遙の苦痛の声が、荒地に響き渡った。


「遙!!」


ガークが叫ぶ。犬獣人に身体を貫かれた遙を見て、フェリスも息を呑んだ。

身体を痙攣させる遙の腹部からは、真っ赤な血液が止め処無く零れ落ちている。その出血量を見るに、内臓を傷付けていることは間違いなかった。


「遙……! この、離しなさいよッ」


獅子獣人に腕を掴まれているフェリスは、彼の強面に向けて叫んだ。

だが、それで相手が離す筈がない。下手に刺激をすれば、こちらも大怪我をさせられる恐れもあったが、今はそれどころではない。

フェリスが獅子獣人の腕に手を掛けて振り解こうとする中、遙の生命の危機に、ガークが思わず駆け出して犬獣人の元へ迫る。


一方で犬獣人は、失神した遙の髪の毛を掴み上げつつ嘲笑を上げた。


「ははッ、このガキ、獣人だってのに、腹破かれただけで死んじまうってのか? 失敗作も良い所だぜ!」


「てめぇッ!!」


ガークは憤り、余裕の表情を崩さない犬獣人に向けて怒号した。

彼の腕に締め付けられた遙。彼女は腹部に受けた痛みによってか、一度だけ咆哮を上げると、それっきり身体を弛緩させて崩れている。

その様子を見るには、出血による死が迫っていることを示しているだろう。ガークは焦燥感と共に彼女の元へと身体を急かす。


だが……犬獣人は再び遙の身体を持ち上げて、今度は彼女の胸元に爪を突き立てて見せた。

彼の突き立てた爪の先端が軽く食い込んだのか、遙の服の上に薄らと円形に血が滲む。


「おいおい、さっき俺が言ったことを忘れちまったのか? 言っとくが、コイツはまだ死んじゃいねぇよ。
心臓はしっかり動いてんだ。……だがよぉ、今てめぇが俺に向かってきたら、次はコイツの心臓を打ち抜くぜ?」


「! 外道が……」


ガークは牙を剥きつつも足を止めた。

相手は脅しのように見える仕草をしながら遙の身体を弄んでいるが、こちらが抵抗すれば間違いなく殺されるだろう。

遙に関しては何とか生きているようだが、あの出血量が続けば獣人でも持たない。遠眼で見る彼女の肌も、青白さを増している気がした。

だが、相手は底無しの馬鹿だ……ガークは舌打ちする。助けようにも動けない、歯痒い状態が続いていた。


ガークはやがて無防備に両手を左右に開けると、口角を吊り上げている犬獣人の眼を睨んだ。


「分かったよ、抵抗はしないでおいてやる。だけどよ、代わりにそいつを放せ。まだ何も知らねぇ子供だ。
殺しても、何のメリットもお前らには無いだろ? それに、そのまま放置してりゃあ、そいつはいずれ死んじまう」


「はは、思ったよりいさぎの良い奴だな。……いいぜ、てめぇらを殺してから、こいつもそこらに捨ててやらぁ!」


犬獣人は野卑な笑い声を上げると、棒立ちになっているガークに向けて拳を付き放つ。

その拳は、狂い無くガークの頭部を狙っていた。


「ガーク!」


フェリスの悲痛な声を聞きつつも、ガークは動かなかった。

同じ獣人であっても、その強力な打撃が眉間を砕けば、それこそ命は無い。

ガークはそれでも何かを見据えるように、じっと相手の動きを見ていた。その行動を諦めと見ていた犬獣人は、口元に残酷な笑みを貼り付ける。


「とっととこの世とおさらばしなッ!!」


フェリスが固唾を呑む中、犬獣人の拳が、ガークの額へと吸い込まれ――




ガシッ


「……! 何だ……?」


ガークの頭蓋を砕く寸前で、犬獣人の腕が止まった。

ガークは目を見開き、犬獣人の腕を止めた張本人の姿を視界に焼き付ける。……それは予想だにしなかった光景だった。


犬獣人の太い腕を、失神していた筈の遙が鷲掴みにし、その攻撃を止めたのだ。

その細い指先は関節が白んでおり、凄まじい力をかけているのが伺える。そして、その指先は犬獣人の分厚い皮膚にも食い込んでいた。


遙が軽く息を吐きながら、身体をゆっくりと起こす。……近くにいたガークは、徐々に拍動を増していく、遙の鼓動を感じ取った。

心臓の高鳴りが強まっていくと、遙はその眼を静かに開き始める。次第に完全に開いた眼は、驚く犬獣人へ焦点が当てられた。


「ぐ、が……ッ」


遙は喉声を漏らすと、鼻筋に皺を寄せ、血に濡れた口を大きく開けた。


――少女の犬歯が二倍近くまで鋭く伸び上がり、鳶色を宿す瞳は殺気を閉じ込めた赤眼へと変貌する。瞳孔は音も無く、針の様に細く縦に裂けた。

だが、変化は更に続く。心臓で生み出された熱が両腕に集中し、その燃え上がるような痛みが遙の意識を奪い去った。


「ぐがあああぁぁぁっ!!」


遙は鋭利な牙を剥きだしにして、獰猛な獣のような咆哮を上げる。

その咆哮は犬獣人はおろか、フェリスやガークの肌を粟立たせる程、激しく、周囲に轟いた。

どんな野獣とも付かぬ雄叫びに、犬獣人も畏怖を感じた様に、遙を締め付けている豪腕を緩めた。


遙がおぞましい咆哮を上げると同時に、その細い腕から黒灰色と碧色の羽毛の様な毛が生え始める。

人肌を音も無く覆っていく羽毛の波は、鮮やかな色のコントラストを生み出していた。そして、肘からは漆黒の飾り毛が溢れるようにして生じる。

羽毛の侵食が手に達した時、遙の扁爪から何か小さなものが爆ぜるような音がし、その爪はやがて猛禽類の鉤爪の如く、鋭い紅色の爪へと姿を変化させた。


「がぁッ!!」


腕の変貌を遂げた遙は、身を反り、牙を剥きだして吼える。

そして、己を掴んでいた犬獣人の毛深い腕に爪を立てたと思うと、彼の腕を最大限の膂力を込めて引き裂いた。


「ギガァアアァァッ!!」


犬獣人が苦痛のあまり、身も凍るような絶叫を上げた。

ザクッ、という肉に刃が通る鈍い音と共に、ガークの視界を鮮血が濡らしていく。


(……何だ、こいつは!?)


ガークは遙の戦慄するような行動に対して、全く身動きが出来なくなっていた。

今まで感じたこと無い程に強力な力の波動。その未知の力に中てられ、四肢の動きはおろか、呼吸さえもが憚られた。

ほんの僅かに身体を動かしただけで、全身が引き裂かれそうな程の殺気が、強弱を付けて容赦無く浴びせつけられる。


その殺気を放っているのは、犬獣人の手の中で吼え狂っている遙に他ならなかった。


「ッグ、グウゥゥアァァッ!!」


ヒトの声も発せ無い程の痛みに、犬獣人は腕に尚も咬みついて来る遙を強引に振り解き、地面に転がった。

腕から血飛沫を上げつつ七転八倒する犬獣人。彼が身を擦り付けた地面には、夥しい血痕が生々しく残されていた。

彼は暫くして動きを止めると、蹲って低い唸り声を上げる。見え隠れする彼の腕の創傷は言葉では形容しがたい有様であった。あの傷では二度と腕を動かすことは叶わないだろう。


一方、犬獣人に投げ捨てられた遙は、中空で器用に身体を捻り、四つん這いになって地面に着地する。

遙は相手が苦痛の声を張り上げる様子を見て唸る。血を見詰める瞳は更に闘志を増していき、遙は地面を大きく蹴った。


「遙!」


ガークと同様に殺気で動きを押し留められていたフェリスは、自身を叱咤して叫ぶ。

だが、遙はすでに高々と宙に舞っていた。その紅色に染まった爪は、背中を向けて蹲る犬獣人へと一気に振り下ろされる。


――ドフッ、という、肉と骨を同時に打ち抜く鈍い音が、周囲に響いた。

犬獣人が悲鳴を上げる間もなく、遙の一撃によって絶命する。遙の爪は背後から頚椎を打ち抜き、彼の喉笛を貫いていた。

遙は相手が絶命したことを感じたのか、素早く腕を引き抜いた。栓となっていた遙の獣腕が抜けたことにより、血飛沫が雨のように降り注ぐ。


血の雨に濡れた遙は、ゆっくりと顔を回し、続いてガーク達の方向へと視線を向けた。

その戦慄するような光景に、ガークとフェリスは絶句する。


「まさか……あれは……」


獅子獣人に捕まえられていたフェリスは、震える声を絞り出して呟く。


どんな生命体とも付かない、遙の両腕の変化。

鳥のような羽毛に加え、食肉目独特の鋭い鉤爪も備えている。その瞳も、まるでネコ科のように瞳孔が細く縮んでいた。

あらゆる獣の特徴を混ぜ合わせた容姿、それは――


「キメラ……獣人か?」


フェリスを掴んでいた獅子獣人が、塩辛声で呟いた。

彼もまた、戦慄を覚えているらしく、フェリスを掴んでいる力が弱まっている。フェリスはその一瞬の隙をついて、獅子獣人の腕を振り払った。

彼は小さな呻き声を上げると、あっさりとフェリスを離してしまう。その行動に、遙が視線を移した。


「む……貴様ッ」


自らの腕を振り解いたフェリスに対して、獅子獣人は牙を剥き出した。

だが、フェリスは彼を庇うようにして左腕を横に伸ばし、遙に視線を向けたまま叫ぶ。


「! 早く逃げなさい、そうでないと――」


「ぐる……がぁぁ!」


人とも獣ともつかない声を上げながら、遙はフェリスに向けて疾走してきた。

フェリスは激しい殺気に思わず四肢を震えさせる。だが、此処で引く訳にはいかない。何としても遙を止めなければ……

だが、フェリスに向かうと思われていた遙の爪の軌跡は、彼女の横を素早く通り過ぎる。

フェリスが驚いて振り返ると同時に、その端整な頬に思いっきり血液が飛び散ってきた。


「グアッ!」


獅子獣人は声にならない悲鳴を上げる。彼の腕は遙によってざっくりと引き裂かれていた。

本来なら、遙は獅子獣人の首元を狙っていたのだろう。しかし、相手もそれは察していたらしく、腕を犠牲にして即死を避けたようだった。

しかし、彼はすでに戦意を喪失しているらしく、遙の形相を震えながら一瞥すると、すぐに踵を返した。


「く……ば、化け物めッ!」


悲鳴に近い声を絞り出し、逃げようと姿勢を変えた彼の視界は、真っ赤な鮮血で濡れた。

痛みも感じない程の一瞬の出来事……遙は、背後から獅子獣人の分厚い胸元を貫いていた。獅子獣人は口から血を噴き出すと、ゆっくりと地面へ突っ伏す。


心臓さえも抉り出す勢いで、遙は何のためらいも無く、彼の命を奪い去っていた。息を切らせたその顔は殺意と恍惚に満ちている


「遙! やめろ……!!」


ついにガークが見かねて声を上げた。

すると、崩れ落ちる獅子獣人を見ていた遙が、すぐさまそちらへと振り返る。


「がうるるッ……うぅぅ」


鼻筋に皺を寄せ、犬歯を剥き出す遙。……理性が無いのか、人の言葉は返ってこなかった。


「ちっ……!」


ガークが渋面を浮かべて、その腕を構えた。すると、遙は反射的にこちらに襲い掛かってくる素振りを見せる。

まずい、そう直感した二人は死を覚悟してその場で構える。あの力量からすれば、こちらの命を奪うことは容易い筈……


「畜生……とんだお荷物を拾ったモンだぜ!!」


ガークが自棄になったように叫んだ。言下、遙がざっと地面を蹴る。


――だが。


次の瞬間、遙は何かの糸が切れたようにして、その場に倒れ込んだ。

ドサッと、小さな砂煙を上げて、遙は眠りに就くように眼を閉じる。


「!? 遙ッ」


その様子に拍子抜けすると同時に、慌てて駆け寄ってきた二人は、遙の身体を抱え上げた。

全身がおぞましい程に血に濡れている。しかし、容姿とは裏腹に、薄らと開いている目からは殺気が引いていた。


初めての『獣人化』に、身体が付いていっていないのか……薄目を明けて空を仰ぐ遙の目尻には、涙が浮かんでいた。

微かな安堵と罪悪感を抱いた二人は、遙の様子を伺いながら小さな溜息を漏らした。


「無茶な獣人化が祟ったのね……それにしても、この腕……」


フェリスは血塗れの遙の獣腕に触れる。

それは当然、人間の肌の感触とは掛け離れた、鳥の羽毛に触れているかのような感触だった。

鉤爪の形を見るに、恐らく肉食獣系の遺伝子が導入されているのだろうが、自分達と比べると、どうも不自然な獣人化の容姿であった。


「こいつは、キメラ獣人なのか。だがよ、この腕の形……幾らなんでも普通のキメラには見えない。身体に埋め込まれた遺伝子の種類は、一、二種類ってレベルじゃなさそうだ。
それに、これだけ暴走状態に陥っているにも関わらず、両腕だけの変化しかしていねぇ。ってことは、まだ不完全な状態なんだろうな」


ガークが顎に指を当てながら唸った。

この不安定な容姿だけではない。先程の強力な力といい、想像を絶する潜在能力を秘めているのは確かなようだった。

複雑な表情で眠る遙を見詰める二人だったが、やがて吹っ切れたように立ち上がる。


「……ま、とにかく、今はこの場を離れましょう。また敵が襲ってきたら、遙の対処が出来ないわ」


「ああ、遙に聞きてぇことも山ほどあるし。こいつらには悪いが……後から埋葬してやんないと、な」


ガーク達が視線を向ける先には、無残な最期を遂げた二人の獣人が倒れている。ガークとフェリスの二人は、彼等に向けて軽く瞑目した。


「ったく、余計なことしやがって……」


ガークは何とも言えない表情でそう吐き捨てると、獣人化を解除して、弛緩した遙の身体を持ち上げた。






――――――――






「クロウ……」


暗く、然程広くない部屋に、突如として低い声が過ぎる。

声の先には、唯一の光源であるデスクライトを備えた、両袖の机に座っている女性がいた。

女性は研究者らしい青白い白衣を纏っており、声が聞こえると、視線だけを部屋の出入り口へと向けた。


「何か私に用?」


温かみの欠片も無い、淡々とした返事に、背後の気配が微かに揺れる。

クロウと呼ばれた、白衣を纏った女性が声の方へ椅子を回して振り向くと、冷厳な輝きを宿す鋭い眼光が露になった。

背後の気配は、大儀そうにクロウの目を見詰めると、溜息交じりに口を開く。


「お前が、先日捕らえた被験者だが……どうやら先日、研究所から抜け出したようだな。確か、黎峯の実験所はお前の管轄だったか。
これは一体どういうことだ? お前ともあろうものが、こんな結果を招くとは……予想外だよ」


当初悠然とした態度で気配からの声を聞いていた彼女は、やがて思い付いた様に愕然とした顔立ちになる。


「なっ、そんな馬鹿な……! ハルカを収監していた地下実験所は、『奴ら』に見付かるような所ではない筈よ。その上、幹部も配置していた――」


「どちらにせよ、ハルカを奪われたことには変わりないのだ、クロウ。聞けば幹部達は誰一人としてやられてはいない。ハルカだけが抜き取られた形になっているのだよ」


「……っ!」


黙り込んだクロウの背に、軽蔑の視線が突き刺さり、背後の人物はゆっくりと踵を返した。

彼の言うこと……それはGPCのセキュリティの甘さを指摘している。

だが、今までに外部に情報を漏らす恐れのある、脱走した獣人集団は、皆『あの土地』に隔離されている筈では……?

となると、外部の者達が加担した可能性が高くなる。――同時に、もう一つの可能性も孕んでいた。


「君の容赦の無い性格は気に入っているよ。だが、少し内側に眼が行き過ぎているようだな。息抜きに『外にも』目をやると良い。
……我らの総帥はハルカを欲しておられる。取り戻さねば、今の地位も危ういものだろうな。ゆめゆめ、油断なされぬ事だ」


気配は低音で言い放つと、足音も無く去っていった。

背後の声を聞き取ったクロウは、ぎりっと奥歯を鳴らし、何か言いたげに口を開きかけたが、それをぐっと堪えた。

何より高慢な性格故、彼女のプライドがそれを許す事が無かったのか……クロウは額に指腹を押し付ける。


クロウは今しがた書き終えたばかりのレポート用紙を引き千切ると、窓の外に見える淡い月を睨み付ける。


「……幹部やセキュリティも避けて、厳重に警備されている筈のハルカを奪取するなんて……そんな芸当を出来る者が……」


怨思の篭った独白を、クロウは忌々しげに吐き捨てた。

いや、ハルカを攫った相手を特定するよりも、先にすべきことがある。……クロウは一度眼を閉じると、椅子から立ち上がった。


(ハルカをもう一度、こちら側へと連れ戻さなければ)


クロウは小さく溜息を漏らすと、その口元に冷厳な笑みを貼り付けた。




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