『お母さん……』
遙は白衣を纏った母の背に、小さく呼びかけた。
自宅に設けられた研究室。様々な薬品の匂いや、見慣れない用具の数々。中にはどんなことに使うのか分からないような巨大な器具も少なからず設置されている。
……理科室にも置いてある試験管やフラスコなども目に付いたが、あくまで学校で見るものだ。何しろ、此処は自宅である。一般家庭で、こんな用具を持っている所は少ないだろう。
遙は肩を竦めつつ、一歩一歩、足を進めた。中央実験台と、左手側に置かれた作業台の間から見える、母親の背を目指して。
しかし、母の方はすでに遙の小さな声に気付いていたようで、少し驚いたような顔立ちで振り向いてきた。
薄い黒縁の眼鏡をかけた、自分と同じく鳶色の瞳に黒の頭髪を持つ顔立ちは、理知的な光が見え隠れしている。
何より、同級生の母に比べると、非常に若々しい外見だった。印象深い鳶色の瞳も、まだ子供のように澄んでいて美しい。
母は、どうやら実験が一段落着いたのか、いつものように手袋を着けていない。デスクに明かりが点されているのを見ると、今は書類のまとめをしているようだ。
『どうしたの、遙?』
母が椅子から立って、こちらへと歩いてくる。遙は立ち止まり、近付いてくる母を見上げながら、ぽつんと、簡単な疑問を投げかけた。
『何をしてるの?』
子供らしい素朴な疑問に、母は軽く微笑むと、遙の頭に手を置いた。
『ん、研究をしてたのよ』
『研究? やっぱり、理科の授業みたいなものなの?』
『ふふ、そういうものに似てるかもね。でも、まだ六年生の遙には、ちょっと難しいかな?』
そこまで言った所で母は一旦背を向け、ライトが照らすデスクへと戻り、何かを手に取った。遙も慌てて追いかける。
『……ほら!』
母がしゃがみ込んで、遙の眼前に奇妙な模型を差し出した。
母の白い手に掴まれたそれは、二重螺旋に渦巻いた外線に、一つ一つの区切りごとに4本の横棒を加えられた、見慣れない模型だった。
言ってしまえば、縄梯子を雑巾のように捻って吊るしたような、珍妙な形である。当然、遙は困惑したように首を傾げるだけであった。
『何これ?』
母は苦笑しながら、右手に持った二重螺旋の構造をした模型を一瞥した。
『これはね、DNAといって、私達「命」の設計図みたいなものよ』
『設計図?』
遙の好奇心に満ちた視線を受けながら、母は二重螺旋に挟まれた横棒を指差す。
『そう、これの並び方によって、命の姿が変わるの。一人一人の姿が違うのも、この並びが違うから。
――これは皆が体の中に持っているのよ、遙も私も、あなたの肩に乗ってるラボもね』
母の声に反応したかのように、虎柄模様を持った、ラットのラボがモソモソと遙の肩から這い出てきた。
ラボが小さく鳴くと、それが合図だったかのように、母は止めていた話を続け始めた。
『今やっていたのは、このDNAに関係する研究ね。
このDNAの研究が進めば、今では治せない病気の治療法の確立や、新しい薬の開発にも役立つの。沢山の人を、救えるのよ』
『人を……救える?』
『……そう、救えるの。……でも……もしかしたら』
……私の傲慢に過ぎないかもしれない
独白のように、母は呟いた。恐らく、遙には聞こえないように言ったのであろう。非常に小さな声量であった。
その言葉と共に、母の顔に、ふと、陰りが見えた気がした。だが、遙はその表情が意味するものが、分からなかった。
遙は何とも言えない母の表情を憮然と見上げ……やがて、上目遣いになりながら、小さく口を開いた。
『……ごうまんって、何?』
遙は再び母に問うのだった。母親の暗い顔が見たくなかったから、ずっと、笑顔が見ていたかったのだから。
そして、遙の意図を察したかのように、母・瑠美奈は少しばかり困ったように眉を寄せたが、やがて和やかに笑顔をみせた。
幸せだった。本当に。――でも、あの日から……いや、いつからか、狂ってしまっていたのかもしれない。
――――――――
「嘘だ……お母さんは……」
遙はうわ言のように何度も呟いた。あの母が、優しい母が、GPCの研究に携わっているなど……
怖い。母が、獣人の研究に加担しているのならば……自分は……
裕子が伏目がちに遙を見詰め、再び口を開いた。
「……どうして、あなたがそこまでGPCを毛嫌いするようなことを仰るのかは分かりませんが」
遙は震える顔を叱咤して、視線を裕子へとやった。
「確か、入学してすぐでしたか。私と会話したことがありましたわ。その時に、東木さん自身が……」
「やめてっ!」
遙は叫び、裕子の言葉を遮った。
頭が完全に混乱していた。色んな温かい思い出が遙の脳内に駆け巡り、それが終わると、獣人として覚醒した日からの現実が突きつけられる。
拉致される時の忌まわしい記憶。蝙蝠獣人チャドと、見知らぬ女性に攫われ……そして、途切れた時間。
目覚めるまでの数週間にも及ぶ期間。その記憶は――何が原因か分からないが――恐ろしい程にすっぽり失われ、己の身に何が起きたのか、全く理解できなかった。
しかし、忘れた筈の、再び這い上がってきた一部の記憶は、想像も出来ない程の恐怖で彩られ、もはや思い出したくも無い。
だが、それ以上に恐ろしいのは、その忘れた記憶の中に母がいるかもしれないことだ……まさか、悪魔の実験に加担している母を、自分は見てしまったのだろうか?
(違う……お母さんは、あんなことをする人じゃない!)
母の性格は、自分が一番知っているつもりだった。
研究と言えど、人に害を及ぼすようなものとは程遠い、その逆だ。人の命を救うのに役立つ研究を続けていた筈である。
あんなGPCの獣人を造り出す研究……人の命を弄び、幾多の悲しみと怒りを生み出してきた実験を行っている筈が無いっ!
遙は喉から今にも上がりそうな叫喚を押し堪え、裕子へ向けて口を開く。
「でも、でも! 私にはそんな記憶は無いんだっ! 私は、そんなこと――……」
その時だった。遙は言葉を詰まらせ、一旦目を閉じてから、再度開く。
……おかしい、裕子の端整な顔が、二重に重なって見えた。視界が大きくぶれている。
「う……」
視界が揺れると同時に、身体から力が抜け、凄まじい睡魔が襲ってきた。
意識が急速に薄れる中、脳内の混乱は相変わらず続いていたが、それでも、遙は意識を繋ぐことが出来ず、ついに瞼を閉じてしまう。
瞼を閉じた、暗い視界の中、ふと、母の笑顔が浮かび、遙は無意識に呟き続けた。
(嘘だ……私の……お母さんは……)
身体がぐったりと弛緩し、遙は完全に意識を手放した。
意識が途切れる寸前、何か、裕子の笑い声のようなものが聞こえた気がしたが、今の遙にとって、それはどうでもいいことだった。
眠りに就き、遙の閉じた瞼の隙間からは、一筋の涙が伝っていた。
――――――――
「……う、ぅぅ……。……はっ!」
フェリスは汗だくになって、飛び起きた。
その動作と共に、全身へと激痛が走る。胸元を中心に、焼け付くように広がる痛みが、返って睡魔を振り払った。
「っづ! いたたたっ! ……此処は」
慌てて胸元を押さえ込み、僅かに咳き込む。……やがて鮮明になった視界に、フェリスは碧眼を瞬いた。
見覚えのあるリビング。ダイニングテーブルや、丁寧に整頓された家具の類。
周囲の様子を探る限り、遙の自宅であった。フェリスはそれを確認した途端、あからさまにほっとしたように表情を弛緩させた。
「……はぁ、何回目かしら、あの時の夢を見るの……。……あぁ、でもまだ眠い――って!」
再びソファーに横になりかけたフェリスは、睡魔を振り払って立ち上がり、素早く辺りを見回す。
……いない。此処にいるのは、自分ひとりだけだ。皆、何処に行ったのだろうか?
「何で遙とガークがいないのかしら? そういえば、朝に喧しいベルが鳴ってたような……」
考えると、どうも頭痛が激しくなった。オマケに、昨日の傷が、ずきずきと痛む。
思い出したように服の襟元を引っ張り、胸部の傷に巻かれた包帯を見た。どうやら、遙達が手当てをしてくれたらしい。
実を言えば、あの少女と戦って、ガークと再会してからの記憶が飛んでしまっていた。重傷を負ったとは言え、あっさり気絶するなど、我ながら不甲斐無い。
フェリスは苦い顔つきのまま、胸にきつく巻かれた包帯を軽く解いて見ると、傷は薄く塞がり、無論、出血は止まっていた。
脇腹の傷も同様の具合である。その他の軽い創傷に関しては、一夜の内に殆ど塞がっていた。
「やっぱり獣人ってのは、中々しぶといわねぇ……。ん?」
ちらりと視界の端に収まった、ガラステーブルの上に、一枚の紙切れが落ちていた。
ゴミの類かと見間違いそうなそれは、一回、クシャクシャに丸めて広げ直したかのように皺だらけである。フェリスは、それをおもむろにそれを拾い上げてみた。
その紙面には、汚らしいロムルスの言葉で 『てめぇばっかり、出しゃばるんじゃねぇよ!』 と、一息に書き上げたような文章が綴ってあった。
……そして、その紙切れが広げてあった隣には、一杯の水が、ガラスのコップに入れて置いてあるではないか。
言葉や文面、筆跡からして、間違い無くガークであろう。フェリスは自己流で訳しつつ、その文章を読み終えると、口元に薄らと微笑を浮かべた。
「……ボスが出しゃばらなくて、誰がついて来るのよ」
やがて微笑から、それは凄みのある笑みに変わった。フェリスはコップを荒々しく掴むと、水を思いっきり喉へと流し込む。
体内へ走る冷たい水が、一時的に鈍った獣人としての感覚を冴えさせる。フェリスは水を飲み干した瞬間、大きく息を吐き出した。
そして、肩を揺らして笑いながら、ガークの文が綴られた紙切れを中心から二つに破り、爪弾く。
「ふ、ふふふっ……上等っ! ボスより出しゃばったことを後悔させてあげるわ!!」
フェリスは猛然と独白を吐き捨て、簡単に服装を整えると、颯爽と玄関から飛び出した。
――――――――
遙が眠りに就いた後の客室。裕子は一人で椅子に座っていた。
先程の騒ぎが嘘のように静寂が広がる中、裕子の口元には冷艶な笑みが薄らと浮かんでいる。
「……東木さんが隠していることも、調べればすぐに分かる筈です」
彼女が一ヶ月近い休みを取り、その間に何があったのか……恐らく、普段の遙の様子からして、精神的なものではあるまい。
何か、容易に話すことの出来ない病気にでもかかっていたのだろう。それならば、黎峯でも最大規模を誇る我が家の医療技術に任せれば良いのだ。
……確かに無理に眠らせて検査を行うなど、罪悪感が無かった訳でもないが、治れば御の字である。
以上、裕子の勝手な解釈であった。
裕子は悠然と遙の検査結果を待っていたが、予定よりも早く、お付の侍女が客室へ入ってきた。
「お嬢様……」
侍女は簡単に会釈すると、何処か憂えた声で、静かに裕子へと呼びかけた。
その声と同時に、裕子が素早く顔を上げ、爛々と輝く瞳を侍女へと向ける。
「あら、随分と早かったですわね。東木さんの検査の結果は――」
「お嬢様」
侍女は主の言葉を、無礼と思いつつも遮り、毅然として裕子の顔を見詰めた。
「……悪戯にしても、度が過ぎていますよ。まさか、飲み物に『薬』を入れられるなんて」
裕子が息を呑む中、侍女は冷静に言葉を続ける。
「いいですか、お嬢様。薬は一つ間違えれば命さえ奪いかねないものなのです。容量を間違えれば……」
「……そんなことっ」
裕子は侍女の言葉に反論しようとしたが、途中で台詞を切ってしまった。
……複雑な表情で俯いた、若い主の姿を見ないように、侍女は一礼しつつ最後に言葉を添えた。
「東木様は別室でお休みになられております。命に別状は無いでしょうが、今後はお気を付け下さい……」
侍女は音を立てないようにしながら、静かに退室して行った。
その背を見送った裕子は、暫し立ち竦んだ。そして数分の後、背後の窓に映る己の顔を見詰め直して、小さく溜息を漏らす。
「分かっています……それでも」
そこで言葉を止め、裕子は自らも部屋を後にし、長い廊下へと足を踏み出す。
途中、何人かの使用人と顔を合わせたが、裕子はなるべく人の顔を見ないようにして、足早に廊下を去った。
中央回廊に出ると流石に人が多く、いつになく裕子の顔色が優れないのを見て、小声で話しかけてくる者も少なからずいた。
……しかし、裕子は一言で返すだけであり、ふと、気付けば、走り出しているのだった。
裕子が向かったのは、小さな個室だった。
普段は殆ど使わない部屋であり、主な用途として、たまに訪れる客人の一時的な休憩室になったり、物置と化している時もある。
もちろん、裕子自身が進んでいく部屋でもないが……彼女は部屋の前で静かに深呼吸をすると、ノックもせず、出来るだけ物音を立てずに室内へと忍び込んだ。
室内には、目だった家具も無い。他の部屋に比べると、幾分瀟洒な感じが漂っていた。
少々埃被った本棚や、微かに塗装の剥げた棚など、特に大きな家具と言えば、寝台ぐらいであろうか。
そして、部屋の左側に置かれたその寝台上に、一人の少女が眠っている。
少女――遙は眉を顰めた状態で横になっており、起きる気配は無かった。
「……東木さん」
遙の隣まで来て、裕子は呟いた。
遙は深い眠りに就いているようだった。静かな寝息が聞こえる中、裕子自身は、寝台の隣に置かれた椅子に腰をかける。
僅かに物音を立てたとは言え、遙は相変わらず眠ったままだ。恐らく、薬の量からして、最低でも二時間程は眠りに就いたままになるだろう。
その遙の様子に、裕子は不機嫌そうに眉を顰めると、やがて、椅子を蹴って立ち上がった。
「……目が覚めたら、お好きなようになさって構いませんことよ?」
その言葉を言った途端、遙が微かに呻いた。裕子はその様子を見てから、唇に微笑を広げる。
――裕子が去った後、遙の寝台の足元には、一足の革靴が置かれていた。
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