――突然の光景だった。

見た事も無い、人と獣を掛け合わせたような異形の怪物。そして、その怪物の前に現れた、自分の親友……遙。

昼間見た時と何ら変わらないその姿は、見慣れたものだった。少しばかり童顔染みた、それでいて強い意志の見え隠れする鳶色の瞳。

身体が弱い上に小さくて、昔はよくいじめられていたのは確かである。しかし、その苦難に立ち向かえる程に強くなった彼女は、気が付けば、ずっと傍にいてくれた……

裏に返せば穏やかで優しくて、時には驚く程の勇気のある遙――だが、今は違った。違って見えるのだ。


玲は自分の目を疑いながらも、悲鳴に近い声を絞り出す。


「遙……っ」


目の前で変貌した親友……遙は、突如として異形へと変わった腕を、ゆっくりと握り締める。そして、すぐさまこちらに向かって跳躍した。

明らかに人間離れした速さ。薄く開いた口腔に見える、鋭い犬歯。まるで夜の森林を駆ける野獣そのもののような、獰猛さと気高さを持ち合わせた構え。

遙の狙う先――正確には、自分を掴んでいる蝙蝠のような怪物へ向けての疾走であった。遙の瞳は、いつもの鳶色の瞳ではない。血色を宿す赤い眼が、鮮血のような残光を残しながら迫る。

余りにも非現実的な光景、そして、今しがた親友が上げた獣のような咆哮に、玲は戦慄した。人のものとは懸け離れた獣声に、思わず震え上がりそうになる。


「がぁあ!!」


飛び出した遙の雄叫びと共に、獣腕がチャドの眼前へと放たれる。だが、チャドはそれを鼻で笑いつつ、軽く首を回して、いとも簡単に回避してみせた。

遙の渾身の力を込めて撃った攻撃を、容易く避ける動体視力。そして、瞬間的な判断力。

遙は思いがけないチャドの能力に舌を巻きつつも、一旦相手の後方へ回り、次はその無防備な背後へ再度獣爪を突き付ける。


「!?」


しかし、またしても手応えは無かった、もとい、目の前には、標的であった筈のチャドもいなかった。

遙は焦燥感に駆られ、辺りを見回す。……すると、上空の方から、僅かな匂いが流れてくるのを感じ取って、空を仰いだ。


チャドは、その巨体からは信じられない機敏さで、宙へ跳んでいたのだ。死角である後方を取られたのにも関わらず、その敏速さと、跳躍力……遙はその能力に唖然とする。

驚く遙を眺めながら、チャドは長いマズルの口元を緩ませ、ククッ、と、小さく笑った。その闇に溶け込んだ姿は、遙の眼をも晦まし、完全に背景に擬態する。

そして、お返しとばかりに、慌てた遙の死角を奪うようにして、重量感のある足音と共に後方へと降り立った。


「キメラ獣人か……、こうやってお前と戦えるのが嬉しいぜ……。だがよぉ、思ったより足が遅いんじゃねぇか?」


チャドの揶揄するような言葉に、遙は咄嗟に反応して振り向く。その途端、左肩へ激しい衝撃が走った。

自分の持ち得る最大の反射速度で振り向いた筈だったのだが、それ以前に激痛が駆け巡る。つまり、相手の攻撃の方が速かったのだ。

衝撃が来ると同時に、骨に容赦無く響く鈍痛。全身の神経がビリビリと痺れ、体が思うように動かなくなる。

唯一の武器である、 『速さ』 にも相手に勝られ、遙は悔しさと痛みのあまり、呻きつつ動きを止めてしまった。


しかし、遙が少しでも痛みと麻痺を緩和しようと、深く息を吐き出した瞬間、チャドの巨大な蜘蛛のような掌が眼前へと迫っていた。


「っ!? ……ぐぁ!」


チャドは異形に歪んだ巨手で、遙の頭を鷲掴みにする。頭蓋も割れよとばかりに押し付けられる圧力。

骨が軋む、みしみしと嫌な音が響いた。頭骨に脳が圧迫される痛みに、呼吸が詰まり、猛烈な嘔吐感が競り上がってくる。

何とか掴んでいるチャドの手を離そうと必死にもがくが、強過ぎる力に、そして、いつ頭が握り潰されるかの恐怖。脳が激しく痛んだ衝撃に、目尻から血糸が伝う。


やがて、相手の視線の高さまで持ち上げられ、チャドは遙が苦痛と焦燥に悶える様子を、卑しくも嘲笑した。


「クク、潜在能力は半端じゃなくとも、まだまだ戦い慣れしていないようだな。それに、お前は、敵を殺すのが嫌いだろ?」


チャドの舐めるような言葉に、遙は痛みも忘れて激昂する。


「! 当たり前でしょ!? 皆、元は人間だったんだ! 私みたいに攫われて、無理矢理獣人に変えられてしまった人々……。
あなただって、そうじゃないの? GPCに捕らえられて、あんな苦痛の手術を受けさせられた上に、そんな姿になってしまって……悔しくないの!?」


チャドは遙の怒号を、丸く曲線を描いた耳を伏せて、等閑に聞き流してみせた。そして、眼を細めながら、いやらしく口端を吊り上げる。


「ククッ……ハルカ。お前はGPCの獣人たちの全てが、拉致されたヤツだと思っているのか?」


「!? そうじゃないとでも……」


「その通り。大体、俺が獣人になる前の肩書きは、ロムルスの大量殺人犯さ。……これだけ言えば、察しは付くだろ?
元々、GPCが最初に被験者に選んだ奴らは、俺みたいな犯罪者なんだよ。社会的にも、一般人には必要とされていないような者ばかりだからな」


チャドは自嘲気味に笑った。遙はチャドの台詞を反芻し、怪訝そうに眉を寄せる。


「じゃあ、何でGPCが一般人にまで手を出したの……?」


「そりゃあ、俺も知らないぜ。ま、GPCのお偉い方を見る限りじゃ、欲に眼が眩んだんだろ? 犯罪者だけじゃ、被験者が足りなかったんだよ。
……特に、キメラ獣人の被験者は、ことごとく死んじまったみたいだぜ、ハハハ!」


遙はその言葉に酷く顔を顰めた。獣人が生み出されてきた研究内での、自分の存在。

自分だって、もちろん、手術中に死亡してしまう可能性は十分にあっただろう。無論、狂獣人になる確率だって、否めない状況だった筈だ。

数多の被験者が辿り着けなかった領域――キメラ獣人の完成体に近い存在に、欠陥も無しに生まれ変われた。だが、遙自身、そんな境遇を幸運に思う事は出来なかった。

GPCがいつから獣人研究を行っているのかは定かではないが、何より、多くの人を犠牲に生み出された技術で、自分が造り変えられたというのなら……


自分という存在は、どれ程の 『罪』 を背負っているというのだろう。


増してや、そんな存在になる事など、当然の事ながら望んではいなかった。無理矢理、研究者達の罪を擦り付けられたような感覚に、遙は犬歯を立てて歯軋りをする。


「……私……私はっ……獣人になる事なんて、望んでなかった! 唯、 『人間』 として普通に生きていければ良かったんだっ! あなた達は、どれだけの人々を苦しめれば気が済むの!?」


「お前や俺のような被験者が、獣人となった事を、どう思おうが、GPCの研究員達にはどうでも良い事さ。何たって、俺らは結局 『研究材料』 に過ぎないんだからよ」


「研究材料」 。GPCの研究員達は……人の命を、生命の重さというものを、何と思っているのだろうか?

所詮、自分達の被験者の役目は、彼らにとって有用な実験結果を生み出す事。そんな私利私欲に満ちた事に、自分の命を扱われるなど……!


「ッふざけないでよ! 私はあなた達の遊び道具なんかじゃない! ……こんな、こんな事が許されて良いわけが無いよ……!!」


「……何も俺は別にお前の実験に直接関与した訳じゃねぇ。唯、お前は研究員達が欲していた価値がある存在になれた事。それは事実だろ?
俺は俺で好き勝手にやるだけだ。お前が獣人となろうが、それをどう考えようが、知った事じゃない」


チャドは心持低めの声で話しつつ、ゆっくりとその眼を嗜虐的な色で染め上げていく。……その、チャドの波動を感じてか、遙の顔が引き攣った。


「ちょっと話が逸れちまったが、俺はな……獣人になれた事を、光栄に思うぜ? 何たって、死刑にもならず、何より、力のある存在になれたんだからなぁ!」


チャドが言い放つと同時に、遙は思いっ切り地面へ叩き付けられた。視界が回転したと感じた瞬間、全身を凄まじい衝撃が貫く。コンクリートの床へ罅が走り、遙が眼を見開いた。

肋骨が爆ぜ、臓腑が熱く燃え上がり、肺内を満たしていた空気が全て吐き出された。……遅れて後頭部に走った痛みに、眼の焦点が狂い、思考までもが炸裂する。

当然のように意識を手放しかけ、遙は瞼を下ろそうとする。しかし、胸の中枢で鼓動が高鳴り、痺れた肉体に激しい血流が駆け巡った。

本当は深い眠りに落ちたいような、休眠を求める人間の意志に反して、獣は意識の覚醒を促してくる。――そして何よりも、戦いたいという、本能の欲求に、遙は眼を開いた。


「……ぐ……! 負けるかぁっ!!」


遙は相対する意志を無理に絡め合わせ、己を叱咤する。キメラ特有の再生能力で、ある程度身体の修復を終えると、自然と痛みが引き、意識ははっきりした。

身体の自由が取り戻されると、遙は素早く起き上がり、再度チャドへ肉迫する。突き出した右腕が、チャドの左肩を掠り、微かな血飛沫をあげた。


「おっと……舐めて掛かっていたら、意外とやるじゃないか。再生能力だけは半端じゃねぇな。だが、こっちに 『これ』 がいる事を、忘れてもらっちゃあ、困るぜ?」


チャドが、思い出したように玲を持ち上げた。それによって遙は再び攻撃の手を止めてしまう事となり、暫しその場に立ち竦む。

自分が視線を向ける先――静止したこちらを見詰めてくる玲の顔が、月光をそのまま映したように青褪めている。玲は何か言いたげに口を開きかけたが、彼女はぐっと口を噤んだ。


「玲っ……」


遙が力無く友の名を呼ぶ。彼女の救出する事を考えて、チャドとの戦いに身を投じた筈が、いつのまにか相手を倒す事に集中してしまっていた。

獣人化による、心情の変化。もとい、玲は遙が獣人となった理由を知らない。相手の気持ちを考えれば、今、玲は口には出さずとも、その心中は複雑だろう。

目の前の非現実な光景。チャドのような巨大で異形の獣人。そして、自分の今の姿……


(……くそっ……)


遙は唇を噛んだ。何とも言えない悔恨の念が孕まれる。出来れば、玲にはこんな姿、見せたくなかった。

出来る事なら、話し合いだけで済ませられれば……心の何処かでそう思っていた。明らかに人間離れした身体能力、血に彩られた本能、異形の容姿。

獣人という存在や、経緯すら話していない今は、彼女の視線に疑惑が含まれていても不思議ではない。遙は半眼になって、俯く。


――普通の人が、獣人を認めてくれるのか? 同じ人間として、見てくれるのか?


この時、遙の心に再び恐怖が蘇った。化け物扱いされる恐怖。異形の者として、故郷からも追放される悲しさ。

それが親友なら、尚更だった。怖くて、怖くて……玲と眼を合わせる事が出来ず、思わず戦意を削いでしまう。

決めた筈の覚悟が大きく揺らぎ始め、遙は構えかけていた腕を、だらりと垂れてしまった。


「おや? どうしたどうした、ハルカぁ。人質がいると、やっぱり動けないものなんだなぁ? 甘いぜ……そんなんで俺らと戦おうとするんだからなっ!!」


「ぐっ!」


唐突にチャドの右手から繰り出された打撃に、遙は鞠のように軽々と吹き飛ばされた。

下顎を直撃した攻撃は、確実に神経を鈍らせる。意識が霞み、そのままコンクリートへ仰向けに倒れ込んだ。

舌を噛んでしまったせいで、唇の隙間から血が流れ、地面へ染み込んでいく。その様をぼんやりと見詰めながら、遙は必死に思考を巡らせた。


(駄目だ、こんな時に迷っていたら……!)


心の葛藤を振り払い、意識を集中する。しかし、身体の修復も、少しずつスピードと効力が落ちている気がした。

鼓動は相変わらず大きく脈打ってはいるが、傷の修復に必要なのは、体力。身体が疲労していくと共に、再生能力は確実に弱まっている。

一方、相手のチャドは、まだ余力が有り余っているように見えた。簡単にその身体を見回す限り、傷も殆ど負っていないのだ。


どうすれば……玲を助けられる? 今はまだ、チャドは戯れに自分を弄んでいるに過ぎない。本気になれば、すぐにでも玲を殺してしまう気だ。

獣人化しても、こんな有様で……力が足りないんだ、もっともっと強大な力が欲しい、親友を救える程の力がっ!


遙が口を開けて牙を剥いた。開いたその口腔からは、静かな唸り声が響く。

……例え、体力を消耗していても、獣達はいつも欲求を満たすチャンスを窺っているようだった。しかし、遙はそれを解き放たない。

力は欲しい。しかし、 「暴走」 を引き起こしてしまえば、理性を介入させるような余裕は無いだろう。玲までをも殺めかねないその手段……遙は歯痒そうに渋面を浮かべた。

更に、血が拍出されると同時に感じる快楽に、少しずつ理性が侵食されている事が分かる。これ以上、獣人化を続けていれば、理性を崩壊させてしまいそうであった。

終了が近付きつつある 「人間の思考」 を持続出来る時間。完全な暴走以前に、理性と本能が葛藤するような状況になっただけで、チャドに倒されてしまうだろう。


「……もう終わりか?」


以前として倒れた遙を睥睨しながら、チャドは嘯くと、ゆっくりと少女の近くへ歩み寄る。

チャドの巨大なシルエットが、遙の眼前に見えた。赤い双眸が、こちらをじっと見詰めてきている。


「まぁいいさ。獣人といえど、今のお前じゃ、そこまでって事だ。……キメラ獣人という化け物だろうと、な」


遙が深い呼吸を繰り返しながら、心の中で現実を否定する。……まだ、まだ戦える筈だ!

そう思った瞬間に、血が沸騰した。体内の獣が敗北を認めさせず、身体の自由をこちらへよこせと、遙の耳に声ならぬ声を響かせる。

遙は当然、首を振ってその思考を振り払うが、もはや、手段は残されていない。しかし、残された手段は、己のみの生命維持となるかもしれないのだ!


「が、ぐあぁぁぁああ!!」


どうしようもない状況。遙は、怒りの捌け口に、凄まじい咆哮を上げた。肺に取り戻されていた空気を全て吐き出し、夜空に向けて吼える。

――と、その咆哮を聞いて、玲が身動ぎし、チャドは彼女の方へ視線を移す。……玲は呆然とした顔立ちをしていた。


「ククッ、どうした嬢ちゃんよ。……あの腕を見れば、あんた達一般人は、化け物と思えずにはいられないだろう? あんな 『化け物』 を、まだ親友と呼びたいか?」


「……っ」


遙は咆哮を止め、思わず体を震わせた。獣の本能に押されて、意識が掠れて行く中、記憶が走馬灯のように蘇って来る。


ずっと、ずっと幼い頃から遊んで、支え合って、時には思いっ切り喧嘩してしまった事だってあった。

お互い違うクラスに入ろうが、毎日のように会話をして過ごした日々。両親が不在な事が多かった遙にとって、玲の存在は大きな心の支えだった。

どんなに離れても、隠し事があっても、途絶える事は無いであろう絆。それは獣人となっても信じていたい!


「……遙」


玲の表情は上手く窺えない。だが、その声は震えていた。明らかに動揺したような、葛藤の秘められた口調。


「玲! 私はっ……私は……玲を傷付けるつもりはないっ! こんな姿になってしまったけど、ずっと、友達だって、思ってるか……ら」


遙が必死に喉から声を絞り出す。心の中は、信じて欲しい、という気持ちでいっぱいだった。自分の立場を驕ったような気持ちだろうが、それでもだ。

獣人となった自分を全部受け入れてくれとは言わないから、今の気持ちに偽りが無い事だけは、信じて欲しい。知らず知らずに零れた涙を拭う事もせずに、遙は叫んだ。


「信じ……てっ」


掠れ声で発した最後の言葉は、小さく、殆ど聞こえないものだった。しかし、その言葉は、確実に親友の耳に届く。


(遙……)


玲は僅かに顔を上げ、遙の倒れている姿を視界に納める。

見た事も無い両腕。突如として上げた咆哮。まるで獣のような戦い方。……でも、今の遙は……


チャドが苦悩する遙を一瞥し、玲へと再び視線を戻した。彼女は静かに俯いている。チャドは満足そうな笑みを浮かべた。


「どうだ? 二枚舌の上手なハルカの事だ。例え親友だろうが、こんな化け物の言う事を信じたくはないだろ?」


チャドの残酷な言葉に、遙は何も言えずに玲の決断を待った。 「信じる」 という言葉。それが、嘘ではない事を、祈って……。

――程無くして、玲は音も無く顔を上げる。口を真一文字に引き結んで、眦を決した顔立ちが、凛とした雰囲気を漂わせていた。


「……の」


「ん? なんだ、もっとはっきり言ってみな?」


玲はその瞬間、決然として目を吊り上げ、チャドへ向けて叫んだ。


「……このッ! 化け物蝙蝠!!」


「なっ……ぐぎ!?」


そして、罵声と共にまたもや飛んできた玲の蹴りに、チャドは高い悲鳴を上げた。

硬い革靴の底で蹴られたのは、思ったより衝撃が強かったらしく、鼻面には僅かに靴痕が付いている。


「遙を……親友を侮辱しないでよっ! 例え遙がどんな姿でも、私達は親友だもの! あんたの戯言如きで、崩れる絆じゃない!!」


遙は玲の迷い無き言葉に、目を見開いた。じわじわと歓喜が蘇ってくるような、身体中に力が満ち渡る。

ドクン。心臓が低く脈打つ。それは獣人化のように激しいものではない。恍惚感も無ければ、意識を高揚させるものでもない。

だが、温かかった。冷めた肉体を駆け巡る、柔らかな血脈。……遙は開いていた両手を、ゆっくりと、そして力強く握り締めた。


身体が軽い。まるで、羽のように。――今なら――




チャドは静脈の浮いた顔に、凄まじい怒りの形相を浮かべた。鋭利な牙列が、静かに開かれる。

思い通りにならなかった事に憤慨しているのだろうか? 玲に向けて、激しい唸り声が響く。それこそ、野獣のような醜態だった。


「ガキが! 殺してやる!!」


怒声と共にチャドの口が、玲の喉笛目掛けて突き出された。彼女は流石に息を呑んで、きつく瞑目する。

すぐに来るであろう、激痛に……そして、「死」に。そう感じると、身体が強張り、閉じた目尻に涙が溜まった。


(遙!!)


親友の名を、無意識の内に想起し、玲は心の中で絶叫した――


……だが、その攻撃は、いつまで経ってもこない。玲は息を殺しつつ、ゆっくり瞼を上げ始めた。

同時に、薄く開いた視界を埋め尽くす、凄まじい血飛沫。


「……っ!? ガ……ァ……な、んだ……っ!」


おぞましい程の血飛沫が収束し始めると、渋面を浮かべた遙の姿が現れる。つい先程まで、コンクリートの床で倒れていたというのにも関わらず。

玲にも赤黒い返り血が点々と付着する中、遙の指先は、チャドの眉間へと集約していた。深く喰い込んだ指先は、真っ赤な血に塗れている。

当然、その傷はチャドに相当な痛みをもたらした。激痛は、チャドの戦意を急速に失わせるには十分であり、出血は彼の意識をもぎ取る。


「ガ……ゥ……ア」


チャドが苦悶の声を絞り出す。遙の小さな肢体は、全身にその返り血を浴びていた。ブラウスは赤く染まり、突き立てている右腕がわなわなと震えている。


「は、遙っ……」


玲の悲鳴に近い声に、遙は悲しそうに顔を歪めた後、淡く微笑んだ。


「……大丈夫……玲は、傷付けないって、言ったでしょ……?」


とても、穏やかな口調と微笑み。先程までの、殺気立った顔立ちが拭ったように消えていた。

その顔や口調は、 「人間」 の遙と何ら変わりは無い。穏和な光の零れる鳶色の瞳が、心持ち滲んで見えた。


次の瞬間、遙の怒号と共に、獣爪が素早く引き抜かれ、チャドが苦痛に咆哮をあげた。

更に溢れる血の波に、玲は思わず目を逸らす。鉄錆に似た、生臭い血の臭いが、屋上一帯に充満していた。


遙の手によって深く傷付けられた額を押さえながら、夜空にチャドの絶叫が木霊する。

血走った眼が、狂気に満ちていた。余程の痛みと怒りに、チャドはまるで精神が破綻したように吼え狂う。


「グガアアアァァ!! こ、このガキィ! 調子に乗りやがって……」


「玲を……離してあげて。そうすれば、もう手を出さないっ!」


遙が再度チャドの額に爪を突き立てつつ、怒鳴った。チャドは痛みに憤慨した様子で、悔しげな光が残虐な双眸に見て取れる。

だが、次の瞬間、チャドは表情を一変させ、雷のような哄笑を上げた。学校中のガラスが割れんばかりの勢いで、不吉な笑い声を響かせる。


「ク、クク……ハハハハ!! やはり甘いガキだ。それだけの力を秘めているのに、本当に勿体無い奴だぜ……
俺たち、GPC側に来れば、お前の望むだけ血肉を漁れるだろうし、その潜在能力ならば、もっと強力な存在に生まれ変われるってのによ……」


チャドは笑みの残滓を怪しげに残しつつ、続ける。


「結局、お前は道を誤ったのさ。……そんなに、友達が恋しいのなら、取りに行きやがれっ!!」


突如、チャドが玲を掴んでいた左手を中空へと振り回し、玲を屋上から放擲する。

その思いがけない残虐な光景に、遙が絶句し、玲は迫りくる恐怖に、悲鳴を上げた。


「い、いやあぁぁぁぁっ!!」


屋上から地面までは、軽く二十メートルはあるだろう。ましてや、下はコンクリートである。このまま落下すれば、玲の命はない!

遙は眼を見開き、嘲弄するチャドから手を引くと、喉も潰れる程の絶叫と共に、フェンスを越えた。

無論、下にはコンクリートの地面のみ。獣人といえど、空を飛ぶ術などは、当然無い。

……まさに捨て身の行動だった。だが、今は自分がどうなろうと、そんな事を考える暇は無かった。


「玲ーーーーーーッ!!」


間違い無く訪れる落下の衝撃。自分の命がどうなろうと……それでも、大切な、親友を護らなければいけない!

命を投げ打つ覚悟で放った遙の絶叫は、校舎の下に蔓延る闇へと、ゆっくり吸い込まれていった……










Back Novel top Next