「つっ……!」
ガークは出血の続く右肩を庇いながら、小さなグラウンドを囲う錆付いたフェンスに背中を預ける。
背骨がじりじりと焼けるような痛みに晒され、身体を動かしていなくとも執拗に傷が疼いた。
チャドに住宅街の石垣に叩き付けられた後、痛みを堪えて何とか追撃を逃れたものの、今も相手に追われている状態である。
痛みと疲労が重なる中、ガークは荒い息と共に悪態を漏らした。
「ったく! あのオヤジめ、周囲の状況も考えずに。他人の家を打ち壊しちまったから、人が寄って来なければ良いんだが……」
『その心配はないぜ』
突如、耳元で聞こえた男声に、ガークは金色の瞳を見開いた。
そして、声と共に脇腹に重い衝撃が走る。鈍い痛みが全身に回る中、ガークは顔を顰めながら、自分を蹴り飛ばした相手を睨んだ。
「クククッ、考えていることを一々声に出さないと気がすまない性格なのか? 波動を伝うまでもないぜ」
「うるせぇよ。大体、てめぇは無関係な人間を巻き込むことに全然平気な面してやがるから、こっちも気を遣わなきゃいけないんだ」
ガークは渋面を浮かべながら、吐き捨てるように言った。
ガークの射るような視線を受けながらも、チャドはニット帽に手を掛けつつ余裕の表情を崩さない。
「だからその心配は無いんだよ。俺ら『獣人』の争いに、ニンゲンは無関係だ。別に獣人の姿を見られようが、争いに巻き込まれて命を落とそうがな」
「……随分と捻くれた考えじゃねぇか」
ガークはゆっくりと立ち上がりながら、血で濡れた唇を手の甲で乱雑に拭う。
「人間が無関係と思うか? 元々俺らも人間だったのに。獣人と言えども、人間とは切っても切れない縁があるんだよっ!」
言下、ガークの拳が目にも留まらぬ程の速さで、チャドの左頬に直撃した。
「ぐっ」
「人間が無関係だなんて、絶対に言わせねぇ!」
チャドが左頬の痛みに顔を歪ませた途端、続いて彼の身体が持ち上がる。
ガークはチャドの右肩と右足を抱えるようにして、そのままコンクリートの地面へと頭から叩き付けた。
頭骨とコンクリートがぶつかり合う鈍い音が響き、さしものチャドも低く呻く。
「ぐがっ……! 何だ、中々速いじゃないか――」
チャドが頭を押さえつつ身体を起こすと、脳震盪で揺れる視界の前にガークの姿は無かった。
唯、こちらとは反対方向へ、道路を真っ直ぐに走っていく小さな陰が見え、チャドは苦笑する。
「最初から逃げるつもりだったのか。甘いな」
立ち上がってから、素早く走る体勢を整えると、すぐさまガークの背中を追う。
導入された遺伝子は地上を駆ける獣ではなく、空を住処とするオオコウモリの遺伝子だが、人間の体型である以上、走るのに支障はない。
チャドは少しずつだが、確実にガークとの距離を縮めていった。
(コウモリのクセに脚が速いな……)
ガークは振り向きつつ、悔しげに渋面を浮かべた。
夜になると人通りは殆ど無い街であったが、このまま住宅街で戦闘を続ける訳にはいかない。
遙を逃がすために、少しでも多くの時間を稼がなければならないのだ。出来るだけ長時間戦闘を行える場所を見付けなければ。
何処か、空き地のような、なるべく街灯も人気も少ない場所が無いものか……ガークは再び正面を向いた。
「くそっ、遙も無事に家に戻っているかどうか……ん?」
途端、ガークの頬を掠めるようにして一陣の風が通り抜けた。何事かと振り向くと、見慣れた緋色の布が街灯に映える。
「まさか、フェリスか?」
ガークが走る速度を落としながら、呟くように訊いた。
すると、ほっそりとした人影が音も無く街灯に照らし出される。予想通りに短い黄丹色の頭髪が翻り、碧眼が瞬いた。
フェリスは振り返りながら、呆けたガークに向けて疲れたような笑みを浮かべる。
「そうよ、ガーク。随分と怪我をしているじゃない」
「昨日のお前よりはマシだよッ!」
ガークの叫び声を無視して、フェリスは彼を追っていたチャドの前へ静かに降り立つ。
突然の乱入者に、チャドは少し驚いたように足を止めたが、フェリスの顔を見た途端、すぐに下卑た笑みを浮かべた。
「ほお、先日の女か。……こうやってまた会えるとは光栄だな」
「同感。でも、あんまりしつこい男は好きじゃないわ。いい加減、遙のことは諦めて帰ってくれない?」
フェリスは目元から笑みを消して、チャドを真っ直ぐに睨み付ける。
その毅然としたフェリスの様子を、チャドはゆったりと腕組みをして、頭から足の先まで舐めるように見詰めた。
「……そうだなぁ、あんたみたいな美人に言われると、帰っても良いような気がするが」
チャドは舌なめずりをすると、フェリスに向かって静かに足を進める。――そして、フェリスが身構える以前に、チャドが手を動かした。
「手ぶらで帰ったら、ちょっと上が五月蝿いんでな。それに、俺自身が満足出来ない」
「っつ!」
言下、唐突にチャドの腕が伸び、フェリスの左腕を鷲掴みにした。
慌てて彼の腕を振り解こうとしたが、その刹那、フェリスの鳩尾に鈍い衝撃が走る。
「ぐあっ……」
昨晩の傷は完全に塞がった訳ではない。痛みと共に、じわじわと血が滲んでいく。食い縛った歯の隙間からも、薄らと紅色の血液が流れ落ちた。
フェリスが苦痛のため僅かに身を屈ませる中、チャドが第二撃目を放つために再び腕を振り上げる。
「大口を叩けるだけの体力はあるみたいだが、痩せ我慢も大概にしておくんだな」
チャドの拳が再びフェリスの傷に向かおうとした直前、ふいに彼女の身体が浮遊感に包まれた。
「ガーク!?」
「いつまで変態オヤジと喋ってんだよ!」
チャドの拳は空を切り、フェリスの身体はガークの手によって抱え上げられていた。
驚くフェリスを他所に、チャドから離れるようにして、すかさずガークは走り出す。
……だが、人一人を抱えている分、流石に先程よりも足が遅い。フェリスは慌ててガークの髪の毛を掴んだ。
「ちょっと降ろして! 走るぐらいなら、怪我に支障はないからっ」
「ぎががっ! 毛が抜けて禿げるだろが……ッまずは俺の頭から手を離せよ!」
ガークは乱暴にフェリスを降ろすと、二人揃って振り返る。
当のチャドは何処か楽しむような視線でこちらを見ながらも、追う気配がまるで無い。ガークは訝しげに眉を顰めた。
「何だあいつ、こっちを追わないのか?」
『気が変わった、とっとと行きな』
少し離れた位置に立つチャドが言った。
チャドの言葉を聞いたガークとフェリスは目を合わせて、小さく頷く。
「罠……かどうか分からないが、今は遙を……って」
ガークは思い出したようにフェリスの肩を掴んで、接吻でもするかの如く顔を近付けた。
「遙は? お前、遙と一緒じゃなかったのか!?」
フェリスは盛大に唾を飛ばすガークを引き離しながら眉根を寄せた。
「遙って……それはこっちの台詞よ! 一緒にいて、もしかして、遙だけ逃がしたとか?」
状況が上手く分からない……。さしものフェリスも焦れたように顔を歪ませた。
しかしフェリスの言葉を聞いた途端、ガークは突き放すように彼女の肩から手を退けて、脇目も振らずに走り出す。
「行くぞ、遙のヤツには自宅に戻るように言っていたんだ! 途中で何かあったに違いねぇ!」
「ちょっと、ガーク!」
先程と比べ物にならないぐらいのスピードで走り出したガークを追うために、フェリスも思わず駆け出す。
暗がりの住宅街へ消えていく二人の影を見詰めながら、その場に残されたチャドはニヤリと笑った。
「ガキ一匹ならまだしも、女に乱入されちゃあな。……後は『あいつ』に任せて、美味しい所だけ貰っておこうか」
――――――――
「だあッ!!」
遙は気合の声と共に黒虎の脇腹に向けて、思いっ切り拳を打ち付けた。
パンッ、と、降り頻る雨のお陰で濡れた、黒い被毛に拳が当たる。遙は荒い息と共に、ぐっと手に力を込めた。
……だが、本気で放った打撃とは言え、黒虎のペルセが苦痛に呻く様子はない。獣人とはいえ、今は変身していない……殆ど人間並みの体力なのだ。
(やっぱり、獣人化しないと駄目なの……?)
「グルルッ、ガァ!!」
唐突にトラの重い咆哮が鼓膜を揺るがし、遙が驚いて顔を上げると、鋭い獣爪を備えた彼女の左腕が、今にも振り降ろされようとしていた。
慌てて避けようと身体を捩ったが、ペルセの右腕に左肩を掴まれて避けられない。遙の顔が恐怖に引き攣った。
ザリッ!
「ぐあぁぁ!」
遙は右腕に走った激痛にペルセから身体を引き離して、その場でのた打ち回った。
服と肉を同時に引き裂かれる凄まじい痛み。真っ赤な鮮血が雨と混じって、ドロドロとコンクリートの地面へと滴る。
裂傷の焼けるような痛みはもちろん、彼女の一撃はなんと重い衝撃だろう。……右肩が脱臼したのか、身体がたったの一撃で悲鳴を上げていた。
「ぐぁ……かはっ」
遙は喀血しながらも痺れる身体に鞭を打ち、ずるずると起き上がる。幸い、相手が追撃してくる様子はなかった。
恐らく、こちらの体力を伺っているのだろう。死なない程度に、力を加減するために……
益々雨脚が強まる中、遙は水と血を吸ったブレザーに重みを感じて、思わず脱ぎ捨てる。
その動作で右腕の裂傷に激しい痛みが走ったが、先程よりは痛みが治まっているような気がした。
じわじわと続く痛みであるが、少しずつ治癒が始まっているのだ。獣人の意識が少しずつだが覚醒して来ている。
「はぁ、はぁ……このっ!」
遙は地面を蹴って、相手の背後へと回り込もうとしたが、ペルセも流石にそこまで甘くは無い。
当然のように身体をガッシリと掴まれた。黒い被毛に包まれた腕に遙はしがみ付きながら、ペルセの獣顔を見上げた。
「所詮は無駄な足掻きです」
何とも厳ついトラの顔であるにも関わらず、彼女が発する声量は人間時と殆ど変わらない。
嫌味なほど冷静な声であった。遙は怒りを覚えて、限界まで口を開く。
「がうっ……ぐぐ!」
自分の身体を掴む、ペルセの腕に向けて遙は食い千切る勢いで咬み付いた。
舌の表面に濡れた体毛が触れる。被毛を潜った先にあるのは厚い皮膚と強靭な筋肉。それを承知で、遙はギリギリと力を込める。
顎に力を込めるあまり耳鳴りのような音が走る。呼吸もまともに出来ない状況となったが、それでも遙は離さなかった。
……ふと、被毛に染み込んだ雨の水の味に混じって、ほんの少しばかり、鉄錆のような味が伝わってきた。
遙は顔を顰めながらも、喉を鳴らしてそれを飲み込む。すると、本能的に息が荒くなり、意識がぼやけてきた。
(う……)
意識が朦朧としてくる。だがそれは『人間』の意識であって、逆に獣の意識は徐々に眼を剥き始めた。
……瞳孔が開き、心臓の拍動が強くなる。運動をした直後の脈の速さといった感じではない。それよりもずっと激しい脈拍だった。
肋骨を押し退けるように強く脈打ち、激しい血の流れによって全身の血管が浮き上がった。
ペルセの腕に食い込んだ犬歯も鋭さと長さを増していき、両腕に強く力が篭った途端、最も大きな変化が肉体に訪れた。
両腕の爪が鋭く伸び、紅く色付く。鳥肌が立つような感覚と共に、指先から二の腕の付け根まで、碧と黒の羽毛に包み込まれた。
身体の筋肉は人間時のそれよりも僅かに引き締まり、右腕に負った傷は音も無く静かに塞がる。
半端ではあるものの、遙は獣人化を終え、ペルセの腕から口を離した。そしてそれと同時に、大きな咆哮を上げる。
「がぁぁぁ!」
自分を掴むペルセの腕を強引に振り解き、遙は素早く反撃に移った。
振り解いた瞬間に、空いたペルセの左胸に向けて鋭い突きを放つ。
「ガ……ッ」
苦痛ゆえにか、黒虎のマズルに皺が寄り、目元が僅かに歪む。その様を睨み付けつつ、遙は自分の指先を尚も押し込んだ。
放った獣爪はペルセの肋骨の隙間を縫って、更にその下へと入り込んだようだ。相手の様子を見るに、肺にまでは達していないだろうが、それでも十分なダメージとなり得る筈。
遙は突き刺さった獣爪を支えに両足を浮かせてペルセの太腿を蹴り、深く入り込んだ指先を抜き放つ。すると、雨で濡れた頬に赤い鮮血が散った。
「はぁ、はぁ……」
遙は地面へと着地し、頬の血痕を手で拭った。……目の中に雨粒が入って視界を狭める。
深い傷を負わせたとはいえ、致命傷には達していないだろう。それを示すかのように、ペルセは左胸の傷を庇いながら上半身を屈ませた。
そう、まるでトラが獲物を狙うかのような体勢。筋肉を撓めたと思うと、ペルセの赤眼がギラリと煌いた。
――来る!
「ガァッ!」
まさに獲物を捕らえる猛獣の如く、ペルセは四肢の撓みを解き放って遙へ躍りかかってきた。
瞬く間に遙との距離を縮めて襲い掛かってくる。遙はその身のこなしに目を見張りつつも、目の前に迫ったトラの牙を転がるようにしてかわす。
「……くッ」
バシャッ! と、水溜りが爆ぜる音と共に、遙はコンクリートの道路へと倒れ込んだ。
ペルセの牙が左腕を掠めたが、直撃には至らなかったらしい。獣人化したことにより動体視力も上昇していたらしく、掠り傷を生じる程度で済んだ。
だが、相手がそれで諦める訳もない。すかさずペルセが追撃をかけてきた。遙が身体を起こした途端、視界を鋭い牙列が覆い尽くす。
「ぐがっ……!!」
遙の細い喉元に、ペルセの太い牙が食い込む。
遙はペルセの剛毛に包まれた首に爪を立てて、何とか引き剥がそうともがいた。
しかし、少女の筋力でトラの牙を離そうなど、力の差も甚だしい。遙が幾らもがいても、相手はびくともしなかった。
「まだ続けるつもりですか?」
威厳漂うトラから発せられた声とは信じ難い女声が聞こえた。
遙の首に喰らい付いたまま話しているせいで若干聞き取り辛く思えたが、ペルセの言葉を聞きつつも遙は爪により力を込める。
「ぐぐっ……うぅ」
爪を立てようと、獲物の頸部を絞める黒虎の顎の力は弱まることを知らなかった。
ミシミシと首の骨と筋が軋み、気道が塞がれて息も詰まる。牙のめり込んだ部分から、血糸が音も無く伝っていく。
(くぁ……息が、苦しい……)
酸欠のためか、視界が霞がかってきた。血の流れが妨げられ、頭が徐々に熱を持って疼き出す。
こんな、こんな所で……折角友達が自分を認めてくれたのに……母にも会っていないというのに……
此処で気を失えば、再び研究所に隔離された上、GPCの研究材料として扱われて……逃げ出すことも出来ないだろう。
(嫌だ……人間に戻らなきゃ……)
手の痺れを覚えて、遙は黒虎の濡れた被毛から爪を引き離した。
四肢が痙攣し、意識が朦朧としてくる。暗黒に彩られた空からの豪雨を受けながら、遙は静かに意識を手放しかけた――
「東木さんっ!?」
唐突に聞き覚えのある声が鼓膜を揺らし、手放しかけていた意識が声に引き寄せられるようにして、遙はカッと目を開いた。
若干幼さを感じるものの端整な女声に遙だけでなくペルセも反応し、遙の首から口を離す。
「人間……ですか?」
ペルセは振り返りながら、冷淡な声で呟く。遙はまさかと思って、声のした方へ目を向けた。
濡れた制服に赤銅色の頭髪……赤灰色の瞳がこちらを驚いたように見詰めていた。しかし、驚いたのは相手だけではない。
「た、谷口さん……? どうして此処に……」
遙は相手の姿を視認しつつも、身体を起こすことが出来なかった。
呂律が回らず、手足が思うように動かない。ペルセに首を咬まれていたお陰で、軽い酸欠状態が続いているのだ。
遙の声を聞いてか、裕子はこちらへ向かって足を進める。
「やっぱり、東木さんですか? まさか、こんな空き地にいるなんて……もう一人、誰か……」
裕子の声が、こちらの塩梅を素直に伺う声が聞こえる。遙は血が巡ってきた身体に鞭を打って、上半身を起こした。
しかし、彼女の言葉を聞く限り、どうもこちらの様子が見えているように思えない。
街灯一つ無い、その上、月光すらも閉ざされたこの場で、人間の目ではこちらの姿を視認することが出来ないのだ。
遙の姿はまだしも、ペルセの姿は闇に溶ける黒の被毛……裕子には、見えない筈!
焦燥感に満ちた遙の思考を他所に、ペルセはその巨躯をゆっくりと捻り、裕子の方へと向き直る。
「一般人のようですね。しかし、どうもあなたと関連のある者のようで……それならば」
「……なッ!」
遙はペルセが動く姿を見て、思わず声を上げた。黒虎がいかに大柄であろうと、姿が見えなければ避ける術は殆ど無い。
更に豪雨によって、ペルセの足音も殆ど掻き消されている。まずい、このままでは……
「ダメだッ! 谷口さん、伏せてっ!!」
「ど、どうしたのですか!? 急にそんなこと――」
ペルセが飛び掛るよりも先に、刮目する程のスピードで遙は裕子の胴に飛び付いた。
二人揃って地面に倒れ込む結果となったが、遙は慌てて後ろへと振り向く。
「グオオオォッ!」
――振り向いた暗闇の先に、猛る黒虎の形相が浮き彫りになった途端、遙の顔が恐怖に彩られる。背を向けたまま、反撃もままならない。
遙がペルセの右腕に煌く獣爪を視界に焼き付けたその刹那、激しい雨に逆らう程の勢いで、真紅の鮮血が噴き上がった。
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