「ぐ……なん、で……獣人化が……っ」


遙は重々しい呼吸を繰り返しつつ、喘いだ。狂獣人とやらと戦った時は、本能的な獣人化が出来た筈……

心中に渦巻く焦燥、恐怖。時間の経過に逆らい、和らぐ事の無い苦痛が、それらの感情を更に相乗させた。

今、自分の無防備な背後に立っているであろう、蝙蝠獣人チャド。そして、彼に捕らえられている玲。

ガークとフェリスは此処にはいない。ましてや、絶対不可侵区域にいるであろうレオフォンやレパードも助けに入らない。

……遙はこの現状に立たされて、初めての絶望感が脳裏を過ぎった。


「離してよっ! この変態蝙蝠っ!! 大体、あんたは何なのよ!!」


「おおぅ? 中々根性のある嬢ちゃんだな。俺達みたいな獣人を目の当たりにして……ハルカは泣いてビビっていたか、クク」


玲とチャドの会話が聞こえ、遙は掌をぐっと握り締めた。


一ヶ月程前に拉致された時の記憶。獣人という異形を目の当たりにして、体は言う事を利く所か、逆に硬直し、本能的に涙が溢れた。

そんな情けない自分に比べたら、玲は初めて見るであろう獣人に対して、恐怖という感情を抱いていないような罵声を飛ばしている。

『人間』である玲が必死に抵抗している中、無様に倒されている自分が悔しくて、情けなくて……チャドと同じ『獣人』である自分が休んでいる場合じゃない。動かなければ……!


体を微かに捩り、遙は僅かに動いただけで激痛の走る腹部に右手を回した。食い縛った歯の隙間を通って、血の雫が地面へ零れ落ちる。

腹筋にほんの小さな力が掛かるだけで、血の味のする胃液が容赦無く込み上げた。遙は腹部の鈍痛に呻き声を上げ、再び体をコンクリート床へ預ける事となる。

……四苦八苦しつつ、何とか起き上がろうとする遙へ、チャドの視線がゆっくり戻された。


「ぐ……ぅ、ぁ……」


「クク……ようやく動く気になったか? だがなぁ……そんな動きじゃ、俺には掠り傷一つ付けられないぜ」


チャドの右腕が、鷹揚として振り翳される。だが、当然の事、遙はその行動に気付かない。

玲が息を呑んだ次の瞬間、起き上がりかけた遙の背中が、鋭い爪を供えた獣腕に引き裂かれた。


「うぐあぁぁぁっ!!」


ずばっ! と、背面の肉を深く引き裂かれ、突如として走った激痛に、遙は喉が潰れる勢いで叫喚する。

噴出した血霧と共に、纏っていた白いブラウスが破れ、切れ端が中空を舞った。そしてそれは、力尽きた蝶のように、コンクリート床の上へ音も無く落ちる。

剥き出しになった背中に、凍える夜風が吹き付けた。起き上がりかけていた遙は、喀血を繰り返しつつ、青褪めた頬を冷たい床へと擦りつける。

自分の背中には、過去のトラウマとなった事故の古傷もあるのだ。背中を焼く、灼熱の疼痛……その痛みは凄まじい。

深々と抉られた四筋の傷口から止め処無く血液が流れ、床を伝って赤黒い血溜まりを広がらせる。

遙の背中の裂傷から流れ出る鮮血。……あまりにも突然の、そして残酷なその光景に、玲は顔を引き攣らせた。


「は、遙っ!」


玲が甲高い声で叫ぶと同時に、チャドのごわごわとした獣足が、遙の小さな背を無造作に踏み付けた。遙は絶叫し、咳と共に血を吐き出す。

みしり……肋骨が圧迫され、心臓が早く脈打ち、肺腑が悲鳴を上げた。自分を踏み付けるチャドの体重が重過ぎて、遙は抵抗も出来ずにその苦痛に耐えるよう蹲る。

容赦無く蹂躙される、己の体。言いようの無い恐怖と悔しさ。力の無い自分が余りに恨めしく、沸々と怒りが滾り出してきた。

チャドは遙の苦痛に忍ぶ様子を、愉快そうに見詰めては、耳障りな哄笑を上げる。


「ククッ……嬢ちゃん、安心しな。こいつはこの程度の傷で死ぬようには造られて無いのさ。恐らく、四肢を全部もぎ取られようが生きているようなヤツだよ」


「っ……あんたと遙を一緒にしないでよっ!!」


玲は怒りに彩られた顔立ちで、笑うチャドを睥睨したと思うと、動かせる両足を伸ばし、彼の鼻面を思いっ切り蹴り上げる。

チャドは予想外の彼女の攻撃に、目を丸くし、鼻面に突如として走った痛みに顔を俯かせた。


「グギャッ!? やりやがったな、このガキ……殺されたいのか!?」


「……殺すなんて、よくもそんな酷い言葉が軽々と出るものねっ! この化け物!!」


玲の発した言葉に、意識が朦朧としていた遙の瞼が、ぐっと見開かれる。だが、開いた視界は、真紅。いつの間にか生じていた、額の創傷からの出血で、目の前が良く見えない。


(玲……)


微かに開いた唇からは、幽し声が出るのみ。……大量の出血と痛みで、力が枯渇しかけていた。それでも自分が今戦わなければいけない。

手足を僅かに動かす遙に、チャドも感じるものがあったのか、高らかに嘲笑し、更に遙へ体重を掛ける。


「『化け物』? ハハハ!! 面白い事を言う嬢ちゃんだな……。俺が化け物なら、ハルカ、お前も化け物だってことだろうな……クク、可哀想になぁ」


「?」


「ま、一般人だからな。俺等の事は知らないで当たり前って所か。……クク、良い事を教えてやろう。このハルカも、今の『俺』と変わらない姿、つまり、化け物みたいな姿になるんだぜ?」


玲の眉が怪訝そうに歪むと同時に、遙がチャドの足を押し上げて、必死に動こうとする。しかし、力がまるで入らない。

チャドはその光景を面白がるように、遙をゆっくり蹂躙した。遙は呻き声と共に、再び地面に顔を押し付けられ、荒い息を吐き出す。


「まぁ、残念ながら、今のハルカは変身出来ないみたいなんだがな。クク、どんな手品を使ったか分からないが、『獣の匂い』がプッツリと途切れてやがる」


匂い? 遙は茫洋とした夜の闇を見詰めながら、昼間の記憶を手繰る。もしかして……


――昼間、暴走しそうになった時、服用したカプセル剤。

まさか……あれの効力が未だに続いているのだろうか。だから、いつもなら瞬時に回復する傷も治癒しない。

そして、この状況では決定的な打撃……感情が揺れても、獣人化出来ない! もしも、その薬のせいで獣人化が利かないのなら、どうすればいい? 

はたと思い出せば……フェリスが、十時間程の効果があると……。あれを服用したのが、今日の二時限目の授業……


だが、あの時は確か十一時近くだった気がする。ならば、もう効力は切れかけている筈だ!




「ぐぅ……がぁああっ!」


遙が急に吼えた。白い喉を反らし、残る力を振り絞るように獣声を上げる。

……しかし、獣人化は訪れない。途方も無い苛立ちが募った。何故、自分が呼ぶ時には獣達は出て来てくれないのだろう!?

いつもは今か今かと、覚醒のチャンスを窺っているもう一人の自分。言う事を聞いてくれない悔しさ、怒り。

遙の上げた獣声を聞き止めた玲は、少しばかり肩を揺らした。チャドは、二人の様子を交互に見て、鼻を鳴らす。


「クク、自分の『半身』が出せない事が悔しいのか、ハルカ? どうせ無駄さ。今のお前じゃ、獣人化した所で俺には敵わねぇよ。
……さてさて、嬢ちゃんも、俺等の事を知ってしまったからには、逃がす訳にはいかないなぁ。……唯、殺すのもイマイチ面白くない」


チャドはニヤニヤと笑いながら、眉間に皺を寄せて睨みつけてくる玲の体を、ゆっくりと頭から足まで舐めるように見詰める。


「……そうだな。クロウ様が、確か、良い被験体を欲しがっていた。活きの良い、キメラ獣人の被験体を……な?
ククッ……運が良ければ俺等みたいな『獣人』になれるし、逆に運が悪けりゃ、死体か狂獣人に成り果てるだろうな。……ま、大抵は後者になっちまうのがオチだろうよ?」


「……っ!? それはッ……駄目……だッ!!」


遙が途切れ途切れの声で叫んだ。獣人化手術、数日前に戦った狂獣人の醜悪な容姿……それらの光景が脳内に流れ込んでくる。

GPCの研究員達に、まるで『物』として扱われるような無念さ、そして逃れる事の出来ない手術の激痛。

ましてや、元は自分と同じ人であっただろう、獣と人の肉体が混同し、醜く溶解してしまった狂獣人。

崩壊した肉体に、そのような姿になっても尽きる事の無い命。相手の区別も付かない程に破綻した精神。もはや命と呼べる存在ではなかった。


そして、数日前のガークとフェリスの台詞も、ゆっくりと遙の思考に再生される。


"……俺達唯の獣人ですら、手術時の遺伝子変化の影響で死んじまう確率が高いんだ……"


"だけど、キメラは更に上に行った存在なの。人間と獣達の適合と同時に、体内に組み込む獣遺伝子同士の拒絶反応……"


ゾクッと、背筋の凍る感覚。遙は呼吸を荒らげて、チャドに何か叫ぼうとするが、呂律が上手く回らない。

キメラ獣人……成功体と呼べる存在は、未だに無い。そして、自分が狙われている理由は、その成功体に近い存在であるから……

だが、例え奇跡と呼べる存在になれようが、右も左も分からぬ内に拉致され、人間としての生活を奪われた、悲しみや怒りは、消える事を知らない!


あんな苦痛を、獣人にされた絶望を……彼女に感じさせる訳には、見殺しにする訳にはいかなかった。――玲を、助けなければ!


「うぐぅ……っ……動け……っ!」


遙は身を捩り、燃え上がる苦痛を我慢しつつもがいた。だが、チャドの体重が重過ぎる。人間に近い今の状態では、力量の差は懸隔も甚だしい。


自分は……なんて無力なんだろう?

自分のせいで……また、人を危険に晒してしまうのか? 自分のわがままで、付き合ってくれた親友の未来を、人として生きる時間を、壊してしまうのか!?

キメラ獣人は、未知の獣人種……それに、自分はその成功体とも呼べる獣人だと言われているのに……。現に、自分は半獣人化状態で、GPCの刺客を倒す事も出来た。

……だが、こんな肝心な時に体は動かない。獣人となって、自分は何を手に入れたというのだろう! 例え、キメラ獣人の力と言えど、何の役にも立たないじゃないか!




「遙! っ……離してっ!!」


「……嬢ちゃんよぉ。あんまり暴れてもらうと、こっちも困るんだぜ? クク、そうだな。どうせ、本来の目的はあんたじゃないんだ。少しぐらい、傷付けても文句はねぇよなぁ?」


チャドの右手に光る、鋭利な獣爪。遙が薄眼で後方を見やると、その爪が、玲の胸部へ向けて放たれるのが月光に照らされ、閃光となって視認された。

殺気のような波動。間違い無い。チャドは、玲を殺すつもりだ。動けない自分、もう、駄目なんだろうか?


"相手を信じる……それは自分を信じる事に繋がる"


――ふと、脳裏に蘇って来た、フェリスの声。

人を救えない? ……違う、諦めたら駄目だ。相手を信じるためにも、自分を信じる……


……遙は大きく深呼吸し、かっと眼を剥いた。真っ赤に燃え上がった鳶色の瞳が、闇の中に煌く。




『こんな時ぐらい、役に立ってよっ!!』




怒号と共に、遙が咆哮を上げる。どんな獣とも取れない、吼え声。その声に、チャドの攻撃が止まり、玲を驚愕したように目を見開いた。


と、次の瞬間、心臓が胸を軽く押し上げる程に脈打つ。それと同時に拍出された血液が、音も無く全身へと駆け巡り、複雑でありながら強大な力の奔流が、怒涛の如く溢れ出した。


「うがあぁぁぁぁあっ!!」


鼓動に伴い、全身に走った強烈な激痛。神経の一筋一筋に強い電流を流されたような痛み。遙は意識が途切れそうになるのを、堪えつつ、強く瞑目する。


ドクッ、ドクン! 心臓の鼓動が二倍、三倍、四倍……と、速度を速め、その拍動も倍近くに大きくなる。胸部が激しく上下する感触を覚え、遙は放り出していた左腕へ目を向けた。

腕に張り出した無数の血管が、心臓そのもののように蠕動を繰り返している。遙は丁度、何かを鷲掴みするかのように五指をゆっくりと曲げ、力を込めた。

劇的な脈拍の増加、意識の高揚。……間違い無い、『獣人化』の感覚である。体の変化が確実に訪れるのを、遙は理性で制御すべく、歯を強く食い縛った。


――指先の平爪が、ゆっくりと伸びてゆき、鋭利に尖る。犬歯も同じように鋭く伸び上がり、瞳が夜であるというのにも関わらず、赤々と輝きながら瞳孔が縦へと裂けた。

腹部や背中の傷も熱く燃える。だが、それは心地の良いものだった。一呼吸、二呼吸を繰り返してゆく内に、傷口から痛みが引き始める。

やがて、小さな変化が続き、心臓から拍出された熱が両腕へ集約してゆく。遙は肉体の中枢から湧き上がってくる恍惚に、呼吸を荒らげた。

そして、ぐっと開いた掌から、人の皮膚ではなく碧色の羽毛が突出した。同時に現れた漆黒の羽毛は手甲から腕の背面側を伝う。

ゾクゾクと皮膚の変わる何とも言い難い感触。掌側が美しい碧色の羽毛に覆われ、肘からは黒光りする飾り毛がふわりと溢れる。

それら獣人化の感触は、何処か暗い恍惚感を肉体にもたらした。鼓動が大きく脈打つ感覚……全身に熱い血液が行き渡る心地良さ……遙は思わず邪笑を浮かべる。


「……がぁ……!」


喉から絞り出すように洩れた獣声。――つい先程までは人であった腕は、今は紛れも無く獣腕であり、碧色と漆黒の羽毛に覆われたそれは、明らかに人から逸脱したものの象徴。

それら全ての変化が終わると、心臓が一度だけ更に大きく脈打つ。その瞬間に意識が急速に高揚した。背筋を伝う残酷な快楽に身を委ねかけ、遙は慌てて歯を食い縛る。


(……ぐ……大丈夫だ……この恍惚に飲まれてはいけない。今は、唯、親友を護る為に、あなた達の力を貸して!)


……獣の本能が溢れてくる。身を掻き毟りたくなるような血肉への欲求、獣の記憶に残る、臓腑の味の残滓。殺戮と生への執着。

精神の葛藤は、何度も遙の中で剣戟を響かせた。理性を繋ぐ苦痛は耐え難いものがあるが、それを越えれば、後は獣達の力を使役出来る!


遙は今にも獣声を紡ぎそうな口から、大きく息を吸い込んだ。燃え上がった肉体へ、冷たい夜風が駆け巡る。

その瞬間、肉体全体を苛んでいた、激しい苦痛が消えた。同時に本能と共に溢れた快楽も蕭然と立ち去る。


「くっ……玲!!」


遙が理性ある声で叫んだ。腹部の打撲も、背中の裂傷も、まるで痛みが無い。体が羽のような軽さを持って動く。

己の体を傲慢に踏み付けるチャドの足に、指先に備えた鋭い爪を立て、遙は怒声と共にそれを真横に引き裂いた。

その攻撃と共に、赤黒い血が噴出する。遙の土壇場の反撃に、チャドは流石に足を退けて眼を剥いた。


「っと……覚醒しやがったか。……やっぱりそうじゃなきゃあ、面白くねぇからな。クク……さぁ、キメラ獣人とやらの力を見せて貰おうか?」


チャドは痛みを感じていないかのような口調で喋る。遙は足が離されると同時に、素早く後方へバックステップを踏みながら体勢を整えた。

両腕を構え、いつでも跳びかかれる様に、足をゆっくり後ろへ引き……丁度、肉食獣が身構えるかのように、戦いの姿勢を取る。

そして、もう一度精神を統一するように瞑目した刹那、遙は音も無く、真紅に燃え上がった獣の眼を剥いた。


「チャド! あなただけは、許さない!!」


遙は獣の咆哮交じりに大喝し、次の瞬間地面を強かに蹴って、大きく跳躍した。
 









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