「……ん」


遙は薄らと瞼を開いた。

薄く開いた視界はぼやけていたが、時間が経つにつれ、見慣れた天井が淡い輪郭を描いてくる。

おぼろげな光がカーテンをすり抜けて部屋へと差し込む中、遙は何度か瞬きを繰り返した。


「もう朝……何だか早いな……」


落胆気味に独り言を呟きながらも、遙は眠気に顔を顰めると、ゆっくりと身体を持ち上げる。

しかし、左肘を突いて起き上がろうと背筋に力を入れた途端、背中に強烈な電流が走るような痛みが遙を襲った。


「づっ!」


思わず声を上げて、おそるおそる背中へと手を回す。

すると、寝巻を通じて、微かに濡れたような……嫌な感触が掌に伝わってきた。遙はその感触に表情を引き攣らせる。

背中は昨晩、ペルセに大きく傷を付けられた患部だった。昨日は痛みも然程無かった筈なのだが。


(もしかして……傷が、治ってない? いや、それ以上に――)


ずきずきと痛む傷に加え、僅かに粘度を帯びたような体液が付着する感触……

どんな状況になっているかを予想し、遙は次第に顔を青褪めさせた。


「まさか、か、化膿してる……? いやぁぁー!」


遙は悲鳴と共に飛び上がり、駆け足で慌しく部屋を出た。






――――――――






「ガーク、起きて。もう朝よ」


「うるせー、俺だって疲れてるんだから、もっと眠らせろよ……」


ソファーの上で、クッションを枕代わりに横になったガーク。そんな彼の背中を揺さ振りながらフェリスは苛立たしげに続けた。


「もう! そろそろ帰らないと、レオさんが困るでしょ? 遙には悪いけど、長くはいられないから……」


「だからって、後五分ぐらいは良いだろ? お前はさっさと遙を起こして、二人で仲良くしてりゃあ良いんだよ……」


寝惚けたように呂律の回らない口調で喋るガークに、フェリスは溜息を漏らすと、諦めがちにゆっくりと立ち上がった。


「じゃあ、五分後にまた起こしに来るから。その時はちゃんと起きてよね――」


バタン!


何の前触れも無くリビングのドアが慌しく開き、フェリスは思わず飛び上がった。

心臓が早鐘を打つ中、反射的に振り返ると、そこには息を切らせた遙の姿があった。


「は、遙……? 朝から随分と」


「フェリスさん……っ」


フェリスの言葉を遮り、遙が今にも泣きそうな声を上げた。







「だから言ったじゃないの。消毒ぐらいしといた方が良いよって」


フェリスが溜息交じりに遙に言い、彼女の華奢な背中に清潔な包帯を巻きつけた。

消毒液が染みた際には傷口に凄まじい痛みが走ったが、遙は歯を食い縛って痛みに耐える。

昨晩は傷の手当どころではなかったとはいえ、この痛みには流石に参ってしまった。


代謝機能が優れたキメラ獣人である遙といっても、昨晩は体力をかなり消耗していたのだ。

恐らくそれが原因だろう。ペルセに引き裂かれた背中の傷は、本来ならば致命的なものである。そんな大怪我を治せる余力は残っていなかったのだ。


「っと、もう終わったよ。包帯はきつくない?」


フェリスが手当てを終えたことを告げる。

遙は背中を確認するように身を捻りながら、何度か目を瞬いた。


「はい、平気です。さっきよりは痛みが引いた気がします。有難う、フェリスさん」


「お礼なんて良いよ、大したことじゃないしね。遙が来る前の数ヶ月で、傷の手当ては随分慣れたから」


苦笑しながら答えるフェリスに、遙は軽く微笑んで返した。

確かに、彼女達は遙が来る以前からずっと敵と戦っていたのだろう。嫌でも傷の手当てには慣れる筈である。

フェリスは手当てを終えて薬箱の片付けを始めながら、ふと、遙の顔を覗き込む。


「あ、そうだ。遙に言わなきゃいけないことがあったんだ。すっかり忘れてたよ」


「何ですか?」


フェリスは薬箱の蓋を閉じると、言い辛そうに表情を曲げて告げる。


「『戻る』かどうかについて、一言聞いておきたいの。遙が望むのなら、此処に留まると言う選択も決して悪いことじゃないわ。
学校の友達やお母さんも心配しているだろうし。……唯、私はレオさんに報告しに戻るつもりではいるけどね」


「……此処に留まるって……」


遙ははっと息を呑んだ。

確かに、此処に残りたい。その気持ちは抗い難いものがあるほどに強い。

だが、同時に遙には葛藤を引き起こすものがあった。遙はぎゅっと手を握り締め、震える唇を動かす。


「私、此処には確かに残りたいです。けど、自分がキメラ獣人である限り、GPCの者達が諦めるとも思えない。
街中にまで入ってきて、一般人にも手を出すような人達だったから……やっぱり、此処には残れない。出来れば今日中には、此処を発つつもりです」


一番危惧しているのは、友人や家族にまで魔手が及ぶことであった。

自分は希少価値の高いキメラ獣人であり、周りが例え認めてくれたとしても、GPCの連中が狙ってくる限り家に留まり続けるのは難しいものがある。

自分が絶対不可侵区域に戻ることによって、この『世界』にいる一般人への被害は最小限に抑えられるだろう。他の人が自分のために傷付くのは最も恐ろしいことだった。


傷付く……そこまで考えたところで、遙は思い出したように顔を上げた。


「! それなら、フェリスさん達こそ、此処に残らなくても良いんですか? ようやく外に出られたから……」


「私は別に構わない。……何というか、ちょっと言い辛いんだけどね。私は普通の人に獣人って思われるのが嫌だから……。でも、遙の家の居心地が悪いとか、そういうことじゃないのよ。
私ってば顔に似合わず臆病で、唯、少し怖いだけ。長くいると、勘付かれるように思えてしまうから」


「そう、ですか……。何か無理に誘っちゃったみたいですみません」


「良いのよ、自分で進んできたんだから。遙が気にする必要はないわ」


フェリスは笑みでそう答えると、遙も微笑を浮かべて返した。


しかし、そうやって笑みを浮かべつつも、遙は落胆の色を隠せなかった。

レオフォンに会えるのは嬉しいが、また故郷から離れなければならない心苦しさ。友との別れ。

もちろん学校に行くことは出来ない、この家に毎日戻ってくることも……学生にとって当たり前のことが、遙にとっては非凡なこととなっていた。


「それより、遙。今日中に出るといっても、お母さんとは会わなくて良いの? きっと心配しているわ」


「それは……」


思わず口篭ってしまった。……まだ、母に会っていない。当初の目的は、母親に全てを告げることだったのだ。

だが、この三日間、母は戻って来なかった。携帯電話に言葉を残したっきり……その時、遙ははっと顔を上げた。


「そ、そうだ! 私も言わなきゃいけないことが……!」


遙は唐突に立ち上がり、わたわたと両親の寝室を出た。

フェリスが驚いて眉を上げる。そして、一分程経過した後、遙は凄まじいスピードで再び部屋へと戻ってきた。

――その手には、あの携帯電話が握られていた。


「はぁっ……はぁ……実は昨晩、お母さんから連絡が着て……」


遙は息切れを起こして身体を屈めながら呟いた。

その遙の背中を押すようにして、寝癖の目立つガークまで寝室へと入ってくる。

ぱっと見る限り、恐ろしく機嫌が悪そうだった。遙の盛大な足音で眠気が吹き飛ばされたらしい。


「ったく、何だよ。バタバタとうるせぇヤツだ。朝から何を慌ててんだよ」


「あ、ガーク、起こしてごめん。でも、ガークにも聞いて欲しいんだ」


遙はフェリスとガークに昨晩の出来事を、身振り手振りを付けながら簡潔に告げた。

母から連絡が来たのは良いものの、問題はその内容である。

遙の母親から見れば、今回のGPCによる拉致は誘拐事件に等しい。もちろん、遙が自宅へ戻ってくることなど、中々予想出来ないことである。

獣人となって此処に来た初日の晩、母からの幾つかの不在着信が残っていたが、メールによる連絡は玲からのみであった。そして、遙自身も、母へはメールによる連絡を送っていない。


「お母さんは、私が家に帰ってくることを知っている筈が無いんです。昨日や一昨日は色んなことに振り回されてたから、メールを送ることもすっかり忘れていて……
それなのに、お母さんから送られてきた文面には『まだ帰って来られない』……って書かれていたんです。まるで、私が帰ってくることを知っているみたいに」


遙の胡乱な言葉に、フェリスは眉を顰め、ガークも腕組みしながら唸った。


「まぁ、まさか母親が俺達の事情を知っている訳ないだろうし、たまたまだろ? それに、お前の母親はまだ家に帰って来てないじゃないか。
お前が拉致されてから自宅に帰って来てないとか――」


「それは幾らなんでも有り得ないでしょ? 遙は一ヶ月近い時間、家を空けているのよ。
それなのに、この家の整理された状態。何より、あのラットがぴんぴんしているのが証拠になるじゃない」


フェリスが呆れ顔でガークに言った。ガークは益々眉間へ皺を寄せて、塩辛声を絞り出す。


「うむむ、実は遙に内緒でメイドでも雇ってたとか、そんなことは無いのか?」


「そ、そんなことは無いよ……!」


ガークの言葉に、遙が目を仕切りに瞬きながら口を挟んだ。


「お母さんと私以外は、家に入ってくることは無いんだ」


「! ちょっと待てよ遙」


急にガークが立ち上がり、遙の顔に人差し指を突きつける。


「……お前さ、母親じゃなくて、『父親』はいないのか?」


「そ、それは……」


ガークの問いに、遙は唐突に俯き、口篭った。

その様子を見たフェリスは立ち上がって、ガークの耳元に口を近付ける。


「……女の子には気を遣って上げなきゃ駄目じゃない。何度も言っているでしょ?」


「な、な、な……! なんなんだよ!! だってアレだろ? 母親がいるなら、父親がいる筈じゃないかッ、そういうなら遙はどこから出てきたって言うんだよ!」


ガークの大声を張り上げた答えに、フェリスは頭を抱えて座り込んだ。


「全く、頭まで野良犬ねぇ」


「……い、いえ、良いんですフェリスさん。実は、私のお父さん、もう何年も帰って来てなくて、ずっと連絡も無いんです」


遙は何とも言えない表情になって、両手を複雑に揉み合わせる。


「まだ私が小学生だった頃、突然、朝になったらいなくなっていて……お母さんに聞いても、何も教えてくれなかったんです。
だから、きっと……離婚したんじゃないかって。連絡が無いから、今になって戻ってくることは……多分……」


遙の細めた鳶色の瞳が、僅かに潤んでいるように見えた。

遙が母親に執着する理由も、恐らくこの辺りにあるのだろう。父親が何らかの原因でいなくなってしまったことによる心の傷。

彼女が大切な人がいなくなることを仕切りに恐れていたのも、父の失踪が原因なのかもしれない。


これには、鈍いガークも流石に口を噤んでしまった。再び暗い空気が部屋に立ち込め、皆が黙り込んでしまう。




ピンポーン……




――突然、インターホンのベルが鳴った。

無音の中で唐突に響いたその音に、黙っていた三人が揃って顔を見合わせる。

……今は早朝だ。ましてや、休日ではない。こんな時間帯に、人が来る筈が……


(もしかして……)


遙は期待と不安の入り混じった、苦笑いのような表情を浮かべた。


「まさか……」


ガークとフェリスを置いて、遙は弾丸のような速度で玄関へと駆けた。

インターホンの画面を確認することもなく、唯、ひたすら急いで……遙は玄関のドアノブをがっしりと掴み、勢いを付けて開け放った。


ふわっと、初夏の風が廊下へと吹き込んでくる。前髪が瞳を掠ったお陰で見えない視界を想像しながら、遙は歓喜に近い声を上げた。


「! お母さ――……」


しかし、遙の声が徐々に萎んで消える。初夏の風が流れていき、遙の視界に映ったのは母親ではなかった。


玄関を開けた先に立っていたのは、見慣れない少女だった。

短い栗色の頭髪。僅かに毛先が外側に跳ねた鮮やかな頭髪は、陽光の光の加減では赤銅色に燃え上がっていた。

その頭髪を黒いリボンで留め、服装は遙と同様に紺色のブレザーに加え、萌黄色のスカート……制服である。

何より目を引くのは若干灰色がかった、独特の色合いを持つ赤眼だった。純血の黎峯人とは違った瞳を、遙は悪いと思いながらも、落胆の色を浮かべて見詰める。


「え、ええと……どちら様?」


遙は唖然として佇む相手を、引き攣った笑みで迎えながら、首を傾げて問い掛けた。

知っているようで、知らない。そんな相手の姿。双方ともお互いを見詰め合ったまま、ほんの数秒の時間が流れた。


「やっ! 遙!!」


唐突に耳へと届いた快活な声。それは、幼い頃から聞きなれた声だった。

栗毛の少女の後ろから、手を振って現れたのは、ポニーテールが特徴の……


「玲……!? どうして玲が此処に……そして」


遙は再び視線を戻した。すると、栗毛の少女はおずおずと微笑む。


「……わ、分かりませんでしたか? 私、谷口 裕子です」


「え!? ……でも、その髪……」


「何だよ、何を朝っぱらから喋ってんだ!」


遙の小さな肩を退かして、家の奥から家主の如くガークが顔を出す。

その瞬間、遙の目の前に立っていた玲と裕子の双方が、ガークから視線を逸らして後退さった。







「その髪……切っちゃったの?」


「ええ。夏も近いですし、短い方が良いかと思って」


リビングのソファーに姿勢良く座った裕子は、遙の問いに答えながら、美しい栗毛の頭髪を摘んだ。


玲と裕子が訪れたのは、遙の見舞いのためだったらしい。確かに昨晩の遙の大怪我を目の当たりにしたのならば、いても立ってもいられなくなるかもしれない。

遙自身、出立前に裕子には会いに行くつもりでいたが、相手から来るとは予想外である。しかも、ばっさりと髪を切り落として……

遙は相手の変わり様にすっかり辟易して、肩を竦めた。


「にしても、朝から女ばっかり……雰囲気良くないぜ」


遙の隣際に立つガークが、欠伸をしながら言った。


「そう? 本来なら喜ぶべきでしょう」


いつの間にか横に立っていたフェリスが、ガークの首に手を回し、人差し指で頬を突いた。


「良かったわねぇ、オオカミの群れでボスの座をゲット、みたいなシチュエーションじゃない?」


「ぎがッ……やめろ、顔に穴が開くだろうが! ていうか、お前が言うことは全部卑猥な言葉に聞こえるんだよっ!」


「まぁ! 失礼なこと。……取り合えず、お客さんが多いし、お茶でも淹れましょうか」


フェリスはガークを突き出すようにして手を離し、優雅に踵を返すと、キッチンの方へと向かった。

遙は頬を擦るガークを見詰め、ほんの少し微笑む。……しかし、その様を見たのか、ソファーの左手側に座っていた玲が唐突に口を開いた。


「遙の仲間って、男の人もいたんだ」


「え? うん……まぁ」


遙が熱から冷めたようにぼんやりとした口調で返すと、玲はニヤリと笑って顔を近づけ、小さく呟いた。


「もしかして、彼氏?」


「ち、違うよッ!!」


遙は頬を真っ赤に染めて叫喚した。そして、ほぼ同時にガークも声を上げる。


「ちょっと待てぇ! このチビ、今の発言をすぐ撤回しろ!!」


ガークは遙を押し退けて玲に掴みかかろうとしたが、彼女はするりと両者の間を抜けて、リビングの出口へと駆け出した。


「おっと、危ないね。でも残念、男に捕まる程、私は鈍くないのよ」


「んだとッ!? 絶対に捕まえて前言撤回させてやらぁ!!」


玲が馬鹿にしたような嘲笑と共に廊下へと出ると、ガークが吼えながらその後をすかさず追い始めた。

ドタドタと、荒い足音が絶え間なく響き、残された遙と裕子はお互いに苦笑した。


「ふふ、賑やかな方ですね」


「そ、そうかな? うるさいだけかもしれないし……そういえば、谷口さんはどうして此処に?」


「ええ、昨日のことで」


裕子がそこまで言った所で、遙は顔を引き攣らせた。

遙といえど、流石に昨日の『言葉』を引き摺っている。また何か、獣人に関することに口を挟まれたら……


「謝りに来たのです」


「え?」


遙が悶々と思考を巡らせる中、裕子がぽつんと呟いた。


「謝り……に?」


「はい」


裕子がはっきりとした口調で告げた。


「私、東木さんに酷い御迷惑をお掛けしたようで……今更ですが、すみませんでした」


「そ、そんなこと……私こそ」


戦いに巻き込んでしまったこと。獣人の姿を見たことで、彼女がGPCの連中に付け狙われる可能性を生み出してしまった。その原因は間違い無く自分にある。

だが、裕子は責めるような姿勢ではなく、随分と穏やかに見えた。昨日の態度とはまるで違う。

それに、獣人とあれ程の血を目の当たりにしておきながら、彼女は非常に落ち着き払った雰囲気を見せていた。それこそ、遙が驚く程に。


「あの後、家に戻ってから、自分の粗忽に呆れましたわ。自分から危険に踏み込んだのですから、東木さんが気に病むことはありません。
それに、私が原因であんな大怪我を……病院の方には行かなくても良いのですか?」


「平気だよ、私、病院要らずな体になったみたいだから……。でも、こっちも謝っておくよ。怖い思いをさせたみたいだし、だから、谷口さんも気にしないで」


遙は照れたように首を竦めた。


「怪我はもう八割ぐらい塞がってる。信じられないかもしれないけど、本当なんだ。詳しくは話せないけれど、もう、大丈夫。
こうして谷口さんも会いに来てくれたしね」


「そ、そうなんですか? あれだけの傷が治るなんて……」


心底驚いたように目を丸くする裕子に、遙は小さく微笑んだ。当然の反応であるが、それ以上深入りしてこないことに、遙は安堵を覚えていた。


何だか、昨日の裕子とは別の人と喋っているような錯覚が生まれそうだった。演技には見えない。むしろ、この姿が、彼女の『素』なのかもしれない。

気品のある顔立ちも、身の振る舞いも、随分と磨きがかって見える。優雅な頭髪は切ってしまったようだが、それでも、瀟洒な雰囲気が一層滲み出していた。


「ねぇ、谷口さん。もしかして、学校での振舞いは……演技?」


遙は悪い質問だと感じながらも、裕子に問い掛けてみた。

すると、裕子は悪戯っぽく笑みを浮かべ、頬を紅潮させる。


「やっぱり分かりますか? 悪いとは思っていましたが、今までの無礼、どうか許して下さいませ」


「どうして、そんなことを……?」


裕子の答えに、遙が続けて尋ねる。


「中学までは、この口調と変わらなかったのですが……逆に悪く取られたようで、中々クラスの中に溶け込むことが出来なかったのです。
我が家といい、豪邸ですから。見えない格差というものが、私の周りに溝を生じさせてしまったみたいで……」


裕子は両手を膝の上で固め、震える声音で続けた。その幼さの残る美貌に、すっと陰が落ち込む。


「悔しかったのかもしれない。こんな家柄に生まれたのが嫌で……もっと奔放に生きることが出来たらと、ずっと思っていました。
だから、進学先の高校も普通のレベルに合わせて入学したのです。そして――」


裕子は印象的な赤目を、遙の瞳と合わせた。


「あなたと出会ったのです。こう言うと気分を害されるかもしれませんが、東木さんの家も大きな方でしょう?
ご両親も世界的な多国籍企業に属されていて、それでいて、誰からも愛されるようなあなたが羨ましかった」


「谷口さん……」


「我ながら捻くれた考えですね。羨ましいというより妬ましかったのだと思います。今まで、東木さんのように、穏やかに過ごしてきていたのに、一人でいた自分。
何が違うのか分からなくて、どうせなら、いっそのこと性格を捻じ曲げてしまった方が良いと……そう思ってしまったのです」


「でも、私から見たら、今の谷口さんの方が好きだよ」


遙は正直に告げた。


「凄いことだと思うんだ。裕福なのを、決して鼻に掛けない。普通に生きていこうって思える精神が。
私の場合、唯単に弱いだけなんだ。自慢することが出来ない、小学校の頃は、人に話しかけることだって、全然出来なかった」


遙は目を細めながら、朝日の差し込む窓の外を見た。


「……小学校に入学してからは、ずっと苛められてた。
周りは近所の子供ばかりだったから、私の家が裕福なのを皆が知ってたし、それなのに、私が目立たないように人を避けていたから、逆に目を付けられたんだ」


遙の言葉に、裕子が微かに息を呑んだ。


「小さい頃から体が弱くて、私はしょっちゅう風邪で学校を休んでいた。お金持ちなら、美味しいものとか、栄養のあるもの沢山食べられる、それなのに体が弱くて背が低い。
そんな些細なことを言いがかりにされて、一年生の中盤までは、誰も友達が出来なかった……避けられるのも嫌だけど、私物を取られたりとか、時には暴力を振るわれたりとか……色々あったよ」


遙が窓から視線を離して、再び裕子へと顔を見せる。その目尻には、僅かに涙が浮かんでいた。


「でも、そんな時にね、助けてくれた人だっていたんだ」


泣き笑いの表情を浮かべて、遙ははっきりと言った。






――――――――






「まだ……まだ来ないかな〜? やっぱり私が負けることなんて――」


ガークから逃走した玲が物置の扉の影に隠れながら、後ろの様子を伺う。

遙の家は幼い頃から行き付けの場所だったのだ。自分の家と同じぐらい構造を把握している。


そんな強みに任せてまだ余裕があるかと思って覗いたのだが、予想外なことに、黒い影が素早く駆けて来るではないか。


『うおおおぉぉ!! 待ちやがれぇぇ!!』


凄まじい勢いで疾走しながら、ガークは叫んだ。

流石の玲も驚いて物陰から飛び出し、その足を更に速める。


「う、嘘! 地の利もこっちにある、この私が追い付かれるというのッ!? 不覚だわ!」


「ゴチャゴチャと……生意気なこと言ってんじゃねぇよ!!」


猛るガークの手が玲のポニーテールを掠めた所で、彼女は素早くトイレの中へと入り込んだ。

すかさず鍵を掛け、ガークの侵入を阻止する。玲は息を切らせながら、その場に座り込んだ。

だが、直後に背後のドアから激しい衝撃が走り、玲は軽く咳き込む。


『開けろ!! 俺はなぁ、女子トイレだろうが何だろうが、そんなモンお構いなしに侵入するんだぜ!?』


「さ、最低! こんなのが遙の仲間だなんて信じられないわ! 大体、ロムルスの人間は嫌いなのよッ、昔から戦争ばっかり起こしてるくせに」


『うるせぇ! 俺はロムルスつっても、黎峯の政府が関与している街で育ったんだ! お前は知らないだろうが、純血のロムルス人はもっと怖いんだよ!』


ドン、ガン、ドン! と、激しいノックを繰り返すガークを無視して、玲は暫くの間黙り込んだ。

一分、二分、三分……時間が刻々と過ぎて行く中、五分程経った頃だろうか、弾丸のようなノックが止んだ。


『……おい、良いのか?』


「……」


玲は答えなかった。


『もし、お前が此処で俺の機嫌を損ねたら、どうなるか分かるか? 遙の面倒を見るのはこっちなんだからな。
あいつのメシを抜くことだって、下着を盗むことだって、入浴シーンを覗くことだってホイホイ出来る訳だ、分か……」


「ちょっと!! 今、何てことを――ッ」


いきり立った玲がバンッと、トイレのドアを開け放ち、憤怒の篭った声を上げた。

しかし、目の前に立っていたのは黒のタンクトップに同じく黒のバンダナを頭に巻いた、玲から見れば何ともセンスの無い男、唯一人である。

青年がニヤリと笑ったと思うと、驚く程のスピードで玲の右手を掴んで、そのまま足を軽く払う。お陰で、玲は派手に体勢を崩して、その場に尻餅を突いた。


「痛ッ! 右手が……」


「馬鹿が、軽くしたから別に骨が折れたりはしないさ。……くっくっく、それよりも、この俺を出し抜けるとでも思ったのか!?
ニンゲンが俺から逃げられるなんてこたぁ、有り得ない!」


「もう……こんなヤツに遙を預けろって言うのッ! さっきの女の人は美人で綺麗だったのに……遙が心配だわ」


ガークの手から離れて、玲は脱力するように壁を背に、ずるずると力を抜いた。

ガークはそんな玲の様子を見て、自分も目の前にどっかりと胡坐を掻き、腿に頬杖を突く。


「良いか、ガキ」


ガークは真鍮のように煌く瞳を、玲の鳶色の瞳に合わせる。


「遙はな……俺の彼女なんかじゃないんだ」


「そんな真剣な顔で言われなくても、分かってるわよそんなこと!」


ゴッ、と、頬骨に拳がぶつかる鈍い音が走る。ガークは予想外の痛みに声を上げた。


「ぐがっ! 女のクセに殴るなよ……ッ結構痛ぇし……!」


「あんたなんかに、遙の気持ちが分かる訳無いじゃない!」


玲は目を微かに潤ませて叫んだ。


「……遙は、遙はずっと幼い頃から苛められてたのよ、あんたみたいな粗暴なヤツに!」


「苛められてた? あいつが?」


ガークの唖然とした問いに、玲ははっとして、すかさず歯を食い縛った。


「分からないでしょ? 私は最初、隣のクラスだったから、遙がどうなっているのか良く分からなかった。
でも、通学路でたまたま会った時、遙は……泣いてた」


玲は涙を堪えるようにして俯く。


「靴を隠されたって、裸足でね……その上、涙で濡れた顔は傷だらけで、じっと泣いてたのよ。……あの子、人に自分の本当の気持ちを伝えるのが下手だから。
嫌なことも嫌だって、素直に言い切れない。だから、あんたが嫌なことしたら、遙は――」


「その心配はねぇよ」


ガークは呆れたように溜息を漏らした。淡々としたガークの言葉に、玲は身を乗り出して迫る。


「ど、どうしてそう断言出来るのよ!」


「今の遙のヤツは、お前が思うよりずっと強い。うんと幼い頃から一緒にいるから、逆に気付かないかもしれねぇがな。
笑う時は笑うし、泣く時は泣く、怒る時は怒る……そんなヤツだ。確かにウジウジした所もいっぱいあるが、それはあいつが今の状況に不慣れなだけだ」


「そんなこと……」


ガークが頭を掻きながら言った言葉に、玲は複雑な顔をした。

何処かじれったそうな表情を浮かべているものの、不思議と彼が嘘を吐いているようには見えなかった。

玲の気持ちを知ってか知らずか、ガークは再び視線を戻して言葉を続ける。


「ま、その内慣れて、今以上に強くなってくるよ、あいつは。獣人の気持ちは……獣人が一番分かるってことだ。今のあいつは、人間じゃないんだ」


「遙は人間よっ……あんたが認めてあげなくて、どうするのよッ!」


玲は顔を怒らせて叫んだ。

当然の反応と言えばそうだろうが、ガークは玲に負けず劣らず厳しい顔つきになって言い返す。


「言うな。良いか? 遙から色々と聞いているかもしれないが、獣人ってのは見た目こそ人間と変わらないが、これは仮の姿みたいなモンだ。
唯、身体に組み込まれた遺伝子が眠っているだけの状態に過ぎない。塩基配列はお前ら人間とは根本的に違うんだよ」


「でも……」


「人間だって、完全に認めてやりたい気持ちは分かるさ。なんたって、心は『人間のまま』なんだ。
だが肉体的には人間じゃない。悲しいことだけれどよ……獣人だってのは事実なんだ。その事実を捻じ曲げてまで言うな。
むしろ獣人だって認めた上で、あいつを今まで通りの『遙』として見てやってくれ。そうじゃないと、あいつの戦う意味が無くなっちまう」


「戦う意味って……どういうことよ……?」


玲が胡乱な視線を送る中、ガークは静かに天井を仰いだ。


「確かに、獣人になってからの数日間、あいつはお前……人間に認めて貰いたくて戦ってきたのかもしれねぇ。でもよ、遙も含めて俺達の最終目的は『人間に戻ること』なんだ。
お前が此処で、遙を身体的にも獣人だって認めてしまえば、あいつが戦う意味が無くなってしまう。何のために傷付いたのかさえ、分からなくなっちまうだろ?」


「それだったらあんたも揃って遙を『人間』だって認めれば、遙が大怪我してまで戦う必要は無くなるってことじゃないの?」


「そうかもしれないが、良く考えてみろ……お前や俺が遙を人間だって認めてやっても、他の人間が同じように認めてやれると思うか? あいつが人間だって……」


ガークの言葉に、流石の玲も顔を歪ませた。


「そんな……でも、やってみなければ分からないじゃない」


「遙にそこまでする精神力があるかよ、俺だってお断りだ。人間の一人ひとりに自分を認めさせるって、正気の沙汰じゃない。世間が馬鹿騒ぎになるだけだ。
結局、俺らは人間に戻ることでしか、万人には認めてもらえないっていうことだ。同じ『人間』として、見てもらうには……な」


ガークは大儀そうにガシガシと頭を掻く。


「……どんなに親しいヤツだって、獣人の姿を見ればビビッて逃げちまうこともあるんだ。親友だろうが、身内だろうが……
そんな奴らを一人ひとり説得して回れってことが無理な話だろ。それに、GPCの奴らを叩きのめさないと、俺らは一生あいつらに脅かされて暮らさなくちゃならねぇ」


「……何なのよ、何であのGPCがそんなことを……遙……」


玲は俯き加減のまま、震える口調で呟いた。

彼女の心境も複雑だろう。ガークは頬杖を突いて溜息を漏らした。

GPCは表向きでは、世界を股にかける多国籍企業。その医療技術やゲノム解析による社会貢献の数は計り知れない。

そんな企業が、裏で何の罪も無い人を拉致し、人体実験の材料に使用するなど……ましてや、その被験者が親友であったとするならば、それこそ身が抉られるような思いに違い無い。

物ように命を弄ばれて、人外の存在へと変えられて、故郷に戻ることすら憚られるような生活……玲にも、少なからず遙の気持ちが分かる筈だ。


「遙……」


玲は歯を食い縛って、微かに喉を鳴らした。それは明らかに悲しさよりも怒りが滲み出た表情だった。大切な親友を傷付けられたことによる、憤り。

しかし、その直後、彼女は素早く顔を挙げ、意を決したような眼差しをガークへ突きつける。


「っ……遙を」


玲は一旦言葉を切った。その目からは一筋の涙が零れている。

ガークが驚きに眉を上げる中、玲は大きな声で続けて叫んだ。


「遙を、悲しませたり、またGPCの奴らに連れ戻されるような結果にしたら、私は絶対にあんたを許さないんだから!
約束してよ、遙を護るって……! 私の代わりに、ちゃんと助けてあげるって……」


玲が悔し涙を流しつつ、ぐっと拳をガークの目の前に上げる。ガークはニヤリと笑った。


「当然だろ。俺の命に代えてでも、あいつだけは護ってやる。二度とGPCの奴らに渡さねぇよ。このガーク様がいる限り……な!」


ガークは玲の拳に同じように手の甲を軽くぶつけると、真剣な顔立ちでそう告げた。

ガークの言葉を聞いた玲は若干悔しそうな表情を浮かべていたが、次第に微笑みに変わる。


……だが。


「……ガーク? そういえば……何処かで聞いた名前ね」


玲が笑みを消して、何かを思い出すに視線を上へと上げる。

玲の言葉に、ガークは歓喜に彩られた表情になって、大きく腕組みをした。


「おう!? 俺の名は黎峯の田舎にまで轟いていたのか。くくく、俺がロムルスにいた頃に生まれた武勇伝も、ついに海を越えて――」


「そう、そうよ! 思い出したわ!」


玲は合点がいったように手を鳴らした。


「一昨日の帰りに遙の言ってた『近所のイヌ』って、あんたのことだったのね!」


「んな!!」


予想外も良い所な台詞に、ガークは凄まじいスピードで立ち上がった。

見る見る内にガークの眉間に青筋が浮かび、その瞳が憎悪に燃え上がる。


「あのクソガキッ、誇り高いオオカミの遺伝子を持つ俺を、そんじょそこらのイヌコロと一緒にするたぁ良い度胸だッ!! 今すぐぶん殴ってやる!」


「ちょっと! もう約束を破る気!」


ガークがリビングへ向けて駆け出すのを見て、玲は声を上げた。

……ふと、先に進んだガークがゆっくり振り向いて、小さく玲に告げる。


「お前は遙にとって、本当に大切なヤツなんだ。お前がいるから、遙は前に進もうって思えるんだよ。だから、あんまり自分を卑下すんな」


ガークは笑いながらそう告げると、また走り始める。

何も遙にしてやれない自分に対して、悔しさがあるのかもしれない。獣人でない以上、遙の気持ちを全て分かってあげることができないのだから。

だが、玲がいなければ、遙は大きな心の支えを失うことになる。ガークはそれが分かっていた。


「え……?」


玲は思わず問い返した。だが、ガークはすでに姿が見えない所まで走り去ってしまったらしい。

すっかり取り残された玲だったが、暫しの沈黙を開けて、ぎりっと奥歯を鳴らす。


「馬鹿! あんたに言われたくなんか無いのよ……っ!」


玲は泣き笑いのような表情を浮かべて、ガークを追うように走り出した。




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