雲一つ無い、鮮血を塗したような、赤い空。
そして、草木一つ生えていない、漆黒の地面。
風も流れていない。……匂いも、音も……全ての感覚が麻痺してしまったのではないかと思うような、孤独感。
何処かの草原の夕暮れ……そんな壮大さではない。何か歪で、曲折した空気。今まで見て来た風景の、どれにも当てはまらない空間である。
(……此処は?)
――得体の知れぬ空間に、遙は呆然と立っていた。
遙は辺りを見回しながら、一歩、足を踏み出してみる。
音こそ無いが、踝から下に、汚泥のような滑った感触が走った。それは液体のような、浅い沼地の上を歩いているような感覚である。
水……? そう思ったが、可笑しな事に、濡れた感触が無い。液体に足をつけたにも関わらず、遙の肉体は何の反応も示さなかった。
反応が無くて、液体のような感覚がある、と、分かるのが妙な事であった。まるで、此処で起こる事象は、全て元から知っているかのような、既視感。
焦点を結べる場所も無く、延々と紅と闇の広がる空間をざっと見渡すが、そこにはもちろん、何も無い。
出口はあるのだろうか? 自分は何故こんな所にいるのだろうか? ……そんな事は考えなかった。
(……私は此処を知っている?)
遙がぼんやりと、思考を浮かべたその時。漆黒の地に、二つの白い点が見えた。それは並んでこちらを見詰めてきている。
目だろうか? それはゆっくり立ち上がると、赤い空の光を受けて、頭頂に伸びた二つの耳が露になる。
依然として、漆黒に埋もれた『それ』の身体は視認出来ないが、遙は急に身体が何かを欲するように脈打つのを覚えた。
(……おいで?)
遙は無意識の内に、『それ』に向かって、手を差し伸べた。
その動作と共に、相手がびくりと動いた気がしたが、暫しの時間を空けて、『それ』はこちらへと歩み寄ってきた。
自分の足元にまで近付いて来た『それ』を見る。狼のような気配が感じられた。その狼のような生き物は、虚ろに開いた白い双眸で遙を見詰めていた。
遙はその姿に何故か心を打たれ、そっと手を伸ばしてみる。その狼に触れてみると、冷たい、濡れた毛を触っているような触感があった。
そして、その触れた掌を返してもう一度見てみると、黒い、タールのようなものがべっとりと付着している。
だが、あっと言う間にそのタールのような液体は、遙の掌に染み込んで行った。その途端、鼓動がぐっと高鳴り、異様な高揚感で身体が満たされる。
なんだろうか? よく分からないが、遙は両腕を大きく開き、目の前に座る狼へと囁き掛けた。
(おいで。いいよ……入ってきても)
遙が意識していない言葉が、自然と溢れた。
その途端、狼のようなものが、目を瞬き、遙の腹部に向けて飛び込む。
狼が遙の身体を突貫した! と、思ったが、その狼は遙の腹部に癒着し、見る見る内に体内へと沈み込んでいってしまった。
すっかり狼の姿が遙の体内へと消える。それは痛みも何も伴わず、不思議な感触であった。遙は狼が飛び込んできた己の腹を、手で撫でてみる。
ふと、目を周囲に配らせて見れば、今しがた取り込んだ狼のような瞳が、いくつも漆黒の地に散りばめられていた。
猫のように釣った目。あるいは、穏やかな丸い瞳。様々な白い瞳がこちらを見詰めてきている。
遙はそれらを見て、目を瞬くと、先程狼にしてやったように、再び両腕を開いた。
(みんなも……来ていいよ?)
おずおずと遙は言ってみたのだが、それらは、その言葉を待っていたかのようにこちらへ駆け寄ってきた。
小さな猫のような動物。荘厳な鬣を振るう獅子。雄々しい角を掲げた牛。そのどれもが、遙を物欲しげに見詰めてきていた。
……いや、違う。自分自身が、この獣達を欲しているのだ。遙は大きく息を吸い込むと、獣達を受け入れるように目を伏せた。
黒い獣が、次々と自分の中へと『戻ってゆく』感覚に、遙は恍惚感を見出した。やがて、周囲にいた獣達を取り込むと、遙は物憂げに溜息を吐く。
と、目の前へと視線を戻すと、またもや双眸が浮かんでいた。しかし、それはこちらを見つつも、何処か虚空を睨むような目線である。
(あなたも、おいで)
遙は語りかけたが、相手はその身を翻すと、真っ赤な空へと、黒い翼をはためかせて飛び立った。
カラス? いや、違う、鳥の類なのは間違いないが……その『鳥』は遙の言葉を無視し、彼方の虚空へと、飛び去っていった……
「う……」
意識が現実へと引き戻される。遙は朝日の光を浴びて、茫洋と視線を彷徨わせた。
白色を基調とした、淡い天井。夕べと何ら変わりの無い、机やタンスの位置。そして、隣にはラボのケージ。
何の変哲も無い自分の部屋。遙は夢の出来事を反芻し、寝惚けた視線を宙に放り出したまま、思惟に耽った。
何だったのだろう? 夢であったのは相違無いが、何故か、『獣人になってから知っていたような』風景だったのだ。
遙は己の胸に手を置く。無論、心臓が鼓動を続けていた。だが、何かが、何かが足りない気持ちがある。
「変なの……デジャヴとか、そんなものなのかな? そういえば……」
身体の痛みが消えている。昨晩、身を抉られるような痛みがあって、ガークには寝た振りをしてしまったのだが、その後もずっと眠れずにいたのだ。
もしかしたら、さっきの夢は、拒絶が起きたせいで、離れてしまっていた獣達を再度自分に取り込んだような事なのだろうか?
全く持って根拠の無い事ではあるが、ある種の心理世界なのかもしれない。遙は溜息がちに身体を起こした。
「結局、最後の鳥みたいなのは、何だったんだろう? まぁいいや、所詮夢でしかないんだから……ん?」
遙が起き上がった途端、額から、はらりと布切れが落ちた。
拾い上げて見てみると、それはほんの少し濡れている。額に手を当てると、熱が引いた感覚が伝わってきた。
……もしかして、いつの間にか、ガークが持ってきてくれたのだろうか?
気の利いた彼の行動に、遙は薄らと笑みを浮かべた。ガークの気持ちは素直に嬉しく、同時に少しばかりの恥ずかしさが沸いてくる。
遙は微笑を浮かべたまま横に視線をやると、ラボがケージ内からこちらを見ていた。
そして、自分の左手元には携帯電話。遙はその一匹と一つの両方を、交互に見つつ、ふと、視線を上にやる。
「そうだ……もし、今日、絶対不可侵区域に戻るなら……」
遙は思い浮かべた案に、目を輝かせた。
――――――――
「かぁあああ……何だって、俺が徹夜なんかしなきゃならねぇんだ」
ガークはリビングの絨毯に寝転がり、フェリスの寝顔を真下から見る。
こうやってみれば、随分と気品のある顔立ちだ。とは言っても、初めて会った時から、その感想は変わらないのだが。
目覚めてしまえば、もはや手の付けられないケダモノである。今の内に、珍しい彼女の雰囲気を見ておくのも悪くない。
ガークは再び欠伸をして、フェリスの首元に手をやった。昨晩と比べれば、かなり血脈が安定してきている。ガークはほっと胸を撫で下ろした。
「やっぱり殺しても死なねぇ奴だよな。まぁ、良かった良かった。……じゃあ、また遙の所に行こうか」
ガークは大儀そうに立ち上がり、首をぐきぐきと鳴らす。
徹夜のお陰で、すっかり気が張ってしまい、肩が凝ってしまった。フェリスは重傷であり、遙は急に倒れ込む……昨晩は考えるだけで頭痛がしたものだ。
だが、まだ安心は出来ない。フェリスは気を失ったままであり、刺客が襲ってきたら、自分ひとりでは対処出来ないだろう。その事に眉を顰めつつも、彼はリビングの出口へと向かった。
バタン!
「ぐぅが!」
大胆にドアノブを鷲掴みした瞬間、ガークは急に開いたドアに、思いっきり顔面をぶつけた。
以前にも同じような事があった気がするが、ガークは鼻頭を指で押さえながら、喉声を漏らす。
そして、涙目で開いた扉を見ると、遙がぽかんとした表情で立っているではないか。ガークは忌々しげに鼻を鳴らす。
「てめぇっ! ちゃんと確認しやがれっ!!」
「きゃ……っ! やめてよ、わざとじゃなかったんだから」
怒号するガークに前髪を掴まれ、遙は痛みに黄色い声を上げる。
と、遙の左手に持たれたマウスケージから、小さなラットが顔を出し、ガークに向かって毛を逆立てた。
「うぉ! 何だ、お前……一々ネズミを一階まで持ってくるなんて……あ、そうか、メシだな?」
「そ、それもあるけど……ちょっとね」
ガークが遙の前髪から手を離し、遙は気が抜けて溜息を吐くと、リビングにおかれたガラステーブルの上へと、ラボのケージを置く。
その動作で、遙はちらりと、ソファーの上で眠るフェリスの顔を見詰めた。昨晩は夜間だったのもあるかもしれないが、顔色が回復しているようにも見える。
「フェリスさん……大丈夫?」
「大丈夫だよ。もう、心拍数は平常まで戻ったし、今日中には目が覚めるさ」
ガークは頭の蓬髪をがしがしと掻きながら答えた。遙はほっとして、ダイニングテーブルの方へと歩む。
ラボにも食事を与えねばならず、冷蔵庫から手頃な新鮮なレタスを摘んでやり、ケージの中へと入れてやった。
遙はラボがレタスを齧るのを見詰めながら、ガラステーブルに頬杖を突く。
「……ねぇ、ガーク。ちょっと、今日に帰る前に……寄りたい所があるんだけど、良い?」
「ん? 別にフェリスも療養中だし、別に急ぐ用って程も無いから、好きにしろよ。……それより、何処へ行くんだ?」
「ほ、本当に!? 良かった……!」
遙は歓喜に瞳を輝かせると、ゴソゴソとポケットを弄り、取り出した携帯電話を開いた。
「玲の家に行くんだ。この子……ラボを預かって貰う事にしたの。お母さんも、中々帰ってこられないみたいだから……」
「ほぉ〜……なるほどね。まぁいいさ。……その代わり、今度は俺も同行させてもらうぜ? GPCの奴らが、着けて来るかもしれないからな」
ガークは鼻の下を擦りながら、ニヤリと笑った。遙はそれに苦笑して返すと、ラボのケージを開けた。
玲に渡す前に、ラボのケージも掃除しなければいけない。……取り合えず、水換えを行うつもりで、ラボの給水器に手をかけた――その時。
ピンポーン
急にインターホンのベルが鳴った。
遙はおろか、ガークまで驚く始末である。
「あれ? 誰だろう、こんな時間に……」
遙は不審に思いつつ、インターホンの受話器を取り、画面を見詰めた。
画面には、少々見づらいが、見知らぬ人物が……黒尽くめのスーツに、サングラス。いかにも怪しい。
例えるなら、どこぞの映画に出てきそうな、ボディーガードといった風采だった。
「誰だ?」
「さ、さぁ……知らない人だし、出ない方がい」
と、遙が言い掛けた途端、ボディーガードらしき男の背中を押しやって、華奢な少女が現れた。
『朝早くから失礼致しますわ〜、東木さん。ご機嫌麗』
ガチャ
遙は相手の言葉を全て聞く前に、受話器を切った。そして、引き攣った笑顔で、ぎぎぃ……と、ガークへと振り向く。
「な、なんだったんだ。あのハイテンションな馬鹿は?」
「えぇと……な、なんて言えば良いんだろう……。まさか、『あの人』が来るなんて……」
「あの人?」
遙が答える寸前に、再びベルが鳴る。いや、一回だけではなく、何度も連打である!
ピンポンピンポンピンポン……延々と続く、傍迷惑な行為。流石に耳に応え、遙とガークは困惑顔になった。
「なんだよっ! 誰なんだこの馬鹿女は!! 躾がなってねぇやつだ!」
「ガ、ガークも人の事言えない……じゃなくて! あの人は、私のクラスメイトで……谷口 裕子って言う人なの。何処かの社長の娘で……」
「履歴とかそんなのはどうでもいいっ! さっさと説得して来い! じゃないと――」
ガークが言い掛け、ソファーへと振り向く。そこで横臥しているフェリスが、微かに肩を震わせ、何かを呟いたのだ。
「フェリスさん?」
遙もガークと一緒にフェリスの元へと歩み寄る。
もしや、ようやく意識が戻ったのか……半笑いの顔で、遙がフェリスの口元へと耳を寄せると……
――うるさい!
いつもの軽々しい調子が嘘のように、冷厳な声で、彼女が呟いた。
確かに、ネコの遺伝子を取り込んだフェリスにとって、このベルの騒音は瓦礫を打ち砕く音にも等しいかもしれなかった。
あまりにも殺気立ったフェリスの様子。遙がぞっと悪寒を感じ取ると同時に、ガークが遙の襟元を掴む。
「……遙、二つに一つだ。……今から、あの外にいる馬鹿女を説得して追い返すか……」
「……追い返すか?」
神妙に話すガークに、遙は生唾を飲み込んで問い返す。
「……本気で怒ったフェリスの奴に半殺しにされるかのどっちかだ」
今度こそ、遙の喉が鳴った。……いやに真剣な様子で、ガークは続ける。
「いいか? お前は知らないかも、いや、知らない方が良いんだが。
あの暴力女、レパードですら、本気でブチ切れたフェリスに殴られ蹴られで、三日三晩生死の境を彷徨ったぐらいだ」
「レ、レパードさんが……?」
嘘かと思った。何しろ、フェリスは普段、比較的陽気であり、自分の感情で相手に当たるような人ではないと思っていたからである。
むしろ、そんな性格ならガークの方だ。しかし、今しがたフェリスの発した言葉や、汗だくで話すガークの様子に、流石に戦慄してしまう。
「でも、フェリスさんは怪我しているし……」
「んなこたぁー関係無い! フェリスの奴は一回切れたら、レオのおっさんですら止められるか分からないぐらいだ! いいか、だから」
「わ、分かったよ! もう分かったから、これ以上ベルが鳴らされたら、二つに一つじゃなくて、両方とも選ばなくちゃいけなくなるじゃない!!」
半ばヤケクソになって、遙は肩を怒らせつつ、玄関口へと向かった。
一体何の用が……この後、裕子によって、どんな不運が待っているか、今の遙には想像出来なかった。
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