「あら? いらっしゃらないのかしら……あるいは、就寝中」


裕子は腕組みをして、不服げに唇を突き出した。

せっかく家まで来たのにも関わらず、家主である遙は現れない。無論、目の前の玄関戸が開く様子は無かった。

しかし、先程、何か物音がしたような……


裕子は小さく溜息を吐くと、大股で玄関戸へと歩み寄り、ドアノブを睨み付けた。


「……まぁいいですわ。こうなったら玄関を破壊してでもお邪魔させ」


ガチャ……


裕子が後ろに立つボディーガードに、何か指示を出そうと、振り向いた途端、玄関が音を立てて開いた。

とは言え、ドアが全開に開いた訳ではなく、ネズミが通れる程度の隙間が生じただけである。

そして、斜め二〇度程度に開いたドアの隙間から、ほんの少しばかり、赤みがかった鳶色の瞳が覗いた。


「……谷口さん」


遙が落胆したように呟く。それを知ってか知らずか、裕子は上機嫌な顔立ちになりつつも、悪戯っぽく口角を吊り上げた。


「ようやくお目覚め? ふふふ、随分と御見苦しいお姿で、夢見でも悪かったかしら?」


裕子の言葉に遙はむっと顔を顰めると、頭に出来た寝癖を押さえつけながら、ドアを完全に開ける。……信じたくは無いが、目の前にいるのは、確かに裕子だ。

純血の黎峯人ではないだろう、赤銅色の流れるような長髪。その赤に近い鳶色の瞳も、ほんの微かに灰色がかったように見える。オマケに、遙より背も高い。

幼さが僅かに残った顔立ちではあるが、その容姿は端整であり、彼女と目を合わせているうちに、遙は何処か鼻白んだ。


恐らく、相手はこちらの事情を洗いざらい吐かせるつもりで来ているのだ。

一応ガークには、家中のカーテンを閉めて、フェリスと穏便に隠れるよう指示したが……仲間を巻き込む訳にはいかない。


(……唯、自分の好奇心を満足させるために訊いてくる相手に、自分の現状を教えるわけにはいかないんだ)


遙は困惑顔になりつつも、取り合えずブレザーの襟元を正し、おずおずと微笑んでみせた。


「うん、まあ……おはようって言った方がいいかな……何か用、でも?」


淡白な台詞になりつつも、遙は裕子の赤銅色の瞳を真剣に見詰めた。

此処で引いてしまえば、相手にどんなことをさせられるか、想像出来たものではない。権力にものを言わせて突っかかられ、散々な目に遭うだろう。

そして、遙の予想通りというべきか、裕子は獲物を見つけたネコのように目を細めた。


「用なんて、決まっているじゃありませんか。東木さんを、我が家にご招待して差し上げましょうと思いまして」


「家へ?」


遙は唖然と口を開いた。殆ど予想通りではあったものの、少しばかり予想外の言葉であった。

まさか、今からこちらの家にズカズカと入り込んでくるかと思いきや、逆に自分の家へ誘うつもりとは……

実はと言えば、裕子の家には行ったことも、見たことも無い。だが、高校内の噂によれば、かなりの豪邸であると聞く。

「豪華」や「華美」と言った印象に興味はそそられないが、裕子の言葉を聞いた途端、遙の心に小さな好奇心が沸いた。

行くべきか……相手もそこまで悪気があるとは思わない。遙はほんの数秒程の間、思い悩んでしまった。


――とは言え、やはりガーク達を置いて自宅を離れる訳にはいかない。玲にも、ラボを預けるメールを送っているのだ。

それ以上に、今、自分は狙われる身。GPCの者達が、昨日の激突で諦めるとは思えない。軽率な行動を取れば、皆に迷惑がかかってしまう。

何より、重傷を負ったフェリス。彼女の今の状況が、自分の行動一つで仲間達の生死を左右してしまうということをより明確にしていた。

確かに大袈裟な表現ではあるかもしれないが、自分の置かれている状況をしっかり見詰めなおせば、当然、勝手な行動は許されないのである。


結局、遙は眉を八の字に曲げながら、ゆっくりと顔を上げた。


「え……ええと、ちょっと言い難」


「東木さん。昨晩は先崎さんとお出かけなさっていたんでしょう。……久々に帰ってこられたのですから、これを機に我が家にも是非、いらして下さいませ」


遙がまだ全て言い終わらぬ内に裕子が発した台詞に、遙は身体の筋肉が驚きに固く引き攣った。


どこからそんな情報取って来たんだ!


と、遙はすかさず突っ込みそうになったものの、慌てて口を噤む。

まさか、まさか……玲との邂逅が、裕子に見られていたとは。しかし、裕子の台詞を聞く限り、自ら赴いて情報を手に入れたという訳ではなさそうである。

恐らく、部下か何かを放って、遙の動向を視察していたのだろう。……もしかしたら、獣人と化したチャドの姿も見られていたかも知れない。

獣人と言う存在が一般人 (よりによって裕子の部下だ!) に発見されれば、事件の一言では済まないだろう。遙……いや、獣人にとって大問題である。


――とにかく。


このまま手に乗せられれば、色々とまずい。裕子のことである、玲の行動も分かっているのなら、彼女にも手を出しかねない。

第一、招待だけで終わるとは思えなかった。昨日の学校の会話から察するに、相当長い間拘束されるであろう。どんな詰問攻めが来るのか……遙は軽く身震いした。

何としても断らなければ……心の中ではそう思うのだが、素直な性格故か、言い訳に慣れていない遙にとって、話の区切りを付けるのが酷く難しく感じられた。

それでも、遙は心持ち童顔を引き締めて、裕子の顔を見詰め直す。


「え、えと……今日はちょっと、玲との用事があって、駄目なんだ。せっかくのお誘いで悪いけど……」


「あら、残念。ですが、遊びになられるなら我が家でも構いませんわ。二人だけなら、寂しいものでしょう?」


「! い、いや、それは――」


玲にまで迷惑をかければ、それこそ困りものであった。遙は明らかに動揺を示し、いよいよ言い訳が尽きてしまう。

まだ慌てて否定しかけた遙だったが、突如として、裕子の背後に控えていた男が立ちはだかった。

整調に着こなされた黒いスーツに、赤いネクタイはともかく、表情の見えない漆黒のサングラスが、陽光に反射して不敵に煌いている。

いきなり裕子との間に割って入ってきた長身の男――ボディーガードを、背の低い遙は呆然と見上げつつ、ゴクリと喉を鳴らした。


恐らく……不完全ではあるが、キメラ獣人に生まれ変わった遙にとって、例え訓練を受けた人間でも倒すことは容易いかも知れなかった。

しかし、幸か不幸か、遙自身、己の力を過信していない。目の前の相手 (一般人) に向かって牙を剥くことなど、この状況では思い浮かばなかった。


結果、裕子のボディーガードらしき者の、無言の内の威圧感に押されてしまう。遙の怖気付いた顔立ちを横目に、裕子の言葉が続いた。


「……そう長くは止めませんわ。小一時間もすれば、解放して差し上げます。少し、私に付き合って下さいますか?」


「……はい……分かりました……」


遙はがっくり肩を落として、ついに折れてしまった。

例え、此処で諦めずに口達者な裕子と舌戦を繰り広げようと、行く末はすでに見えている。もし、玲が同じ状況にあれば、上手い具合に断れそうであるが。

今はいない親友を思い浮かべ、遙は嘆息した。人に頼ってばかりいたから……あらゆる事態に逢着した時の対応が上手く出来ない、ということが、腹立たしかった。


ガーク達には悪いが、一時間程で戻れるのなら……遙は一応承諾し、裕子に付いて行く事を決めた。


「ふふ、嬉しいですわ東木さん。……では、早速、我が拙宅へ参りましょう」


裕子がパチンと指を鳴らすと、どうやって入ってきたか、いかにも高級車らしい車が狭い車道へと入ってきた。

黒光りする、単調でありながら上品さを持つ外装に、その車体は普通車よりも広く、大きい。内装もやけに整理されていて、逆に入るのを躊躇ってしまいそうだった。

しかも、ボディーガードらしき人物は遙の目の前にいる一人ではなかったらしい、車の運転席や助手席にも、同じく黒尽くめの男性が整然と座っていた。

こののどかな休日の住宅街に、こんな場違いな高級車を連れ込み、更に見慣れないボディーガード集団を引き連れて……

その様に、遙は呆れ気味に引き攣った笑みを漏らす。なんて、放胆な人だろうか。


(……ああ、どうしよう……ごめん、ガーク)


心の中で仲間に謝罪し、裕子に手を引かれつつ、遙は車の中へと押しやられた。








「うっわ!! 何処へ行く気だよ、あの馬鹿!」


少女に押されるままに、車の中へと入ってゆく遙を見て、ガークは思わず声を張り上げた。

大体、(少なくともガークから見れば) 随分と押しに弱い遙である。こんなことになるとは……ガークも予想外であった。

彼はギリギリと歯軋りをし、朝の日差しを遮っていたカーテンを乱暴に開け放つ。


「……まだGPCの刺客がいない訳じゃねぇってのに! クソッ……」


すでに車は出発しており、ガークは慌てて玄関へと走る。開けた玄関先には、無論、匂いなど残っていなかった。

すぐにでも追いかけようと、駆け出しそうになったガークだったが、その寸前で彼はふと、思い出したように家の中へと戻った。

戻ったのはリビング。そして、ガークの視線の先には、ソファーの上で依然として倒れこんでいるフェリスの姿があった。

彼女はまだ起き上がる力が無いのか、身体を横たえたまま、浅い呼吸を繰り返している。


「ちっ……こんな時に。仕方ねぇ……」


ガークは一旦キッチンへと移動し、流し台の前に立つと、溜息がちに水道の蛇口を捻った。









車で目まぐるしく変わる風景。遙は鳳楼都の町並みを、窓越しに見詰めた。

結局、裕子の車へと乗せられてしまったのだが、遙自身、かなりの不安が胸に立ち込めている。


もし、裕子の言葉で、また本能が目覚めさせられたら……獣人化してしまったら、どうなるか……

何しろ、もうあの薬はない。まだ獣人化のコントロールが上手く出来ない遙にとって、下手をすれば大惨事を招いてしまうことが目に見えていた。

――現在の所は、鼓動も緩やかに、精神は幾分落ち着いている方である。昨晩の体力の疲労が続いているからか、本能的に獣人化を解き放つことも無さそうだ。

それでも……やはり、分からない。ほんの僅かな刺激で、もう一人の『自分』は覚醒してしまうのだ。自分が思っている以上に、感情の揺れが引き起こす事態は深刻だろう。


遙は不安に身を縮めながら、小さな溜息を漏らした。玲にも、どうやって謝ればいいか……

と、自分の肩に何かが触れるのを感じて、遙は顔を上げた。


「御気分が優れません事? 東木さん」


気が付けば、裕子がこちらを見詰めてきている。それに、比較的真面目な表情で。

彼女の素直な気遣いらしく、遙は目を瞬くと、無言で頷いた。……それを見た裕子は、ふっと笑みを浮かべ、再び前を見る。


もしかしたら、悪い事はされないかもしれない。


ふと、過ぎった考え。遙は苦笑し、頬杖を突いた。……相手からちょっとした気遣いを受けただけで、安堵するという、ある意味自分は単純な性格なのだろう。

流れる風景は穏やかで、燦然と輝く太陽の光がまぶしい。霞がかったような景色に、何処か、哀愁の思いが沸きあがってきた。


(そういえば、昔はこうやって、家族でドライブしてたっけ?)


父が、まだ家を出て行っていない頃、近くの公園まで、車で連れて行ってもらったこともあった。

沢山の故郷の記憶が、皮肉にも、獣人となった今、色褪せること無く残っている。

やはり記憶が残っていると、返って辛くなる気がした。……だが、きっと、これは人間だった証なんだろう。そう言い聞かせ、遙は昂然と顎を上げた。


と、遙が顔を上げた視線の先、歩道に、一人の少女が立っていた。……いや、正確には、目が合ったのだ。

歩道には家族連れや、友人同士で会話を交わしながら歩いている人々が幾人も通り過ぎている。皆、休日を満喫しているように、微笑ましい笑みを見せていた。

しかし、目先の少女は、ぱっと見る限り一人で立っている。浮いている、と言ってもいいかも知れない。冷厳に整った顔立ちは、無表情だった。

服装も、仕事をしている母を彷彿させる、真っ白な白衣。いかにも研究者な容姿であるが、何処か、何処か異質な感じがする。


「……っ!?」


その少女との距離が一番縮まったところで、遙の全身にゾクッと、鳥肌が立った。

凄まじい悪寒が、一気に背筋を這い上がり、無意識の内に身震いをする。遙は肩を竦めて、息を呑んだ。

殺気の篭った赤い眼が、こちらを見据え、逃がすまいとしているように凝視してきている。

まるで、巨大な肉食獣に追い詰められたかのような恐ろしさ。襲い来る強烈な波動に堪えられず、遙は本能的に視線を引き剥がした。


そして、引き剥がした視線の先に、裕子の赤銅色の瞳を捕らえる。


「随分と大人しいのですね、東木さん。あまり固くならなくても宜しいですのよ。……ほら、もう我が家に着きましたし、ゆっくりくつろいで行って下さいませ」


「え、あ……うん」


返事をしつつも、先程の少女のことが気になり、遙は慌ててバックミラーを通して後方を見る。

しかし、すでに少女の姿は無かった。遙は妙な違和感を身に覚え、同時に気味悪げに唇を戦慄かせる。

一体……誰だったのだろう? 何故、これほどまでに身体があの少女を警戒するのだろうか?


「東木さん?」


「! あ、あぁ……ごめん」


意識を現実に引き戻され、遙はゆっくりと身体を起こした。緊張していたあまり、いつの間にか筋肉が強張ってしまっていたのだ。足腰が痛む。

裕子に手を引かれつつ、何とか車の外へと出ると、急に明けた眺望に、それこそ顎が落ちた。


まるで、どこぞの大統領の家かと思うほどの広大な敷地。

仮に象を十数頭ぐらい離しても、まだ隙間が開くぐらいの巨大な前庭に、遙は絶句した。

更に、その奥に聳える邸宅は、白を基調とした上品なデザインである。玄関の上に配置された豪奢なペディメントなど、黎峯では見慣れない建物だった。

ドリス式の柱が等間隔で左右に並び、建物の概観を支えている。そして、この家を取り囲む外壁は、黒い鉄柵が二メートル程の長さを持って、立ち並んでいた。


「も、もしかして、此処が……?」


遙が呆然と裕子に訊くと、彼女は婉然と微笑み、巨大な門を潜って、躊躇いも無く前庭へと踏み込んだ。


「そうですわ。……ふふ、ご遠慮なさらないで、どうぞお入り下さいませ、東木さん」


遙はボディーガードに背中を押され、ガチガチと故障寸前のロボットが歩くような動きで、一歩を踏み出す。


白く、鏡のように磨き抜かれた道が、前庭の左右を区切るように中央を走っており、それは奥の建物の玄関へと繋がっている。

その周囲は、良く手入れが施された芝生であった。そして外壁の内側には、これまた丁寧に枝葉が切り揃えられた若い樹木が大邸宅を囲んでいる。

こんな豪邸へと誘いを受けたのは、光栄と思うべきなのか……前庭へと辿り、次は裕子に手を引かれると、遙は緊張気味に身体を前へと進んだ。


(……や、やっぱり来るんじゃなかった……)


遙は額に手を当ててどっと溜息を吐き、天を仰いだ。広がった視界は、まるで遙の気持ちを嘲るように蒼い空であった……










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