているのかもしれなかった。遙の今の状況が、どんなものかを……


「うん。約束するよ。全てが終わって帰ってきたら、谷口さんにも全部教える。だから、それまでラボを宜しくね」


「ふふ、有難う御座います。……必ず、帰ってきて下さい」


真摯な眼差しで、裕子の言葉が遙に告げられる。

――遙は力強く頷いた。









それから荷物等の準備で一刻程経った後、遙達の姿は駅舎にあった。

流石に駅は人通りは多いが、それが幸いしてか、外国人を含めた珍しい一行を気に留める人は皆無に等しかった。

だが、遙は少しばかり背を縮めて、人を避けるように歩く。自分を見知った近所の人がいれば、また足止めを喰らうかもしれない。

悪いとは思いつつも、遙は人目を避けていた。例え見慣れた人がいようと、自分から顔を背けて。


(……ほんの少しの辛抱だ。二度と帰って来れない訳じゃないよ……)


遙は何度も心の中で言い聞かせ、小さな切符を握り締めた。

この時間帯に出ることで、帰り着くのは本当に深夜になりそうだが、獣の眼が有る限り夜になろうと道に迷うことは無いだろう。


「っと、俺達は先にホームまで行っておくぜ? 遅れるなよ」


「うん、有難うガーク。すぐ来るから」


ガークに担いで貰った荷物の中から学生鞄を受け取り、彼とフェリスが改札口を通って階段を上っていくのを見送ると、遙は静かに振り返った。


「玲……谷口さん」


二人の姿を見て、遙は顔を微かに引き締めた。

思わず早足で歩み寄り、二人の手を握る。ぐっと熱が伝わり、遙は鼻の奥が痛むのを覚えた。


「……もしかしたら、私が帰ってきたことで、悪いことが起きるかもしれない。……気をつけて」


「また馬鹿なこと言って!」


「きゃっ!?」


玲は遙の頭に軽く拳骨を浴びせた。

遙が痛みで目尻に涙を薄らと浮かべる中、玲は遙の顔を睨みつけて叫ぶ。


「行く前からなんでそんなに気弱になってるのよ! しっかり前を向いて行きなさい!」


「そうですよ。私達の心配は要りません。……今は自分のことだけを考えていて下さいませ」


裕子も静かに、だがしっかりとした口調でそう告げた。

遙は相変わらず痛みに涙を滲ませながらも、二人の手を更に強く握り返す。


「……うん。今度は全部終わらせて帰ってくる。全て、終わらせる。だから――」


遙は俯き加減だった顔を昂然と上げた。


「待っていて。私も必ず帰ってくるから。約束だからね」


「もちろん、私は遙の親友だよ? ずっと待ってるよ」


「私も先崎さんと待っています。……お気をつけて」


二人の言葉に、遙は涙が込み上げるのを感じたが、唇をぐっと噛んで堪えた。

涙が込み上げてくる。痛みからじゃない。心の底から、押さえようの無い程の感情が溢れてくる。


まだだ、まだ……


(泣いたら駄目だ……!)




『まもなく、5番ホームから、凛東行き普通電車が発車いたします。次は、古鶴、古鶴でございます……』



「おいっ! 遙っ、電車出るってよ!!」


ガークが階段の上から、アナウンスに合わせて遙へ叫んだ。

遙は慌てて振り返る。もう時間が無い……!


「わっ、ご、ごめん!」


遙は玲達と視線を合わせて、軽く微笑むと、震える足で踵を返した。




「遙!」


改札口を通り抜け、乗り場までの階段を半分程まで駆け上がった所で、後ろから声がかかる。


(玲……)


玲の声だ……遙は立ち止まった。――だが、振り返りはしなかった。


「待ってるから……」


玲は震える声でそう呟き、続いて、喉も裂けんばかりの勢いでこう叫んだ。




「ずっと、ずっと待っているから! 必ず帰って来てよ!!」




遙は強く唇を噛み締めた。薄く血が滲んで、口の中に嫌な味が広がる。

頬が真っ赤になって、喉がずきずきと痛み、瞼がカッと燃え上がった。

焼ける喉から感情が込み上げる。だが、足が止まることは許されない。いや、遙自身が許さなかった。



動け……動け……!



どれ程の時間、葛藤が続いたかは分からない。唯、ずっと心の中で絶叫し、遙の思考が炸裂した。



――気付いたら、足が動いていた。転びそうになりながらも本能の赴くままに駆ける。


目の前の風景が激しく滲み、歪み、何処へ向かっているのかさえ分からなかった……






『5番ホームから、凛東行き普通列車が発車します。扉が閉まります、ご注意下さい』




再びアナウンスが耳を掠めた。遙はぱっと顔を上げる。


――電車の中だった。窓の外から見える風景がぶれ、水を流したかのように掠れていく。

新聞を読む中年の男性や、子を連れた女性。学生の姿も、ちらほらと目に付く。



……後ろへ振り向くと、ホームへの扉は閉まり、すでに電車は発車していた。


「……良く耐えたな」


上からかかった声に、遙は顔を上げる。

ガークが腕組みをして、何とも言えない笑みを浮かべていた。


「また帰って来れるよ。そのための約束でしょう? 皆、必ず待っててくれるよ」


フェリスも遙の右手側に立って、静かに微笑み返す。


そうしている間も、電車は故郷を離れていく。景色があっという間に変わっていく……


……それらを見た途端、遙の心の中から何かがどっと沸きあがってきた。

堪えようもない感情の波が、怒涛の勢いで競りあがり、遙の瞳から涙が一筋零れ落ちた。


「う……うぅ」


その一筋はやがて幾筋もの涙となって頬を零れ落ちる。

遙は背中側に設けられた電車のドアにしがみ付き、額を強く押し付けた。



泣いているんだ。

そう実感したその刹那、遙は堪えきれずに、大きく口を開いた。


「う……ぁ。うぁぁぁぁぁああああッ!!」


車内の人の視線も憚らず、遙は泣いた。

声を上げて泣かずにはいられない程に感情が揺さ振られ、涙は自分でも信じられない程に流れ落ちる。

玲の言葉も、裕子の優しさも……全てが心に染み込んで、その温かさから、無理に引き離されるような現実。

決心したとはいえ、故郷とそこに住まう人の優しさから引き剥がされることが、あまりにも辛く、遙は幼い子供に戻ったかのように泣きじゃくった。


(……帰って来るから……必ず、帰って……)


ずっと堪えていた物が止め処なく溢れた。ガークとフェリスがそっと背中に触れてくれる中、遙はひたすら泣き続けた……






――――――――






……


柔らかく、涼しい風が頬を撫でる。

一方で、人肌の温かさを感じた。誰かが頭を撫でてくれているらしい、遙は心地良さを覚える。

それは、昔、母親が膝枕をしてくれていた時と、良く似た感覚だった。思わず、小さな独り言が漏れる。


「お母……さん?」


どこかしら母を彷彿とする温かさを感じ、遙は無意識の内に問い掛けた。

それと同時に、人のざわめく声が耳に届く。遙は瞼を擦ると、薄らと眼を開けた。

ぼやけた視界の中には人の往来が慌しく見える。


「ん……」


状況が理解出来なくて、遙は痛む身体を起こそうと目を開いた。

すると、上を見た拍子に、フェリスの碧眼の目が合う。


「……あ、遙、眼が覚めた?」


「フェリスさん?」


遙はちらりと頭を押し付けていた場所を見た。どうやら、フェリスの膝の上で眠っていたらしい。

遙はその事実を知った途端、妙に恥ずかしさを覚えて素早く身体を起こした。


ガッ


「痛ッ!」


「あ、ああ、す、すみませんッ!」


起き上がると同時にフェリスの端整な顎に頭をぶつけ、遙は痛みよりも先にわたわたと彼女に謝った。

遙はするするとフェリスの膝から降りて、ベンチの上へと座り込む。すると、隣にはガークの姿があった。

……一人で駅弁を貪っているらしい。背中を見せて、食料を隠すような体勢になっている。


「ガーク?」


「むふッ! な、何だよ!? 起きたのか?」


ガークは駅弁の残りを慌てて全部掻き込むと、もごもごと遙に告げた。


「ったく、散々泣いたと思ったら、急にぐったり寝込みやがって……本気で死んだかと思ったぞ。
まぁ、今は事故かなんかで、ちょっと電車が遅れたみたいでよ。あと少し待てば来るらしいんだが……」


「ね、寝てた? そんな……今、何時で……」


遙は線路の上へ広がる空を見て、ぎょっと顔を引き攣らせた。

すでに紺色が滲み出した空は、星がチカチカと瞬いている。慌てて手の腕時計へと眼を落とした。


午後八時……すでに夜だった。ずっと眠っていたらしい。


故郷から出て、流れていく景色を見ていなかった。夕方になっているということは、もう随分と遠くへ来てしまった。

今更後悔しても意味が無い。全てを終わらせれば、必ず帰って来れるのだから。そう信じている。


それでも、やはり涙は枯れることを知らなかった。

また薄らと涙が滲む。流石に出発する時程号泣はせず、声も上げなかったが、急に寂寥感が込み上げてきた。


「……っ」


遙は息を呑み、再びフェリスの腕にしがみ付く。


「あらら……遙ったら。まぁ、気が済むまで泣いた方が良いよね」


フェリスが苦笑して遙の頭を撫でてやっていると、ガークが駅弁の空を放り出して顔を上げた。


「な、泣いているのか? ……おい、遙ッ!」


急にガークが声を上げて、遙は反射的にフェリスの腕から顔を上げた。


「ど、どうしたの……?」


「ちょっと金貸せ! 今すぐだっ!!」


涙の引いた遙の眼前へ、勢いをつけてガークが手を差し出してきた。


「え?」


あまりにも唐突過ぎる言葉に、遙は素っ頓狂な返事しか返せなかった。

だが、ガークは真剣 (脅しにも見える) な視線で遙を睨み、すでに目の前まで掌を突き出している形である。

その様子を見たフェリスが、不服そうに唇を突き出した。


「カツアゲみたいなことは止めなさいよー」


「うるせぇッ! 遙の金は俺らのモンと一緒だろが!! ほら遙! 早く」


「わ、分かったよ。どのぐらいあれば良いの?」


遙が学生鞄から財布を取り出して、急かすガークに尋ねた。

すると、ガークは当然と言わんばかりに叫ぶ。


「全部だよ!」


「馬鹿なこと言わないのッ!!」


言下、フェリスはガークの頭を殴り付けた。確かに、全ての金を貸す訳にはいかない。

遙は苦笑して千円札を一枚だけガークへ差し出すと、彼は横暴にもそれをタオルか何かの類のように握り締める。


「いでで……ッ全く……と、取り合えず、此処で待ってろ!」


ガークはあっと言う間に駆け出して、売店の方へと消えていってしまった。

遙はその様子を唖然と見詰めていたが、フェリスが頭に手を置いてきて、小さく息を吐く。


「……あの赤毛の子……あの子、凄いね」


静かな口調でそう言ったフェリスに、遙は眼を瞬く。


「凄いって……谷口さんのこと?」


「そう。ふふふ、遙のこと、本当は気になって仕方が無かった筈よ。
昨晩のペルセの襲撃といい、獣人という存在や、遙を取り巻く関係……沢山、聞きたいことがあっただろうけど、彼女は殆どそのことに触れなかったわ」


フェリスの言葉に、遙ははっとした。


「谷口さん……そうか、私に余計な気遣いをさせないために、訊かなかったんだろうな」


遙は蛍光灯の光る天井を見詰めた。

自分だったら、きっと何かしら聞こうとするかもしれない。あの化け物がなんだったのか、どんな状況にあるのか……

全てを打ち明けるのは、帰って来てから。そう約束した今、それを果たすまで立ち止まることは出来ない。

遙がぼんやりとそんなことを考えていると、ばたばたと騒がしい足音がして、唐突に視界をガークの顔が覆った。


「きゃっ!!」


遙は驚いて身動ぎする。


「痴漢にでも襲われたみたいな声を上げてんじゃねぇ! ……ほら、受け取れよっ」


ガークが先ほどの千円札に代わって握り締めていたのは、明るい黄色に染められた、一切れの……リボン?

遙はおそるおそる受け取りながら、それを見た。


「何これ?」


「な、何はねぇだろ……。ほら、お前の家にやってきたヤツらは、皆髪の毛にアクセント付きだったろ?
リョウってヤツもポニーテールだったし、後から来た赤毛も黒いなんか付けてただろ? お前にも買ってやったんだよ!」


「買ってやったんだよって……私のお金だったんだけどなぁ……」


遙は苦笑しつつも、ガークのくれたリボンを見詰めた。

飾り気こそ無いが、何処か心が温かくなる。遙は頬が紅潮しているのに気が付かなかった。

遙が陶然とそれを見詰める中、ガークが口を開く。


「付けろよ」


「え?」


「頭に巻けっ!」


ガークは両腕を上げて仕切りに急かすが、遙は戸惑うばかりである。


「だ、だって、私、リボンなんて巻いたことなくて……」


「ったく、何処まで世間知らずなんだお前は! 俺がやってやるから見てろ!」


ガークがリボンをばっと奪い取り、強引に遙の頭にぐるぐると巻きつけた。

強く結ばれたことによる痛みで、遙は歯を食い縛っていたが、やがて、ガークの手が離れると、意外としっくり来る感覚があった。

遙が頭に巻かれたリボンを手探りで確かめていると、フェリスが覗き込むようにして顔を出してくる。


「まぁ、強引にも程があるわ……取り合えず、はい、鏡」


フェリスが微笑を浮かべながらそっと差し出してきた鏡を、遙は覗き込んだ。

頭をぐるりと巻いて、後ろで一つに結んだ形……


「……ハチマキみたい」


「ば、馬鹿にしてんのかッ! この結び方はなぁ、最も気合の入る結び方なんだよ!! 心がカッカと熱くなってくるだろ!?」


ガークの言葉に、遙は思わず噴出した。

そういえば、髪にアクセントの付く飾りを付けたことは無かった。昔から髪を伸ばすこともしなかったために、こういうお洒落には完全に無関心だったのである。

だが……ガークがこうやって、自分のことを気遣ってくれることが嬉しくて堪らなかった。

普段から粗暴なイメージが強い彼だが、遙をちゃんと女子として気遣ってくれていることに思わず笑みが漏れる。


「ふふ、そうだね。有難う、ガーク! これ、気に入ったよ!」


「そ、そうか!? くっくく、俺のこの気遣いの上手さはフェリスの比じゃないな」


「そうやって自分の本音をすぐに口に出すあたり、ガークは気遣いが下手よねぇ」


「んだとッ!」


フェリスが嫌らしい笑みと共に返し、ガークが毛を逆立てる。

遙はリボンを摘みながら笑っていたが――ふと聞こえた駅のアナウンスに、そっと立ち上がる。


「あ……次の電車来るみたいだよ……早く、行かなきゃ」


遙が荷物を抱えて立ち上がると、ガーク達は口喧嘩を止めて、同様にアナウンスへと耳を傾けた。


「ん? おお、さてさて……後少し我慢すりゃ、レオのおっさんにも会えるなぁ」


「ふふ、そうね。早いとこ帰って、皆の無事を知らせないとね」


フェリスが伸びをしながら言った。二人が口々に呟く中、遙は無言のまま自分の学生鞄を背負う。


「また、向こうでの生活が始まるんだ……」


遙は電車の通る線路の目の前にある点字ブロックの所まで来て、そっと空を見上げた。




線路の頭頂に開けた夜空は、満天の星空。

それぞれが力強く瞬く中、初夏の月が遙の鳶色の瞳を薄らと彩る。


これで終わりじゃない。まだ、全て始まったばかりだ。

長い、長い道のりかもしれない。だが、必ず終点はある。


(必ず、帰って来る。全てを終わらせて……)


遙は故郷と繋がる夜空を見て、心の中で何度も約束を繰り返した。





:第三章へ続く




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