激しい豪雨が降り続く中、裕子は重い足取りで自らの邸宅へと戻った。……今だに残る血の匂いに、足が鉛のように重く感じる。


正直、この一晩だけで途方も無いものを目の当たりにした気がした。

暗闇に潜む、ヒトの言葉を話すトラの怪物。それに、遙の変貌した腕……瞬時に自らの容姿を大きく変えるような存在は、自然界には有り得ない、いや、有ってはならない筈……

その上、あれだけの傷を負っていたというのに、遙はこちらよりも速いペースで走っていた。人間であれば致命傷に値する程の傷であったというのに。


(化け物? 東木さんの腕……一体なんだったのだろう。それにあんなに出血していた筈なのに……)


夢を見ているかのような錯覚を受ける程、帰路に着くまでの時間は常識離れしていた。

だが、大量の血が身体を濡らし、怪物に命を奪われかけたという事態に直面したのに、自分は今、妙に落ち着いているような気がした。

冷たい雨が混乱していた頭を冷やし、徐々に冷静さを取り戻させていく……記憶がハッキリとしていく中、裕子は唐突に息を呑んだ。


「私……東木さんに、何てことを――」


「お嬢様ー! こんな夜中にお一人で……一体何処へ出かけていたのですか!?」


いきなり少女の悲痛な叫び声が聞こえた。はっと顔を上げると、目の前には自宅の正面玄関が広がっている。

叫喚と共に出迎えてくれた使用人の少女の姿を見詰めながら、裕子は雨に濡れた前髪をそろそろと払う。


「あ、あなた……こんな時間まで……」


「それはこっちの台詞です! どれだけ心配したと思っているんですか!?」


短く切った栗色の頭髪に、メイド服を纏った少女は、裕子の姿を見た途端に飛び出すようにして走り寄ってくる。

だが、裕子の姿が玄関の明かりに照らされると、使用人の少女はまたもや悲鳴を上げた。


「お、お嬢様、どうなさったのです!? そんな血に濡れて……もしや」


「栄夏(エイカ)」


裕子は相手の言葉を切り捨てるように口を開き、屹然と顔を上げて栄夏と呼んだメイドを正面から見詰めた。


「後で、お願いがあります」






――――――――






「結構降るな……」


外から激しい雨音が依然として続いている。それどころか、遠雷まで聞こえてくる有様だった。カーテンを貫くようにして雷光が部屋に差し込んでくる。

カーテン越しに雨と雷の音を聞きながら、ガークは濡れた頭髪をタオルでガシガシと拭っていた。

風呂上りで上半身裸のガークを横目で見ていたフェリスは、何の頓着も示さない彼に対して溜息を吐く。


「ちょっとガーク。パンツ一枚でウロウロするのはやめてよね。私も女の子なのよ」


「うるせぇ。別にヤマネコを襲おうなんて気はさらさらねぇよ。むしろ逆に萎えるっつーの」


ガークはフェリスに向かって苛立たしげに言った。

フェリスも不満そうに頬を膨らませていたが、反論する気も無くしたようで、ガークからあっさりと目を背ける。


ペルセというトラの獣人との一件があった後、脱力した遙を連れて彼女の自宅へと帰宅したのだが、相変わらず家には重苦しい雰囲気が漂っていた。

自宅に戻ってすぐ、三人とも雨と血に濡れた身体を風呂場で洗い流し、ようやく一息吐けそうな時だというのに遙の様子は想像以上に深刻だった。

ロクにガーク達と言葉も交わさずに……気付けば、遙は一人で二階へと上がっている有様である。

遙が二階へと上がる寸前で、いよいよガークが一言聞いてみたのだが、彼女は「何でもない」の一点張りで何も打ち明けようとしなかった。


ガークは先程の遙の様子を思い返しながら、粗方水分を拭き取った蓬髪を手で押さえつけた。

沈鬱に染まった鳶色の瞳は腫れ、明らかに号泣したことを示していた上に、呂律の回らない口調、こちらが支えてやらなければ今にも崩れ落ちてしまいそうな足取り……


(何もなかったなんて、そんな見え透いた嘘を吐くんじゃねぇよ……)


ガークは歯軋りをした。

そんな不満を滾らせたガークの心情を読み取ったかのように、ソファーの上に座っていたフェリスは目を細める。


「遙……参ったねぇ」


ガラステーブルに頬杖を突きながら、フェリスは物憂げな声で呟く。

外からの雨音が二人の沈黙の間に流れていく……遙のいないこの場は、いやに空気が冷たく感じられた。

彼女の話題を二人で話し合いたいものの、イマイチ場が持たなかった。……ガークは咄嗟に話題を変えて、フェリスに顔を向けながら問う。


「……なぁ、全然関係無いことだけれどよ。お前、あの黒虎女に何をされたんだ?」


フェリスは一瞬、呆けたような顔立ちになって目を瞬いたが、すぐに苦笑に変わった。


「恐らく、一種の感電状態になっただけよ。自らの生体電気を索敵や相手の動きを予測する以外に、攻撃として使用する……あんな技を使える子もいたのね。
生体電気を相手に向けて放出するなんて、まるで電気ウナギみたいだわ。今はもう身体に支障は無いよ」


「何だよそれ。俺は波動とか何とか、細かいことは分からないんだ。……まぁ、お前が無事だったから良いんだけどよ」


ガークは照れ臭そうに頬を指先で掻いた。

だが、フェリスは急に真剣な面持ちになって、思惟に耽るように目を細める。


「……でもね、あの虎獣人の子……ガークは何も感じなかった?」


「? 感じるって何のことだよ」


フェリスは自らの指先を頭に突き付けながら、息を潜めるように言う。


「『ナノマシン』……ガークも知っているでしょ?」


「……知らねぇよ。さっきから話しが全然理解出来てねぇし」


ガークの捻くれた答えにフェリスはむっとした。


「もう忘れちゃったの? 本当に記憶力悪いんだから……つまり」


フェリスは細い顎を擦りながら、天井から部屋を照らすシーリングライトへと目をやった。


「あのペルセという子は、GPCの上層部から『操られている』と思うの。まさに傀儡みたいにね。ナノマシンを上手く利用して、人を操る。
ナノマシンっていうのは良く聞く品だけど、GPCで医療目的に開発されていたのを聞いたことがあるわ。以前にも同じようなことが、あったでしょう?」


「それって、数ヶ月前の……自分の意思に関わらず、GPCの言いなりになるってヤツ……」


「そういうこと。よく原理は分からないけれど、ナノマシンによる意思操作。……流れてくる噂じゃ、まだ完成し切った品じゃないって聞いていたけれどね」


フェリスの淡々とした口調とは裏腹に、ガークは憎々しげに眉根を寄せる。


「ちっ……GPCってのはとことん気にいらねぇ奴らだ。要するに、あの虎女は自分の意思で戦っている訳じゃないってことか」


「あの口調もだけど、ペルセに流れる波動が妙に一定だった……。漣さえ立たない湖面みたいな、そんな感じ」


自らの意思でGPCに加担しているならまだしも、自分の意思に反して従属させられている。

ペルセの顔を思い浮かべるに、まだ十代後半の少女だろう。元は遙と同様に、普通の学生だったかもしれない。

そんな罪も無い者を、自分達の都合の良いように操って、刺客として送り込む……理不尽なやり方だ。ガークは舌打ちした。


「操られているだけの獣人……どうにかして、助けてやらないとな」


「あらあら、ガークが先に助ける子は他にいるのよ」


フェリスは嘲笑に近い声で告げ、ガラステーブルに乗るテレビのリモコンを手に取った。

ガークは驚いたようにフェリスを見る。


「あなたが一番、今の『あの子』の気持ちが分かるでしょう? ……私じゃ、上手く出来ない」


フェリスがテレビの電源を点けると同時に、ガークが目を見開いた。


「もしかして、遙の……って、お前、面倒事を俺に押し付ける気かよ!?」


「そうじゃない」


フェリスはテレビに目を向けながらも、落ち着いた声で話を続ける。


「私が知らないことを、今のあの子に言っても意味を成さないわ。あなただけが分かってあげられることだから……」


フェリスの言葉に、ガークは苦虫を噛み潰したような渋面を作った。

……一拍置いて、ガークはリビングの出口へと足を運ぶ。


「……遙のとこに行って来る」


一言残して、ガークは廊下へと出て行った。

残されたフェリスはほんのかすかに微笑む。テレビの光に反射したその瞳が、薄らと滲んでいた。


「私は自分の故郷に戻る切欠も勇気も無いから……」






――――――――






依然として豪雨に晒される、明北地区の一角にある空き地。

そこに設けられた古い高架橋の下に身を置いていたペルセは、三角座りをしたまま俯いていた。


(……ハルカの咆哮……キメラの力……)


先程の遙との戦闘を思い出して、ペルセはほんの少し目を開いた。

命を失うことさえ省みないような、憎悪に燃え上がった赤眼。血と雨と涙に濡れた形相。口腔に伸びる鋭い犬歯。

そして、両腕の人肌が変化した獣腕。紅色の爪が引く赤い閃光が、暗い視界にふと蘇ってきた気がした。ペルセは思わず目を見開く。


……その細く、華奢な肩が微かに震えている。寒さからではない。これは――


「恐かったか?」


唐突に聞こえた男声。ペルセは顔を上げた。

視線の先に立っていたのは、雨に濡れたチャドの姿。藍色のニット帽を取り、長く伸ばした前髪を掻き揚げながら、チャドはニヤリと笑う。


「あいつは……ハルカは、お前一人で勝てる相手じゃないってことさ。力の差があり過ぎる」


「そういうあなたは」


ペルセは冷厳な顔でをチャドに向けながら、彼女にしては珍しく、抗うように声を上げる。


「何故、ハルカを捕らえなかったのですか? あの人間と逃げたハルカを捕らえるのは容易なことであった筈……」


「無理だな」


予想外なことに、チャドはあっさりと即答した。

ペルセの驚くような顔を他所に、チャドは笑みを崩さずに続ける。


「おっと、俺の実力が無いという訳じゃない。俺の『流儀』に反するだけの話だ」


「流儀……ですか?」


ペルセの胡乱な口調に、チャドはククッと笑った。


「強いヤツとは全力で戦いたいモンなんだよ。だが、ハルカといいあの犬のガキといい、周囲を気にし過ぎていた。
ニンゲンを巻き込むことや、相手の命を奪うことに恐れを抱いている……そんな状態じゃあ、俺は戦ってもつまらないだけだ」


「ですが、あなたの任務は戦いではありません」


厳しい言葉に、チャドはわざとらしく肩を竦めた。


「御尤もだ。だが、俺は誰の言うことも聞きたくないんでな。まぁ、少なくともお前らGPCには味方しているつもりだ。
ヒトの言うこと聞いて動いてちゃあ、いい機会を逃すことがあるんだよ」


チャドはペルセの目の前まで近付き、腰を屈めた。

そして、素早く彼女の顎を指で掴み、顔を凝視するように持ち上げる。

突然の彼の行動に対して驚いたのか、ペルセの瞳孔が微かに開いた。


「あんたと一緒に戦っていたら、ハルカも此処まで戦えなかったさ。お陰であいつの力が良く分かったよ。
それに、俺が加担しなかったから、こうやってあんたの裸体も見れた訳だ。悪くない」


チャドはペルセの顎から突き放すように手を引いて、ゆっくりと立ち上がった。

そのまま踵を返して、再び雨の降りしきる空き地に出ようとしたのだが……


『チャド、ペルセ』


脳内に直接突きつけられるような『声』が、二人に響き渡った。

その途端、周囲の空気が一瞬だけ揺らぐ。まるで、湖面に小さな小石が投げ入れられて、波紋が広がるように……


「あんたは……?」


チャドが『声』のした方へと目を向けると、そこには黒いローブで全身を覆い込んだ人物が立っていた。

人物の身体はやけに大きく、ヘタをすれば二メートル以上あるかもしれない。顔も見えないその人物を見るなり、ペルセは呆然と呟いた。


「ヴィクトル殿……」


「ヴィクトル……? ほぉ、こりゃまた偉いヒトが来たもんだ」


戦慄したようなペルセの反応とは裏腹に、茶化すような声を上げるチャド。

だが、ヴィクトルとやらの反応は薄かった。こちらに近付く所か、すぐさま踵を返して戻りながら、二人に告げる。


「クロウが戻って来いと言っている。この場は引け……それだけだ」


じゃり……と、その足音は靴音とは違い、まるで鋭い鉤爪が硬いものを削るような音であった。

その不自然な足音が引きながら、ローブを纏った人物――ヴィクトルは豪雨の中へと消えて行った……








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