「ガァッ!」
犬獣人が爪を振り回し、廃屋内に散らばっていた家具や壁がけたたましい音を立てて破壊される。
その破壊音と共に、長年降り積もった砂埃が一気に舞い上がった。それを眼晦ましに活用しながら、ガークは犬獣人の攻撃をかわしつつ廃屋から外へ飛び出す。
犬獣人は自らが吹き上げた埃を、全身を身震いさせて振り払う。目の前が塵芥によって視界が遮られているために、犬獣人はすぐに動こうとしなかった。
その様子を外から見ていたガークは静かに呼吸と体勢を整える。
狭い場所では、こちらも不利になる。ガークは頬に出来た掠り傷を拭い、ようやく埃の晴れた廃屋から睨みつけてくる犬獣人を見た。
「よぉ、ワン公! こっちだぜ!」
ガークは意気揚々とした声で言い放った。その声に反応して、犬獣人は素早く窓枠に手を掛ける。
犬獣人は鼻に皺を寄せ、力任せに壁ごと打ち破って廃屋から飛び出してきた。廃屋の壁はまるで内側から爆破されたかのように粉微塵に崩壊する。
重量感のある足音と共にガークの前まで躍り出てくる犬獣人。野生的に牙を剥き出したその気迫は凄まじいものがある。
しかし、ガークはそんな犬獣人に、待っていたとばかりに笑いかけると、すかさず全身に力を込めた。
「てめぇみたいな奴は、『獣人化』して一気に倒してやるぜ!」
ガークがそう叫んだ時だった。
――背後からもう一つ、凶暴な気配が流れてきた。
「……な!?」
危険を察知したガークが慌てて背後を振り返ると、そこには巨大な姿の獅子獣人が、今にも爪を振り下ろそうとしていた。
荒々しい鬣を振り乱し、筋骨隆々とした体躯を持つ獅子獣人の爪は、犬獣人のそれよりも鋭い。
力任せであるといっても、まともに受ければ半端な怪我では済まないだろう。ガークは頭上に振り下ろされる爪を見て、顔を引き攣らせる。
(! もう一体、だと……!?)
ガークは思わず身体を捻ったが、気が付くのが遅過ぎた。相手の攻撃から回避出来る程、その場から早く動くことが出来なかったのだ。
「ガァ、グオォォォ!!」
廃屋から出て来た犬獣人も牙を剥きだして、こちらへと突進する勢いで走ってくる。
背後には獅子獣人の鉤爪……どちらの攻撃を受けても相当なダメージが予想される。無論、両方の攻撃を受ければ致命傷にもなりかねない。
逃げ場の無い挟み撃ちの状況に、ガークは悔しげに目を瞑った。
「畜生ッ! タイマンで勝負しやがれッ」
ガークが吐き捨てるように叫んだ。
「ガークさん!!」
絶体絶命と思った、その時だった。まだ幼い女声が、ガークの耳に届く。
そして、間髪を入れずに獅子獣人が苦悶の声を絞り出した。彼の鼻面に向けて、高々と跳躍した女性――フェリスが回し蹴りを浴びせたのだ。
骨に響く鈍い音と共に、獅子獣人は地面に倒れ込んだ。濛々と砂煙が舞い上がる中、フェリスは中空で身を返し、倒れた獅子獣人の胸の上に飛び乗る。
ガークは獅子獣人の攻撃が無くなったことにより、何とか犬獣人の咬み付きを避け、ざっと砂煙を上げながら後退した。
「……ちっ、余計な手出ししやがってよ」
獅子獣人の胸の上から地面へと着地したフェリスを見て、ガークが苦笑しながら言った。
「ガークさん! 大丈夫ですか?」
「! お前、逃げて無かったのか!?」
倒れた獅子の横から顔を出した遙を見て、ガークは驚いた声音で言った。彼の言葉を聞いた遙は息を切らせながらやってくる。
ガークはその姿を見て、驚きと戸惑いを見せた。まさか逃がした筈の遙が戻ってくるとは思っていなかったのだから。
遙はフェリスによって簡単な手当てを施された足を引き摺るようにして、ガークの元まで歩み寄った。
「よ、良かった……間に合った。逃げた先で、フェリスさんが助けてくれたんです」
ガークの無事な姿を見た遙は、安堵したように引き攣っていた頬を緩めた。
今も尚、苛立たしげに荒い息を吐いている犬獣人。あの巨大な怪物と一対一で戦えば、ガークとて唯の怪我で済む筈が無い。
それに、自分一人で逃げてしまうなど、遙には出来ないことであった。何と言っても、ガークは自分の恩人のようなものなのだから……
ガークは遙の言葉を聞いて、眉を上げた。
「フェリスが?」
「その子が逃げた先に、もう一体、ウシの獣人がいたのよ。襲われる寸前で、私が助けたの」
唸り声を上げて威嚇する犬獣人を、蹴りで牽制しながらフェリスが叫んだ。
戦闘態勢にあるフェリスと、敵意を剥き出した犬獣人。その両者を見たガークは、遙を自分の背後へと手で誘導した。
……まだ、戦いは終わっていない。
「やけに敵が多いな、今日は……すまねぇな、遙。お前は下っていろ」
「そ、そんな。ガークさんも、フェリスさんも、まだあんな怪物を相手にするつもりなんですか!?」
「怪物ったって、俺らも『同じ』なんだよ」
ガークは引きとめようとする遙の言葉を、遮るように叫んだ。
「何も覚えてねぇお前がいると、やり辛かったんだ。……人が人じゃなくなる瞬間を、見せたくねぇ」
「? どういうこと……」
人が人じゃなくなる……一体どういうことなのだろう。遙が目を瞬く。
フェリスもガークと同様に、複雑な表情のまま構えている。その表情からは、何か隠していることがはっきりと伺えた。
頑なな二人の様子を交互に見る遙だったが、そこで敵である犬獣人が遙へと眼を向けた。
「……何だァ、良く見りゃさっきのガキじゃねぇか。くっく、その話を聞く限りじゃ、何にも知らねぇみてぇだな」
驚いたことに、犬獣人はその長い鼻面を動かして、流暢に人の言葉を話してきた。
その言葉は横暴でしゃがれていたものの、遙でも簡単に聞き取れるレベルである。まさかその犬面で、人間の言葉を話すことが出来るなど、思いもよらなかった。
当然、遙は驚いて目を見開く。
「し、喋った!? あの怪物は……」
「獣人(じゅうじん)よ、遙」
フェリスが隣で身構えながら言い放った。その蒼い眼は犬獣人の姿をしっかりと捉えている。
より一層張り詰めた空気に遙が動揺を隠し切れない中、前方の犬獣人に向けて、ガークが一歩前へと踏み出した。
「良く聞いとけ遙、獣人なのはあいつだけじゃねぇ……俺らも同じだ。同じ、『獣人』なんだよッ!!」
言下、ガークが叫んだ。叫んだというよりも、咆哮に近い。まるで獣の声帯から発せられたかのような獣声に、遙は耳を塞ぐ。
そして、遙の目の前で信じられないような劇的変化が、続いて彼の肉体に現れた。
黒灰色の体毛が胸部を中心に全身へと広がり、その肉体は二倍近くまで膨張し引き締まる。
手足はより長く強かに。四肢の先端から伸びる漆黒の鋭い爪は、陽光に照らされ、木漏れ日のように光を反射した。
耳は直立耳に形を変化させ、頭の側面から頭頂部へと位置を変える。次第に全身へ広まっていく獣毛の侵食が腰の辺りに達した時、被毛が束になった尾がふわりと溢れた。
そして、最も大きな変化は、彼の顔に現れた。
鼻先が伸び、細く長い鼻口部を形成したと思うと、その口からは鋭利な牙が並んでいく。
牙列の中でも、犬歯は突出して大きく伸びていき、まるで獲物の喉を食い破るようにして、ガークは牙を剥き出した。
変身を遂げたガークの姿は、まさに『オオカミ』であった。
漆黒に覆われた姿の中、白目の殆ど無い金色の瞳が畏怖を覚えそうなほどに強靭な力を宿している。
目の前にいる橙赤色の犬獣人よりは小柄な姿だったが、それでも迫力だけは引けは取らないだろう。
――だが、その姿を見て遙は絶句した。
それこそ、信じられない現象であった。経った一分程前まで人間の姿であったガークが、犬獣人と同じく『異形の容姿』へと変貌を遂げたのだから。
こんな光景、まるで悪夢に等しい。人が獣の合わさったような存在へと、その姿を変える。これが、獣人だというのだろうか?
「う……ッ」
ガークの変身を目の当たりにした遙は、口元を押さえて後退した。
その様子を一瞥したガークは眼をそっと細めて、静かな声で言う。
「これが獣人なんだよ、遙。ヒトの姿からこんな化け物の姿に変わっちまう奴らのことを、そう呼んでいる。
そして、それは俺やあの犬コロだけじゃねぇんだ。……遙、お前も、同じ獣人なんだよ」
ガークが言った言葉に、遙は驚いて顔を上げると、素早く彼の背に迫った。
「!? 私が獣人? そんな、馬鹿なこと……私は人間……化け物なんかじゃ、ないよ……!!」
現に、自分の手を見てみても人間と何ら変わりはない。それが、今目の前に立っている獣人と同じだということは、信じられない。
必死に否定する遙に対して、ガークは睨むような視線でこちらを見てきた。
「見てただろ? 俺だってさっきまで『人間』と同じ姿をしていたんだ。だけどよ、そこが獣人の特徴なんだ。
人の姿と、獣人の姿の二つを持つ……お前は、まだ人間の姿でいる、それだけの話だ」
「どうして……ッ」
遙はあまりにも唐突過ぎる事柄に対して、完全に混乱してしまった。震える手で頭を抱え、その場に膝を負って蹲る。
夢なら覚めて……! そう願ったが、幾ら涙を流しても、心の中で否定しても、それが叶うことは無かった。
涙を拭った手、それは間違い無く人間の手だ。あんな獣のように体毛が伸びた容姿ではない。……少なくとも、今は……
(まだ人間の姿……? いつかは、私もああなってしまうの?)
遙が絶望に打ちひしがれる中、ガークはすでに地面を蹴っていた。
彼は唸り声と共に肉迫すると、素早く犬獣人の首に咬み付いた。その鋭い牙は犬獣人の襟首へと深々と食い込む。
予想外のガークのスピードに押された犬獣人は、一旦体勢を崩し、そのまま二人揃って地面に崩れ落ちる。
ドシャッ、と二人の体重によって砂利が擦れる音と共に、荒地の砂が一気に舞い上がった。
その戦いの様子に目をやった遙は身震いした。あれではまるで、獣だ。本物の獣と何ら変わり無い。
怒りに唸り声を上げて、変身後に生じた爪牙を駆使して相手を押さえ付ける……次第に、薄らと血の臭いまでもが漂って来た。
「ば、化け物だよ……あんなのッ」
「グオオッ」
突如響いた獣の咆哮に、遙は反射的に振り返った。
そこには、先程フェリスに叩きのめされていた獅子獣人が立っていた。その鼻面からは、先程の蹴りによってか、多量の血液を流している。
獅子獣人は長い舌を使って血を舐め取ると、遙に向かって牙を剥き出した。
「ガァッ!!」
「……!」
遙が避ける暇も無く、獅子獣人の肉体が躍る。強靭な筋肉による力の衝撃。たったの一撃でも、遙にとっては致命傷だろう。
あまりにも唐突過ぎる相手の攻撃に、遙は言葉を失い、唯見上げていることしか出来なかった。
「! グガッ!?」
――だが、彼の攻撃は遙に届く寸前で止まる。正確には、止められたのだ。
遙が唖然と見上げる中、獅子獣人の太い腕を、フェリスの手ががっしりと下から押さえ込んでいた。
まるで、大木を支えるようにして佇むフェリス。その華奢な身体が揺るぐことは無く、固定された体勢さえ崩れない。
そして、その彼女の腕にも変化は起きていた。先程までヒトのものであった筈の繊手は、赤みがかった茶の体毛に包まれ、指先には硬質な鉤爪が生じている。
ガークと違って全身が獣人化している訳ではなかったが、彼女もまた、獣の腕に変化させていたのだ。
「獣人……それは人間をベースに、獣の遺伝子を導入して生み出された存在。当然、自然界に存在する筈の無い生命体よ」
フェリスがガークに代わって、遙に告げる。
「そして、私達異形の生命体を生み出している組織の名は『GPC』。世界的製薬企業の裏の顔。――こいつらは、その手先。私達の敵よ!」
言下、フェリスが獅子獣人の足を素早く払って、その巨体の体勢を崩させる。
獅子獣人がそのまま地面へと倒れ掛かる寸前に、フェリスの膝蹴りが彼の腹に叩き込まれ、その口吻から血液が散る。
肋骨が折れるような、耳を塞ぎたくなる音が遙の耳に届いた。フェリスが足を離すと同時に、獅子獣人はその場に蹲る。
両者の戦闘の光景以上に、遙はフェリス達の言葉が耳に残っていた。彼女の言葉を聞いて、遙は呆然と口を動かす。
「GPC……獣人……? 私、何のことだか、分からないですよ! いきなりそんなこと言われても、私は知らない!!」
遙は頭を抱えて、反抗するように叫んだ。
こんなこと、信じられる訳が無い。あまりにも非現実な光景を次々と見せ付けられて、簡単に受け入れられる訳がない!
自分が眠っている空白の時間。そこに真実が隠されているのは明らかだ。だが、それを思い出してしまえば、全てを受け入れなければならない気がして、遙は必死に押し留める。
「有り得ないよ……っ」
遙が泣きじゃくりながら、声を絞り出した。
そんな遙の様子を、ガークと戦いながら見ていた犬獣人は、ニヤリと口角を吊り上げた。
(……なるほど、あいつは使えそうだ……)
「てめぇ、余所見してんじゃねぇッ!!」
ガークは咬み付きを解いた犬獣人に向けて、盛大な足蹴りを放ったが、相手は間一髪でそれをかわす。
一方で、ガークはその攻撃で一瞬体勢を崩した。その僅かな隙を突いて、犬獣人はいきなりガークとは正反対の方向へと走り出す。
砂煙を上げて犬獣人が駆ける先には、茫然自失で座り込む遙がいた。
「遙!!」
犬獣人の姿とその方向を目の当たりにしたガークとフェリスは、ほぼ同時に叫んだ。
遙は二人の声にはっとして前を見る。すると、すでに犬獣人が目の前まで躍り出てきていた。
「い、いやぁぁッ!!」
いきなり眼前に迫った犬獣人の獣面。巨大な影が全身を覆った時、遙は恐怖に悲鳴を上げる。
犬獣人は抱き抱えるようにして遙を捕まえると、何度か地面を転がった。遙は痛みと強烈な圧力に、抵抗を忘れて息を詰まらせる。
やがて、ガーク達との距離が開いた所で、犬獣人は口角を吊り上げながら遙の細い首元に鋭い爪を突きつける。
唯でさえ太い腕に締め付けられる遙は、呼吸の苦しさに呻いていたが、その爪の感触を感じた途端、言葉を失った。
「くっく、どうもお前らは、こいつを庇っているらしいなぁ。良く分からないガキだが、こいつを殺されたくなかったら、大人しくしろ」
犬獣人の卑劣な言葉に、駆け寄ってきていたガークとフェリスが止まる。
彼の言葉を聞いたガークは、鼻に皺を寄せ、唸るようにして言い放った。
「人質って奴か!? 汚い奴らだぜてめぇら。……まともに戦う気はねぇのかよ」
「ハハハッ、綺麗ごとを言いやがる。此処にルールは無いんだぜ? お遊びじゃないんだ。
どんな手を使ってでも勝てば良いってものを、お前らみたいにくだらんプライドなぞ持ち合わせてられるかよ」
犬獣人は言下、もがく遙の胴と首を、その毛深い腕でギリギリと締め付けた。
「ぐあぁあ……あぁッ!!」
突然身体中に掛かった凄まじいな重圧に、遙は呻き声を上げた。
骨が軋み、肺が押し潰される苦しさ。人間の筋力ではない。本物の獣……いや、それを越える程の筋力だろう。
人質、という形といっても、正直、このまま圧力をかけられてしまえば内臓が破裂してもおかしくは無い。
犬獣人はそんな遙の様子を感じ取ったのか、ほんの僅かに力を緩めてきた。遙は何度も大きく息を吐く。
「……うぅ……」
遙は力無く頭を弓形に添った。身体が圧迫されたことで、脳が軽い酸欠を起こしているのか、上下が反転した視界は酷く霞んでいる。
だが、遙の薄れ行く意識の中でぼんやりと見えた視界に、先程の獅子獣人が立ち上がり、フェリスに襲い掛かる瞬間が映し出された。
「づッ!」
フェリスの小さな苦痛の声と共に、鮮血が地面に散った。
厳つい獣顔を持つ獅子獣人は先程の攻撃の腹いせとも言わんばかりに、抵抗を止めたフェリスの腕を爪で引き裂いたのだ。
彼女の細い腕を伝って、真っ赤な血が地面に零れ落ちるのを見て、遙は息を呑んだ。
「や、やめて……ッガークさん、フェリスさん!」
「全く、嫌な状況ね」
顔を顰めながらも、フェリスは腕を庇って姿勢を保つ。
そのフェリスの様子を舌打ちして、横目で見ていたガークは腕を組んだ。
「ちっ、仕方ねぇよ、遙。お前を殺す訳にはいかない。……絶対助けてやるから、暫くそこで待っていろ!」
ガークが遙に向けてそう告げた途端、獅子獣人は続いて彼の腹に向けて、鉄の塊のような拳を放つ。
腹部に命中した強烈な衝撃に、ガークは流石に呻き声を上げた。
「ぐはッ……!」
口から血を吐きつつも、ガークは足を引いて踏ん張った。
狼特有の鋭い眼が、この状況においても殺気と闘気に満ち溢れている。その様を見て、遙は微かな戦慄を覚えた。
今はまだ彼等も戦意を保っているが、このまま攻撃を続けられれば、どちらの命も無いだろう。背筋を伝う恐怖に、遙は息を呑んだ。
これ以上攻撃を加えられれば、二人は死んでしまう! 何とかして、助けなければ……
「離してッ! 皆が、死んでしまう……ッ」
遙は顔を起こして、犬獣人の腕に爪を立てた。
だが、その太い腕が簡単に引き離される筈が無い。それは大木に爪楊枝を立てるのと同じぐらい無謀な抵抗だった。
それでも、遙は仕切りに身を捩り、身体に力を加える。最初はその様子を愉しんでいた犬獣人だったが、次第に鼻面へと皺を寄せ始めた。
「さっきからうるせぇぞ、このガキ! 少し大人しくなるように、痛めつけてやろうか!」
言下、犬獣人の爪が、遙の腹部に食い込んだ。
まるで風船を貫くような容易さで、遙の腹が破られる。真っ赤な鮮血が噴出すと共に、凄まじい激痛が遙の身体を稲妻のように駆け巡った。
遙は一瞬何が起きたか分からず、目の前が真っ白になる。
「……ッ!!」
四肢の感覚が凍り付き、やがて、身体の中心から血液が沸騰するかのように熱が沸き上がっていく。
夢じゃない、この痛みは……現実だ。遙は口の中に血の味が満ち出した時、僅かな心臓の高鳴りを感じた。
(何……? 身体が熱いよ……)
遙は焦点の合わない視線を、力なく自分の腹部に落とした。
そこには、犬獣人の爪が腹部を貫いている様子が、ぼやけて映し出された。血が、足を伝って地面へと零れ落ちている。
凄まじい程の痛みはほんの一瞬であり、遙はその光景を視界に収めていながらも、何が起きたのか上手く理解出来なかった。
唯、死、と言う感覚が迫ってきていること、それは本能的に察知した。血が止まらない。内臓さえも貫かれているのだろうか。
(私は、死んでしまうのかな……?)
そう感じた瞬間だった、本来ならば弱る筈の鼓動は徐々に力強さを増していく。
今まで響いていた、ぽた、ぽた……と、水滴が落ちるような音。それは不思議なことに、次第に間隔が開いていき、血の流れが止まっていった。
冷たくなっていた手足に熱が駆け巡り、遙はそのことに軽い恍惚感を覚えた。まるで、身体が重力から解き放たれていくような、感覚。
……だが、傷口から沸き上がる熱は、全身が燃え上がるように徐々に熱くなっていく。
やがて、その熱が痛みに変わる程になった時、遙はあまりの苦痛に身を捩った。
「うぐ……ぐ、がぁあああぁぁッ!!」
身体の焼けるような痛みに声を上げた遙。だが、その声はすでに人というよりも、猛獣のような重い咆哮だった。
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