徐々に遠くなる、ガークに抱えられて跳び出した窓。背中に押し寄せる突風。

間違いない。確実に、地面が迫っている。遙は背中に冷たいものが這い上がるのを感じて、甲高い悲鳴を上げていた。


――だが。


「っと! 遙ぁ、少しは黙ってろよっ!!」


遙は身体に微かな圧迫感を覚え、小さく呻く。

……気付けば、身体から浮遊感が消えていた。瞼を開いてみると、憤ったガークの顔が飛び込んでくる。

先程までは襟を通したネクタイも上空へ向けてバタバタと翻っていたのだが、今はそんな様子も無い。無論、風が当たる感覚も無い。


「……あ、あれ……私、死んでない? いや、もしかして、もう、死んじゃ――」


「何を馬鹿みてーなことほざいてんだ! 当ったり前だろうが、ちゃんと着地してるっての!」


ガークは突き放すように遙を地面に立たせてやると、遙はふらつきながらも、何とか踏み止まった。

その様子を見つつ、ガークは先程飛び降りた窓から、庇を指差しながら叱声を浴びせる。


「良いか? 俺はお前がアホみたいに悲鳴を上げている間に、あの庇を伝って降りてんだよ! 分かったか!」


「そ、そうだったんだ。……ごめんなさい」


遙は髪の毛を仕切りに整えながら、ゆっくりと辺りを見回した。

目の前は、植木がずらりと並び、それに並行して外壁代わりに黒い鉄柵が敷地を覆っている。

今立っている場所は、建物と柵の間の、細い路地であった。遙はそれを確かめると、そっと溜息を吐く。


「取り合えず、建物外には脱出出来たんだ……良かった。あ、そういえば、ガークは何で此処に?」


「あ? さっきの話の続きか? ――ま、理由は単純なんだがなぁ……」


ガークは頭を掻きながら、空を仰いだ。


「お前があの車に乗ってから、俺は慌てて追い駆けたんだよ。一般人に対して、悪戯に獣人なんていう存在を知らせる訳にはいかないからな。
だから、フェリスのヤツは家に放置して、お前を追い駆けてたら、こうなった訳だ」


「じゃあ、フェリスさんは、まだ私の家にいるの?」


「いや、フェリスのヤツ、やっぱり出し抜けなくて……」


ガークは苦い顔立ちになって、遙に事情を説明するべく、再び口を開いた。







結局、ガークはフェリスの背中に乗ることとなった。

女性に背負われるなど、正直言って良い気持ちではなかったが、ガークは渋々フェリスの首に腕を絡める。


「……こんなもんでいいのか?」


「っぐ……ガークってば重いんだから。遙の五倍ぐらい体重あるんじゃない?」


「ぶっ! そこまで重い訳無いだろうがっ!! とにかくっ、とっとと跳びやがれ!」


ガークはフェリスの黄丹色の頭髪を引っ張り上げながら叫んだ。フェリスは奥歯をギリギリ鳴らしながらも、軽い溜息を吐いた後、ゆっくり身体を縮める。


そして、間髪を入れずに、一気に筋肉の撓みを解き放つ。その途端、フェリスの身体が軽々と跳躍した。

ヤマネコの遺伝子を受け継ぐ彼女の跳躍力は、ガークを背負っているものの、刮目に値する程に見事なものだった。

一回のジャンプで、あの高い鉄柵を越え、あっさり敷地内へと到達する。さしものガークも、驚いたように目を瞬いた。


「あ〜……昨日の傷に響いた。無茶はいけないよねぇ」


「無茶って……俺が見る限りピンピンしてるじゃねぇかっ! やっぱり化け猫だぜ」


「褒め言葉として受け取っておくよ。さてさて……」


フェリスはスカートの汚れを払いつつ、黄丹色に煌く頭髪を掻きあげた。


「じゃ、私が人間を誘き寄せるから、ガークはその間に突破口を見つけてね〜」


「な……囮になるつもりかよっ! 俺がやった方が……」


「だから、ガークは唯でさえノロノロしているでしょ? 私の方が敏捷性に長けてるし、遙に良いとこ――」


「も、もう言うな!! 分かったから、早く行け畜生っ!!」


ガークは慌ててフェリスの言葉を遮り、どかどかと植木の中を走り去っていった。

その様子に、フェリスは嘆息する。


「もうっ! そっちは敵がいるかもしれないじゃないっ!! 全く、こんな時の行動は、出会った時から殆ど成長ナシだわ」


フェリスはそう言いつつも、人間を引き寄せるべく、正面玄関に向けて一気に駆け出した。







……ガークはその後、一階の窓から屋敷内に侵入したのは良いが、すぐさまボディーガードらしき人物と鉢合わせになり、何十人もの追手を引き連れる羽目となった。

そうやって追われている内に、遙のいた部屋の扉を見つけ、一端体勢を整えるべく、そこに駆け込んだ……という。

大雑把な説明ではあったが、遙は一応、納得したように頷いた。


「それで、フェリスさんの行方は?」


遙はガークの話が終わった後、すぐに問い詰めた。すると、ガークは不満げに唇を突き出す。


「俺は合わなかったから、多分、別の場所で走り回っているとは思うぞ? ま、心配はいらねぇよ。人間が化け猫を捕まえられる訳ねぇんだから」


ガークの斜めな褒め言葉に、遙は思わず噴出してしまった。確かに、フェリスの俊敏性を知る者にとっては、無用な心配かもしれない。

獣人と人間との身体能力の差は、遙もすでに良く分かっているのだから。


「……とにかく、此処から早いとこ出た方が良いな」


ガークの言葉に、遙は顎の下へ一指し指を当てた。


「でも、どうやって外に出るの? 正面玄関側には、まだ敵がいるかもしれないんでしょ?」




『心配いらないよ』




ふと、頭上から聞こえた女声に、二人は一斉に顔を上げた。

微風を纏いつつ、芝生の上に降りてきたのは、他ならぬフェリスその人であった。

昨晩の重傷を引き摺っている上に、囮として駆けてきた筈なのに、その表情に疲れは見受けられない。

遙の呆然とした視線を受けつつ、フェリスは元気に声を上げた。


「よいしょっと。遙もガークも無事で良かったわ」


「あぁ、そんな、フェリスさんこそっ」


遙は夢から覚めたように身体を進ませた。フェリスの無事な姿を視界に納めた途端、思わず涙腺が緩んで、彼女の腹部にしがみ付く。

朝、すでに峠を越えたことは知っていたものの、実際に目が覚めるのを見るまで、不安で仕方なかったのだ。

二度と、大切な仲間が目覚めなかったら……そんな恐ろしい予想までしてしまったが、フェリスがこうやって目の前に立っているのが、何より嬉しかった。

遙の安堵した様子にフェリスは苦笑し、遙の頭を撫でてやると、ガークと視線を合わせた。


「さて……早いところ、脱出しましょうか」


「何だ? またジャンプか?」


「いいえ、次は普通に正面から出ましょう。追手は完全に屋敷内に連れ込んだつもりだから。今、正面玄関には誰も居ない筈よ」


ガークは訝しむように眉を寄せると、建物の壁に背中を吸いつけ、そろそろと正面玄関を覗く。

……フェリスの言う通り、そこには誰もいなかった。視線や、波動もロクに感じない。


「確かにいないな。じゃあ、追手が戻って来ない内に、さっさと出るか」


「そういうこと。時間が経てば経つほど、追手が戻ってくる時間が近付く……ほら! 遙、いかなきゃ」


「あ、はいっ!」


すでに走り出しているガークを追うようにして、フェリスと遙は走り出した。








一方、バタバタと屋敷内が騒々しい……裕子は忙しく走り回る使用人達を見て、嘆息した。

一体何事なのだろうか? 和やかであるべき昼下がりに、部屋中が騒音と焦燥感に包まれている。

やがて、苛立ちが募った裕子は、走る使用人の内の一人を捕まえて、こちらを向かせた。


「一体、何の騒ぎですか?」


捕まえたメイド服を纏った使用人の少女は、あわあわと両手を振って、裕子に頭を下げる。


「あ、ああっ! お嬢様……御見苦しい場を……」


「そんなことは構いません。ですから、何があったのかを教えて頂きたいのです」


裕子は静かに、だが気迫の篭った声を出した。

使用人は暫し間誤付いていたが、やがて吹っ切れたように裕子の顔を見詰める。


「すみません、何やらこの屋敷に侵入した輩がいるようで。皆が慌てているのはそのせいです。
もしかしたら、お嬢様のお命を狙っているような者かもしれませんので……あ、お嬢様っ」


使用人が話している途中で、裕子はすでに走り出していた。


侵入者。まさか、自分の命を狙う者など、こんな街にいる筈がない。ましてや、危害を加える者も……


(まさか、そんな危ない輩が侵入する訳がありません。いるとすれば、窃盗犯かその辺り――)


裕子は走りながら、遙のことを思い浮かべていた。

意味も無く、無理に遙を家に連れ込んだことを、今更ではあるが、後悔していたのだ。

彼女に、これ以上、迷惑はかけられない……そう思いながら、裕子は廊下を駆ける。


しかし、彼女が向かった先――遙を寝せておいた客室へと入ると、そこには、誰も居なかった。


「……東木さん?」


裕子は呆然と呟いた。

確かに、革靴を置いていたために、自由に出れるようにしておいたが、これだけ使用人が騒いでいる中、逃げ出すのは難しい筈である。

まさか、と思って、開いた窓から顔を出すと、下には何の影も見当たらなかった。


遙は何処へ……? 裕子は風で靡いた赤銅色の頭髪を押さえながら、立ち竦んだ。


開いた窓から吹き付ける風が、妙に冷たく感じた……










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