人通りの無い夜道の帰路、遙と玲は学校を発ち、二人で横並びに歩いた。


空は満天の星空に、思わず見合わせた二人の顔も自然と満面の笑みが重なる。

特に遙は、喉の痞えが降りた感触に、笑みが止め処無く零れ落ちた。懊悩を繰り返した、獣人という存在にされてからの恐怖。

人間が、自分を認めてくれるのか……今まで通りに接してくれるのか……その怖さは、玲との会話のお陰で、随分と拭い去られた。

まだ残る恐怖……母はいないが、玲が認めてくれたのだから、きっと自分の事も受け入れてくれるだろう。そんな期待が心の中にある。


閑静な住宅街は、街灯が少なけれども、何処か温かさがあった。道路の左側に添って歩き、遙は久々に感じた故郷の空気を、胸いっぱいに吸い込んでみせる。


「……ふぅ、何だか、ちょっと気が抜けちゃったよ」


眠そうに瞼を擦りつつ、遙は大きな欠伸をした。


「遙ったら、単純なんだから……。でも、遙はいつまで此処にいるの?」


玲の質問に、遙は悄然と笑みを消した。確かに、此処には長くいられないことは分かっている。

まだ、GPCとの戦いに、自分との戦いにも、決着は着いていない。むしろ、始まったばかりだ。

自分が獣人である限り、此処にい続けることで玲達に危険を及ぼすということは、今日のことで嫌というほど思い知らされた。

此処には長くいられない。玲のためにも……そう思うと、胸が痛んだ。故郷なのに、ずっといられないもどかしさ。それに……


「もしかしたら、明日には出なきゃいけないだろうけど、まだ、やっていない事があるんだ」


「やっていない事?」


「うん……お母さんの事。まだ、『獣人にされて』から、会っていないんだ。連絡が着かなくて、家にも戻って来ないし……」


遙の言葉に、玲が怪訝そうな顔立ちになる。


「……遙の不安を煽るような事で悪いけど、私も遙がいない間に、家に何度か来た事があるの。……でも、瑠美奈さんがいる様子は無かったわ」


「そうなんだ……お母さん、何処にいるんだろう?」


遙は暗い空を仰いだ。ずっと見慣れた母は、今、何処にいるのか……。もう、何年も会っていないような寂寥感があった。

先刻、玲が告げた今日の日付を聞いたら、自分が攫われた日からほぼ丸一ヶ月が経っていたのだが、その間、母が家にいたのかどうか……

しかし、ラボが元気に生きていたのを見れば、確実に母が先日までいたことを明確にしている。母が今までいなければ、確実に餓死していたであろうから。


――ふと、遙の脳裏に、攫われた時の記憶が蘇る。


……もしや、GPCの者達が関与しているのでは?

現に、GPCと何の関係も無い自分が攫われたのだから、母にまでその魔手が伸びてもおかしくないだろう。遙は急に悪寒が走るのを覚えた。

そして……今此処にいる、玲にも、彼らが手を出す可能性は……




「どうしたの?」


玲の心配そうな言葉で、遙は意識が現実に舞い戻った。

遙は首を横に振り、「なんでもないよ」と、小さく返すと、人間の手に戻った自分の腕を見詰める。


玲は、『獣人』を見ている。その上、自分が話した事により、GPCの罪を、暗黒面を知ってしまったのだ。

GPCの者達は、自分達の罪を隠す為に、どんな卑怯な事も躊躇い無くするであろう。彼女に及ぶ危険も考えず、打ち明けた事……遙は自分の粗忽に呆れた。


獣人を見た一般人。彼らにとっては、有用な被験者の確保に繋がるのではないだろうか? 過ぎった考えに、思わず息を呑む。


「玲……っ! よく聞いて欲しいんだ」


「な、何、急に……?」


遙は玲の耳元に口を寄せ、小声で話し始めた。


「急にごめん。でも、これだけは言っておかなきゃ……」


「遙……」


「もしかしたら、玲の所にも、GPCの奴らが……来るかも知れないんだ。玲は、私の姿や、さっきの蝙蝠獣人を見てるから……それに」


――玲は、GPCの裏の姿を知ってしまった――


そういう前に、玲は遙を引き離し、薄らと微笑を浮かべて、こちらを見詰めていた。


「もう、本当に心配性だね。そんな事、分かってるよ」


「え?」


「だ、か、ら! 私を舐めないでよねっ! そんな獣人がホイホイ出て来ようと、私は捕まるつもりは無いわ」


玲は胸を張って大言壮語する。遙は流石に呆気にとられてしまった。

さっきのチャドの異形を見ても、命の危険に晒されても、彼女は、怯えた表情は見せない。

いや、彼女なりの気遣いだろうか? 今、玲自身が、怯えた様子を見せれば、遙が此処に滞在する時間が増えてしまう事。

それはとっとと付き返すような気持ちの表れではなく、素直に、遙の気持ちを慮っているようだった。


「大体」


遙が唖然と口を開ける中、玲が得意げに前髪を掻きあげる。


「遙の方が心配だわ。……怪我、しないで……っていうのは無理かもしれないから、大怪我は止してね?」


「玲……うん、分かった。絶対、また戻ってくるよ。今度帰ってくる時は、お土産か何か持ってこようかな?」


「ぷっ……お土産なんてあるの? 気遣わなくてもいいよ。唯、遙が無事でいてくれる事、これが約束ね」


遙は今度こそ、頬を紅潮させて、玲へと右手を差し出した。


「うん! 玲もだよ。また、一緒に……ね」


遙の返事に、玲は微笑んだ。そして、二人の視線の先には、二階建ての玲の家が見える。

遙の自宅に比べると、少々規模の小さい家ではあるが、それでも立派なものだろう。

小さい頃は、よく玲の家族にも世話になった。今ですら、家族ぐるみでの交流があるのだから……

遙にとっては、此処も見慣れた感覚のある場所だった。遙は名残惜しげに、玲の家の屋根を見詰める。


「あ、そういえば」


遙が見送る中、玲が玄関口に入る前に立ち止まり、こちらへ振り返った。


「……遙、さっきは助けてくれて有難う。それに、綺麗だったし」


「え? 何が?」


惚けた返事に、玲は呆れた。あの翼の生えた姿は、遙に間違い無かったのだが、彼女はもう忘れているのだろうか。


「だから、あの屋上から落とされた時、つば――」


「つ、唾?」


訳の分からない事を呟いた遙。玲はもう一度何か言い返そうとしたが、遙の困惑した表情を見て、口を噤む。

完全に詰まった遙の返事は、本当に何が起きたのか、知らないようだった。玲は照れ隠しに頭を掻いて、バツが悪そうに俯く。


……もう、言う必要はないだろう。これ以上、自分が何か言った所で、遙が此処に留まってくれる事はない。

そう思うと寂しかったが……自分よりももっと辛いであろう遙。その親友に、玲は持てる精一杯の笑顔で返す。


「なんでもないや。ごめん、今日は夜遅くまで付き合ってくれて。また会おうね?」


「? ううん、いいよ。こっちこそ酷い思いさせちゃって……必ず帰って来るからね!」


遙の大きな声、玲は寂寥感が吹き飛ぶのを感じた。名残惜しい親友の姿。

玲は大きく手を振ると、見慣れた玄関を開けて、照明の落とされた家の中へと入った。


すでに両親は就寝しているのか、暗い廊下には、人がいる気配が無い。

取り合えず玲は、自室へ戻る途中、廊下の壁に背中を預けると、そのままずるずると、床へへたり込む。


「……遙……無事で……戻って来てよね……」


本当は、もっと沢山言うべき事があったような気がする。

しかし、引き止めてはいけないのだろう。辛い現実に、眩暈すら覚えた。


「また、きっと……」


そう呟くと、玲は昂然と顔を上げた。その顔には、静かに、静かに涙が流れ落ちていた……






一人、夜の道に残った遙は、胸に開いた空洞に、そっと溜息を吐く。

正直、玲とは、もう少し会話を交わしたかった。今までのように、何の遠慮も無く。何しろ、次に会えるのはいつになるか分からない。

しかし、今の状況が、それを躊躇ってしまっていた。自分を取り巻く今の現状に、遙は悔しげに歯噛みする。

まだ、今なら、玲と会える……遙は震える手で、彼女の家の玄関のベルを押した――


……しかし、ベルを鳴らす寸前で指が止まった。はっと我に返った遙は、ぶんぶんと首を振る。


「駄目だ。私はまだやらなきゃいけない事があるんだ。立ち止まっていたら、いけない」


遙はそう自分に言い聞かせて、無理矢理玲の家から視線を引き剥がした。

こんな事では、彼女の気遣いを無駄にしてしまう。遙は濡れた紙のように顔を歪めると、心を落ち着かせる為に、深呼吸をした。


「……ッ!」


そして、勢いよく振り向いた先に、一人の青年が立っているを見て、遙は目を見開く。


「ガ、ガーク!?」


遙は思わず声に出してしまった。

向ける視線の先に、見慣れた真鍮の瞳が浮かんでいる。そして、彼らしからぬ事であるが、何処か躊躇いがちに、首を縮めて佇んでいた。

遙が再び何か言い掛けたのを察したか、ガークは口元に右人差し指を開けて、遙に無言の注意を飛ばす。そして、ズカズカとこちらへと歩み寄ってきた。


距離が近くなったお陰で、ガークの姿がはっきり見えたが、正直、ぎょっとなって一歩後退りしてしまった。


「な、な、なんで上半身裸でっ!?」


「馬鹿っ! 声がデカいんだよっ!! あのな、俺らだって、お前の家でぐーたら寝てた訳じゃないんだ!」


これまた説得力の無い大声で、ガークが大喝する。

遙はその勢いに辟易し、またもや後退りした。


「寝てた訳じゃないって……もしかして、その格好でこの辺りをうろついていた……とか?」


「あ、あのな。確かに夜中にこれはヤバイと思うが……って、今はそれどころじゃねぇんだっ!! 俺は良いとしてフェリスの事だよ!」


「フェリスさんが……どうかしたの?」


遙は不吉な予感を覚えて、問い返す。

……そして、暫しの沈黙の後に返ってきたガークの言葉に、身体が凍りついた。









「……」


慌てて帰って自宅には、濃い血の匂いが漂っていた。

取り合えず、リビングのソファーで気を失っているフェリスの姿を見れば、遙は流石に言葉を失ってしまった。

血塗れで横たわるフェリスの顔からは血の気が失せ、生気が感じられない。傷だらけの頬へと、指先を触れてみても、温かみが無かった。

家中の救急箱から取り出した包帯を巻き、それでも足りずに布の類まで持ち出す。それ程の怪我を負った彼女に、遙はかける言葉が見つからなかった。


「……私のせいだ。私が自分勝手な事したから……」


遙は何度目か、呟いた。涙が知らず知らずに流れ落ち、後悔となって絨毯へと染み込んで行く。

こちらの事を気遣って尾行していたフェリスとガーク。そして、GPCとの戦いに逢着した彼女は、まさに相打ちとも言うべき状況に陥っている。

……きつく巻き付けた包帯は真っ赤に染まり、その身体は鉛のように冷たく、重い。ついさっきまで、こちらを元気付けてくれた彼女の面影が、まるで無くなっていた。


目の前のソファー上で眠っている姉のような存在。先程から、目覚める気配が無い。それが遙の不安を増徴させ、心を蝕む。

時折、遙の左隣に同じく座っているガークが立ち上がり、おずおずと彼女の首元に手をやりながら、眉間に皺を刻んでいた。


「……心拍数が、平常まで戻らないな。……ま、止血はしたから、後は自然に治癒するまで、待つしかないな」


ガークが明るめの声で遙に言う。その言葉に、遙は慌てて彼に迫った。


「でも、大丈夫なのっ!? 救急車とか、呼んだ方が……」


「馬鹿かっ! 獣人だって事がバレたら、世間で大騒ぎだっ! 第一、上位種の獣人……いや、フェリスがそう簡単にくたばるかよ」


ガークが自棄になったように吐き捨てる。彼も心配なのだろう。遙は流石に口を噤み、再び座り込んだ。

――それから、どれ程の時間が過ぎただろうか? 時間が過ぎる中……フェリスは眠ったままだ。


と、前触れも無くガークが遙の背中を叩く。遙は涙で濡れた顔を上げた。


「……もう寝ろ。……お前も、疲れただろ?」


「……大丈夫だよ。それに、眠れそうに無いもの……」


遙は膝を立てた体勢で、両腕の間に顔を埋める。


「怖いんだ……自分が眠っている間に、大切な人がいなくなるなんて……絶対に、後悔してしまいそうだから……」






――お父さんは、仕事の関係で暫く帰って来られないだけよ……


五年前の早朝。母から突如として告げられた言葉に、当時小学生だった遙は、言っている意味が良く分からなかった。

母の言う通り、父が暫く家を空ける。以前から、父が仕事で家を空ける事は少なくなかったから、きっと、今回も長くて数週間ぐらいだろうと考えていた。


しかし……いくら待ち続けても、父は戻って来ない。気が付けば、半年が過ぎていた。

さすがに不安になって、母に迫った。だが、答えてくれない。父が今、何処で何をしているのか。時折、脳裏を過ぎる現実。

離婚したのか? と、訊いてみても、答えは一緒だった。そして、流れた五年の月日。

きっと、父と母は離婚したのだろう……そして、自分は母の元に引き取られた。家族なのに、別々に暮らすなんて……それは、幼い遙にとって、辛い現実であった。

どうして、父が出て行く姿を、目に焼き付けて置かなかったのだろう……父に、直接理由を訊く事が出来なかったのだろう……






その悔いを今も引き摺って……もう、大切な人が自分の目の前から、何も言わずにいなくなるなんて、絶対に嫌だ……!


「嫌なんだっ……自分の前から、大切な人がいなくなるなんて……」


遙の震えた台詞に、ガークは渋面を浮かべる。


「あのな、さっきも言ったが、フェリスは死なないさ。……仲間である俺らが、信じてやらなくてどうするんだ?」


――信じる。


今から数時間前に、フェリスから聞いた言葉……


"私も遙を信じてる……"


フェリスの言葉が蘇り、遙はぐっと唾を飲み込んだ。

そうだ、こんな時こそ、信じなければ。


「……うん、分かったよ、ガーク。……私も」


元気を取り戻しつつあった遙の言葉が、不自然にもぶつりと途切れた。ガークは何事かと、遙の方を見る。


当の遙は、きつそうに両腕を抱き、小さな呻き声を上げながら、うつ伏せで倒れこんでいた。

ガークが急いで遙の上半身を抱き起こし、顔を覗き見る。遙はガークに抱き起こされた途端、喉声を漏らした。


「ど、どうしたんだよ、お前まで……」


「ぅ……ぐ。痛い……身体が変……」


額にびっしりと脂漏を浮かべ、遙は途切れ途切れの声で言った。とてもわざとには見えない遙の様子。

さしものガークも立ち上がって、苦しげに肩を上下させる遙の身体を、軽々と持ち上げた。

遙は急に感じた浮遊感に気付き、慌ててガークに抗議する。


「! な、何するの……っ?」


「……その体たらくじゃ、自室まで歩けねぇだろ? 俺が運んで行ってやるよ」


そう言うと、ガークは苦しむ遙を抱え直しつつ、足早に二階へと向かった。









緩い勾配の階段を上り、二階の廊下へと踏み出すガーク。

初めて見る遙の家の二階。ガークは好奇心も交えて、辺りをキョロキョロと見回した。

左手には物置やトイレ。右手には、何の捻りも無く黎峯の文字で「ハルカの部屋」と書かれたボードが引っ掛かったドアがある。

色取り取りのシールや画鋲などを押し付けて仕上げられた名前ボード。それを視界に収めた途端、ガークはいきなり噴出した。


「ははっ! お前って、結構可愛い趣味があるんだな? せめてロムルスの言葉で書けよ」


「ひ、ひどいよっ! 笑うなんて……小さい頃に一生懸命作ったんだから!」


遙は顔を真っ赤にし、唸り声を上げてガークへ抵抗した。だが、忘れていた痛みが蘇ったか、程無くして、ずるずると力なくガークへ体重を預ける。

その様を見たガークは、顔を顰めて遙の部屋のドアを開けた。……そして明けた遙の自室。


足元はふわふわとした絨毯が敷かれ、部屋の右側には教科書や辞書などが並べられた机が、そして左側には広い寝台が置かれている。

それだけなら普通の女の子の部屋なのだが、窓の前に、針金の組まれたマウスケージが置いてあった。

その中には、昨晩見た虎柄のラットが一匹入っている。どうやら、いつもは遙の部屋にいるらしい。ガークはラットを警戒しつつ、寝台へと歩み寄った。


遙は依然として、ガークの胸元に爪を立てており、痛みのせいか喉声を漏らしている。一体どうしたのか分からないが、取り合えず彼は、遙を寝台の上へと降ろした。


「何か、無茶したのか?」


ガークは遙に毛布と布団を被せてやりつつ、訊いた。

遙は肩で荒い息を吐きながら、訥々と小さな声で話し始める。


「……なんだろう? ……獣人化したから、かな? そういえば、獣人化する時に、凄い痛みがあった……ような……」


熱にうだった頭で考えつつ、遙は呟いた。再生能力に関しては、自分の意思で行ったものではなかったから、気を失う程の疲労は無かったのだが。

だが、ガークは唇を突き出した形で、こちらを見ていた。


「ははーん。さては、お前、『薬』が効いている間に獣人化したんだろ? あるいは、やたらと体力が削られている時に、無理に獣人化したとか?」


「り、両方……だったと思うけど、それとこれとどう関係があるの?」


「獣人化は唯でさえ馬鹿みたいに体力削るんだぞ? 一日に何回も獣人化を繰り返せば、それこそ失神するか、酷い時は精神崩壊を引き起こすらしい」


ガークの言葉に、遙は微かに重い首を上げた。


「そ、そんなに……? だから私も……」


「お前の場合、無茶な獣人化が祟って、身体が軽い拒絶反応を引き起こしたんだろうよ。その辺の理屈は、フェリスやレオのおっさんの方が詳しいだろうがな」


ガークは大儀そうに欠伸をしつつ言い終えると、汗で濡れた遙の頭を、わしわしと撫でた。


「ま、取り合えず、今は寝ろ。明日には、回復する筈さ。今は、ちょっと痛むみたいだが……我慢できるか?」


「……何とか、ね。……ごめん、もう眠いや……。また、明日ね、ガーク……」


ガークが返事をする前に、遙は紅潮した頬を緩ませて、寝息を立て始めた。

余程疲れたのか……確かに、強力な獣人を相手に、親友を盾に取られて戦ったというのだから、相当な緊張と恐怖があったに違いない。

それでも諦めなかった遙……ガークはバツが悪そうに鼻の下を掻く。


「……そういえば、何で遙は助かったんだろうな?」


ふと、ガークは天井を仰いで、先刻の出来事を思い返した。

……あの蝙蝠の獣人の台詞を聞いた限りでは、明らかに遙達は屋上から落下した事になる。

もう一度遙を起こして訊く事も出来たが、流石にそれはしないでおいた。……今は、しっかり休ませてやらなければいけないだろう。


取り合えず遙の様子を一頻り見詰めた後、ガークは部屋を出て、気付けば、リビングへと降りていた。

フェリスも相変わらず、目覚める様子は無い。ガークは厳しい顔立ちになって、遙の言っていた両親の書斎へと足を運ぶ。


「人を守れる力……か」


ガークはぼやき、白い壁に向けて、拳の一撃を放った。

ドンッ! と、鈍い音が響き渡り、壁に罅こそ入らなかったものの、その振動は微かに部屋を揺るがせる。

ガークは依然として苦虫を噛み潰したような渋面を崩さず、視線を足元に落とした。


「何で、俺は男なのに……フェリスや、遙を護ってやれないんだ? 馬鹿野郎が……」


ガークは静かに、そして悔しげに吐き捨てた。






――――――――






「東木さんと先崎さんが? まぁまぁ、随分と余所余所しいお二人です事」


象でも通れそうなほど巨大な、アーチ型のガラス窓を前に、谷口 裕子は婉然と微笑んだ。

見詰める先には、点々と街灯の灯る街。暗い夜空は、淡い月明かりが絶えず燃え上がっている。

裕子の揶揄したような独白に、彼女の後方に控えていた、メイド服を纏った使用人は、呆れたように指摘した。


「お嬢様……あまり探られない方が……」


「うるさいですわっ! こんな真夜中に、高校生の女性が二人でどんな密会をするというのですの? ……この上なく怪しい事。そして――」


裕子は唇を白指でなぞりつつ、続ける。


「そんなに面白そうな事を、二人で秘密にするなんて、ふふふ、東木さんったら……。
いいですわ、明日は私自らが、迎えに来て差し上げます。明日は、我が家に大切な客人を招きましょう。屋敷の者に、そう伝えなさい」


裕子の灰色がかった赤い瞳が、悪戯染みて燃え上がる。

彼女の背後に佇む使用人は頭を抱えると、どっと溜息を吐いた。


……言い出したら聞かないのが、裕子の性質である。悪く取ればそれは周囲の事情を考えずに強引にも突き進むタイプだろう。




暗雲が立ち去る夜空に、高らかな笑い声が響いたのは、すでに遙が寝付いた後の事であった。










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