瞼越しに光を感じて、遙は小さく呻く。

身体が先ほどよりも安定した姿勢で横たえられているらしく、節々の痛みは殆ど感じない。


「……う」


遙は微かな心地良さを感じたが、意識が途切れる寸前の……犬の化け物の存在を急に思い返して、ぱっと目を開いた。


「ッ! 化け物……ッ」


遙は目を開くよりも先に、悲鳴に近い声で叫びながら起き上がった。


「誰が化け物だよッ」


唐突に響いた男声。遙は心臓が跳ね上がる思いをした。

だが、そこにいたのは、先程の犬の化け物ではなく、見たことも無い男性一人であった。


黒いバンダナを、寝癖を押さえ付けるようにして巻いた青年……いや、年の頃は十七、八歳程だろうか、少年と言ってもいいような、微かな幼さが見えた。

服装は黒いタンクトップに同じく黒いズボンという、肌の露出した腕や足を除けば、殆ど黒尽くめの容姿だ。

その容姿は、遙のように純血の黎峯人とは若干違った雰囲気を持ち合わせており、少しばかり彫りの深い顔立ちである。


妙に印象的な顔立ちをした青年は、遙と目を合わせた途端、その褐色に日焼けした顔を疲れたように歪めて、小さく溜息を漏らした。


「ったく、ようやく起きたか。見たところ、黎峯の人間っぽいから、この言葉で通じるか?」


青年の姿と声に、遙は安堵感よりも警戒心を抱いた。


「ッ誰!?」


遙は驚いた顔をして、素早く背後へと後退りした。青年の問いなど、すっかり耳から通り抜けてしまう。

青年は遙の警戒した面持ちを見て、大儀そうに胡坐を掻き、頬杖を突いた。


「まぁ、その言葉は黎峯人だな。外国語は話せるのか分からねぇが、最初に会ったのが俺で幸運だぜ?
何たって、『刺客』はロムルスの奴らが多いからな。全ての奴が話しが通じるとは限らない」


「? 刺客……? それよりも、あなたは……」


「人に聞く前に、お前から言えよ。お前のコード・ネームは? 獣人なんだから、研究所で付けられただろう?」


「え?」


遙は何が何だか分からずに、青年に再び問い返した。自分でも今の状況が理解出来ないというのに、目の前の青年の問いに答えることは容易ではない。


さっきは此処と同じく廃墟の街で目覚めて、犬の化け物に追い駆けられて、そして再び目覚めたら、意味の分からないことを言う青年と会う。

青年の目や態度を見る限り、冗談を言っているようには聞こえないが……取り合えず、彼はこちらに襲い掛かってくるような雰囲気も見せないところを見ると、敵意は無さそうだ。


様子を伺いながらも、遙は僅かに警戒を解き、簡単な身振りを付けて青年に問い始めた。


「あの、私、何が何だか分からなくて。目覚めたら、此処にいたんです。
廃墟の街で、犬の化け物を見て……。本当に何も分からない、此処は、此処は何処なんですか? その、じゅうじん、とか、研究所とか……」


「あぁ? 何だ、お前、記憶が無いのか? 珍しいガキだな……じゃあ、自分の名前と、記憶が途切れる以前のことを教えて貰おうか」


「え、ああ……私の名前は、『遙』です。東木……遙」


「ハルカ……遙っていうのか。俺の名前はガークだ。ロムルスの出身だが、育ったのは黎峯の政府が関わっている土地だったからな、こうやって黎峯の言葉も話せる。
……と、俺の経歴を言っても仕方がねぇ。お前の記憶に関しての話だったな。……何があったか、覚えているか?」


ガークと名乗る青年は、再び遙に問い掛けてきた。


「覚えている……こと? そういえば……」


遙はガークの言うことを聞いて、意識を集中させる。言われてみれば、自分の意識が途切れるまでの記憶は曖昧になっていて、思い返しもしなかった。

此処に来る以前の記憶……意識が途切れる寸前の記憶を思い出すために、遙は静かに目を瞑る。



あの日親友と別れて、久々に帰ってくる筈だった母を、河原で待っていた。

暫く河原に座っていたけれども、母はいつもより帰ってくるのが遅くなっているらしくて、その内、日が暮れてきたから……帰ろうと思って……


(あの時、あの時……お母さんは先に家に帰っているんじゃないかとも思って、私も家に帰ろうとしたんだ。そうしたら、誰かが私を呼び止めて……)


――そこまで考えた時だった。遙は目を見開いた。

そうだ、記憶が途切れる寸前の日。その夜、見知らぬ女性に呼び止められたのだ。

女性に呼び止められたその時はすでに日も落ちていたこともあって、その容姿ははっきりしなかったが、確か自分を探していた気がする。

遙を探している理由こそ分からなかったが、見知らぬ女性が自分の名前を知っていたことに不気味さを感じて、逃げ出そうとしたのだ。そうしたら……


遙は顔を上げた。震える唇で、小さく呟き始める。


「河原で……お母さんを待っていて……。帰ろうとしたら、知らない女の人に呼び止められたんです。その時は、私と同じ名前の『ハルカ』という子を探していたらしくて。
全く知らない人から名前を言われたから、驚いて逃げ出そうとしたんです。そうしたら、いきなり手を掴まれたから、それを振り払って逃げ出して……」


遙が両手を握り締める。


「逃げた先に、大きな、蝙蝠の化け物がいた。人間と、蝙蝠が合体したみたいな、見たことも無い生き物で……」


そこまで言った所で、遙は一旦言葉を切った。

……蝙蝠の化け物? そういえば、あの化け物もまた、ヒトと獣を混ぜ合わせたような姿をしていた。

その特徴は此処で目覚めた時に見た、犬の化け物と良く似ている……もしかして、『あれ』は一頭だけではないのだろうか?


「その見たこともない蝙蝠の化け物と、此処で見た犬のような化け物も、とても良く似ていて――もしかして、あれが……」





ガッシャアァァン!!




「なっ!?」


突如として、遙達のいた廃屋の窓ガラスが打ち砕かれ、無数のガラス片が遙の身体を掠める。

その飛散するガラス片から身を守るために、遙は小さな悲鳴を上げつつも、反射的に両腕で顔を庇った。

遙が驚いて目を閉じる中、パラパラとガラスが散る音と、木片が拉げる音が連続して響き渡る。

……あまりにも唐突過ぎる出来事に、一瞬、何が起きたのか分からなかった。


「グルル……ガァ」


埃が舞い上がり、視界が遮られる中で聞こえた、獣独特の唸り声。それは、さっきの犬獣人の声と良く似ている。

まさか、と、遙は腕を下げて目を開けると、そこには割れた窓から入り込もうとする犬獣人の姿があった。

赤い被毛に包まれた巨躯に、指先に生える刃のような鉤爪。その爪と強靭な握力によって、窓枠はまるで紙を裂くような勢いで破壊される。

バキンッ、と乾いた音を立てて窓を支えていたアルミニウム枠が圧し折れ、犬獣人が獰猛な獣顔を廃屋内へと突っ込んできた。


「ウオォォオォッ!!」


ずしゃっ、という鈍い足音と共に廃屋内に侵入してきた犬獣人は、その逞しい胸元を反らして咆哮を上げた。

その窓ガラスを叩き割った張本人の姿を眼にした遙は、身体中に走った切り傷の痛みよりも先に恐怖を感じる。

それは予想通りの、最悪の結果だった。


(やっぱりあの時の化け物! ……殺される!)


「ちぃッ、やっぱり見付かっちまったか。仕方ねぇな……!」


ガークは舌打ちし、犬獣人に視線を固定したまま、遙を庇うようにして仁王立ちをする。

足の竦んだ遙は、そんな無謀な彼を止めようと叫びかけたのだが、恐怖のあまり呂律が回らなかった。


何しろ、今目の前にしている相手は、見たこともない常識外れな生物である。

ヒトのそれを越える体格と筋肉量に加え、獣の牙と爪を持ち合わせた容姿は、まさに化け物だ。

立ち塞がっているガーク越しに見える二人の体格差は圧倒的なものがある。ガークの身体など、一捻りで潰されてしまいそうだった。


そんな恐怖に震え上がっている遙の様子が、あたかも見えているかのように、ガークが告げる。


「遙! お前は逃げろ! そっち側の窓から逃げるんだ。此処は俺が食い止めるから」


彼が顎で指した方向には、もう一つの窓があった。すでにガラスは割れており、壊れた窓枠だけが取り残されている。

だが、ガークの信じられない一言に、遙は複雑な表情を作った。


「そんな! そんな化け物を、ガークさん一人で相手を……出来る訳ないですよ……ッ」


「関係無いさ、お前が思うほど、俺は雑魚じゃねぇってことだよ。……とにかく、早く行け!!」


ガークの最後の言葉は怒声に近かった。その覇気に押され、遙は冷水を浴びせ掛けられたかのように立ち上がる。

瓦礫の山を裸足で踏み付けるのも構わず、遙は無我夢中で窓から飛び出した。窓縁に残っていたガラスで手足を軽く切り付けたが、そんな傷に構っている暇は無い。

犬獣人に対する恐怖、というよりも、ガークの叱声があまりにも心を強く打った。まるで、ヒトではない何かに叫喚されたかのような感覚だった。


(遠くへ、遠くへ逃げなきゃ……!)


廃屋を飛び出した遙は、砂地の多い方へ向けて一直線に駆け出す。……その様子を横目で見ていたガークは安堵感にも似た溜息を漏らした。


「へッ、思ったより利口なヤツだぜ? ……てめぇなんかより、ずっと躾がなっているってことだよ犬野郎」


ガークは再び犬獣人に視線を戻しながら言った。その嘲笑するような声音には、恐怖感は微塵も感じられない。

ガークの様子を伺うように鼻を引く付かせていた犬獣人は、やがて憤怒したように鼻口部に皺をぎっちりと寄せる。

緑色の獣眼がガークの姿をしっかりと捉えると、彼は歯肉と共に牙を剥き出し、威嚇するように唸り声を上げた。


「ウルルゥ……グオオォォ!!」


「……てめぇと遊んでいる暇はねぇ。死にたくなけりゃあ、とっとと犬小屋に帰りな。――唸ってばかりじゃ、敵は倒せねぇぜッ!!」


ガークが吐き捨てるように言った言下、犬獣人はその巨体でガークへと突進する。

その凄まじい形相と圧倒的な体格差に臆することなく、ガークも犬獣人に向けて飛び掛っていった。






――――――――






「はぁ、はぁッ!」


どれだけ走っただろうか……息が切れ、足が縺れる程に身体が疲弊していた。

遙は幾つもの瓦礫と荒地の不安定な足場を裸足で乗り越えていた。

此処は平地だけではなく、丘のように地盤が盛り上がった部分も少なくない。それらを全力で駆けて来たために、身体に掛かる負担と疲労は相当なものがあった。


だが、少しでも遠くへ、あの化け物から逃れたい一心で、必死に足を急かせる。

しかし、裸足の足だ。足の裏にガラス片や木片が突き刺さったことで出血し、地面には血痕が生々しく生じていた。

その痛みのあまり、遙はやがて荒地の上に転げるようにして倒れ込んだ。足の裏が燃え上がるように疼き、遙は喉声を漏らす。

恐る恐る手を足の裏に触れてみると、真っ赤な血液が付着した。瓦礫に含まれていたガラス片や金属片でざっくりと切ったのだろう。

それでも立ち上がろうとするのだが、足の筋肉もすでに言うことを利かなくなっていた。遙はずるずると上半身を地面に押し付ける。


「う……」


痛みと足の痙攣を抑えるようにして、遙は両足を抱えて身体を丸めた。

荒い呼吸を漏らす中、遙は視線だけを背後に向けた。……すでに廃屋の影は見えなくなっており、砂嵐だけが虚しく通り過ぎているだけであった。


(……ガークさんが)


あのガークという青年……パニック状態で、言われるままに逃げてきた遙はガークの安否に胸が痛んだ。

こうやって自分だけが逃げ出して、ガークは無事なのだろうか? 彼は大丈夫だと言っていたが、とてもそうは思えない。


だが、逃げ出す寸前に見たガークの表情は、まるであの犬獣人を何度も見てきたかのように、然したる怯えは見られなかった。

むしろ、犬獣人相手に余裕があるような……一体どういうことなのだろう? 遙は一度唾を飲み込むと、口を引き締める。


「……戻らなきゃ! 一人だけ逃げるなんて駄目だ……ガークさんを、助けないと――」


遙がそう言って、顔を上げた時だった。



ズシャッ……と、泥を踏み付ける音が目の前でしたと思うと、黒く、巨大な影が遙の視界を埋め尽くす。

刹那、大きな足が地面に杭を打ち込むようにして現れた。その足は人間と同様に蹠行性の形をしているものの、全体的に赤みを帯びた短毛が生じている。


遙がおそるおそる視線を上へ上げていくと、そこには巨大なシルエットが浮かび上がっていた。

逆光で見え辛いが、その頭頂から伸びる二本の湾曲した角に加え、広い鼻鏡を持った容姿はまさに『ウシ』であった。

その厳つい牛頭を持つ獣人は悠然と立ち塞がっており、足元で倒れ込んでいる遙を、侮蔑するようにして見下ろしていた。


「う、うわ!!」


遙は驚いて顔を引き攣らせ、悲鳴を上げた。

やはり犬獣人だけではなかったのだ。しかも、目の前に佇む牛の化け物は、犬獣人よりも更に一回り大きい。

まるで小山のように巨大な体躯である。拳一つでも、遙の頭二つ分はありそうな程の大きさだった。

遙はその巨躯を前にして呆然と見上げていること以外に、何も成す術が無かった。……それほど、相手からは圧倒的な威圧感が溢れ出ていたのだ。


暫くの沈黙の後、牛獣人はその鼻腔から鼻息を荒々しく噴出すと、遙の小さな頭を鷲掴みにする。


「いやッ! 離して……!!」


毛深い手が、遙の頭をがっちりと掴んだ。

反射的にその巨手に手を当てると、強靭な腱と骨が皮膚から浮き出ている感触がぞわぞわと伝わってくる。

こんな手であれば、遙の頭など、簡単に潰すことが出来てしまうだろう。掌の肉で視界が遮られる中、遙の背筋に冷や汗が流れ落ちた。


「……」


牛獣人は無言のまま、遙の頭に圧力をぎりぎりとかけた。遙は本能的に牛獣人の手に、自らの爪を立てて抵抗する。

徐々に強まってくる握力。頭が割れそうな痛みと猛烈な嘔吐感が遙の身体を苛んだ。強烈な苦痛に、声すら上がらない。

必死になって逃れようともがくが、牛獣人の手が揺るぐ筈も無い。あまりにも大き過ぎる体格差だ。こんな少女の力で、引き剥がせる程、相手の力は弱くないだろう。


(嫌だ……死にたくないよっ……誰か、誰か助けて……!)


目前に迫る死の恐怖に、遙は目尻に涙を溜めた。痛みも耐え難い程に高まり、思わず意識が朦朧とする。


――ふと、その時、牛獣人の身体に衝撃が走った。ドフッ、という、何とも形容し難い湿った音が耳に届く。

衝撃と共に牛獣人の握力が弱まる。その強烈な衝撃は、遙にも、微かな揺れとして伝わってきた。


「ウオォッ!!」


牛獣人が苦悶に近い咆哮を上げた。それと同時に、彼は遙の頭から手を離す。

牛獣人から離れた遙は、意識を失いかけたまま、受身も取れずにそのまま地面へと落下していく。


「……!」


はっと意識が戻ってくる時には、すでに地面が近くなっていた。遙はすぐに全身に走るであろう、痛みと衝撃を想像して目を瞑る。

……しかし、遙の身体は何者かに支えられるように、大した衝撃も無く落下が収まった。

まるで鳥の羽毛に落下したかのように柔らかい感触だ。遙はその不思議な感覚に、薄らと目を開く。


「おっと、危なかった」


遙が目を開き切らない内に、陽気な女声が耳に届いた。

それは獣の声ではなく、確かな人間の声。そのことに対する驚きで開いた視界に、女性の顔が映った。


燃え上がる夕日を彷彿させる黄丹色の頭髪。雲一つ無い蒼穹のように澄んだ碧眼……遙は見慣れない美貌の女性に、一瞬、返事すら忘れて魅入ってしまった。

少し長めの首元には鮮やかな緋色のストールを巻いており、橙色に近い茶色のワンピースを纏っている。不可抗力で彼女の胸元に頬を押し付けていた遙は、慌てて顔を退かした。


その端整な顔立ちは黎峯系の人種ではないだろう。ぱっと見る限りでは、此処からずっと遠い場所にある南国のオーセル出身の人種に特徴が近い。

明らかに場違いな雰囲気を漂わせたヒトであったが、どうも、自分はこの女性に抱き抱えられて助かったらしい。


――だが、遙は牛獣人の存在を思い出して、息を呑んだ。すかさず急かすようにして、女性の服を掴んで告げる。


「う、牛の化け物がッ、は、早く逃げて……」


遙が女性にそう叫んだ。牛獣人は忌々しそうに額に血管を浮き上がらせ、荒い鼻息を何度も噴出している。

まるで猛る闘牛のように足を構えると、彼は大きく咆哮を上げた。


「意外と体力には自信があるみたいね。……いいわ、次は容赦しないわよ」


彼女は目の前で今にも飛び掛らんとしている牛獣人を睨み付けると、遙を抱えたまま、小さく息を吸い込む。

遙がまさかと思った瞬間であった。彼女は足元の砂利を音を立てて払い、左足を軸にして素早く右足を持ち上げる。


――刹那、女性は牛獣人の腹部に向けて、盛大な蹴りを放った。


「ブモッ!」


液状的な音と共に口から血泡を噴き出し、七メートル近く吹っ飛んだ牛獣人は、立ち上がることも無く卒倒する。

地響きと共に荒地に叩き付けられた牛獣人は、白目を剥いたまま立ち上がる様子は見せなかった。

不気味に痙攣する牛獣人の姿を、遙は唖然として見ていた。あの巨躯が、こんな華奢な女性の足蹴り一つで昏倒してしまったのだから。

一方で、蹴り飛ばした本人である女性は足を下げると、呆れたように小さな溜息を漏らしていた。


「身の程知らずねぇ。……さてさて」


女性は呆然としていた遙を地面に立たせると、両手を腰に当てて微笑んだ。


「Muito prazer! 私はフェリスという名前よ。あなたは?」


流暢な母国語を交えて、女性は問い掛けてきた。


「え? あ、私は遙です……あの」


遙は地面に慣れずにふらふらとしていたが、名前を聞かれてすぐさま振り返った。

フェリスと名乗る女性。にっこりと笑いかけてきているが、その様子に遙はガーク以上にしどろもどろになった。

何しろ、彼女の後ろで四肢をぱたぱたと小鳥のように動かしているウシの怪物を、蹴り一つで倒してしまったヒトなのだ。


(ちょっと待ってよ……この人、私を抱えた状態で、あの牛の化け物を蹴り一発で倒し……た? そんな……)


再びフェリスに視線を移すと、ワンピースの裾から覗く足や腕にそんな筋力があるとは思えない。

むしろ、自分と同じぐらい細くて華奢なのに、どういうことだろう……? 何もかも、現実離れし過ぎているではないか。

もしかしたら、あの牛獣人の方が脆弱だったのだろうか? だが、自分が頭を掴まれた時の強力な握力や筋肉量からして、そうは思えない。


「どうかした?」


「! わ……ッ、何でも、無い、で……す」


普通に黎峯の言葉で喋りかけてくるフェリスに、頭が錯乱しそうになっていた遙は驚いて後ずさった。

……戦場のような風景。牛や犬の化け物。そしてそれを一撃で倒す女性……もう、何が何だか分からない。

夢なのだろうか。だが、痛みや感触は現実染みたそれだ。此処までリアルに再現された夢など、今まで生きてきて一度も見たことが無い。


(夢……? でも、いつになったら覚めるの? こんなこと、有り得ないよ)


遙が頭を抱えたのを、心配そうに見ていたフェリスは、何かを察したかのように急に視線を移した。

彼女の視線の先は遙が歩いてきた方向であり、その地面には遙のものであろう血痕が幾つか残されている。

だが、問題は更にその先だった。一つの丘を越えた方角から、ほんの微かではあるが、何かの破壊音が響いて来ている。


彼女の視線の変化を感じた遙も、釣られて背後へと目をやる。すると、丁度あの廃屋の辺りから、僅かな土煙が舞い上がっている様子が伺えた。

丘を越えた先から、土煙が狼煙のように上がる光景を眼にしたフェリスは、その碧眼を鋭く細めた。


「もう一人、いる?」


フェリスは低い声で独り言のように呟いた。それを聞いた遙は、はっと顔を上げる。


「! そうだ、ガークさんが……! あと一人、私を助けてくれたヒトがいるんです。ガークっていうヒトと一緒に話していたら、この牛と同じような、犬の化け物が現れて……」


「ガーク? あなたは、ガークとはお知り合い?」


フェリスは少し驚いた顔で問い返すと、遙は慌てた様子で何度も頷いた。


「……私も良く状況が分からないんですが、ガークさんは、私を犬の化け物から逃がしてくれたヒトなんです。
ガークさんのお陰で此処まで逃げてきたら、次は牛の化け物が襲ってきて。……あなたも、ガークさんを知っているのですか?」


遙の問いに、フェリスは微笑を浮かべて頷いた。


「ええ、ガークは私の友人よ。その彼が、犬の化け物に襲われているってこと?」


「そうです。私を逃がすために……」


遙は一人だけ逃げ出してきたことに対して、罪悪感を感じた様子で話を続ける。


「あのままじゃ、ガークさんが殺されてしまう! あんな犬の化け物……武器も無い人間じゃ勝てないですよっ」


「大丈夫よ。同じ『人間で無ければ』勝てる相手なんだから」


遙の言葉を皮肉げにあっさりと否定すると、フェリスは遙へと手を伸ばした。

遙は差し出された手と、フェリスの顔を交互に見ながら、腑に落ちない様子で再び問い掛けた。


「に、人間で無ければって……どういうことですか?」


「……それは後で話すわ。今は、ガークを助けることを優先しましょう」


フェリスは笑みを悄然と消して、しっかりした声音で遙に告げる。


「此処にあなたを置いていくのは危ないわ。私達の近くにいてくれた方が護りやすいから、一緒に来てくれる?」


「……あの」


遙は差し出されたフェリスの手に、自らの掌を乗せる寸前で、小さく呟いた。


「此処は何なんですか? あの化け物も、あなた達も……」


ずっと気になっていることだった。……これは夢じゃない。

身体の倦怠感や痛み、乾いた風の匂い、荒地や廃墟の光景。五感で感じるもの全てが、あまりにも現実的過ぎる。

そうなれば、これは完全な『現実』ということ以外に答えはない。だが、非現実過ぎることが多過ぎて、頭の整理がまるで追い付かないのだ。

ガークは何か知っているようだったが、彼は今此処にいない。……今此処の現状を知っていると思われるのは、目の前にいるフェリスだけだった。

此処が何処なのか、どうしてあんな見たことも無い化け物が存在するのか、そして何よりもどうして自分が此処にいるのかを知りたくて、遙は泣きそうな顔で問い掛けた。


だが、遙の核心を突いた言葉に、フェリスは苦笑して返した。


「……ごめん、さっきも言ったとおり、今はまだ話せない。まずは、ガークを救い出すことが先決よ。
今無理にあなたに説明しても、余計に混乱するだけ。……これが片付いたら、必ず全てを打ち明けるから」


漠然とした答えを返してきたフェリスだったが、遙は唇を噛んだまま、それ以上掘り下げようとはしなかった。

彼女の言葉や表情に、深入りされたくない感覚を見出したから、というのもあったが、それ以上に今の状況を打破する方が優先すべきことだった。


そうだ、まずはガークを助けなければいけない。迷っていれば、あの化け物にガークが殺されてしまう可能性だって否めないのだ。

化け物の前まで再び行くことは確かに怖いが、それでも自分を助けたヒトを見殺しには出来ない。遙は意を決して顔を挙げ、フェリスの手を取った。


「分かりました、私も行きます。ガークさんを助けに」


遙ははっきりした口調でフェリスに言い放ち、口を引き締めた。




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