「フェリスっ!」


ガークはペルセの牙を振り払い、倒れ込んでいるフェリスの肩を掴んだ。

呼吸が乱れている上、脈拍も激しく早鐘を打っている。フェリス自身は目を開いているが、立ち上がり切れない様子だった。

注意して見ると、身体のあちこちに火傷を負ったらしく、軽い水疱が生じている。まるで感電でもしたような状態であった。


「くぅっ……ガーク……」


「何だよッ、どうしたってんだ!?」


『今は何をしても無駄ですよ』


唐突に背筋を殺気が伝った。

慌ててフェリスを抱え上げて、背後から迫ったペルセの獣爪を避ける。だが、無理な避け方をしたために、すかさず放たれた追撃がガークの脚を傷付けた。

脹脛を傷付けられたお陰で、体重を支えるのが難しくなる。それでもガークは歯を食い縛って体勢を保ち、フェリスを抱き締めた。


「でッ! 全く、愛想の無い女だぜチクショウ!」


ガークは一旦ペルセと間合いを取り、手の中で震えるフェリスを揺すった。


「だからどうしたって聞いてるだろ!?」


「……がッ、簡単に……喋れたら、苦労しな……」


フェリスは苦痛に震える声で、途切れ途切れに呟いた。

今まで何度も戦闘を積んで来たものの、フェリスがこんな状態になったのは初めてだった。

ガークがまた何か言いかけた所で、ペルセの冷淡な声が響く。


「彼女の身体に走る波動……生体電気の流れを軽く乱しただけです。生物体には常に微弱な電圧が流れている。
波動の流れを読むのに長けた者程、相手との波動を同調しやすい。そこへ――」


「あぁぁあ! ゴチャゴチャと喧しいヤツだッ!!」


ペルセの説明を途中で遮るように、ガークは苛立ちと共に叫んだ。

取り合えずフェリスを地面へとゆっくり寝かせ、薄目を開けて見詰めている彼女へと、軽くウインクを飛ばしてみせる。


「とにかくフェリスが動けないってんなら、俺だけでお前を潰せば良い話なんだよッ!」


言下、ガークはペルセに向かって踊りかかった。

素早く放った爪は身体を捻ってかわそうとしたペルセの頬を軽く引き裂く。

だが、ペルセはガークの速さに焦る様子はない。すかさず反撃に移り、ガークの左肩に牙を食い込ませた。


「ぐがっ!」


強靭なトラの顎の力でミシミシと腕の骨が軋む。

腕の痛みに顔を顰めながらも、ガークはペルセの首に咬み付き返し、そのまま相手の足を払った。

お陰でペルセはそのまま体勢を崩し、ガークは彼女の左脇腹へと掌を押し付けてトラの牙を強引に引き離す。


「ぐッ!」


鮮血が噴き上がった。無理に引き剥がしたことで、ペルセの鋭い牙はガークの皮膚を深く抉り取る。

ドロドロと左腕が赤く染まる中、ガークは痛みを振り払って、倒れ込んだペルセの上へと圧し掛かった。


「ガァッグルル!」


「いちいちギャップが激しいんだよ! 淡々と喋ってたと思ったら、急に咆哮上げやがってこの馬鹿が」


ガークはペルセの首に太い腕を回して、ぐっと力を込めて締める。

しかし、ペルセの首周りに生える剛毛が緩衝材となり、気管を押し潰す程の威力にはならない。

出血も依然として続いている。ヘタをすればこちらが逆手を取られてしまう恐れもあるだろう。


(くそっ、早いとこ手を打たねぇと……)


「ガァッ!」


唐突にペルセが声を上げ、後ろへ頭を大きく反った。

黒虎の後頭部がガークの顎に直撃し、骨と骨がぶつかり合う鈍い音が響く。ガークはその激しい衝撃で思いっ切り舌を咬んだ。


「ぐが……っ」


ペルセの首に回していた手が反射的に離れる。口の中に血の味が広がる中、ガークは痛みのあまり、顎を手で押さえ込んだ。


「ちっ、獣人化しているから、余計に痛いな……舌を本気で噛み切る所だ――」


「グオオッ!」


直後、咆哮と共にガークの目の前にペルセの姿が迫っていた。

尻餅を突いた体勢でいたため、すぐに起き上がることが出来ない。ガークの顔が引き攣る。


(これはヤバイッ!)


ガークは咄嗟に目を瞑り、歯を食い縛った。






――その時だった、ふと、周囲の空気が凛として凍り付いた。

ぞわぞわと鳥肌が立つ。依然として豪雨による激しい雨音が続いているものの、まるで無音の世界に放り込まれたような不思議な感覚が襲った。


「な、何だ? もしかして地獄に着いたのか? ……!」


ガークが目をおそるおそる開けてみた。迫っていたペルセも攻撃を止めて、右側へと顔を向けている。

ガークも彼女の視線を追って、顔を動かしてみた。……そして、目を向けた先に立っていた人物に、ガークは小さく声を上げる。


「は、遙!? 何でお前が此処に……」


ガークの言葉が語尾に流れるにつれ、徐々に小さくなって消える。

……それもこれも、遙の様子を見たからに他ならなかった。




先程と服装は変わっていない。血と雨水に濡れたシャツに、スカートを穿いている。

しかし、その表情は妙に冷め切っていた。血の気が引き、生気というものが感じられない。


その様子は失血によるものであると思ったが、即座にその予想は消え去った。

先程からガークやペルセを含めた周囲に張り詰める空気は、遙から溢れる違えようも無い殺気であったのだから。


静かな怒りを揺曳させる遙は、俯かせていた顔を少し上げ、ゆっくりとこちらに近付いてくる。

ぱっと見る限り満身創痍の遙を、ペルセが見逃す筈が無い。ガークは思わず身体を起こした。


「お、おい! お前は逃げろって言っただろ!? 此処は俺らにまかせておけ……がっ!」


叫んでいる途中でペルセの肘鉄がガークの額に当たる。ガークはその衝撃で軽い脳震盪を起こしてしまった。

ペルセは近付いてくる遙に向けて、闘志のためか……あるいは歓喜のためか、鋭利な犬歯を剥き出す。


「此処へ戻ってくるとは好都合です。ようやく諦めましたか?」


「ぎががっ……やめろ、遙、逃げるんだ!」


身体が重い。意識が朦朧としている中での、ガークの必死の声も虚しく、ペルセが駆け出す。

ペルセの攻撃によって、遙が血塗れで横たわるのを想像し、ガークは思わずぐっと目を閉じた。






「グアアァァァァッ!」


しかし、刹那に轟いたのはトラの咆哮だった。それも気の昂った雄叫びではなく、明らかに苦痛に悶えるような吼え声。

同時に濃い血の匂いが、雨の隙間を縫って広がる。ガークの頬にも、飛び散ってきた生温かい鮮血が付着した。


「……て」


遙の震える声。

その言葉が発せられた瞬間、ペルセの腹部を貫く獣腕がガークの視界に飛び込んできた。

黒くて良く見えないが、はっきりと浮かび上がるのは紅色を宿す五本の獣爪。遙が獣人化した際に生じる獣爪そのものだった。


「戻して……私を……」


口から血を流しながら呻く黒虎を、遙は愕然とした様子で静かに見詰める。

しかし、ペルセが何も答えきれないとなると、遙の表情が一変し、瞳が殺気を込めた鮮血色へと素早く変化した。


「私を、私を……人間に戻してよッッ!!」


遙が吼えた。言下、遙の獣腕がペルセの腹部から引き抜かれる。トラの絶叫が響いた。

相手の苦悶の声を無視し、真っ赤な血を浴びながら、遙は続いて黒虎の首へと喰らい付く。


「がぁ! ぐるるぅ!!」


獣性を剥き出し、遙はギリギリと力を込めて相手の喉下を引き裂いた。あの分厚い毛皮と皮膚を備えた首元を、遙はあっさり引き千切る。


「ガァ、ルル……!」


ペルセの死に物狂いの反撃に、遙はその小さな肩を鷲掴みにされた。――しかし、猛り狂う遙が怯む様子は微塵も無い。

逆に、自分の肩を掴んだペルセの右腕に両腕を掛け、力任せに相手の関節を外す。嫌な音と共に、ペルセが苦痛の咆哮を上げた。


「うぐぁぁ! がぁあっ!!」


人の言葉を忘れたかの如く、遙は何度も吼えた。やがて倒れ込んだペルセの上に馬乗りになり、遙は何度も腕を振り下ろす。

鎖骨を薙ぎ、左肩と脇腹を切り払い、その剛毛に包まれた頬に拳を打ちつけた。

血飛沫と耳を塞ぎたくなるような音の連続、そして遙の怒り狂った姿に慄然としていたガークだったが、思わず全身に鞭を打って立ち上がる。


「やめろッ! 遙ぁっ!!」


「うぐっ……うぅ!」


ガークがペルセの上に跨る遙を抱え上げ、そのまま地面へと押し付ける。押し付けられた遙は、尚も立ち上がろうともがいた。

冷たい雨に濡れている筈の遙の身体は、反対に熱く、心臓が異様な程激しく脈打っていた。荒々しい呼吸と共に、遙は唸り声を上げ続ける。

ガークは正気を失った遙を必死に押さえ付けた。


「駄目だ遙……! 自分の感情でヒトを殺すようなことがあったら駄目なんだよっ!」


ガークが言い聞かせるように遙に叫ぶ。

……すると、遙の背中から、唐突に力が抜けたように感じた。地面へと立てていた指先も脱力し、遙は力無く頬を泥水の上へと押し付ける。


「は、遙……?」


ガークは急に脱力した遙の脇の下に腕を回し、身体をゆっくりと起こしてやった。

しかし、足に力が入っていないようで、自分から立ち上がろうとしない。まるで糸の切れた人形のような有様である。


「遙! おい遙……!」


ガークは遙の小さな身体を何度も揺すった。しかし、遙はいつまで経っても反応を見せない。

鳶色に戻った瞳は虚空を見詰め、血汚れの付着した口からは何も言葉を紡ごうとしなかった。




「ぐ……ガーク」


ふと、耳に飛び込んできた女声に、ガークは慌てて振り返った。

フェリスが上半身を起こして、こちらを見詰めている。意識がようやく回復したらしい。

そのフェリスの様子に、ほんの少し安堵したように、ガークは頭頂に生える尖った耳を寝かせた。


「起きるのが遅いよ全く。それより、遙が……」


「遙? さっきのは、遙の波動だったの?」


「何言ってんだ? とにかくちょっと遙の様子を診て、ついでにこの虎女の手当てをしてくれよ」


フェリスは痛みを堪えるようにして起き上がり、放り出されていた遙のブレザーを拾い上げる。

そのままガークに近付き、フェリスはブレザーを遙の肩にかけてやった。


「遙」


フェリスが遙と目線を合わせて、小さく問い掛けた。だが、案の定、返事は返ってこない。

遙自身、息もしており、目も開いている。しかし、何処と無くぼんやりとした状態だった。

目の焦点が合っていない上、顔を起こそうともしない。遙の様子を見詰めていたフェリスは眉を顰めた。


「どうしたの、遙……怪我が痛むとか?」


「変なんだよ。幾ら聞いても、何も反応しない。さっき暴走に近い状態に陥った反動かもしれねぇけど、そこまでの経緯が分からないしなぁ」


「そういえば、友達は? もう一人いた――」


その時、チチッ、と、高いネズミのような声がした。

ガークとフェリスが振り返ると、虎模様を持ったラットが、この道路を挟む草むらからこちらを見ている。

その奇怪な模様を見る限り、遙のペットとして飼われていたラットに違い無い。ガークが呼ぶ前に、そのラットは素早く駆け出して、遙の足元に寄り添った。


「……う……ぅ……」


その途端、遙が細かく呻いた。

ラボが遙の革靴の上に飛び乗り、にぃにぃ、と奇妙な声を上げる。

そして、フェリスが見詰める中、遙の頬に一筋の涙が伝った。見る見る内に遙の頬が赤くなり、涙の量も徐々に増えていく。


「……うぅ……戻してよ……人間に、戻してよ……っ」


遙は涙を溢れさせながら、その言葉を繰り返す。

その様子を見たガークとフェリスの二人は何も言うことが出来なかった。

何があったかのおおよその検討は互いに付いていたものの、二人ともそれを口にすることはしなかった。

今この場で理由を問い詰めても、遙の心を更に傷つけることに繋がるだけかもしれない。


「遙……」


ガークが複雑な面持ちで呟く中、遙はじっと嗚咽し続けていた。






それから数分の後、フェリスは倒れていたペルセの身体に軽く布を巻き付けた。

激しい出血が続いていた腹部を中心に手当てを施し、雨に濡れないように高架橋の下へと彼女を凭れ掛けさせる。

手当ての最中に獣人化を解いた彼女もまた、大怪我のために声を出せる状態にないらしい。呼吸も深く、目を硬く閉じている。


「……同じ獣人とはいえ、敵であるあなたを遙の家まで連れて行くことは出来ない」


フェリスは立ち上がって、依然として座り込むペルセに告げる。


「敵のあなたに対しては、それぐらいしかして上げられないけれど、次に同じようなことがあった時は……それなりの覚悟をして貰うわ」


フェリスはペルセから踵を返し、遙を抱き抱えるガークに笑いかけた。

ガークの腕の中で身体を丸めた遙は、手元に乗るラボの顔を何処か抜けたような視線で見詰めている。


「……身体の怪我は、すぐに治ってくれるモンだけれどな」


ガークは遙の様子を見詰めながら、溜息交じりに呟く。


――空はまだ、暗闇に沈んだままだった。








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