「ひ、東木さん……!」


裕子は愕然と声を絞り出した。

目の前で遙が何者かによって背中を引き裂かれ、嘔吐感を催すほど多量の鮮血が迸った。

ペルセの無情な攻撃で、遙は悲鳴を上げる間もなく意識が吹き飛び、力無く裕子の身体に頬を押し付けた。


「気を失いましたか」


淡々とした声が裕子の耳に届いた。しかし、その声を聞く余裕も無い……一刻を争う程の事態が今、目の前で起きているのだ。

引き裂かれた遙の背中から、夥しい量の血液が流れ落ちている。動脈を切ったかのように止め処無く溢れる血を押さえようと、裕子はブレザーを脱いだ。

服をそのまま傷口に押さえ付ける形になったが、背中の裂傷が大き過ぎる。出血を防ごうにも、他にすることが無かった。


「……ッ。一体何が……」


「あなたは一般人ですね?」


混乱の中で聞こえた冷静な問いかけに、裕子は顔を上げた。もちろん、闇に閉ざされたそこに誰がいるのかは全く視認出来ない。

しかし、先程の獣の咆哮と言い、暗闇に隠れて見えない姿と言い……一体何者だろうか?

人の言葉を理解し、喋る獣など存在しない。少なくとも、人間の常識ではそうだ。しかも、こんな長閑な街に野獣のような咆哮を上げる生き物など、いる訳がない。


「誰……?」


錯乱しそうな意識を抑え、出来る限り冷静を保ちながら裕子は闇に訊いた。

すると、暗闇の中に音も無く紅い双眸が浮かび上がる。それは白目の無い、獰猛な獣の眼だった。


「あなた方、『人間』が知る必要はありません。
今すぐ立ち去り、此処であったことを誰にも言わないと約束するならば逃がして差し上げます」


暗闇の中で、聞き覚えの無い女声はひたすら淡々と続ける。


「……ですが、そのハルカから離れずに此処に残るというのなら、私は容赦しません」


裕子は声を聞きながらも、一体何を言っているのか良く分からなかった。

御伽噺に出て来るような化け物が、今、目の前にいるとでも言うのだろうか?

しかし、声は人間である。しかも、まだ年若い少女のような……裕子は腹を括り、目に力を込めて暗闇を睨み付けた。


「例えあなたが何者だろうと、大怪我をした友達を見捨てて逃げる訳にはいきません……!」


裕子の決然とした答えに、ペルセは目を細める。


「『死』を選ぶというのですか、人間? ……実に愚かなことです。――グォオオッ!!」


ゾッとするような冷厳な声が響いた途端、激しい驟雨の轟音を跳ね返す勢いで、猛獣の咆哮が響き渡る。

裕子が唖然と口を開く中、遙の冷たくなった獣の指先がピクリと微動した……








ドク……ドク……


胸を微かに揺らす鼓動に、遙は薄らと目を開いた。

しかし、雨の音は聞こえない。開いた視界には、真っ暗な地面と、それを濡らす鮮血の赤。

視界がぼやけて、良く見えない。何が起きているのかもハッキリせず、遙は唯目の前の状況を見詰めていることしか出来なかった。


(何が起きているんだろう? ……それよりも、何が起きたの?)


手足が全く言うことを利かない。口の中に濃く広がった苦味のある血の味。まるで全身が鉛に固められたように冷たく、凍り付いていた。

だが、背中だけが燃え上がるように熱い。脈に合わせて背筋が疼き、その度に血が溢れる感触が続いた。


(寒い……)


背中を除いた全身を包む冷気に、思わず裕子の胴に回す腕力をほんの僅かに強めた。すると、両掌にじわじわと熱が伝わってくる。

手だけではない。腕や頬、胸元にも温かさが広がっていく。丁度、人肌に近い温度だ。

その熱を受けて、脈拍が微かに強さを増していく……遙は少しずつ記憶の糸を辿り始めた。


(そうだ……さっきまで黒いトラと戦っていて……)


そこまで思い出した所で、忘れかけていた痛みが沸々と蘇ってきた。

肉を深く抉られた上、背骨が叩き割られそうな程の衝撃を受けた自分の肉体。そしてその深い裂傷に浸透してくる冷たい雨。

あまりの痛みに遙は小さく呻いた。本当は喉が裂ける程に叫びたいぐらいの痛みだったが、失血のために身体は動かないのだ。

この痛みから今すぐ逃れたい……いや、それよりも、もっと大切なことが……


(どうして私は怪我を……? 隙を突かれて反撃されたんだっけ? ……いや、違う……違う)


弱々しかった鼓動が拍動を強め、遙の意識を浮上させる。

身体が熱い。四肢に感覚が戻っていく。それに合わせて、記憶も確実に繋ぎ合わさっていく……






鼓膜を突き破るような猛獣の咆哮が、闇夜に轟く。

刹那に目の前の暗黒から姿を現したのは、今この場にいる筈のない黒いトラの獣顔。

その剛毛に包まれた口蓋が開くと、おぞましい程に磨き上げられた牙列が露になる。

まさに大人の顔でも軽く噛み潰せそうな顎だった。それが、今、自分の目の前まで迫っていて――


「いやぁぁぁっ!!」


逃げることも出来ない、恐怖に筋肉が硬直している。命の危機に、裕子は思わず悲鳴を上げた。





ガッ


何かが組み合う音が響いた。自分が咬まれたんだろうか? だが、痛みは感じられない。

おそるおそる、裕子は目を開いた。


「がぁっ……ぐるる」


目を開いた次に聞こえたのは、人の声……しかし、まるで獣の鳴き真似をしているかのような唸り声だった。

よく見ると、自分の胴を抱いて倒れていた筈の、遙の姿が無い。背中の傷に当てていたブレザーも跳ね除けられたらしく、右手側に放り出されていた。

再び正面に目を向ければ、そこに立っていたのは致命傷を負っていた筈の遙だった。

背中の傷は、先程よりも出血が治まっているようだったが、それでも完全に塞がっている訳ではない。出血は尚も続き、足元には雨と混じった血だまりが形成されていた。


「東木さん!」


「ぐぅ……」


遙は裕子の声を聞きつつも、まともな返事を返す余裕が無かった。

何しろ、黒虎の牙が左肩に食い込んでいる。じりじりと圧力を増すペルセの巨体を押し留めるのに、遙の腱は引き千切れそうになった。

革靴の底がコンクリートと摩擦し、ガリガリと嫌な音を響かせる。同時に足の骨も悲鳴を上げ始めていた。


「くあっ、ぐぐ……早く、逃げて、遠くまで……もう、持ち堪えられない……っ」


ペルセの顎の力によって、ミシミシと左肩が歪曲する。遙も必死に獣爪を立てるが、トラの分厚い被毛を貫ける程の力が出なかった。

裕子もこの状況で腰が抜けているに違いない。彼女を連れて、今すぐこの場から逃げ去りたかったが、傷の痛みに加え、ペルセを押し留めるのに精一杯であった。

背中から滴る血液が、雨粒と共に地面にボタボタと零れ落ちる。浮上した意識が、再び沈もうとしていた。


(くそっ! 自分だけならまだしも、友達まで……)


ペルセの猛烈な突進と顎の力に耐え切れず、ついに遙は諦めと共に脱力しようとした――



『遙!』


唐突に聞こえた男声。遙は悔し涙の浮かんだ目を開いて、顔を上げた。

それは聞き覚えのある声だった。そして、目の前の巨大なトラが遙の手から引き離されるようにして吹き飛ぶ。


「グアッ!」


「遙! 大丈夫か!?」


ダンッ、と、地面の水溜りを踏んで、宙から現れたのは黒い狼の獣人――ガークだった。

激しい降雨のお陰で空耳かと疑いかけたが、確かに彼が今此処にいる。遙は安堵のために、膝が折れた。


「ああ、ガーク。ガーク……!」


涙を流しつつ、そのまま地面へと崩れ落ちる寸前に、身体が静かに支えられる。遙は眠りかけていた目を瞬いた。

青い双眸。この暗闇でも雲ひとつない、蒼穹のような輝きを保つ瞳……遙が声を上げる前に相手が口を開く。


「私も……フェリスもいるのよ、遙。一人で良く頑張ったね」


「フェリスさんも来てくれたんだ……」


遙がフェリスに支えられながら、ゆっくりと立ち上がると、トラの咆哮が聞こえた。

ガークに吹き飛ばされたペルセも、四つん這いの形から少しずつ身体を起こし始めている。そのトラの形相には、口吻を中心に禍々しい皺が寄っていた。


「あなた方は、昨日の……」


「そうだよ。まさかあれだけの傷を負ったてめぇが、今晩此処まで動けるとは予想外だったぜ」


ガークが揶揄するように話す。彼の言葉が終わると、ペルセは静かに立ち上がった。


「ハルカを捕らえるのが任務です。例え邪魔が入ろうと、任務を遂行するのが私の役目ですから……」


「ったく、仕事バカかよ」


ガークは拳を固めて、自分の眼前に掲げる。


「じゃあ、その石頭が少しは柔らかくなるようによ、俺が殴ってやる。――遙!」


「な、何なの? ガーク」


遙がふらつきながらも立ち止まった所で、フェリスもガークの方へと歩き始めた。

遙の疑問の視線を受けながら、その心情を理解したようにフェリスが後ろを指差す。


「遙、あなたはそのお友達を連れて行って。その怪我だから、なるべく人目に付かないようにね」


「そういうことだ。此処は俺達に任せて、お前らは逃げろ!」


ガークの威勢の良い声が響いた。この暗闇と豪雨に閉ざされた中でも通る声……

その声に遙はハッとして、後方で尻餅を突いたまま放心状態になっている裕子の手を掴む。


「ごめん、谷口さん。少し走るから……」


「え? ちょっと……東木さん!」


遙は背中の痛みを堪えながら、裕子の身体を引き上げ、そのまま走り始める。

足を通じてくる僅かな振動でも背中の傷が痛んだが、今は痛みに立ち止まっている場合ではない。裕子の命を護る方が先決だ。


「あ、あの、東木さ――」


裕子は動揺の中、遙に手を掴まれた時に違和感を覚えて、彼女の手へと目を落とした。

しかし、その途端、裕子の端整な顔が怪訝そうに歪む。


(……え?)


その手は、まるで獣のように黒い被毛に覆われていた。

唯、獣毛とは違って、鳥の羽毛のような感触に包まれている。その手の先端には、鋭い爪が備わっていた。

それは、どんな動物図鑑でも見たことがないような腕……それが、遙の腕となって、自分の手を引いている。


(なるべく遠くへ、谷口さんを護らなきゃ……)


裕子が半ば呆然とした様子で獣腕に目を落とす中、遙はひたすら走り続けた。







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