「っと、着いた……」


ガークは額に浮いた汗を右腕で拭いつつ、目の前の豪邸を見上げた。

初夏とは言え、空は雲一つ無い晴天。日が傾きかけた午後の日差しは、全力で駆けたガークにとって辛いものがある。

何しろ、肉体に組み込まれた遺伝子が、寒帯を住処とするオオカミなのだ。その影響がこんな所にまで現れるとは……当然、この暑さには慣れる筈は無かった。


取り合えずガークは呼吸を整え、正面玄関へと移動しようと、邸宅の外壁たる黒柵を伝いつつ、入り口を探した。


「……待てよ、この広さ。本当に派手好きなんだな」


ガークは敷地の広さに愕然としつつも歩き続ける。そして、ようやく突き当たりに出てから右手を振り返ると、見覚えのある姿が飛び込んできた。

黒いスーツを纏い、威圧感と冷厳さの漂うサングラスをかけたボディーガードだ。正面玄関らしき所の前に、三、四人程が整然と並び、周囲に目を光らせている。

その姿を見て、ガークの考えは間違いのない確信へと至った。


「間違いねぇ……さっき遙の家に来た男共だ。……だが、これからどうしたモンか」


ガークはなるべくボディーガードの目に留まらないように、外壁に身を隠しながら様子を窺った。

外壁は思いのほか高く、狼獣人の脚力なら跳び越えられないことも無いが、人間形態時では少し無理があるかもしれない。

外壁の高さは三メートル程。そして、唯一の進入経路たる正面玄関は厳戒態勢。予想外の難関に、ガークは舌打ちした。


「しゃーねぇ……一般住民にバレないように獣人化して――」




『何バカなことをやろうとしているのよっ』




ふと聞こえた高い叱声に、ガークは驚愕と恐怖が綯い交ぜになったような表情を貼り付ける。

焦燥感に駆られながら、慌てて振り向いた先には、半ば呆れ顔で佇むフェリスの姿があった。

……ぱっと見る限り、いつもの陽気で浮付いた表情が見当たらない。凛とした顔の眉間に、ぐっと皺が寄っている。


「……近所の人の目は、何処にあるかわからないのよ? ……またトラウマ引き出すつもり?」


冷厳な口調で言い放つフェリスに、ガークは青褪めた。


「……言うなよ、バカヤロー。……てめぇこそ、怪我は大丈夫なのか?」


ガークが気を取り直して頭を豪快に掻き、投げやりにフェリスへ問いかける。

彼女は先程の厳しい顔立ちを拭ったように消し去り、打って変わって何とも感じの悪い笑みを浮かべた。

そして、ガークが唖然と口を開いている中、自らの襟元を摘んで、少しばかり下方向へと引っ張ってみせる。


「ほら、この通り。軽く動く分には支障は無いし、当然、出血も止まった。……信じられないって思うなら、見てみる?」


「! だ、誰が化け猫の胸を見て喜ぶんだよっ!! 大体、今はこうやって駄弁ってる場合じゃないんだよ」




ガークは身振り手振りを付け加えつつ、フェリスに一連の事情を説明した。

フェリスが寝ている間に遙のクラスメートが来て、そのクラスメートによって遙がこの豪邸へと連れ去られたこと。

本人には悪いが、獣人の遙を一般人の下に長く置くわけには行かない。遙を連れ戻すために、今から豪邸に侵入しようとしていたことなどを、大まかに述べる。


説明を始めた当初は、フェリスも聞いているのか訊いていないのか分からないような態度だったが、ガークの話が終わると、さも感心したように頷いた。


「つまり、今は隠密に忍び込もうと策を練っていたわけね。獣人の体力なら、この鉄柵も跳び越えられると……」


フェリスはニヤリと笑うと、ガークの背中を豪快に叩いた。


「いつも私の戯言に流されるガークも、ちょっとは成長したのね。……ま、一人だったら、このまま狼男の伝説が誕生していたに違いないけど」


「っ……じゃあ、どうするんだよ。正面突破ってヤツか?」


軽くむせ返りながら、ガークは涙目になって聞き返す。しかし、フェリスは彼の問いに首を横に振った。


「違う違う。ちゃんと安全に侵入できるように――」


今度こそ、ガークは大儀そうに目を逸らした。


「あのな、この敷地一帯がこの鉄柵で覆われているだろうがっ! お前はジャンプで軽々と越えられるかもしれねぇが、俺は無理なんだよっ!」


「まぁ、その気になれば、私だけで遙を助けに行けるけど……」


フェリスは苦笑しながら、ガークの肩を摘んだ。


「良い? 私は確かにガークより筋力は劣るかもしれないけど、それ以外の能力なら、軽く二、三倍近くは高いわ。特に、跳躍力はね。
……だから、私がガークを背中に担いでジャンプすれば二人で敷地に侵入出来るし、人目の少ない場所を選んで跳び越えれば、割りと安全でしょ?」


「なんか気に食わんセリフが混じっている上に、俺がお前に担がれろってか!? そういうぐらいなら、お前一人で行ったほうが……っ」


「駄目よ。二人で助けに行きましょう。……ふふ、チャンスは多分一回だけだから、遙に良い所見せる為に――」


「ぐあー! それ以上言うなっ!! やればいいんだろやればっ!」


ガークは半ばヤケクソ状態になってフェリスの言葉を遮った。








胸が酷く熱い……灼けるような血の流れに、遙はびっしりと全身に汗を掻いていた。

耳の鼓膜を揺るがす心臓の拍動が、激しい運動をこなした直後のように早鐘を打っている。


(熱い……身体が……)


やがて、強張っていた全身に熱い血脈が行き渡り、微かな高揚感を含んだ鼓動を受けて、遙は荒い呼吸を繰り返した。


「はぁっ……ぐっ! うぅ……。……此処は……」


目を開くと、見慣れない天井が飛び込む。

自宅の天井ではない。かといって、拠点の天井でもなく、見覚えは無かった。唯、少しずつ記憶が戻り始めると、ある程度の予想が浮かび上がってくる。


「ここ……谷口さんの、家?」


遙は肩を上下させながら、急かすように脈打つ胸に手を押し付ける。

いつの間にか、意識を失っていたようだった。裕子に向けて怒声を放っている最中に、急に眠気が押し寄せてきて……


もしかしたら、紅茶か何かに、薬の類が入れられていたのかも知れない。遙は身体のあちこちに触れてみながら、様子を確かめてみた。

服装も、ブレザーが脱がされていること以外変わりは無く、ほっと安堵感が押し寄せた。


だが、その安堵も瞬時に凍りつき、遙は顔を引き攣らせる。


「……お母さん……」


遙は脈に合わせるようにして疼く頭部を両手で抱え込んだ。

僅かな眠りの中で、薄らと忘れかけていた事実。裕子から聞いた話を、遙は反芻するように、ゆっくりと思い出した。

母が、GPCの社員だったこと。……GPCに獣人にされた遙にとって、それは受け入れがたい事実であった。

何より、何故、実の娘である筈の自分が、そのことについて知らないのか。母の職業に関しては、ずっと遺伝子工学関連の仕事に携わっているという、漠然としたものしか知らない。

教えて貰っていなかったのか、それとも……自分が忘れているのか。母がこの場にいない今、遙の心境は複雑だった。


(……私の記憶。どうして、失っているんだろう。本当に、GPCで獣人にされる過程においての副作用なのかな?)


遙は頭を両手で抱えて、俯いた。少しずつだが、戻りつつある記憶の断片。それらが全て繋ぎ合わさった時、自分は「それ」を受け入れる覚悟があるのだろうか。

自分でも良く分からないが、思い出したくなかった……無意識の内に、そう感じていたのである。GPCに収容されている期間に何があったのか、正直、知りたくない。


「頭が痛い……もう、やめよう」


暗い思考を振り払い、遙は頭から手を離して、頬をピシャリと叩いた。


「大丈夫だ。お母さんが、獣人を造りだすような研究に加担する筈がない」


遙は自分に言い聞かせるように、一言一言に力を込めて言い放った。


――ふと、遙は視線を寝台の足元へと落とす。そこには、自分の物らしい革靴が綺麗に並べて置いてあった。

何故こんな所に? 遙は革靴を一足だけ持ち上げて、鼻を近付ける。薄らと、自分の匂いが漂ってきた。


「これ、私のなんだ。……む……何で私は、靴の匂いを嗅いでるのかな? ガークみたいじゃない」


遙は顔を顰めた。獣人としての本能故に仕方の無いことかもしれないが、流石に人間の女子としての感覚が抜けた訳ではない。

とにかく、遙は革靴に足を入れて、寝台から立ち上がった。すでに意識は完全に覚醒し、眠気はすっかりなくなっていた。


「でも、これからどうしようかな。谷口さん、何処に行ったんだろう?」


遙がそう呟いた途端、ドタドタと室外の廊下から、慌しい足音が幾つも通り過ぎるのが聞こえてきた。

驚いて、思わず耳を澄ましてみると、足音に混ざって、話し声も聞こえてくる。


『……何があった?』


『珍しいことに……侵入者が忍び込んだようで……』


他にも幾人かの声が遙の耳に届いたが、上手くは聞き取れなかった。

とにかく、屋敷内に何かトラブルが発生したらしい。ちらりと、侵入者とやらの言葉が聞こえた気がしたが、遙は慌てながらもブレザーを素早く纏う。


「何があったのか分からないけど……今なら、谷口さんの目もかわせるかもしれない……」


遙は寝癖を押さえつけると、部屋の窓を開けて、下を見た。

涼風が頬を撫でる中、思ったより下が遠い。落下防止も兼ねてか、小さな庇が張り出しているが、飛び降りるのは危険だろう。

前のように雨樋を伝って降りようかとも考えたが、それも、この窓の近くには無かった。

そして、残る廊下は、大勢の使用人やボディーガードが往来している。人目を避けずに移動する事は不可能に近い。


結果的に、遙は戸惑ってしまった。知人の家(とは言っても邸宅)から人目を避けて逃げ出すなど、無論、今までに体験したことがない。


「どうしよう。気付いたらもう昼下がりだし、玲との約束も……。ガーク達へも迷惑をかけているだろうし……」


遙が途方に暮れて、頬を指で掻いた途端、廊下から、先ほどの整然とした足音とは一変、ドタドタと乱暴な足音が聞こえてきた。

明らかにボディーガードとは違った、荒い駆け足の音。賊の類かと疑いたくなるような足音であり、遙は驚いて顔を上げた。


バァン!


足音が扉の目の前で止まった瞬間、蹴破る勢いで室内に闖入してきた人物に、遙は唖然と口を開いた。


「ガ、ガーク!?」


「うおっ! な、何だよっ! うっかり敵かと思ったじゃねぇか!?」


ガークは扉に鍵を掛けて息を切らしながら、目を丸くする遙の元へと歩み寄った。

目の前で止まったかと思うと、ガークは難しそうな顔をして、遙の身体を凝視する。


「……別に身体に問題は無さそうだな。何か、悪いことはされなかったか?」


「私も良く分からないけど、出された紅茶を飲んだら、頭がボーっとなって……気が付いたら、此処に寝かされてたんだ」


「……そりゃ、睡眠薬の類だな、きっと。それにしても、紅茶飲む余裕があったってのかお前は?」


「だ、だって、出されたものを飲まないのも悪いかなーって思って……それよりも」


遙は両手の拳を握り締めながら、慌ててガークに詰め寄った。


「ガークが何で此処にいるのっ!? フェリスさんは――」


ドンドンドン!


突然、閉じられた扉から盛大なノック音が響き渡った。

恐らく、家の者達だろう。鍵を掛けていたため、すぐに扉が開くことは無かったが、ガークと遙は冷や汗が伝う顔を、互いに見つめあう。


「……いいか、遙。此処での事情はひとまずお預けだ。脱出するぞ」


「う、うん。でも、何処から?」


遙が周囲へと視線をやった途端、身体がふっと浮く感覚がした。

気が付いた時には足が地面から離れ、視線は天井を向いていた。


「悲鳴上げんなよ、遙!」


ガークは遙を抱き抱え、部屋の窓へと向けて疾走する。

まさか……ガークの考えを読んだ遙は、顔を硬直させた。


「ちょ、ちょっと、まさか――いやぁあああ!!」


ガークは何の躊躇いも無く窓から飛び降りた。先程確認した下までの高さは十メートル近かった筈……!

流石の遙もガークの忠告を無視し、痴漢にでも襲われたかのような黄色い悲鳴を喉から上げた。

地上との距離が見る見る近付く中、遙の甲高い悲鳴は青空へと吸い込まれて行った。









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