――数十分前。


遙とフェリスの姿は、一階の寝室にあった。

暖色を放つスタンドライトが静かに二人を照らす中、フェリスは遙の身体に生じている傷の手当をしていた。

消毒用アルコールを染み込ませた綿をピンセットで摘み、遙の傷口に当てる。その作業をしながら、フェリスは彼女の塩梅を伺うように顔を上げた。


「少し傷に染みるかもしれないけど、ごめんね」


「……いえ、平気です」


遙は端的に言葉を返す。鳶色の瞳が向ける視線は、腕に生じた傷へと落とされていた。

軽く消毒を行った後、フェリスは薬箱から包帯を取り出して、慣れた手付きで遙の腕に巻き付けていく。


「遙の自己治癒能力なら、包帯をする必要も無いだろうけど、念のために巻いておくね」


フェリスが囁くような声音でそう告げた途端、遙が小さく息を呑んだ。

清潔な包帯の巻かれた細い腕が、微かに震えている。その様子を見たフェリスは僅かに顔を歪ませた。


「震えているけど、大丈夫? 少し強く巻き過ぎたかな……?」


「何でも……ありません。大丈夫……」


遙はフェリスの手から、腕をするりと離して項垂れた。

疲れ果てたというよりも、その生気の抜けたような顔には深い悲しみが滲み出しているように見える。

憔悴した遙に対して、フェリスは何か声をかけようとしたが――寸前で口を噤み、続いて遙の背中へと手を伸ばした。


……が、その伸ばした手を、遙の繊手が掴む。フェリスが目を瞬く中、遙は首を横に振った。


「背中は大丈夫です。……もう出血も止まりましたから……明日の朝になれば、もう傷は無くなると思います……」


「……そう。でも、消毒ぐらいしておいた方が良いよ? あれだけ酷い傷だったんだから――」


フェリスが言い終わる前に、遙は立ち上がり、リビングへと繋がるドアの前に立っていた。

無言のまま、遙はドアノブに手をかけ、振り向きもせずにフェリスへと告げる。


「……もう、今日は休みます。……お風呂に入っているガークにも伝えておいて下さい」


「遙……」


フェリスが追うようにして立ち上がろうとした時、バタン……と、寝室のドアが閉めらた。





「……」


リビングを通り、廊下へと出ると、何処か冷えた空気が喉を刺した。

電気の点けられていない廊下から階段へ続く道。無論、普段は行き慣れている自宅なのだから、暗くても大体の見当は付く筈だった。


「……つッ!」


だが、ガッという硬い音と共に、爪先を階段の角にぶつけ、遙は転んだ。

幸い、すぐに手摺を掴んで脛を怪我することも無かったが、よろよろと立ち上がりながら、遙は悔しげに唇を噛んだ。


「くっ……」


遙は素早く階段を駆け上って、自室へと入った。

自室へと入った途端、全身が凄まじい倦怠感に包まれ、遙は思わずそのまま絨毯の上へと腰を下ろす。

怪我を治すために肉体が体力を消耗したのだろう。眠気と熱っぽさに頭が茹だる中、遙は身体を微かに揺らした。


軽く包帯の巻かれた腕を伸ばして、自室のドアに鍵を掛けると、遙は無意識の内に身体を傾け、右手の洋服箪笥へと頬を押し付ける。


「……私の、自己治癒能力……皆とも違うのかな……?」


遙は漠然とした口調で呟いた。フェリスの言葉を思い返して、昨晩の記憶を辿る。

フェリスは敵に胸を突き刺されて、その出血を止めるのにもかなりの時間を要した。彼女は普通の獣人より優れた、上位種獣人というものだと聞いているのに……

おもむろに、フェリスが巻いてくれた包帯をするすると剥がすと、そこに生じていた筈の傷はすでに塞がっていた。自分の爪で、あれほど深く引き裂いた筈の傷が。

……自分でも鳥肌が立つような再生能力だった。人間離れした身体能力に加え、自己治癒能力に関しては獣人のそれを越えている……

 
自分は一体なんなのだろう?


遙は急に寒気を覚えた。

背中に手を回してみると、すでに出血は止まり、腕と同様に瘡蓋のようなものが生じていた。この傷を負ったのは、ほんの一時間ぐらい前の話だというのに。

上位種獣人のそれをも越える自己治癒能力。その上、一度は歯が立たなかったペルセを、感情の昂りによって瞬時に薙ぎ倒す力。

普段は眠っている力が何らかの弾みで覚醒し、本能の赴くままに自分を突き動かす。それこそ、理性さえ崩壊してしまうような力が沸き出して……


「私……私は……獣人以上の化け物だと言うの? 皆とも、違う……そんな……っ」


知らず知らずの内に、頬に涙が伝う。

遙が顔を覆って泣き出す寸前で、唐突に耳元に高い鳴き声が響いた。

にぃ、にぃ……と、聞きなれた鳴き声だ。遙はゆっくりと顔を上げる。


「ラボ……」


遙はふらつく足で立ち上がって歩き、ラボのいるマウスケージの前に来て座り込む。

普段は大人しいラボが、ケージを開けて欲しいようにしきりに柵に噛み付いていた。しかし、遙はケージの柵を開放してやることはしなかった。

唯、鉄柵を表面を伝うように指を這わせ、息漏れのような声音で呟く。


「ごめん。今は遊んであげられないよ……私は……」


(化け物……!)


ふと蘇った裕子の言葉に、遙は表情を凍り付かせた。

夢なら覚めて欲しい。そう願いたい程の胸の苦しさだった。心臓がズキズキと痛み、呼吸が詰まる。

黒と碧の色彩を持つ羽毛。それに覆われた自らの腕。……そして、生温かい返り血に濡れた自分の肉体。

ペルセに大きく傷付けられた傷も、今はもう九割方塞がっている。人間であれば、失血で命を失っても可笑しくない程の怪我が、大した治療もせずに再生されていく。


明らかに人間離れした存在だった。裕子の反応は当たり前といえば当たり前だったのかもしれない。だが、遙にとっては理解し難い現実であった。

人間を越える力を手に入れたとしても、心は人間以上でも以下でもなかったのだから。

性格や記憶、価値観……目に見えないそれらは変わっていない。それが返って気持ちを揺さ振った。自分は化け物なのだろうか?


「……違うッ!」


遙はラボから引き剥がすようにして視線を外し、寝台の布団の上に顔を埋めた。

シーツを引き裂く程に力を込めて、遙は必死に平常心を保とうとする。心臓が早鐘を打ち、瞼が焼けるように熱くなった。

嘔吐感を催す程に歯を強く食い縛り、頭を押し付けて……そうでもしなければ、全てを打ち砕いてしまいそうだった。


「化け物なんかじゃないよ……普通に人と話したり、同じように食事だってする、眠ることも出来る……人間の頃の記憶だって――」


記憶……遙は言葉を詰まらせた。

獣人の記憶に押されて消えていく人間の頃の記憶。最愛の母の職業についても知らない。それに加え、大好きな父の顔も少しずつ褪せていくように思えた。

この記憶を全て忘れてしまったら、自分には何が残るというのだろう? 遙は唇を噛み、手の握力をより一層強めた。


「……どうして、こんなに苦しまなければいけないの? 全部、私が望んだことじゃないのに……」


途方も無い悔しさと悲しさに紛れて、沸々と怒りが沸き上がってくる。

GPCは何故自分を獣人に変えたのだろう。『もう一つの姿』を手に入れてから、ずっと疑問に思っていることだった。

世界には何億人という人が生きている。その中で、何故自分が拉致されてしまったのだろうか。

身体能力も、頭脳も優れている訳でもない。ついこの間まで、普通の高校生として生活していた自分。何が目立っているという訳でもないのに……


「私に一体何があるというの……?」


遙は布団から顔を上げた。……見下ろしたシーツには、涙が染み込んだ跡がはっきりと残っている。

遙は静かに立ち上がり、ふらりと後ろを見る。そこには自分の勉強机が置いてあった。

小学校時代からずっと部屋においてある机。その棚に並べられたテキストや辞書の数々。全て、人間だった頃の物だ。


「もう……人間じゃないの? そんなこと……」


遙は自分の手をそっと翳してみる。人間のものと変わりの無い手。だが、試しに意識を集中してみると、内側から脈打つような感覚が徐々に強まってきた。

外は相変わらずの豪雨。電気も点けていない、月の光も届かない部屋の中でも、物を視認出来る眼。僅かな匂いすらも敏感に感じ取れる嗅覚。

人間だった頃ならば、それら全ての感覚は無かった筈である。なのに、今は……


「違うよ……! 違う、違う……」


何度も口に出して否定する。獣人である今の現実に、悲しみを通り越して、遙は凄まじい怒りが込み上げるのを覚えた。

机の上に並ぶテキストに向けて、無意識の内に腕が上がり――次の瞬間、紙を引き裂くような音が部屋中に響き渡った。






――――――――






ぎし、ぎし……

暗い階段が妙に軋む。ガークは舌打ちした。

それに、外の雨のお陰で空気が湿っている。風呂上がりということもあるだろうが、肌がベタ付く感触がどうも気に入らなかった。


「電気も点いてねぇ、階段はギシギシ状態。……何だよ、オンボロ屋敷みたいじゃねぇか」


曇天に遮られ、月光さえも届かない階段は陰鬱な空気が漂っていた。

初夏の自宅だというのに、底冷えするような寒さ。しん、と静まり返った二階には何処か温かさが欠けている。

その光景が遙の心境を具現化したように見えて、ガークは思わず立ち止まった。


(遙……)


ガークは胸の中に、じわじわと不快感が広がっていくのを感じた。

一種の嘔吐感にも似た感覚である。トラウマとなった過去の出来事が、少しずつ鮮明になっていく――


「がふっ! ……思い出すなよ。……あいつだって」


口元を手で押さえ、軽く咳き込むと、ガークは自らの頬を引っ叩く。

単純なことだったが、それで随分と気が楽になった。眠気も吹き飛び、意識が冴えて来る。


ガークは気が付けば遙の部屋の前に立っていた。

遙の名が彫られたコルクボード……ガークは複雑な面持ちでドアノブに手を掛ける。


ガチッ


「ん?」


ドアノブが動かない。恐らく内側から鍵が掛けられているのだろう。

ガークは額に青筋を浮かべて、横暴にもドンドンと拳でドアを連打した。


「遙ぁ!! 此処を開けろッ、開けねぇと取って食うぞコラ!!」


雷鳴に匹敵する程の声量で叫喚し、遙を呼ぶが、室内からの返事は無かった。

ガークはいよいよ怒りが頂点に達し、気合の声と共にドアノブに手を掛けると、そのまま勢いでレバーを捻り壊した。


「ぬぐぅ……このッ!」


バキンッ、と、乾いた音が響き、鍵が壊れる。

ガークはそのままドアを派手に蹴り上げて、ずかずかと部屋へと入り込んだ。


「おい、遙――」


部屋に入った途端、ガークは言葉を失った。耳が痛くなるような静寂。

だが、静かな雰囲気に反して、部屋中が空き巣に遭ったかのように荒れている。教科書の類が無残に破り捨てられ、壁には何か引っ掻いたような疵が生じている。

洋服ダンスも引き出しが幾つも開け放たれ、何着もの服が絨毯の上に散乱している。その上、カーテンも閉められていない窓。


窓の手前に置かれたマウスケージの中にはラボがいたが、巣の中にもぐりこんだまま、鼻先だけを出してガークを見詰めていた。

そして――


「遙、お前……」


ガークが唖然として声を向ける先には遙の寝台があった。布団の中に遙がいるのだろう、子供一人分の大きさに盛り上がった布団が、微かに動いた。


「な、何だよ、女の子ならもっと部屋ぐらい綺麗にしておけば――」


『近付かないで!!』


ガークが寝台に手を伸ばした途端、遙の声が布団の中から聞こえた。

その自棄になったような叫びに、ガークは思わず目を剥く。


「おい、遙!! いい加減にしろよ!」


ガークは布団を掴み、そのまま引き剥がそうとしたが、またもや遙が抵抗するように身を捩る。


『これ以上、私に関わらないでよ……! 私は、あなた達みたいな獣人の……化け物の仲間じゃないッ!!』


「なん……だって?」


ガークは呆然と呟いた。思わず、掴んでいた布団を手放す。……だが、少しずつ、沸々と怒りが込み上げてきた。

続いて彼は遙の布団に両手を掛け、力任せに引っ張り上げた。流石の遙もガークの力には対抗出来ず、そのまま布団から引き離される結果となった。


「……何をするのッ! 出て行ってと言っているでしょ!?」


「何が獣人の仲間じゃないだ、この馬鹿がッ! 普通の人間がそんなにネコみたいに丸くなって寝る訳が無いだろうが!」


「こ、これはッ! ……違う!!」


遙は布団の上で、器用に背骨を曲げて丸まっていた。それこそネコ科の動物が寝るような姿勢である。

ガークが再び声を上げる前に、遙が頬を真っ赤に染めて起き上がった。その白目の部分がじわじわと充血している。


「出て行ってよ! 私の前から……」


遙は一拍置いて、唾を飲み込む。その刹那、涙をボロボロと零しながら叫んだ。


「いなくなってよ……ッ私は化け物じゃない。化け物の仲間でも無いよ……獣人じゃない!!」


「馬鹿げたこと言ってんじゃねぇよ!!」


ガッ! という骨がぶつかり合う音。直後、遙の目から星が飛んだ。

ガークの怒号に加え、左頬を砕くような衝撃。遙の淡い唇から、音も無く血糸が流れた。……ガークが遙の左頬を殴ったのである。


「……ガーク?」


突然の激しい衝撃に、遙は唖然としてガークを見た。ガークは肩をわなわなと震わせて、顔を俯かせている。

遙が何か言いかけたが、それを遮るようにガークが先に口火を切った。


「誰が化け物じゃないって?」


ガークが少しずつ顔を上げていく。


「……別にお前が俺を化け物扱いしようが構わない。俺だけじゃない、きっとフェリスも同じことを言うさ」


ガークは遙の泣き顔を真正面から睨み付けた。


「だけどよ、自分の存在まで否定するんじゃねぇ……!」


ガークの言葉を聞いて、遙は涙を流しながら悔しげに唇を噛む。


「私は……違う。……人間だよ、獣人じゃなくて……ッ」


「だから否定すんなって言ってるだろ!」


ガークは遙の頬を両手で挟み、ぐいっと顔を持ち上げた。

その動作で、遙の目から更に涙が流れ落ちる。ガークは溜息を漏らすと、親指で遙の涙を軽く拭ってやった。


暫く、二人は無言のまま見詰め合っていた。聞こえるのは遙の微かな息遣いだけ……しかし、唐突にガークが口を開く。


「……友達に『言われた』のか?」


「!!」


遙の鳶色の瞳が、涙によってより一層滲む。

歯を食い縛った口からは小さな呻きが聞こえ、その華奢な肩を震わせていた。


「確かに辛いとは思うぜ。……俺だって、同じように傷付いて、自棄になって……何もかも放り出して逃げたくなったんだよ。
だけどよ、そんな中でも、俺は前に進む道を選ぶことが出来た。……何故だか分かるか?」


遙は視線を下に落として、ガークの問いに無言で首を振った。

ガークは疲れたように笑って、遙の頬を挟む力を少しばかり強める。


「俺を俺だって認めてくれるヤツが周りにいたから、こうやって此処にいられるんだ。前に進めるんだ。
お前はその友達とやらに否定されたかもしれない。だが、昨日のリョウってヤツは何て言ってた?」



遙ははっと息を呑み、ガークに視線を合わせた。

玲の言葉……彼女は獣人の姿を曝け出した自分をも、以前の『遙』として認めてくれた。一片の不満もない笑顔で……


(……やっぱり遙だ。怖い筈がないじゃない? だって、遙は私を守ってくれたんだもの……)


心底安堵したような笑みを浮かべた玲。あの言葉は、決して偽りではないだろう。何故、あんなに嬉しかったことを記憶の底へ追いやろうとしていたのか……

遙が複雑な表情で視線を落とす中、ガークは話を続ける。


「……お前は自分で言っていたじゃねぇか。認めてくれたって。例え獣人だろうが、遙は遙……だって」


「……」


遙が目を細める。ガークは天井を静かに仰いだ。


「大切な親友が認めてくれたのに、何でお前は自分で自分を認めてやれないんだ。自分が一番、自分のことを分かっているってのに。
……一人の人間に否定されただけで、諦めるんじゃねぇ。それに……」


ガークは視線を降ろした。驚いたことに、その真鍮のように光る瞳には涙が浮かんでいる。

普段は快活で、何の曇りも無い純粋に光る眼を持つ彼が、今、自分と同じように瞳から涙を流しているのを見て、遙は目を見開いた。


「ガーク……」


「……その否定したヤツは、生きているだろ? お前が護ってあげたから……護ることが出来たから。
まだ、幾らでもやり直せるチャンスはあるじゃねぇか。そんなチャンスも何もかも捨てて……最後には自分を見捨てるつもりだったのか?」


遙は呆然と話を聞いていた。

……ガークは大切な恋人を失った。だけれど、自分は……


「まだ、チャンスはある……?」


「あるさ。怖いってんなら、俺が付いていってやるよ。……お前の友達に悪いヤツなんかいる訳無いだろ?
リョウってヤツみたいに、しっかり理由を話して、仲直りしろ。お前は何も恐れずにどっしり構えて話せば良いんだ」


ガークが微かな笑みと共に、続ける。




「例え、人間だろうが獣人だろうがお前は『遙』だ。それだけは絶対に変わらない」




「! 遙……私が……」


遙は訥々と呟き、そして涙を溢れさせる。

ガークの言葉は、獣人になってから心の何処かで言って欲しいと、ずっと願っていた言葉のような気がした。

例え、獣人だろうと、自分という存在が揺らぐことが無いということを。

鼻を啜って喉を鳴らすと、遙は安堵のためか、一気に肩の力を抜いた。


「お前は、自分が根底から変わったって思うか? ……違うだろ? 心が変わっていないから、人間だって言えるんだ」


ガークは遙の頬から手を離して、両腕を組んだ。


「今のお前は獣人。この現実が辛いのは分かるさ、俺だって元々人間だったんだから理解出来る。だけど、獣人のお前も『遙』なんだよ」


「獣人の私も、私……?」


遙が確かめるようにして首を伸ばし、ガークに迫る。彼はゆっくりとだが、力強く頷いた。


「お前はお前であって、根っこからは変わっていない。これまでも、これからも。
俺が見る限りじゃ、正直、獣人の時のお前も今のお前も変わった感じはしねぇよ。だから……お前はずっと……ええと」


「どうしたの?」


ガークは頭を掻き、おずおずと遙に尋ねた。


「お前の姓って何だ? 訳の分からない文字……あの表札に描いてあったヤツだよ」


「あ、ああ……」


ガークの狼狽した様子に、遙は思わず綻んだ。


「あれは『ヒガシキ』って読むのよ。私は『東木 遙』」


「言えたじゃねぇか!!」


突然、ガークが歓喜の声と共に、豪快に遙の肩を叩いた。

そのまま勢いあまって二人共に寝台へと倒れ込む。遙は目を瞬きながら、ガークの顔を見詰めた。


「ちゃんと、自分を認めてやれるじゃねぇか。それで良いんだ。……お前は獣人にされた。だが、『ヒガシキ ハルカ』だ。
それは絶対に変わらないことだろ? これからも変わらないって、そう思わないか?」


「うん……そうだね」


ガークの僅かに訛った言葉に、遙は陶然と微笑んだ。


「ずっと、遙だよ。ガークもガーク。フェリスさんも皆……」


また泣き出しそうになりながらも、遙はガークの顔を見詰める。


「私だけじゃなくて、ガークも皆、私を認めてくれる……ねぇ?」


「当たり前だろ!」


迷いの無い返事が、遙の心に染み渡る。心に張り巡らされていた暗い感情の茨から、一気に解き放たれた気がした。

自分を認めてくれる人がいる。それは一人だけじゃない。もっと沢山の人が、自分を遙として受け入れてくれる……

遙は涙で濡れた睫を上げて、小さく呟いた。


……ありがとう


消え入りそうな声音だった。だが、遙は照れたような顔立ちでガークの反応を待っている。

ガークはそんな遙の顔を見て、ほっと安堵すると同時に、妙な苛立ちを覚えた。


「あ〜? 聞こえねぇよ。土下座して、誠心誠意込めて感謝を捧げろ馬鹿ヤロウ! このガーク様を崇めろッ!」


「な、何でそうなるの! 折角感謝してるのに!!」


遙がガークの首に手を掛けた途端、バタン……と、部屋のドアが音を立てた。

何事かと、二人揃って寝台の上からドアの方を見る。すると――




「まぁ、まぁ……ふふふ……」


聞きなれた笑い声が聞こえてきた。自室のドアの前に立っていたのは、フェリスである。

いつも以上に碧眼が好奇心に満ちていた。その口元に浮かんだ嫌らしい笑みに、ガークも遙も毛がそそけ立つ。


「ガークったら、パンツ一枚で遙をベッドに押し付けて……レオさんやレパードが聞いたらきっと凄いことになるわぁ」


「んなッ!?」


ガークは自分の下になっていた遙を、思わず壁に押し付けた。

がんっ! と、音を立てて遙は額を壁にぶつけ、痛みに小さく悲鳴を上げる。そんな遙を無視して、ガークは慌ててフェリスへと詰め寄った。


「ち、違う! 勘違いするんじゃねぇ!! 遙みたいなチビなんてまだまだ守備範囲外なんだよっ! だから、何でそんなに疚しい目で見るんだ!」


「……全く、発情期のイヌを野放しにすると危ないわねぇ。遙、何も悪いこと――」


「してねぇ!!」


ガークが顔を真っ赤にして、きっぱりと言い放った。

遙はいつも通りの二人の言い争いを唖然と見詰めていたが、ちらりとラボのケージへと目を向ける。

ラボはひょっこり顔を出して、にぃにぃと鳴いていた。遙はラボの様子と、ガーク達の口論を交互に見て、思わず噴出す。


「ふふふ……あははっ! 可笑しいよ、ガーク」


「何だよ! お前までフェリスの味方するってのか!? 今までのシチュエーションを思いだせぇぇ!! 少しは否定したくなるだろうがッ!」


ガークの必死の叫びも、遙は笑って返した。

確かに恥ずかしいことでもあるかもしれない、それ以上に嬉しさが込み上げていた。

ガークは何処か兄妹のような感覚で見ていることが出来る。一つ一つの言葉や行動が嬉しくて、有難くて……


「あ、遙……やっと笑った?」


フェリスが猛るガークを押さえ付けながら、安堵の笑みと共に呟いた。

三人の笑い声が響く夜。カーテンの開いた窓から、薄い月光が差し込んできている。


――外の豪雨は、すでに止んでいた。






――――――――






「ふぅ……疲れた……」


遙は布団に潜って天井を見詰めていた。

ガークとフェリスの喧騒と部屋の片付けを終え、こうやって布団に入る頃には、すっかり日付が変わってしまっていた。

遙は寝返りを打って、枕元に置いてあった自分の携帯電話を手に取る。


「もう一時過ぎか……今日もまた忙しくなるかな? 谷口さんに、ちゃんと言わないと……」


遙が眠そうに瞼を擦る。激しい戦いのお陰で、体力はもう限界だった。容赦無く睡魔が襲い掛かってくる。

遙は携帯電話を再び枕元へと置いて、喉まで布団を被ると、そのまま深い眠りに落ちようとした――


……ピピ


突然、機械音が響いた。遙はぼんやりと目を開く。

音源は携帯電話だった。こんな夜中に、一体誰だろう……もしかしたら、ラボを預ける約束をしていた玲かもしれない。

遙は携帯電話を開き、受信メールを開いた。しかし、差出人の名を確認した途端、遙の眠気が一気に吹き飛ぶ。


「お母さん!?」


遙は布団を跳ね上げて起き上がり、震える手で携帯電話を押さえながら、文面に目を通した。


『今はまだ帰って来られない。ごめんね、遙』


そこに書かれていたのは、長文ではなく、端的な一文であった。絵文字一つ使われていない文面。

遙はその言葉の意味に、次々と疑問が浮かび上がる。


「どうして……?」


GPCに拉致されて以来、母とは連絡を交わしていない。初日の夜も、玲との関係で家に戻っていることを知らせることはしなかった。

母はどうして、娘である遙が家に戻ってきていること知っているのだろう。その上、遙が帰って来なければ、生き物であるラボが飢えてしまうというのに。

母は遙が自宅へと戻っていることを知っている……いや、戻ってくることが初めから分かっていた?


遙はとにかく考えるよりも、母に直接聞いてみることにした。

メールを閉じて、そのまま母へと電話を掛ける。内心、かなり緊張しながら母が出るのを待っていたのだが……


「……お母さんの携帯電話……電源が切れている? そんな……」


遙は呆然と携帯電話を耳から離した。

今、メールが来たばかりだというのに、もう電話に出られない状態だなんて……


今はまだ帰って来られない。


その言葉の意味を上手く理解出来ずに、遙はカーテンの隙間から見える月を見詰めた。





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