全ての電気が落とされた遙の自宅。

廊下や洗面所はもちろん、リビングや寝室にも電気の明かりは見当たらず、室内はまるで深い洞穴のような暗さであった。

自宅を囲む歩道には街灯も無く、唯一の光源といえば、閉め切られたカーテンを介して、靄のように室内へ広がる、青白い月光のみである。

闇に閉ざされた視界に加え、耳の痛くなるような静寂。……酷く陰鬱な空気が、自宅内を覆いこんでいた。


ふと、闇の差すリビングのソファーの上で、蒼穹のような輝きを放つ一対の瞳が音も無く浮かび上がった。


「……敵?」


薄らいだ月光が、静かに女性の輪郭を闇に映えさせる。

半分ほど目を開いたフェリスは、消え入りそうな声音で独白を呟いた。


この遙の自宅を含め、住宅地一帯に広めた索敵範囲――獣人特有のずば抜けた五感を活かして、フェリスは静かに耳を澄ませた。

聴覚の他にも、自分の肉体を取り巻く空気の微弱な流動を感じ取るように、触覚にも意識を傾ける。

最大限に五感を研ぎ澄まさせつつ、フェリスは瞳をゆっくりと窓へと向けた。


「この波動は――」


コンコン


フェリスが何かを感じ取り、訝しげに眉を顰めた途端、玄関からノックの音が聞こえた。

余りにも唐突過ぎる音に、フェリスは思わず目を見開いて、しなやかな身体を飛び上がらせる。

確か、この家にはベルがあった筈だが……フェリスは呆気に取られたように碧眼を瞬いた。


(誰かしら?)


フェリスは窓際のカーテンを僅かに割って、庭を挟んだ右手の玄関へと眼を凝らす。


すると、そこには見慣れない少女が、一人で立っていた。

赤みを帯びた栗色の長髪に、赤灰色の瞳。服装は遙と同様の制服姿である。

赤毛の頭髪に赤灰色の瞳……その外見は黎峯の地では珍しいものだった。まるで芸術の国に代表する、キャリッジブルクの令嬢のような佇まいである。


少女は何処か決然とした眼差しで、今だ開かぬ玄関ドアの前に佇んでいたが、返事が無いと見ると顔を曇らせた。

その様子を見たフェリスは、何か言いかけるようにして口を開きかけた――しかし、玄関前に立つ少女は直後に踵を返す。


遙の自宅から背を向けて、自棄になったように歩道を駆けていく少女の姿を眼に留めながら、フェリスは溜息を漏らした。


「遙の友達なのかな? そういえば、ちらりと似たような波動を感じた気がするけれど……」


フェリスは頭を掻きながら、カーテンを閉めようとした。

……しかし、直前でその動作が止まる。周囲に蔓延る空気に、一瞬だが細波が生じた気がした。

意識を集中して瞳を閉じると、確かに獣人らしい波動の流れが身体に纏わり付いてくる。

この波動の型は、遙やガークのものではない。そうなれば……フェリスは静かに瞼を上げた。


「……あれだけ昨晩傷付けてあげたのに、懲りない奴らね……」


フェリスは冷淡な声で呟くと、大儀そうにカーテンを閉めた。









(やっぱり東木さんは……)


裕子は空き地に挟まれた、砂利と軟らかい粘土質が重なった道を一人で歩きながら、ぼんやりと夜空を見上げた。

仰ぐ夜空を照らす筈の、月は暗雲に隠れて見えなくなっていた。見えるのはほんの微かにちらつく星の瞬きのみである。

風が少し湿っぽく、遙の自宅へ向かう途中よりも強くなっているようだ。……近い内に雨が降るかもしれない。

しかし、裕子は降雨の予兆を感じつつも、その足を速めようとはしなかった。


周囲にはちらほらと街灯が灯されているものの、爆ぜるような音と共に点滅を繰り返している。

裕子は古びた街灯に視線を移しながら、溜息混じりに呟いた。


「多分、家にはいらっしゃったんでしょうけど、昼のことがあった後ですから――」


ふと、裕子は独り言を切った。

空き地の道の奥……住宅街の突き当たりに、微かな人影の動きが見えたのだ。

丁度、その人影が動く場所に街灯があり、遠くからでも薄らと人影の容姿が視認することが出来た。

人影はすぐに駆け去ってしまったが、その容姿には見覚えがあった。何より、自分と同じブレザーを着込んだ、短髪の少女……


「まさか、東木……さん?」






――――――――






「はぁっ……! はぁ、はぁ、ガークッ……ガーク!」


遙は息切れで声を出し辛くなっている喉から、悔しげに仲間の名を叫んだ。

お陰で喉には激しい痛みが絶えず走り、唾液を飲み込むのも躊躇うような状態である。

だが、遙はまるで痛みを感じていないかのように名を呼び続ける。


獣人の体力ですら息切れする程に駆けているにも関わらず、目尻から溢れていた涙が渇くことはなかった。

遙の走る動作に合わせて、ラボが入るケージが揺れる。幾度と無く悲鳴を上げるラボだったが、遙が止まることはなかった。


「ごめんっ、ラボには悪いけれどっ……止まる訳にはいかないんだ……っ」


ガークの言葉通りに、家までの道のりを最短距離で進む遙。

すっかり夜が更けたため、車通りも無く人影もまるで見受けられない。

歩道と併設された車道を信号の警告も無視して走り、住宅の塀をも跳び越え、頬を裂くように吹き付ける風を振り切って駆ける。


聞こえるのは自分の息遣いとラボの悲鳴ぐらいであった。足元の小石を蹴る音すらも耳に届かない程に呼吸が狭まる。


「あと少しだから……家まで戻れば――」


遙は自宅を含んだ住宅街に近い、寂れた空き地の手前に出ると、ほんの少し表情を緩める。

ようやく遙がラボに言い聞かせるようにして途切れ途切れの声を上げた時……彼女の脳内に何かが響き渡ってきた。


(この音……)


耳を介して届く『音』ではない。耳鳴りのように、頭の中へ直接送り込まれてくるような……音響。

遙がその『音』に、訝しげに眉を顰めたその直後、脳内に激しい痛みが駆け巡った。


「ぐあっ!」


あれ程疾走していた足が有無を言わさず止まり、痛みのあまりに遙はその場に蹲る。

ラボのケージを手放すように置いて、思わず両手で頭を強く挟み込んだ。激しい脈に合わせて、凄まじい痛みが襲い掛かってくる。

空気中に走るか細い電気が、まるで無数の針のように脳を突き、激痛と耳鳴りのような高い音に加え、猛烈な嘔吐感もが遙を苛んだ。


「な、何っ……これ……っ! うぐ、ぐ」


痛みにもがく中、耳鳴りのような音は、やがて笛の音のような音量に変わる。

遙はその笛の音のような音を、何処かで聞いたことのあるような気がした。

何かに呼ばれているかのような……無意識の内に、身体を引き付けられるような……


「狂獣人 (ベルセルク・ビースト) の……戦いの、時と……同……じ?」


遙はおもむろに呟いて、痛みの退いてきた頭から両手を離す。

その掌は頭髪に染み込んだ脂漏で濡れてしまい、遙が立ち上がろうとすると、顎を伝って汗がコンクリートの地面へと零れ落ちた。

足をふらつかせつつも立ち上がり、遙は焦点の合わない瞳を、暗黒が茫洋と広がる左手の路地へ向ける。


「行かなきゃ……誰かが、私を呼んでいる……」


遙は、ギィギィといつになく忙しい鳴き声を上げる、ラボの警告も無視してケージを持ち上げると、帰路とは別の道へと歩き始めた。




覚束ない足取りで向かう先は、住宅街を越えた空き地の奥であった。

空き地の一角に建てられた、スレート製の外装に覆われた小さな製鉄所。すでに廃工場と化しており、人気は無い。

足元の道路も、修復されぬままに所々がボロボロに砕けていた。道路を挟んだ空き地には街灯も無い。


まさに闇と静寂が支配するこの一帯に、遙は知らず知らずの内に迷い込んでしまった。

生温い風が空き地に生える丈の長い雑草を翻し、神経を逆撫でするような音を立てる。


ふと、遙は道路の窪みに足を取られて、その場でたたらを踏んだ。

ガラッ、と、コンクリートの破片同士が擦れ合う音が耳に届き、遙はハッと我に返る。


「こ、此処……何処?」


遙は息を乱して、周囲を見回した。

黒く佇む廃工場と、その周辺の空き地に乱雑に捨てられたドラム缶や鉄筋などの廃材。

その全ての廃材は風化して赤黒く錆付き、粘土質の地面から繁茂した雑草を押し潰すように累々と重なっていた。


幼い頃から慣れ親しんだ街とはいえ、住宅街から離れたこの空き地周辺に来た事は無かった。

ましてや、夜中である。周囲の雰囲気は昼間とは完全に様変わりしており、まるで自分の居場所が掴めない状態だった。


遙は暗順応した獣の眼を使って、何とか周囲の様子を見ることが出来たが、人間であれば漆黒の空間に放り出されたような恐怖を味わうだろう。


「何で私はこんな所にいるの? あの時、頭が痛くなって――」


「私があなたを此処へ呼びました」


唐突に背後から声がして、遙は素早く振り返った。

振り返った先に佇むのは、自分より少し年上であろうか、まだ少女と言っても過言ではない女性が一人、感情の無い瞳でこちらを見詰めていた。

その服装は、遺伝子工学の研究員を母に持つ遙にとって、見慣れた白衣である。遙と同じように短髪の黒髪と、赤みの帯びた茶色の瞳も黎峯人独特のものだ。

しかし、少女は白衣に加え、両手は何を持つ訳でもなく空いている。付近の住民であれば、この空き地一帯を夜中に通ることなどないだろう。

不自然な要素を抱えた少女は、遙と目が合うと同時に、ほんの少しばかり目を細めた。


「獣人は人間では捉えることの出来ない高周波も感知することが出来ます。人間に気付かれずにあなたを誘い込むことは容易なことでした」


「? 何を言って……」


遙は少女が突如発した言葉に、思わず聞き返してしまった。

少女は怪訝そうに佇む遙を他所に、言葉を続ける。


「特に、あらゆる動物の遺伝子を導入されたキメラ獣人であるあなたは、普通の獣人よりも五感が優れた存在ですから……」


「よ、良く分からないけれど、獣人……キメラ……もしかして」


遙は困惑したように少女の言葉を受け止めつつも、ラボのケージを地面に置いて柵の扉を開ける。

遙が眼でラボを促すと、ラボは素早くケージを抜け出して、周囲の草むらの中へと駆け込んだ。

それを確認した遙は立ち上がり、毅然として少女を睨み付ける。


「あなたは……GPCの獣人、ですか?」


遙の言葉を聞いたであろう少女は、微かに驚いたように眼を開いた。


「覚えていませんか? 名前を名乗るのは初めてかもしれませんが、私のコード・ネームはペルセです」


「……コード・ネーム……」


遙は予想外の相手の反応に、眼を瞬いた。

そういえば、この人は……


「確かに谷口さんの家に向かう途中、車内だったけれど、あなたとすれ違ったような……でも、獣人ということは――」


「それ以前のことです。私は、GPCの秘密研究所において、あなたの研究に少し関わらせて頂きましたから」


「関わった? 私の研究に……?」


遙は少し考え込むようにして、眉を顰めた。


「まさか、私を獣人にする手術にも?」


「はい。何度か顔を合わせたと記憶しております」


淡々としたペルセの答えに、いよいよ遙は眼を剥いた。

人間のDNA中に獣の遺伝子を導入し、自然界に存在し得ない異形の存在を、人為的に生み出す悪魔の技術。

その非道な人体実験の被験者候補として、唐突に拉致され、人間としての幸せな生活の日々を奪われ……

曖昧な記憶に残る、激しい苦痛の手術の末に手に入れたのは、人とは懸け離れた異形の容姿。

そして、気の狂うような戦闘の日々を押し付けられ……! 無意識の内に、遙の心臓が早鐘を打った。


思わず地面を蹴って、ペルセの細身に掴みかかる。


「あなたが! あなたが私を獣人にしたって言うのッ!?」


「……あなたのその言葉といい」


ペルセは遙に両腕を強く掴まれながらも、眉一つ動かさずに問い掛ける。


「もしかして、記憶が無いのですか?」


「え……私の記憶は、あなた達が……」


遙はペルセから手を離して後退りした。

自分の記憶は、GPCに関することばかりが消えていた。つまり、意図的に消されていた可能性も十分にあった筈……

しかし、相手は嘘を吐いているようにも見えない。ということは、GPCが記憶喪失に直接関与した訳ではないのだろうか。


「記憶が無いと仰るのなら、こちらとしても都合の良い……GPCの内部の情報を、特にキメラ獣人であるあなたの情報を外部に漏らされてはいけませんから」


言下、ペルセの身体が揺らいだと思うと、遙の喉元に微風が吹き付けた。

思考の整理に追われていた遙が、慌てて顔を上げた刹那、首筋に軽い痛みが走る。遙は呻き声を上げた。


「つっ……!?」


遙は慌てて相手との間隔を空けようと後ろへ下りかけたが、直後、喉元に突きつけられた獣爪を見て息を呑んだ。

遙が顔を引き攣らせながら動きを止めるのを確認し、ペルセが無表情のまま言葉をかけてくる。


「私の任務はハルカ……あなたをGPCの研究所へ連れ戻すことです。上からは、出来るだけ無傷で捕らえるように言われていますから」


震える遙を他所に、ペルセが耳元で囁くように言う。


「大人しくしていれば、あなたも痛い目に遭わずに済みます。抵抗するならば、こちらも容赦致しません」


遙は喉を鳴らして唾を飲み込んだ。

……まずい、獣人化すらままならないこの状況で、すでに急所に刃を突きつけられた状態だ。

誤魔化して、一旦体勢を立て直すか? だが、嘘に惑わされるような相手には見えない。


「……くッ!」


遙は一か八か、身軽さを活かして相手の空いた右腕側へと転がり込んだ。

一瞬、試みは上手く行ったように見えた――しかし、コンクリート地面に左腕が擦り付く寸前に、身体が何かに引っ張られるような感覚が走る。

恐る恐る背後に首を回すと、ペルセの右腕が、こちらの右手首を掴んでいる。予想以上に強い力で握られているらしく、遙が動いても微動だにしなかった。


「あくまで抵抗しますか?」


冷厳な瞳が、じっとこちらを凝視してくる。

その様に背筋に悪寒が走ったが、遙は決然として相手を睨みつけた。


「と、当然ですッ! GPCの研究所に戻るぐらいなら……っ」


遙が叫喚する途中で、その身体がペルセによって引き上げられる。

右手首を掴まれたまま彼女の目の前に広がる、凹凸の激しいコンクリート面へ叩き付けられ、遙が息を詰まらせた。

体重が軽いとは言え、強烈な衝撃である。疼くような痛みが骨を軋ませ、遙はすぐには立ち上がることが出来なかった。


「はぁっ、はぁっ」


肺に必死になって空気を送り込みつつ、遙は思わず空を仰いだ。

――頬に、ぽつり、と冷たい水滴が滴る。その水滴はすぐに全身に降り注ぎ、あっという間に大雨になった。


初夏の激しい驟雨を浴びながら、遙は身体を持ち上げる。

水分を吸って、ぐったりと重くなったブレザーの裾を掴み、遙はゆっくりと立ち上がった。

頭頂に降る雨が、額を伝って目にも浸透してくる。視界がぼやける中、遙はペルセへと視線を合わせた。


「っ……あなた達……GPCの獣人には、負けていられない。私を獣人にしたあなたは、絶対に許さないッ」


ペルセは遙の言葉を無言で流すと、ほんの一瞬で遙の眼前に迫る。

遙はスピードに付いて行けずに、本能的に両手を目の前で交差させて、ペルセの打撃を防いだ。

彼女の女性とは思えない重い拳が、遙の両腕に嫌な音を響かせる。……折れてはいないだろうが、ギシギシと強い圧力が尚も続いた。


「ぐぁっ!」


遙は痛みに耐えかねて両腕の交差を解くと、思いっきり頬に打撃を受ける。

そのまま地面へと顔を伏せる結果となり、泥の混じった水飛沫が舞い上がった。


口の中に血の味が広がる……遙は泥水を掻き分けて左手を立て、再び立ち上がろうともがいた。

その拍子に、ペルセと目が合う。


「獣人化をしなければ、自己治癒能力も、身体能力も先ず先ずと言った所ですね」


ペルセは左手を宙に翳して、ゆっくりと深呼吸をする。


「ですが、連れ戻す間に牙を剥かれては困ります。その様子では、まだ戦意は残っているでしょう。
不本意ではありますが……少し大人しくして頂きます」


「!?」


遙が目を見張った途端、ペルセの身体から骨の軋むような音がした。

彼女の翳した左腕の先端に当たる、白い指先が徐々に黒い毛皮に覆われていく。

それに合わせて平爪は鮮血のように赤い鉤爪へと変わり、その獣毛の勢いはあっという間に左腕を覆った。

変化はそれだけには留まらず、その細身が白衣を押し上げるように、内側から膨張していき、やがて服の縫い目がぶつぶつと引きちぎれる。

ペルセが両手に伸びた鉤爪で白衣を自ら引き裂くと、その下腹部から胸部にかけて、すでに黒い獣毛が覆い尽くしていた。

その獣毛の侵食は、次第に鎖骨から首筋、頬へと伸びていき、彼女の端整な顔に変貌が訪れる。


骨格の歪む嫌な音と共に鼻梁が前へと突き出し、太く頑丈そうな口吻が形成されたと思うと、左右に唇が大きく裂ける。

大きく開いた上顎を支えるように、他の部分よりも獣毛の密集した下顎が生じた。

頬には一際長い毛が縁取るように伸びていき、僅かに位置を上に上げた耳の辺りまで包み込む。


やがて、突出した鼻の周辺、瞼上部、口元に白く長い洞毛が無数に伸び上がる。

ペルセがマズルの持った口を、咆哮と共に開くと、そこには身の毛のよだつような鋭さを持った犬歯が剥き出された。


黒い体毛に覆われ、獣人らしく人に近い骨格ではあるものの、その獣顔は確かに、密林の王とも言うに相応しい「トラ」であった。

その体躯は実際のトラよりも、人の血が入っている分小さく見えるが、それでも十分の迫力を備えている。

僅かに暗緑色の差した黒い獣毛には、本当に薄らとしか見えないが漆黒の縞模様が荒々しく描かれていた。


トラは百獣の王と呼ばれるライオンよりも巨大な、ネコ科最大の動物……遙は怖気を感じて、思わず身体を縮ませる。


「トラだなんて……っそんな……獣人」


遙は慄然として弱音を吐き出した。

レオフォンもレパードも大型のネコ科であったが、それはあくまで「味方」であったからこそ、まだ耐えられたものだ。

しかし、相手はGPCの獣人、すなわち「敵」である。味方のいない今、大型肉食獣の遺伝子を持つ獣人を相手にしなければいけないなど……


だが、彼女に負ければ、GPCの研究所に連れ戻されてしまう。

まだ獣人として不完全故に、手術自体も完遂していない。つまり、あの激しい苦痛と恐怖を伴った手術を繰り返されるのは目に見えていた。


(嫌だ……あんな痛みをもう一度受けるなんて……っ)


遙は震える足を叱咤して、唇を噛み、黒虎を睨み付けた。

確かに怖いが、自分はキメラ獣人……GPCにとっても、失いたくない存在の筈だ。

怪我をするのは承知の上だが、まさか殺されることはないだろう。必ず相手が手を抜く場面はある!


黒虎の獣人――ペルセが獰猛な唸り声を漏らしながら、二足歩行でゆっくりとこちらへ近付いてくる。

遙は戦慄しつつも、足を前へと動かした。こちらが獣人化する時間を、相手が与えてくれる訳がない。

ならば、と、遙はペルセ目掛けて地面を蹴り、派手に水飛沫を上げる。


(戦いながら、獣人化するまでだっ!)


獣の本能が戦いを、血を欲することは分かっている。

お互いを傷付けあって、獣の本能を覚醒させるなど馬鹿げたことかもしれない。しかし、今はそういうことを考えている暇はなかった。

戦闘の中で、少しずつ獣の意識が覚醒してくるだろう。それを暴走しない程度に留めて――


「大丈夫だ……必ず出来る筈っ……うああぁぁ!!」


土砂降りの雨の勢いを押し返すように、暗雲の覆う夜空へ遙の猛々しい咆哮が響き渡った。







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