「やっと出られたな」


ガークが後ろを振り返りながら、安堵したように呟いた。

すでに、裕子の邸宅は見えない。後方に続くのは、閑静な住宅街だけだ。遙とフェリスの二人も、ガークに釣られるようにして、振り返る。

日が暮れつつある鳳楼都は、人通りも少しずつ減りつつあった。吹き付ける風も少しずつ冷たさを増している。

その風を受けながら、遙はほっと溜息を漏らした。


あの後、玄関から疾走し、何とか追手にも見つからず逃げ出せることが出来た。

遙は獣人であることを一般人に知られることがなかったことへの安堵もあってか、胸に右手を押し付ける。

獣人としての変身能力や本能の抑止が上手くコントロール出来ない遙にとって、今回の事件で人を傷付けることがなかったのが救いであった。


その安堵の様子を見せる遙を、苦笑しながら眺めるフェリスも、大きく伸びをした。


「もうすぐ日が暮れそうだね。結構時間が掛かっちゃったけど……そういえば、ご飯食べてないから、お腹空いたかも」


フェリスが目に涙を溜めて欠伸をしながら、ぼんやりと呟いた。

彼女のしぐさに合わせて、遙も小さく肩を竦める。


「何だか私も疲れたな……。……あ」


ガークとフェリスの二人が先を行く中、遙は足を止めた。

当然、二人は振り返り、遙を見る。


「どうしたんだ、遙?」


フェリスより先にガークが遙へと近付く。

遙は複雑な表情を浮かべ、呼吸を乱していた。


「……さん、お母さんっ」


遙はうわ言のように言い、ガークの右を通り抜ける。

彼が振り向いた時には、すでに遙は走り出していた。


「う、うおっ! 何だあいつ、あんなに急いで、車に撥ねられたら大変じゃねぇかっ!!」


「遙っ、あんまり一人で動くと危ないよっ!」


ガークとフェリスも慌てて遙を追いかける。


遙はかなりのスピードで疾駆し、あっという間に路地を抜け、古めかしい商店街へと差し掛かる。

フェリスすら舌を巻きそうな勢いで走る遙の行く先にあったのは、自宅だった。







「はっ……はっ……」


玄関を開け放ち、遙は革靴を脱ぎ捨てて、リビングへと上がる。

丁度その時、ガーク達も自宅へと入ってきて、ガークが後ろから遙の襟首を掴んだ。


「おい、遙っ!」


「っ……ごめん、ガーク。……ちゃんと、確認しておきたいことがあったんだ」


流石の遙も足を止め、俯く。

どうも様子がおかしい。ガークは腑に落ちず、遙の肩を揺らした。


「どうしたんだよ。急に走り出しやがって……家に帰るぐらいなら、そう急ぐことも無かったんじゃないのか?」


「……言っていいのか分からないけど。……こっちに来て」


遙は曖昧なセリフを言ったと思うと、リビングを通り、キッチンと両親の書斎との間に設けられたドアの前に立った。

そこには「Laboratory」と書かれたアクリル製の札が下がっており、フェリスはそれを凝視する。


「此処は……研究室ね」


「はぁ、何だそりゃ? 自宅に、こんな部屋を作ってどうすんだ」


二人が話す中、遙は無言のままそのドアノブに手を掛けた。そのままゆっくりとドアを押す。

現れたのは、地下へ続く階段であった。遙は手元にあった電気のスイッチを押し、階段を降り始める。


勾配は緩く、段も少ない。地下室に当たる研究室は、空気が冷えており、遙は肌寒さを覚えた。


「……お母さん」


遙は階段の最下層に設けられた鉄製の厳重な扉を、両手で強く押す。微かな金製の音がして、明けた研究室を見詰めた。

研究室の全貌は、恐らく二十畳よりも少し広いぐらいだろうか、中央実験台を始めとし、周囲に薬品棚やクリーンベンチが設置されている。

足元はパッと見る限り、ゴミ一つ落ちていない。左手側に設けられた資料棚のファイルも整然と並べてあり、母の几帳面さが窺えた。


遙に続いて、ガークとフェリスの二人が階段を降りてくると、双方揃って感嘆の声を漏らした。


「自宅の研究室だから、大したモンは置いてないって思ってたけどよ。割と本格的じゃないか」


ガークは中央実験台に並べられていたシャーレを取って、ジロジロとそれを凝視しながら言った。

だが、能天気なガークとは裏腹に、フェリスは何処か苦い表情を浮かべている。遙は彼女の表情を伺い、心がずきずきと痛むのを覚えた。


此処は……研究室だ。それに、本格的な道具が幾つも設置されている。

遙も曖昧な記憶を辿りつつ、この風景は、夢の光景と良く似ている気がした。


そう、自分達「獣人」が生み出された、忌まわしい施設に……


――遙が俯いていると、真横に立っていたフェリスが頭に手を置いてきた。

わしゃわしゃと髪を掻き乱され、遙は小さく呻く。


「な、なんですか……?」


「それはこっちのセリフ。何か、調べたい事があるんじゃないの?」


遙が視線を上げると、苦笑したフェリスの横顔が見えた。

……そうだ、まだ、決まった訳じゃない。


遙はそう言い聞かせ、手始めに母のデスクへと歩み寄った。

デスクの上は、他の実験台や棚に比べると、ファイルやレポート用紙が散乱しており、他とは少しばかり変わった印象が見受けられる。

シャーレを丹念に観察していた (丁寧に匂いまで嗅いでいた) ガークもようやく遙の元へと近付き、デスク上にあったレポート用紙の一枚を手に取る。


「……何だこりゃ。遺伝子関連のレポートか? ゲノム解析……とかなんとか」


「こっちのファイルも、似たような事が書いてあるよ。……とは言っても、こっちは動物実験のまとめみたいだけど」


フェリスもファイルを手に取って開きながら、神妙な面持ちで呟く。

二人とも、遙の家にこんなものがあるとは、全くの予想外だったらしく、胡乱な顔立ちで資料に目を落としていた。


「何でお前の家に、こんな訳分からない研究レポートが置いてあるんだ? 見てるだけで頭が痛くなって――」


「私のお母さんは……GPCの、社員だったんだ……」


ガークが全部言い終わらぬ内に、遙は意外とはっきりした口調で言った。

その遙の言葉に、ガークとフェリスの二人が息を呑む。その二人の視線を感じながらも、遙は淡々と続けた。


「さっき……友達、谷口さんから直接聞いたんだ。私が、高校に入学してすぐの頃に、自分から話したって……」


「ちょ、ちょっと待てよ!」


ガークが慌てて割り込み、遙の肩を掴んだ。


「じゃあ、何で今まで黙っていたんだよっ! そんな情報をっ」


「ガークっ!」


遙の肩を揺さぶるガークを、フェリスが割って入り、制止する。

ガークの手が離れると、遙は唇を噛み、何とも言えない表情を浮かべて話を続けた。


「ごめん、ガーク。私……そんな記憶が……無いんだ。お母さんがGPCの社員だったことの……記憶が」


「それって、つまり」


今度はフェリスが訊いた。


「遙は、GPCに捕らわれている期間だけじゃなくて、自分の過去の記憶も失っているってこと……?」


遙は苦い表情のまま、静かに頷いた。


「変なんです……お母さんや、お父さん、友達との思い出はハッキリしているのに、まるで……」


――GPCに関する記憶だけ、消されているみたいに……


一拍置いた後の、遙の言葉に、ガークは目を見開いた。


「な、何だよ、それ。幾らなんでも……一部の記憶を消すっていう、技術なんて――」


「……もし、仮にも、遙の記憶がGPCの者達に意図的に消されているというのなら、遙がGPCの核心的な部分、または何か外部に漏らしてはいけないことを知ってしまったとか?」


フェリスの言葉に、遙は肩を揺らし、眉根を寄せた。

何が、隠されているのだろうか? 自分の失った記憶の中に、どんなことが……


「……ま、別にGPCに関する記憶だけが消されているってんなら、その内、思い出すかもしれないじゃねーか」


「……っ! それが怖いのよっ!!」


急に怒声を放った遙に、ガークは顔を引き攣らせた。

だが、当の本人……遙も、複雑な表情で、自分の言葉を反芻していたようだった。


「……ごめん、急に大声なんて上げて。でも……私、本当は、記憶が戻るのが怖いんだ。
手術の激痛ももちろんだけど、もっと恐ろしいことをされた気がして……記憶は無くても、身体が覚えているから……それに、記憶の中に、お母さんがいたらって……思って」


「要するに、GPCの研究員だった遙のお母さんが、万が一、獣人の開発に携わっていたら、ということが怖いってこと?」


遙は頷きもせず、首を横に振ることもしなかった。

唯、ゆっくりと手を伸ばし、デスクの端に置かれたDNAの二重螺旋モデルの模型を手に取った。


「……お母さんは、あんな、酷いことをするような人じゃない。自分の目的のために、平気で人の命を弄ぶようなことを、する筈が無いんだ。
だから、お母さんの研究室を探れば、研究のこともはっきりすると思って、此処に来たんだ……」


「色々探してみれば分かるかもしれないけど、きっと大丈夫よ。GPCの研究員の全てが、獣人の研究に携わっている訳じゃないから。
むしろ、獣人の研究を違法に行っているのは、ほんの一握り程度って言われているほどよ」


「フェリスの言う通りさ。お前の母親だろ? 悪い事するようなヤツには思えないぜ。それに、親を信じてやらなくてどうするんだよ……」


遙は二人の言葉に項垂れていた顔を上げ、目を瞬いた。

二人の言う通りだ。GPCの社員だからといって、母が獣人の研究に携わるとは思えないのだから。


「……取り合えず、ちょっと探してみよう。お母さんのことももちろん、GPCの内情について、少し分かる事があるかもしれないし。
獣人の違法な研究が載った資料が簡単に置いてあるかどうかは分からないけど、何も調べないよりはマシだよね」


二人が興味津々で資料を探る中、遙自身も、机の上に置いてあったブルーのファイルを手に取った。

それには、GPCのロゴが記されており、確かに母親がGPCに勤めていたことを仄めかしている。

そのことに胸を痛めつつも、遙は緊張した面持ちでファイリングされたページを開いた。

開いたページには、遺伝子操作の研究による、トランスジェニックアニマルについての研究データが、難しい言葉で延々と継がれている。

その全てが製薬関係や、遺伝子の役割を調べる研究内容であり、無論、獣人を生み出す非道的な実験の内容など、一文も記されていなかった。


お母さんは、「私達」の研究に加担していなかったんだろうか?


遙は小さな希望を見出しつつ、ファイルの次ページを開き、同じく獣人に関する研究が載っていないことを確認した。

全てのページを丹念にチェックし、遙は微かな安堵感を覚えた。このファイルには、獣人に関する情報は記載されていなかったのだ。


「これには、何も載ってないみたいだ……」


「む……俺はもう頭が沸騰しそうだ。こんな難しい文章連ねやがって、訳わかんねー。黎峯の言葉は分かり難いし」


悪態を吐きつつも、眉間に皺を寄せて、熱心に探っているガークを見ると、遙は噴出さずにはいられなかった。

続いて、クリップで束ねられていたレポート用紙を粗方読み終わったらしいフェリスも、同じように笑みを漏らす。


「ぷっ……イヌって頭良いんじゃなかったっけ?」


「と、当然だろうがっ! こんな化学式ぐらい、頭に詰め込むのは容易いっ!!」


あからさまに焦燥感に駆られたような、早口でガークは答えた。

フェリスはレポート用紙を再びクリップで止めつつ、遙を見る。


「これにも獣人に関することは載っていないよ。GPCのゲノム創薬に関わる研究内容は幾つか記載されていたけど。
それにしても、最近の遺伝子操作の技術って凄いものねぇ。もうクローンとかも簡単に生み出せる時代なんだ」


「感心してる場合かよっ! 第一、その技術で俺らが造られたんだぞ」


「確かにそうだけど……悪いのは、この技術を悪用する人でしょ? 技術そのものを恨んでどうするの?」


フェリスは澄ました顔で淡々と答えた。

別のファイルに目を通していた遙も、彼女の言葉に、小さく息を呑む。


母が昔に囁いた言葉が……ゆっくりと頭の中で再生され、遙はそれを反芻する。


『……このDNAの研究が進めば、今では治せない病気の治療法の確立や、新しい薬の開発にも役立つの。沢山の人を、救えるのよ』


遙は母の言葉を飲み込み、自分の両腕に視線を落とした。

……自分達、獣人が造られた技術。この技術は、何の罪もない多くの人の命を奪い、自分達のように生き延びた者すらも、今なお苦しめている。

遺伝子操作技術は確かに、母が研究を進めていたようにあらゆる所で人々を救うだろう。再生医療、遺伝子治療、ゲノム解析による新薬の開発……

だが、それが人の考え方次第で、こんなにも恐ろしい技術へと変わってしまうのだろうか? 遙は人間の歪んだ欲望に対して、悲しさが込み上げてきた。




「あ〜……もう殆ど資料は漁ったよな? 獣人に関する研究なんて、ここには何処にもないじゃねぇか」


ガークが苦笑し、デスク上に積まれたファイルの山に、手に持っていたレポートの束を重ねた。

遙も肩の力を抜き、小さく溜息を漏らした。……デスクに置いてある電子時計の時刻は、すでに夜の七時を示していた。


少しばかりの間食を採った以外、休み無く難しい文字に目を通していた遙達には、流石に疲れが出ていた。

もう研究室中に置いてあった資料は殆ど読みつくし、その内容が全て合法的なものであることを確認した三人は、手元の資料を離して、大きく伸びをする。

もちろん、母が研究に加担していなかったという確かな証拠こそ乏しいが、少なくともこの場所には獣人に関する資料などは置いていなかった。


「それにしても、もう夜かぁ……お母さん、今日も帰って来ないのかな?」


「そういえば、変ね。遙のお母さんが三日も帰ってこないなんて……何しろ、この家にはあのラットがいるでしょ?
生き物を置いて、何日も家を空けるとは思えないわ。私達が来る事も、知っている筈が無いし……」


フェリスは肩を揉み解しながら、ぼんやりと呟いた。

だが、遙はフェリスの言葉を聞いた途端、小さく声を上げる。


「あ! そういえば、ラボ……。玲の家に預けるのを忘れてた!!」


大きな声で叫ぶと、遙は慌てて一階へと駆け出す。

デスクに伏して、半ば眠りかけていたガークも慌てて立ち上がった。


「ま、待てよっ! 何処に行くんだっ!!」


遙を追って、慌てて一階へと上ったガークは、早くもラボのケージを持って玄関に立つ遙を呼び止める。

遙は革靴を履いて、すでに外に駆け出さん勢いであった。


「玲の家に行って来るっ。多分、すぐ戻ってくるから……」


「馬鹿っ!! まだGPCの奴らがいるかもしれないだろ? 奴らに見つかったらどうするつもりなんだ!?」


ガークの言葉に、遙はドアノブを掴みかけていた手を離した。


「そ、それは……」


「まぁ、昨日叩いてやったから、今日はあんまり敵も動けないだろうけど……用心に越したことはないね」


ガークの後ろから、フェリスが歩いてきて遙に告げる。

だが、遙は暫く考えるように立ち尽くした後、ドアノブへと再び手をかけた。


「ごめん、やっぱり、約束は破りたくないし……決めた事は今日やっておきたいんだ。……本当にすぐ戻ってくるから、待ってて」


「だぁああーー! やっぱりお前は分かっていない! 何て融通の利かないヤツだっ!! だから、GPCの奴らが簡単に諦める訳ないだろうがっ!
昨日みたいに、ピンチになったらどうする気だよっ」


ガークが吼えている間に、遙はすっかりドアを開け放って、外へと飛び出していた。


「ほ、本当にごめんなさいっ! すぐに帰るからっ!!」


遙の焦燥感に満ちた謝罪の声だけが玄関へと帰ってきて、ガークの怒りを頂点にまで高めた。

何という馬鹿だろうかっ! ガークはぎりぎりと歯を鳴らし、両手の拳をぐっと握り締める。


「あのヤロウっ! 俺の忠告無視しやがって、すぐに連れ戻してやる!」


「私が連れ戻して来ようか? ガークは足が遅いし」


「うるせーっ! たかだか、小娘一匹ごとき、俺の脚力で本気を出せば楽勝だっ! それに、お前は怪我してるだろうが。
……いいか、上司も部下の忠告を聞くもんだ。今は大人しく丸くなってろ。そっちの方がネコらしいし、楽だろうが?」


「『本気』を出さなきゃ、小娘に追いつけないのね。やっぱり私が行った方が――」


「く、来んなっ! 俺一人で行くって言ってるだろうが! ちゃんと大人しくしてろ!!」


ガークは慌ててフェリスを突き放し、玄関を飛び出した。

あっさりと残されたフェリスは頭を抱えて、小さく溜息を漏らす。


「やれやれ、GPCの奴らも、あれだけ傷つけたから、遙でも勝てるかもしれないけど……少ししたら、様子を見に行った方が良さそうね……」


無造作に開け放たれたままのドアを見詰めながら、フェリスは両腕を組んだ。







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