――血飛沫が舞う。


溢れる鮮血と共に、左肩口に走る激痛。痛みに呼吸が乱され、正確な判断力が大きく揺さぶられた。

それでも……。ペルセは顔立ち一つ変えずに、跳ね返った泥で汚れた白衣の裾を翻らせると、相手にもう一度攻撃を繰り出す。

だが、それも避けられた。しかも、すでに満身創痍の状態であろう、相手――フェリスはそのスピードを落とす所か徐々に上げつつある。


あまりにも速過ぎる。……いや、それ以前に、こちらの動きを読まれているのだろうか?

虫が通る程の隙も見せない、完全な間合いと動きの把握。そして、寸分の狂いも無い、確実な攻撃。

……波動の流れである程度、相手の繰り出す動きを判断出来るというが、まさか之ほどまでに洗練された感覚を持つ獣人がBRにもいるとは……

と、フェリスの突き出した手刀を避けた途端、ペルセは芝生に足を取られ、体勢を大きく崩す事になった。もちろん、その隙を見逃すフェリスではない。


「勝負あり……って、所かな?」


フェリスは嘯いた。――ペルセの喉元に五指の先端を突きつけつつ。

殺気立った端整な顔立ち。口元を鮮血で濡らしつつも、表情には一点の陰りも見られない。


……ペルセの表情にも依然として揺らぎが無いが、彼女の焦点が僅かにずれて見える。大量出血のせいか、意識を保っているのが精一杯な状況だろう。

ペルセは凪いだ水面のように変化の無い顔立ちを、ほんの微かに歪ませつつ、掠れ声で呟く。


「驚きました。上位種……Fタイプの中でも、ずば抜けた身体能力の持ち主ですね」


「あら、ありがと。でも、拠点に戻りさえすれば、もっと強い人はいるんだけどね。……とにかく」


フェリスは微笑を浮かべると、いつの間にか突き出されていたペルセの右腕を掴む。


「……そろそろ御終いにしてもらわなきゃ。あなたも、戦いたく無いでしょ?」


「……」


ペルセは押し黙っている。だが、その表情が一瞬だけ揺らいだ気がした。まるで、湖面に雨粒が一滴落ちたかのように。

フェリスは溜息混じりに言葉を続ける。


「分かるわ。あなたは戦いたくて戦ってるんじゃない。GPCも相当卑怯な奴らだね。罪の無い人を『操る』なんて……ね」


フェリスは言い終えると同時に、右腕を部分的に獣人化させ、ペルセの鎖骨付近を横薙ぎにした。……骨と肉を両断する不快な感触が、腕を通じて身体に染み渡る。

そして間髪を入れずに溢れた凄まじい血飛沫に、思わず眩暈さえ覚えかけた。無論、ペルセは吐血し、ぐったりと身体を弛緩させる。

だが……当然の如く地面へ倒れかけたペルセを、フェリスは素早く抱え込む。丁度、少女と視線が交わり、フェリスはバツが悪そうに苦笑した。


「……ま、今は邪魔しないでよね? 私達も、護らなければいけないものがあるから……。あなたも、いつか助けてあげるよ」


「……」


フェリスは何も答えなかった彼女を、芝生の上へと静かに横臥させた。最後の攻撃が余程効いたと見える、ペルセは焦点の定まらぬ視線を芝生に落としたまま、起き上がらなかった。

結局返答の無かった少女へ、静かに一瞥をくれてやると、フェリスは颯爽とその場を後にした。夜風の笛のような音が、河原に広がる。


……ペルセは動かなかった。動けなかったという方が正しいだろう。氷のように冷たくなった四肢は、鉛で固められたかのように重い。


「……様」


少女は掠れた声で誰かの名を独白したが、その声は誰の耳にも届かなかった。






――――――――






遙は落下する玲に向けて、大きく両腕を開き、彼女を把持した。

玲は気を失っているらしい。目を固く閉じている。遙は喉を鳴らすと、彼女の背中を強く抱き締めた。


(……玲……!)


見る見る内に近付く地面。遙は何とか体勢を変えようとするが、空中での方向転換が出来ない。

風を切って落ちていく中、死が目前に迫っている事が痛い程に良く分かった。もはや、死を回避する手段は残されていない。

堪らなく悔しいその現実に、遙は歯を食い縛り、目尻に涙を溜め込んだ。


(こんな、こんな所で……! お母さん、お父さん!!)


遙は祈るように大きく深呼吸した。どうすればいいんだろうか!? 考えれば考える程、思考は空しく砕け散ってゆく。


……玲を、自分のせいで……死なせてしまうのか? 人間ではなく、「獣人」として死ななければいけないのか!?

まだ可能性が、人間に戻れるかもしれない希望が……こんな所で途絶えて――


「嫌だっ! 嫌だそんな事!!」


遙が叫喚した。溢れ出した涙が、中空に散り、星空に溶け込んでゆく……



――と、その刹那、体中が燃え上がるように熱くなる。血液が熱を持って身体を駆け巡り、心臓もカッと燃え盛った。

束の間の恍惚感。それは獣人化や再生能力を使った際に感じるものだ。……だが、鼓動と共に生み出された熱は背中へと集約する。

感じたことのない程の熱に、遙は額にどっと汗を浮かべ、苦痛に呻いた。程なくして、骨格と肉が歪な音を立て始める。


沸騰する血液、視界が徐々に狭まる中、遙は己の変化に気付かなかった。

集まった熱が一気に放出される感触。背中に溢れた熱気を感じると共に、バサッ……と、羽音のようなものが耳に届く。


その途端、身体が不思議な浮力を持って、緩やかに夜風を浴びた気がした。澄んだ空気が肺を満たし、燃える四肢を優しくなぞる。

しかし、何が起きたのか、確認する余力はもはや残されていなかった。遙はゆっくりと瞼を下ろしていく。


(何? 何が起きたんだろうか……?)


そこまでだった。遙の意識は静かに、闇へ溶け込んでいった……













「ククッ! 落ちやがったか……いい気味さ……」


チャドは自暴自棄になったように呟く。何しろ、クロウの命令で言えば、遙の死は任務の失敗を意味するからだ。

……恐らく、あの女の事だ。このまま自分が行方を晦まそうと、GPCの追手から逃れる事は叶うまい。

ならば、堂々と戻る方が、まだ気が楽だった。逃亡の果てになぶり殺しにされるか、クロウの言う、キメラの被験体にされるか……


「キメラ獣人になるのも、クク……悪いものじゃないかもなぁ。ま、無事に生まれ変われるとは思えないけどよ」


それが彼の選択であった。どちらかと言えば、キメラ獣人となって、生きる確率のある方を選ぶ……

チャドは額から流れる血を舐めると、一歩、一歩、ふらつく足取りで屋上を後にしようとした。遙が放った渾身の一撃は、獣人の頑強な頭骨にまで激しい衝撃を与えたのである。


チャドが痛みを堪えつつ、両腕の皮膜を広げようとした――その時、夜の帳を突き破るようにして、黒い影が彼の眼前へ飛び出してきた。

それは、人ではなく、ましてや獣でもない。異形の存在……頭頂に立つ、二つの耳。腰より少し下の部分から伸びている長い体毛に覆われた尾。

そして、何よりイヌ科独特の長いマズル。黒灰色の体毛に覆われた狼の獣人が、こちらを睥睨している。


「っと……、逃げて貰っちゃ、困るぜ? 遙と、その友達を、何処にやったんだ!?」


飛び出してきた異形――狼獣人のガークが、低い唸り声と共に怒号した。真鍮に似た、金色の瞳が、チャドを凝視している。

チャドは舌打ちし、その身体をくねらせると、強靭な脚力を駆使して、別の棟の屋上へと飛び立つ。

ガークの立っている屋上よりも、少しばかり高さがある別棟の屋根にチャドは降り立ち、苛立たしげに鼻を鳴らした。


「ちっ……怪我してなきゃあ、お前如きの子犬は、なぶり殺しにしてやるんだけどな?」


「何だとっ!? もう一度言ってみろ、コラァ!!」


ガークは憤慨し、大胆にもフェンス手を掛けて、チャドのいる屋上へと飛び移ろうとした……が。

すでに、チャドはその皮膜をはためかせ、夜空へと飛び上がっていた。ガークは何か言いたげに口を開きかけたが、チャドがそれを遮るように哄笑を上げる。


「ハハ……ハルカがどうとか、言っていたな? 残念だが、もう今頃、潰れて死んでるさ。ククッ、親友と一緒に地獄へ旅立っただろうよ?」


「な、なんだと? てめぇっ! 何をしやがった!!」


ガークが焦れたように吼え返す、だが、チャドはすでに彼の手の届かない所まで飛翔していた為、ひたすら睨み付ける事しか出来なかった。


「いい気味さ。ご自慢のハナで、探し回っていろ。クク、どうせ結果は変わらないさ」


チャドは不吉な言葉を残し、荘厳な羽音と共に、遥か遠くへと飛び去って行った。ガークは彼の姿を見送る前に、慌てて足元を確認する。

まるで赤いペンキを零したように、コンクリート床が血で滑っていた。血はすでに固まりかけているものの、その臭いは強く、ガークは思わず喉声を漏らす。


「クソッ! 血かよ……遙ぁ!! 何処にいるんだっ!」


ガークが血溜まりに一歩踏み出した途端、足の肉球に違和感を覚え、右足を退かして見る。

すると、そこには血に塗れた、一着のブレザーが落ちていた。何処かで見覚えがあるそれを、ガークは急いで拾い上げ、鼻を近づける。

殆どが血の匂いに満たされていたが、微かに嗅ぎ覚えのある匂いが残っていた。ガークの脳裏に、幼い少女の顔が彷彿される。


「この匂い……遙か? まさか……嘘だろ!!」


彼は焦燥感に駆られて、左手に設けられたフェンスの下を見る。獣人と言えど夜目が利く方ではないため、無論、奈落のような地面は視認出来なかった。

更に、フェリスと違って波動を感じ取る事に欠けるガークは、気配を辿る事に頼りがちであり、血の臭いの充満したこの場では相手の匂いすらも感じれない。


「遙っ! おいっ!! 生きていたら返事しろよっ!!」


ガークは奈落の底へ向けて叫ぶ。だが、返答はない。彼は悔しげに歯軋りすると、跳躍して屋上のフェンスを飛び越える。

下手をすれば、自分も落下してしまいかねない狭い足場。ガークは顔を顰めつつ、庇を伝いながら、下へと降り始めた。






――――――――






(……あれ? 私はどうなったんだろうか?)


玲は、薄く目を開いた。そこは真っ暗な視界。

蝙蝠の怪物に放り投げられる直前までの出来事を思い出しつつも、非現実的な状況に、上手く頭が働かない。

だが、唯一、何かに抱き締められている感覚がある。それはとても温かく、ずっと抱かれていたいと思える程の安心感があった。


(遙……?)


呟きかけた親友の名。と、身体が不思議な浮遊感に包まれる。一瞬、本当に死んでしまったのかと思ったのだが、開けた視界に、目を奪われた。



――黒と、碧の色を持った翼。肩羽から雨覆いまでが漆黒に染まり、宙を舞う風切羽は美しい程の碧である。それは遙の背を中心に、優雅に羽ばたいていた。

普通の鳥とは比べ物にならないほど巨大な一対の翼は、鷹揚として空を舞い、風を取り込んで緩やかな風音を立てる。


美しいその幻想的な光景に、玲は吐息を漏らした。


「……天使……」


掠れた声で、そう声が出た。何の疑惑も無く、正直に、純粋に……





(……)





「……ん?」


玲は意識が急速に覚醒するのを覚えた。夢を見ていたのだろうか? 身体の感覚が曖昧で、頭がぐらつく。

それと同時に、何かを下敷きにしているような……玲は目を擦りながら、目を凝らしてみる。

すると、目の前には、自分を上にして仰向けに倒れる遙の姿があった。頬に血に塗れた土汚れが付いている。


「遙っ」


玲は自分がうつ伏せで遙を押し潰している事に気付き、慌ててその場を退いた。

そして、遙の背中に手を回し、上半身を抱え上げる。しかし、遙は脱力したように喉を退け反らせ、両腕をだらりと下げた。

完全に意識が無いらしく、蒼白な顔色には、殆ど生気というものが感じられない。玲は慌てて、遙の身体を揺さぶった。


「遙っ! 遙っ……!!」


何度か名前を呼びつつ、玲は遙の胸元に手を置いてみる。

緩やかな鼓動が、ブラウス越しに感じられた。注意深く観察してみると、腹部が静かに上下している。呼吸は続いていた。


「う……」


玲が呼吸を確認すると同時に、遙が呻き声を漏らした。それに合わせて、薄く瞼を開いてゆく。


「は、遙……?」


玲が引き攣った笑顔で呟くと、遙がゆっくり右腕を上げる。だが、その腕は人間のものとはかけ離れた、黒と碧の羽毛に覆われた獣腕であった。

玲は一瞬驚いたように目を丸くしたが、悲鳴は上げなかった。むしろ、何かを探すように動いている遙の腕を、ゆっくりと掴み返す。


……思ったより柔らかい。鳩や雀などの鳥類をそのまま触ったような、そんな感触である。無論、人の肌とは触感が全く違うのだが。

玲が遙の腕を掴むと同時に、遙が咳き込み、その勢いで上半身を起こした。


「げほっ! ……玲……?」


遙は起き上がり、荒い息を吐きながら周囲を見回すと、玲と視線が合う。

遙はぎょっとして、己の腕へと視線を戻した。玲の手が、自分の獣腕を掴んでいる。


「あっ! これは、その……」


遙は焦って、玲の手から自分の腕を引き離そうとする。

だが、玲は遙の腕を両手で強く掴み、逃がすまいとするように、ぐっと力を込めた。


「大丈夫だよ遙。私は、遙の事、化け物って言ったりしないから……」


「え……?」


玲の思いがけない言葉に、遙は腕の力を抜いた。

玲は遙の腕を覆う羽毛を伝うように、指を伝わせる。温かな感触に、遙は小さく溜息を吐いた。


「玲……怖くないの?」


「どうして?」


「だって、さっき……私は……」


脳裏に浮かぶ、戦いの光景。獣に意識を飲まれかけた己の姿。

人とは思えない、血肉への渇望を吐露したような、獣の咆哮。傷付く事も忘れ、戦いを求めるように狂気した姿……


玲には、どう映っていただろうか? そう思うだけで、遙は怖かったのだ。

だが、玲は困惑顔になった遙を見詰めながら、小さく噴出す。その顔には猜疑心など見て取れず、純粋に穏やかな微笑があるだけであった。


「ふふ……やっぱり遙だ。怖い筈がないじゃない? だって、遙は私を守ってくれたんだもの……」


「玲……」


遙の頬に、前触れも無く涙が流れる。

涙の勢いはすぐに最高潮に達し、遙は顔をくしゃくしゃに歪めて、玲にしがみ付いた。

怖くて怖くて堪らなかった、心の中の蟠りが、静かに昇華してゆく。

延々と滂沱する中、玲は遙の背中を優しく抱きしめた。


零れるように瞬く星空の元、親友との抱擁。夜に見える月は、淡い明かりを滲み出させている。

――満天の星を背に、遙は泣いた。心の中が澄んでゆく喜びに、ひたすら涙が零れ落ちた……







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