「……」


遙は天井からぶら下がった、絢爛たるシャンデリアを呆然と見詰め、引き攣った笑みを浮かべた。

エントランスホールに立っただけでも、背が冷や汗で冷たく湿る。この豪奢な空間には、流石に絶句した。

足元は黄金の刺繍が縁に縫い込まれた絨毯。それを引いて、ずっと奥まで続く回廊は、ざっと見る限りゴミ一つ落ちていない。

外装はともかく、内装はもっと派手派手しい。玄関がこの様子では、小さな小部屋や納屋にまで雅やかな雰囲気が漂っていそうである。

廊下を歩くのもはばかられそうな、何とも自分とは不釣合いな場に、遙は本気で帰りたくなった。


――だが。


「まぁ、東木さんったら、こんな所で止まられては困りますわ」


「……い、いや、でも……」


無茶なことを言う!

遙は気後れした。裕子の自宅とはいえ、どうも気が進まない。目を配らせれば、あちこちに侍女やらボディーガードの姿がウロウロしている有様だ。

こんな、王侯貴族やら各国の元首が来訪するような所に、一介の高校生が、庶民的な制服姿で……

この場を乗り切る自信が無い。胃がキリキリと痛んだ。それでも、相手が逃がしてくれる筈もなく、裕子に手を掴まれて廊下へと踏み出すこととなった。


「……今から、何処行くの?」


取り合えず、裕子に訊いてみた。何しろ、あちこちに十字路や分岐がある。初めて来た遙は、確実に迷ってしまいそうだった。

しかし、遙の不安を他所に、裕子は平然と微笑んで見せ、優雅な歩みを止めない。


「すでに東木さんを招く準備は整っておりますわ。どうぞ、私について来て下さいませ」


悠然と身を翻して進んで行く裕子の背を見詰めながら、遙は唖然と口を開いた。……そして、再び周囲を見る。

目が可笑しくなってしまいそうに煌びやかな視界の中、視線を戻した先――裕子の背が、それ以上に輝いて見えた。






――――――――






キキーッ!


やかましい警笛の音が通り過ぎた後、急ブレーキの音が長閑な歩道に木霊した。

道路にタイヤの擦り切れた黒い線を残し、軽自動車が止まった先には、一人の青年が立っている。

青年の風貌は、黒いタンクトップにズボン、頭に巻き付けた布もまた黒。更に更にその頭髪まで漆黒で染まっていた。

何ともセンスの無い服装の上、あろうことか、その青年は不機嫌そうに眉を顰めると、謝罪の言葉も無くその場を立ち去ろうとした。

当然、その姿を視界に収めた運転手は慌てて窓から顔を出し、怒号する。


「おい、ガキ! 危ねぇだろうがっ! ちゃんと左右を確認して渡れっ!!」


「んだとっ! こんな昼間からオッサン一人でうろついてるのが悪いんだろうがっ! 大体、俺は自動車如きに轢かれる程、鈍くねぇよ!」


すかさず反論する黒尽くめの青年――ガークは眉間に深い溝を作り、狼そのものの声音で唸ってみせる。

その様を見て何を思ったか、運転手は顔色を一変させ「今度から気をつけろ!」と、一言吐き捨てると、素早くその場を後にした。

ガークは車の白い後ろ姿を忌々しげに睨み、地面に唾を吐く。


「ったく。サルがオオカミに敵うとでも思ったか、オッサンはお呼びじゃねぇんだよ。……こっちはこっちで忙しいんだ」


信号を無視したことに全く頓着せず、ガークは再び走り始める。遙の乗った車を追わなければいけないのだ。

もし、この場にフェリスや遙が一緒にいれば、間違いなくガークは咎められたであろう。

しかし、周囲に誰も仲間がいないせいで、彼は信号無視や住宅街の屋根を飛び越えるなど、鳳楼都の住民に酷い迷惑をかけていた。


……無論、ガーク自身は全く気にしていないのだが。


出来る限り近道をし、障害となるコンクリート壁や家屋を飛び越える。獣人の体力ならば、このぐらい容易い。

住民から時折飛んでくる罵声や、子供のはしゃぎ声。それらの言葉に、ガークは一切耳を貸さず、ひたすら前進する。


(くそっ! ……波動の型が多過ぎて……)


フェリスと同じようにとはいかないが、ガークとて、波動を読み取れないわけでもない。何とか獣人の感覚を活かして、遙の居場所を探った。

この街一帯にいるのは、もちろん遙とガークだけではない。あらゆる人間が生活しているのだ。頭に流れ込んでくる波動の型は無数に等しい。


それでも……一旦、大きな樹木の枝に飛び乗り、ガークは周囲を見回した。初夏の日差しが降り注ぐ街並みに潜む、唯一人の少女を探して。


「何処行ったんだよ……あっちか?」


ガークは南側に、一際目立つ建物を発見した。

明らかに黎峯独特の建造物ではない。ドリス式の柱や、玄関上部に設けられたぺディメントなど、ロムルスでも見ることは稀な建物である。

そういう建物は大抵、芸術性に富んだキャリッジブルクに多く建てられているだろう。オーセルやハレーナなどの国でも、あれ程に凝った建物は見受けられないのである。


先程、遙の家にやってきた少女は、やたらと上品な雰囲気を漂わせており、ロムルスでも珍しくない、ボディーガードらしき人物も引き連れていた。

それらのことから、金持ちであることは大体予想が付く。こんな田舎町に、キャリッジブルクの建築技術を取り入れた建物が、わざわざ建ててあるなど――もしかしたら。


「……こんな和やかな街に、でっかい豪邸を建てやがって。場違いなんだよっ!!」


ガークの予想は特に根拠も無く確信に至り、樹木を颯爽と飛び降りると、巨大な建物へ向けて、疾走を開始した。






――――――――






一方、遙は巨大な客室に通され、すわり心地の良い、ソファーに腰をかけていた。

そして、ガラステーブルを挟んだ向かい側に、長い足を組んだ体勢で裕子が座っている。

彼女は普段の調子が嘘のように、無言を保っていたため、場に奇妙な沈黙が漂っていた。


周囲は相変わらずの派手派手しい装飾だらけで、せめてもの、遙は目を瞑りたくなってしまった。

部屋の左手側を占める、熟練工が丹念に作り上げたような、緻密な造型が施されたタンス。その上に飾られている花瓶には瑞々しく可憐な花が挿してあった。

壁には多様な油彩画や、色取り取りのタペストリーが掛けられている。……どれもこれも、相当な値打ちがあるものには相違無いだろう。


「……」


遙は周囲から、再び裕子側に目をやった。

彼女の背後は、壁そのものがガラスになったような、頭頂がアーチ型に湾曲した巨大な窓で、中庭と仕切りがなされている。

中庭は夏の陽光を浴びて煌く草花が、丁寧に手入れをされて佇んでいた。

庭園自体は、丁度アトリウムのように、空間の上部がガラス張りであり、眩い日差しが室内にまで入り込んでいる。

そして、その中央には神話の女神を象ったような噴水があり、燦々と輝く水を絶えることなく流し続けていた。


「どうですか、東木さん。我が家の雰囲気は?」


噴水から噴き上げられている水に、ぼんやりと目をやっていた遙は、突然の裕子の問いに慌てて顔を上げた。


「あ……大分、慣れてきたかも……」


遙は曖昧な台詞を、独白のように呟いた。しかし、言葉とは裏腹に、実際は慣れていないし、落ち着かない。

何しろ、今までにこんな邸宅に入ったこともないし、雑誌やテレビで流される情報でしか知らない。

オマケに遙の座るソファーの背後には、ボディーガードが数人、ギラギラとサングラス越しにこちらを睨みつけている(ような気がした)。

遙のような小さな客人一人に、此処まで警戒するなど、建物のだだっ広さとは違い、精神的には何とも息苦しい空間である。


遙が悶々としていると、ふと、左手側から、銀製のワゴンを押しながら、一人の侍女が入室してきた。

メイド服を纏った、清楚な印象を受ける侍女は、遙達に軽く会釈をすると、目の前のガラステーブルに一つのカップを置いた。

……紅茶だろうか? 甘みを帯びた、上品な芳香が遙の鼻腔を突く。侍女が退いた後のテーブルには、紅茶の入ったカップと、物珍しい菓子の類が揃えてあった。


紅茶と菓子は、遙側にだけ置かれており、裕子の方には何も置いていない。

侍女は遙に微かに微笑みかけると、再度会釈をして、その場を去った。


「どうぞ、お召上がりになって下さい、東木さん」


「え? で、でも……食べ物まで貰う訳には……」


「本当に遠慮がちな方ですわね」


裕子は苦笑しながら肩を竦めた。


「客人にお茶を淹れるのは、当然のことでしょう? その上、この紅茶はキャリッジブルク産のものですから、黎峯の方が口にすることは殆ど無いと思いますわ」


キャリッジブルク。

丁度、ロムルスを中心とした世界地図で、最も東に位置する国だ。芸術性に優れた、美しい街並みには、未だに古くから伝わる馬車が通っていると言う。

テレビや本でしか見たことの無い国。黎峯とは残念ながら、交流の活発ではない。そんな国で生産された紅茶というのは、確かに珍しいかもしれなかった。


遙は取り合えず、カップを手に取って、目の前まで紅茶を持ち上げてみた。

透き通るような、赤みを帯びたそれは、獣人の嗅覚でなくとも、非常に良い香りを孕んでいた。

……当然、不味そうではない。高価なものを出されて、飲まないのも悪いかと思い、遙はカップの縁に軽く唇を付けると、そのまま傾けた。


「……っ」


口内に甘みと熱が伝わり、心地良さにも似た、焼けるような感触が喉へと流れる。胃が、ぐっと熱くなった。

鼻腔を通り抜ける芳香。舌の上を撫でて行く上品な甘みが、ゆっくりと体内へと広がってゆく……


確かに、不味くない。だが、同時に美味なものとしても、遙へは伝わらなかった。普段、飲みなれていない、というのもあるかもしれない。

……何がおかしいのか……遙は眉を顰めたが、緊張していたために起きた喉の渇きを抑え切れず、そのまま紅茶を全て飲み干してしまった。


「っ……ふぅ」


遙は空になったカップを、ソーサーの上へと戻し、軽く吐息を漏らした。

そして、再び上げた視界には、裕子の満足そうな笑みが。


「ふふ……お口に合いましたか?」


「う、うん。ありがとう……」


遙は火照った頬を、右手で気にしつつ、軽く裕子に感謝を述べた。


「東木さんも少しは落ち着かれたようですし、ちょっとお話をしましょうか?」


「話?」


遙は首を傾げたが、紅茶の熱で火照った頬が、すぐに顔が蒼ざめてゆくのを感じた。

そして、遙の心中を察したかのように、裕子が話しを続ける。


「そうですわ。昨晩……先崎さんと」


「わわわわっ!!」


慌てて遙は裕子の言葉を遮った。あまりにも不自然な行動であったが、その話題にはどちらにせよ答えることが出来ない。

少し驚いたように柳眉を上げた裕子に、遙はいかにも怪しげな笑みを浮かべてしまう。


「え、えと……いやぁ……谷口さんのお家って、広いなぁ……って。あ、あはははは……」


冷や汗が首筋を伝った。あからさまな言い訳に、相手には恐らくバレバレであろう。遙の目が泳いだ。


「あら、有難う御座います。とは言え、私がこんな邸宅を建てた訳ではありませんわ。これは父が建設されたものですから」


だが、裕子は気を悪くしたような表情は見せず、微笑を浮かべて答えただけであった。その意外な彼女の行動と言葉に、遙は目を瞬く。


「谷口さんの、お父さん?」


「私の父の企業は、黎峯の医療企業の中でもトップクラスの大事業を展開しております。もちろん、少なからず、他国への進出も目覚しいですわ」


「医療、企業? そんなに凄いんだ……」


「ですが、世界をまたに駆ける、あの多国籍企業『GPC』には及びませんが」


「G……PC?」


遙は聞き慣れた名前が飛び出してきたことに、目を見開いて呟いた。裕子は一旦、話を区切って、遠い目で遙の顔を見詰める。







「そういえば……東木さんのお母様は、GPCの社員だったとお聞きしましたが――」






……え?


遙は凍りついたように思考を止めた。

……この人は、何を言っているのだろう……?




「――ッ ち、ちょっと待って!!」


急に遙は大声を上げて、席を立った。

驚く裕子を真正面から睨み付けつつ、遙はギリッと奥歯を鳴らす。


「……私のお母さんが……『あんな企業』で、働いてる? ……嘘でしょ?」


悔しげに表情を歪ませた遙は、尚も怒りに震えた口調で続ける。


「……そんなこと、絶対に違う! からかうのもいい加減にしてよっ!! 私のお母さんはっ、あんな……GPCの元でなんか、働く筈が無い!!」


激怒した遙がガラステーブルを踏み台にして、裕子の胸倉に掴みかかろうとしたのを見て、慌ててボディーガード達が遙の体を取り押さえようと動く。

ボディーガード達に羽交い締めに抱え込まれながらも、遙はジタバタと足を動かして暴れた。しかし、数人がかりで取り押さえられ、全く身動きが取れない。


「嘘だよ……そんなことっ! っ……離して!!」


再び怒号した遙の胸中で、心臓が力強く脈打った。その鼓動は徐々に速く、強くなり、鳶色の虹彩が鮮血色に染まってゆく。

と、口元を押さえ込もうとしてきたボディーガードの腕を、遙は鋭く伸びかかった牙で、躊躇いも無く咬み付いた。

獣人の顎の力は、分厚いスーツをも貫き、その牙は内側の皮膚に深々と喰い込んだ。その遙の攻撃と共に、苦悶の声が頭上から上がる。

微かに口内に広がる、鉄錆に似た、熱い血の味。遙は無意識の内に唸り声を喉から漏らす。


怒りを露にした遙の姿に畏怖を覚えつつも、裕子は比較的落ち着いた態度を装いつつ、言葉を続けた。


「……GPC、ゲノム・プロジェクト・カンパニー……。その名は、全世界でも通用するほどですわ」


遙は唸り声を止め、裕子の話に耳を傾ける。


「医療企業の中で、その規模は世界一。世界の最先端の技術を駆使して多くの人々を救っている。今ではGPCの右に出る企業もありませんわ。それに……東木さん」


裕子が溜息がちに一旦言葉を切り、憤った遙の顔を、うろんな目付きで睨み返した。


「あなたのお母様が、その偉大なGPCに勤めていることを教えて下さったのは、他でもない、東木さん、あなた自身ではありませんか」


「!!」


遙はボディーガードの腕から、力なく牙を離した。


……一瞬、何を言われたのか、よく、分からなかった。裕子のことだ、嘘を吐いても可笑しくはない。

だが、彼女の目付きは真剣だ。むしろ、こちらを疑う視線を向けている。初めて見る、裕子の疑惑の目。衝撃の事実が、脳裏に焼き付く。

遙は言葉を失った。


(……嘘、嘘だ。私は、そんなこと、知らないっ)


幼少の頃、生まれた時から、ずっと優しく接してくれていた母。

交通事故に遭って、麻酔の切れた後の痛みに呻く自分を、励まし続けてくれたのも母だ。

同じく最愛の父が――どんな理由で出て行ったのか分からないが――いなくなってから、今の今まで、これからも大きな心の支えとなる人物であった筈だ!


そして、GPCは、自分の身体を、異形へと変身する能力を植えつけた元凶。仲間達にとっても、それは同じだ。

何の罪も無い人々を拉致し、命を弄ぶような研究を裏で続けている……そんなところで、母が働いていた?

母が、生物工学、特に遺伝子工学に精通する人物であることは、娘の遙とて既知の事実。

だが、GPCで働いていたなど……そんな筈は――


「……お母さん……っ」


誰にも聞こえないほどの小さな声音で、遙は愕然と呟く。

急に突きつけられた事実に、遙は返す言葉が見つからなかった……










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