辺りはすっかり闇色に染まっていた。漆黒が注す夜空に、ぽっかりと投げ出された青白い月が、淡い月光をちらつかせている。


――鼓膜を擽るような虫の演奏を横に、遙は視線を宙に投げ出したまま、ラボの入っているマウスケージを突いた。

ケージ内に入っていたラボは、赤い眼を忙しなく動かしながら、突き出された遙の指先へと絶え間なく微動する鼻先を寄せる。

本来夜行性であるラボは、昼間より動作が幾分活発であった。だが、遙は僅かにマウスケージの出入り柵を開け、顔を出してきたラボの頭部を指で撫でる。


「ん、今日はもうお休み、ラボ。でも、私はまたすぐに出かけなきゃいけないんだ」


遙はラボにそう呟きかけると、幼児を寝かし付けるようにラボの頭を撫で続ける。暫くそうしていたが、やがてその指を諦めたように退け、ケージの柵を閉めた。

……少々身体が重く感じつつも、遙は今まで横たわっていた寝台から起き上がり、ブラウスの襟を整える。

襟を整えると同時に、前もって寝台に放り出していた暗赤色のネクタイを手に取り、襟首に巻いて締めた。そうして、ようやくブレザーの方に手を掛ける。

このブレザーを纏う事で、自分の肉体は闇色に染まり、その姿を傍目から視認し辛い形へと変えた。今からの行動は、一般人はもちろん、ガーク達にも見付かってはいけない。


遙は制服を纏い終えると、玄関からはあえて出て行こうとはせず、ベランダへ抜ける二階のガラス戸をそろそろと開けた。

ベランダへ踏み出すと、春というのに冷えた風が身体に吹き付ける。遙は首を竦めつつ欄干に手をかけ、腕を垂直に伸ばした。街の様子を伺う限りでは、暗い住宅街は恐ろしい程に静謐に黙り込んでいる。

遙は思い出したように左手首に巻き付けた腕時計を確認した。八時四十分……。学校までは少なくとも三十分はかかるだろう。だが――


「……走れば問題ないよね。獣人なんだから。それより、他の人に見付からないようにしないと……」


心持ち皮肉っぽく呟くと、遙はガーク達を起こさないように息を殺しつつ、右側を走る雨樋を掴む。

ぎしっ……と、体重を掛けると同時に雨樋が軋む。遙は予想外に大きく軋んだ音に顔を顰めつつも、雨樋を支える金具に足を掛けながら、慎重に下へ降り始めた。






――――――――






「……」


二階から遠ざかってゆく波動に、フェリスは溜息を吐いた。

やはり遙はこの時間帯を選んで出て行ったらしい。彼女が帰宅する途中も、敵の偵察も兼ねて、見付からない所で同行していたからこそ、分かる事だが。


しかし、随分と難儀な時間に行ってしまった。


夜ともなれば、敵が動くだろう。一般人に見つかり辛い時間帯は、こちらが獣人として動き易いと言えど、それは相手にも言える事だ。もはや一刻の猶予も無い。

……照明の消えたリビングは、闇に包まれている。ソファーの上ではガークが大鼾を掻いて眠っているが、フェリスの意識は完全に覚醒していた。

元々夜行性のネコ科の遺伝子を受け継いだせいか、夜は事の他意識が冴える。だが、ガークはそうもいかないらしい。

大体、隣で眠っているガークには、つい数時間前に夜番に徹してもらうと言ったのだが……。フェリスは取り合えずガークの顔を覗き込む。


「ガーク、起きて。遙が出て行ったわ」


「……あ、出て行ったって……夜逃げかよ? ガキの癖して何を……」


寝惚けているのか、ガークは目を大儀そうに擦りつつ、むにゃむにゃと訳の分からない事を喋った。

その体たらくを目の当たりにして、フェリスは心底うんざりしたように深い溜め息を吐く。だが、此処で戸惑っている暇は無い。フェリスは青年の耳を力任せに引っ張りあげた。


「ぐがっ!? 痛えぇ!!」


「ほらほら。大切な彼女が出て行ったのを、黙って見過ごしてもいいの?」


「だ、誰があんなガキなんぞにっ!!」


流石のガークも飛び起きる。じんじんと熱を持って疼く耳を摩りながら、青年はフェリスの方へ目を向けた。

だが、満足げに笑うフェリスを視認した途端、彼は顔を豪快に逸らし、カーテンの閉められた窓の方を見る。

完全に闇に背景が溶け込んでいる。夜更けだ。続いて向けた先にあった時計の針も、九時近く。……ガークは派手に寝癖の付いた蓬髪を乱雑に掻いた。


「遙が出て行ったって……どういう事だよ?」


「それは走りながら説明するよ。とにかく、急いで遙の後を追わなきゃ。敵が近付いてくる可能性は十分にあるわ」


ガークは鼻を鳴らすと、玄関口の方を見詰めて舌打ちを加えた。


「ちっ……相変わらず世話の焼ける奴だぜ」


それを聞いたフェリスは「ガークもね」と、苦笑気味に呟きかけ、彼を引き連れて玄関を開けた。










無論、外は人通りも無い。間違い無く人間の波動は感じられなかった。

遠くで梟のような鳴き声が木霊している。風はざぁざぁと木々の葉を擦り合わせ、夜行列車の警笛が、寂しげに夜空へ溶け込んで行った。

何の変哲も無い、近付く一日の終焉。静かな時の流れに、少々突っ走りがちなフェリスとガークは、どうも落ち付かない様子で辺りを見やった。


「ふぅん。誰もいない。……ま、私達には有難い事だけどね」


フェリスが風に流されてきた若葉を中空で掴み、冷めた目付きで見詰める。春の新緑だというのに、冬の近付く秋のように葉が散っていた。


「なんだよ。拍子抜けするじゃねぇか。少しは障害があった方が、俺は好きだぜ?」


ガークは犬歯を見せて、ニッと笑った。続いて豪快に腕を振り回してみせる彼から、フェリスは唇を突き出して視線を外す。


「全く、調子の良い……とにかく、少し急ごう。遙ったら、いつからこんなに足が速くなったのかしら?」


フェリスの唐突なボヤキに、ガークは揶揄するように失笑した。


「自慢の足も後輩に取られちゃあ、おしまいだろ?」


「少なくともガークとは同等にならないけどね」


フェリスが得意げに頭髪を掻きあげ、大股に先を急ぐ。ガークも頭を掻きながら大儀そうに続いた。

夜の鳳楼都は、人影一つ見受ける事が出来なかった。風に揺られる木々のざわめきや、虫の声が静かに囁くだけである。

道路も車が通るという事が無く、走行音は獣人の聴覚で聞き取れる範囲を感じる限りで聞こえなかった。

フェリスが先導して微弱な波動を捕らえ、ガークが匂いを嗅ぎ取りながら遙の走った道を駆ける。


「学校へ真っ直ぐだな。お前が言う、遙とその友達との会話の通り、今夜学校の屋上で〜……本当にお前ら女ってのは回りくどい真似するんだな?」


鼻をひくつかせながら、ガークはぼんやりと呟いた。だが、フェリスも否定する事なく苦笑する。


「遙はまだ幼いもの。高校に入ってすぐにGPCに拉致されるなんて事になったんだから。……日ごろから結構ピリピリしてるのよ、あの子はね……」


「……俺は結局あいつの気持ち分かってやれなかったんだな」


ガークがぼそっと呟き、微かに俯く。彼の心情を微かに読み取ったフェリスは複雑な表情になったが、今は先に進む方が先決である。

二人はスピードを落とす事なく夜道を走り続けた。暫くは何の障害も無く、悠々と進む事が出来たのだが、ふと、先立って走っていたフェリスの足が急ブレーキをかける。

彼女が唐突に止まった事により、ガークは彼女の背中に危うくぶつかりそうになった。当然、ガークは奇怪な叫びを上げてバタバタと両手を振り回す。


「――うぉお!! 何やってんだよ! 俺がまたいらん疑いを掛けられるような事――」


ガークが身長の高いフェリスを退かし、前へ顔を出す。だが、その彼の顔も直後に引き攣った。


……真っ黒な水が混濁する河原。水の一筋一筋が、まるで黒い蛇が無数に絡まりあって蠕動しているようにも見える。足元に繁茂する芝生が、風に煽られてざわめいた。

立ち竦んだ二人の前に、気配一つ無く現れたのは、昼間に目撃したであろう白衣の少女だった。

感情の無い瞳がこちらを見極めるように睥睨している。赤い光をちかちかと零すその眼は瞳孔が微かに縦に伸びており、人間のものではない事が伺えた。


少女とガーク達は暫く無言のまま睨み合ったが、先に口火を切ったのは、予想外に少女の方であった。


「申し訳ありませんが、此処から先にあなた達を進ませる訳にはいきません」


少女が言葉に抑揚無く呟く。その台詞に込められた意味に、微かに青褪めた顔立ちでフェリスが舌打ちした。


「要するに、遙を助けさせないって事? それは困るよ。……此処に来たのは、あなただけじゃないでしょ?」


「それはもう気付いている筈。確かに、私の他にも遙を狙う者はいます」


少女は淡々と答えつつも、二人に向けて一歩一歩、緩やかに進み始める。河原に生える雑草を踏みしめているにも関わらず、足音は感じ取れなかった。

感情の誘起を感じ取れない、その少女の佇まいは、流石のガークをも少々戦慄させる。だが、彼は毅然として相手を睨み返した。


「フェリス。お前、先に遙を助けに行ってくれよ」


「それは出来ない。どちらかといえば、ガーク。あなたが行くべきよ。……出来るだけキツイ方を取るのが、上司の仕事でしょ?」


フェリスはくすくすと笑う。だが、今は油断も隙も感じられなかった。蒼い瞳が光を放つ。彼女の体内から微弱な波動の流れが速さを増して行くのが、隣際に立っているだけで分かった。

ガークが相手に向けて無造作に構えかけ、それをフェリスが腕を伸ばして静止する。止められたガークは不服そうに唸ったが、フェリスは彼に厳しい視線を浴びせた。


「……あの子、意外に強いわ。悪いけど、ガークじゃ敵わない。それぐらい自分でも分かる筈。イヌなんだから、大人しく言う事聞いてよね?」


「二人で戦ってもキツイって所だな。じゃあ、残るお前はどうなるんだよ!」


「大丈夫。少なくとも、死にはしないわ!」


言い放つと同時に、すでに眼前に迫った少女の突き出された手先を、フェリスは寸前で相手の手首を握って止める。

ぎしぎし、と、込められる力は人間離れしており、寸分野狂いも無い殺気の込められた一撃だった。間違い無くこちらを殺めるつもりでいるだろう。

フェリスは先手を少女に取られ、防戦に縺れ込んでしまった。続いて伸びてきた少女の右手を再び掴み返し、完全に組み合った状態になる。


「……っ!? こうやってお互い触れてみなければ分からなかったけど……あなた、私と近い獣人種なんじゃない?」


「……」


少女は奈落の瞳をフェリスに絡めたまま、返答しなかった。疲労や狼狽といった、隙らしい表情も見受けられない少女の顔立ちとは裏腹に、その力は恐ろしいものがある。

さしものフェリスも体勢を崩しかけ、地面を踏みしめる彼女の踵には、雑草を押して土肌が盛り上がった。力は相手の方が上か……フェリスは顔を顰める。


だが、フェリスが少女に倒される寸前、ガークが彼女の右後ろから飛び出し、微かに眼を見開いた少女の肩口に盛大な拳の一撃を放とうとした。


「!」


しかし、彼の拳は何の手応えも無かった。その事に、ガークは唖然と口を開きかける。何しろ、視線を正面に戻せば、丁度十メートル程の距離を取った少女の姿が見えたのだ。

少女に傷痕は見受けられない。顔立ちも凪いだ水面のように変化は無かった。ガークはこちらと距離を取った少女を睨みつつ、崩れ落ちそうになったフェリスを支える。


「お前、元々BRのグループじゃあ、D班の副隊長だっただろ! この調子じゃあ、俺もお前もレオのおっさんに顔向け出来ねぇぜ!」


「ガークの言う通りだわ……。でも、此処で止まっちゃったら、遙にも顔向け出来ないよ。……それにしても、意外と馬鹿力な子だね。油断したら、ちょっと右手首痛めたわ」


ひらひらと右手を振りつつ、フェリスは苦笑した。正直、痛めたぐらいでは済まない。骨までいってしまったか……。額に浮いた脂漏を手の甲で拭う。

相手は間違い無く本気だ。こちらも本気で行かなければ、対等に戦えない。ガークもいつの間にか付けられた、右肩に出来た浅い切り傷の血を払った。


「ある程度相手を弱らせたら、行ける方が、遙の救出に向かう。それでいいだろ?」


ガークは指先に付いた肩口の血を舐り、両腕を軋ませて獣人化させる。フェリスは困惑したように顔を歪ませたが、これ以上話し合っていても、相手に隙を突かせるだけだろう。

否応無しにフェリスも構える。その碧眼が、燐光を放ちながら蒼く燃え上がった。


「まぁ、一応それで良いかな。……とにかく、いくよガーク! ……私の前で絶対に死なないでよね」


「リオと言いお前と言い、本当にオーセルの奴らは不吉な事ばっかり言うんだな! 自分の事だけ心配してりゃいいんだよ!!」


ガークが吐き捨て、地を蹴った。彼の動作で派手に土塊が跳ね上がり、それを合図にするかのようにフェリスが先手を打ってガークの前へ躍り出る。

その瞬間、少女はその姿を晦ませるようにして二人へと襲い掛かってきた。






――――――――






――遙は夜道を全力で走っていた。

街灯の無い道といえど、獣の眼は障害物や枝道を確実に視認してくれる。遙は赤く光った眼をキョロキョロさせつつ、学校への道を辿った。

車の走らない道路は、絶好の近道を案内させてくれる。信号は赤でも無視してしまったが、今は何よりも急ぐ事を優先した。


「凄い……息が切れない。こんなに速く走っているのに……」


遙は自分の胸に掌を当ててみて、改めて獣人の体力の高さを感じた。掌越しに感じられる鼓動も、緩やかに血液を循環させている。

呼吸も殆ど口からというよりは、鼻で吸い込む程度で十分であった。足は羽のように軽やかで、筋肉は滑らかに伸縮を繰り返す。

持久力があるのは有難いし、いつもの倍以上の速さで走る事が出来るのなら尚更だ。身体能力の向上は、確実に遙を目的地まで急かせた。


「今が八時四十七分……十分足らずで此処まで来れるなんて。もしまた学校に来られるなら、陸上競技は誰にも負けないかも」


ちらりと一瞥した腕時計を見た後、遙は苦笑した。そう、また学校に来るためにも、玲に真実を打ち明けなければならない。その思いが、遙の足を更に進める。

夜道を黒い風のように走る遙は、普通の獣よりも数段違いの速さを持ち合わせていた。一般人が仮にいたとしても、遙の姿の中で確認する事が出来たのは、炯々と光る赤眼だけであっただろう。


そして、走る事十五分近くが経過した後、遙は校門の前に立っていた。肝試しにでも使われそうな雰囲気を漂わせる校舎は、真っ黒に染まった窓を幾つも埋め込んでいる。

校門は錆付き、施錠されたまま開かれていない。周りの外壁もコンクリート製であり、高さも遙より幾分高かった。

遙は警戒するように辺りを見回し、人がいない事を確認すると、生唾を飲み込む。


「……このぐらいの高さなら、跳び越えられるかな?」


遙は少々不安になりながらも一旦膝を曲げると、全身をバネのように撓らせ、高く跳躍する。少々引き気味になってしまい、もしかしたら着地に失敗してしまうと、心の隅でそう思っていた。

だが……かしゃん! と、鉄製の校門の上に立ち、遙は後方を見下ろした。助走も無しに、二メートル近くは跳んでいる。

校門を跳び越えるとまでは行かなかったが、それでも本気で跳べば、軽く飛び越す事が可能であっただろう。

非現実とも言うべきか、圧倒的な身体能力……己がした行為だというのに、眼を丸くせずにはいられなかった。


「わ、私……やっぱり」


遙は少し震える声で呟く。だが、瞬時にして頭を横に振った。


「……今更言っても、何度目か分からないしね。私は、もう人間じゃないもの……」


遙は寂しげに微笑を浮かべた。これだけの運動神経を目の当たりにすれば、もはや打ちのめされずにはいられない。

それでも、今の自分にしか出来ない事だって幾つもある筈だ。今は、むしろそちらだけを考えていた方が良い。そう感じた。

今は……相手を信じる……それだけで良い。


「どうか……信じて」


遙は両手を胸元に重ねた後、校門を跳び下りて着地し、暗い校内へと歩を進め始めた。










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