「さて……遙も行ったことだし」


ぱきぱきと指を鳴らしながら、ペルセに向けてガークが告げる。


「それなりの覚悟はしてもらうぜ、黒虎女」


「多勢に無勢。二人相手はちょっと卑怯かもしれないけど、今のあなたに勝機は無いわ」


フェリスも鋭い視線を向けながら、ガークと並んで言い放った。

ペルセは二人の言葉を聞き、その赤い瞳をそっと細める。


「それはどうでしょうか? あなた達の言うことはあくまで予想でしかない」


状況とは裏腹に、冷静な声がガーク達にかけられた。

その抑揚の無い言葉遣いといい、整った呼吸といい……先程から落ち着いた雰囲気を漂わせている。

昨日の戦いを思い浮かべるに、相手の力量を測れないような実力の持ち主ではない筈だ。

今、自分が劣勢を強いられていることは明らかだというのに、ペルセがガーク達に怯む様子は無い。


「強がるのは止めておけ」


ペルセの悠然とした様子を警戒しながらも、ガークは嘲るように言った。


「さっき『遙を捕らえるのが任務』だって言ってたが、あいつには手を出させねぇ。それに、遙も雑魚じゃない。
その気になれば、お前の連れだって倒せるぐらいの力を持っているんだ。結局、その任務とやらは失敗のようなモンだ」


ガークの言葉が終わると、ペルセは静かに顔を上げた。赤い双眼が、雨の滴る闇に浮かび上がる。


「――ですが、此処であなた達を倒して行けば、どうなるでしょうか。任務に障害が出たならば、それを薙ぎ倒して進むまでです」


「なッ!?」


言下、ガークの喉元に向けて獣爪が突き出され、思わず彼は仰け反った。

間一髪でかわしたものの、僅かに喉の毛が引き裂かれて散る。そのまま後方へと宙返りをして、再び体勢を整えたガークは舌打ちした。


(ちっ……初っ端から急所狙いかよ!)


ガークはペルセの爪が掠めた喉元を、手で軽く擦った。

一撃で止めを刺すつもりだったのだろう、迷いの無い突きは、あと少し回避が遅れていれば喉を貫いていた。


……だが、こっちも一撃で倒れるつもりはない。もとい、此処でやられるつもりなど毛頭無かった。

ガークはニヤリと笑って、掌に拳を打ち当てる。


「上等だァ! 俺をやれるってんならやってみな!」


「ガァッ!」


ペルセが吼え、水飛沫を上げながら迫ってくるガークの腕に喰らい付こうとする。しかし、寸前でガークの突き出した腕の軌道が曲がり、ペルセの頸部に衝撃が走った。

致命傷には程遠いだろうが、注意を逸らすには十分だ。ガークが合図する以前に、すかさずフェリスが駆け込んでくる。


「昨日の分のお返しよッ、受け止めてみなさい!」


フェリスの力を込めた膝蹴りが、ペルセの右脇腹へと直撃する。

ゴゥッ、と、風を切る音が聞こえた刹那、骨が歪曲する嫌な音が響き、思わずガークは顔を引き攣らせた。


「ったく……お前に蹴られる対象が人間なら、冗談抜きで内臓破裂だろうなぁ」


「でもガークなら痣が出来る程度で済むと思うけど。身体の頑丈さだけが取り得だものね」


「『だけ』は余計だッ!」


ガークが叫ぶ中、口から血を噴いたペルセが腹這いになってこちらを睨んできた。

流石に響いたらしい。黒虎がすぐに立ち上がる様子は見せない。フェリスは眉を顰めながら彼女の様子を伺った。


「出来る限り、殺したくないから……この辺りで諦めてよね?」


「グルル……」


ペルセは人の言葉で返さず、唸り声を響かせた。

その反応にガークはむっとして、ずかずかとペルセの元へと近付く。


「何だよ、喋るなら人間の言葉で言え。同じ獣人でも通じないモンがあるんだから」


ガークが不満げにペルセに近付いたその途端、黒虎の目がギラリと煌く。

その赤眼が活力を取り戻したと思うと、ペルセは唐突に立ち上がり、ガークの喉笛目掛けて口を開いた。


「んなッ!?」


「ガーク!」


フェリスが慌てて二人の間に割って入り、迫るペルセの頬へと素早く肘鉄を浴びせる。

しかし、ペルセが怯む様子は無く、逆に信じられない程の速さでフェリスの顔を鷲掴みにした。


――その途端、暗闇を照らすように、一瞬だけ青白いパルスが生じた。ガークは本能的に目を閉じてしまったが、耳にフェリスの苦痛の声が響く。


「づあッ!!」


ガークは声に反応して、再び目を開いた。周囲に焦げ付いたようなキナ臭い匂いが充満している。

……ペルセの手から離れたフェリスは、水飛沫を上げてそのまま地面へと倒れ込んだ。

ぱっと見る限り、さして外傷は見当たらない。だが本人は起き上がる所か、身体を僅かに痙攣させて、呼吸をするのも辛そうに見える。

突如として動かなくなった仲間の様子に、ガークは驚いて目を見開いた。


「お、おいっ! フェリス……! どうしたんだよ!?」


「これで暫くは動けないでしょう。あなたを倒してから、彼女の息の根も止めて差し上げます」


「させるかよっ! てめぇ、フェリスに何をしたんだッ!?」


ガークが焦燥感に駆られて叫喚し、地面を強かに蹴ってペルセへと牙を剥く。

オオカミの気高い吼え声とトラの獰猛な咆哮が、大気を大きく揺るがせた。






――――――――






「はぁ、はぁ……」


遙は裕子の手を引いて、出来る限りのスピードで走っていた。

初夏の豪雨が視界を塞ぎ、体力を削る。辛うじて見える街灯を頼りに、遙はひたすら住宅街を目指した。

獣人の体力を持っているとはいえ、今は失血のせいで歩くのも辛い状態である。……それでも走るのを止める訳にはいかない、友達の命がかかっているのだ。


どれ程そうやって二人で走っていたか分からないが、やがて見慣れた河原が視界の前に現れた。

周囲には人影こそないものの、電気の付いた住宅が並んでいる。ようやく一般人がいる市街地に着いたのだ。

その光景を目にした遙はほんの少し安堵したように、寒さで強張っていた頬を緩ませる。


「あと少し、あと少し走れば安全な所に――」


「東木さんっ!」


裕子が急に大声を上げて手を引き離した。その動作で、遙は慌てて足を止める。

何事かと振り返ると、裕子は美しい赤毛の頭髪を雨に濡らしながら立ち竦んでいた。

相手のいつもとは違った妙な様子に、遙は動揺する。


「ど、どうしたの? 早く行かないと、また……」


「……の」


「え?」


何か裕子が呟いた。遙はそっと彼女の視線を伝う。


「……その……腕……一体なんなの?」


裕子の視線の先には、遙の変化した獣腕があった。羽毛に包まれたそれは、血と雨に濡れ、禍々しい雰囲気を醸し出している。

相手の反応と、獣人化した自らの腕。遙はハッと息を呑んで、慌てて顔を上げる。


「あ、こ、これは……! ええと……それよりも」


遙は弁明をしつつも、裕子の手を引こうとして、再び手を差し出した。


「今は逃げないと、また奴らが来たら大変だから……」


「! 触らないでッ」


裕子が悲鳴に近い声と共に、遙から身を引いた。

遙が唖然と佇む中、裕子は一歩ずつ後退しながら、震える声で続ける。


「触らないでよ……こ、この――」




――化け物!!




唐突に投げ掛けられた言葉に、遙は凍り付いた。

何を言われたのか分からない。……いや、分かりたくも無かった。自分は今、彼女に何と言われたのかを。

呆然と差し出していた遙の手は、直後、裕子によって振り払われ、彼女はそのまま遙の横を走り去ってゆく。



残された遙は裕子を追うこともなく、その場に立ち尽くした。

瞬きすることすら忘れて、眼の中に冷厳な雨粒が容赦無く流れ込んでくる。眼球がチリチリと痛み、やがて涙となって雨と共に頬を伝う。


「……化け、物……? 私……が?」


遙は掠れた声で呟いた。


違う、違う! 遙は心の中で何度も叫ぶ。


「私は化け物なんかじゃない……! 化け物なんかじゃ――」


遙は自分の腕へと視線を落とした。しかし、そこにあったのは人の柔らかな肌ではなく、血に濡れて艶めく漆黒の羽毛に包まれた、獣腕。

自然界に存在しない筈の、異形の腕だった。今、それが自分の腕となっていて……


「……こんなものッ!」


遙は自分の獣腕に、強く爪を立て、そのまま羽毛の皮膚をぎりぎりと引き剥がそうとする。

だが、その行動に伴ったのは凄まじい激痛。みるみる血が噴出し、足元へと零れ落ちた。

苦痛に喉声を漏らしながらも、遙は腕に込める力を緩めなかった。……緩めることが出来なかった。


やがて、羽毛と皮膚が引き千切れ、夥しい量の血が流れ落ちた所で、遙は腕を止める。

自分のもので無いのなら、痛みを感じる筈が無いのだ。しかし、熱い血と共に溢れ出たのは激しい痛み。


「うぅっ……これは、私の腕じゃない……! 化け物じゃないッ」


化け物は、チャドやペルセの方だ……! 彼らが敵であり、獣人……

だが、そう言うなら、自分も……ガークやフェリスも、同じ……化け物?


「違うよ……私達は……」


知らず知らずの内に、涙は量を増していた。だが、その涙も激しい雨に流され、暗い地面へと染みこんで行く。


「私、私は……好きで、こんな姿になったんじゃない……!」


全ては『あの日』から、あの時から全てが狂ってしまった。GPCの刺客に拉致されて、まるで物のようにぞんざいに扱われて……

自分が何をしたというのだろう。何があって、こんなに苦しまなければならないのだろう。血に塗れて、痛みに声を上げて……化け物と呼ばれて……


「う、うぅ……うぁあああああぁぁッ!!」


涙が堰を切ったように溢れ出し、遙は悲しみのあまりに暗黒の空へ向けて、獣の咆哮を上げた。






――――――――






「はっ……これは恐ろしいな」


遙の様子を、住宅の屋根から見詰めていたチャドは笑みを浮かべながら呟いた。

神経の一筋一筋を駆け巡るような波動。遙の中に眠る力か、得体の知れないキメラの力が波動となって突き抜けていく。

……凄まじい力の波動だった。幾度と無く、平然とヒトを殺めてきた自分さえもが、僅かに身震いする程の畏怖が、あの咆哮には篭っている。


「隙を見て掻っ攫ってやろうかと思っていたが……」


チャドは大儀そうに立ち上がって、肩を軽く鳴らした。

キメラのおぞましい咆哮に耳を傾けながら、豪雨の降り続く夜空を見上げる。


「お前とはまた別の機会に遊びたいモンだ。こんな狭苦しい場所じゃなく、もっと堂々と、な……」


――刹那、チャドの姿は雨に溶け込むようにして、唐突に消え去った。





Back Novel top Next