「お、重い……」


遙は厚く積まれた五教科のテキストを両手で重そうに抱えながら、大きく息を吐いた。

隣を歩く玲も、遙の半分程のテキストを両手に持ち、同じく重たげに歩いている。


遙が目覚めた後に担任に呼ばれ、今後も登校出来るか分からないと告げると、いきなり大量のテキストを手渡されたのだ。

多種多様な五教科のテキストが積まれ、体育などの技術面はレポートの作成……まるで、春休みなどの長期休暇に合わせた宿題のようだ。

恐らく担任としての気遣いであると受け取ったが、実際どうかは分からない。無論、担任も東木宅へ電話を掛けたりしていたらしく、遙が学校へ来た事で、ほっと胸を撫で下ろしたようだった。

遙は急にいなくなってしまった事に申し訳無く思うと同時に、何処か後ろめたさがあった。とにかくそれらを全て受け取り、玲に少しばかり運ぶのを手伝って貰いながら下校――それで今に至る。


「やっぱりあれだけ休んだから、こんなに宿題出されたんだなぁ……」


「先生もいい加減だよね? これを一学期の終わりまでに『全部終わらせて来い』って」


玲も呆れ気味に呟いた。遙はけして高くは無い背丈を精一杯伸ばしてテキストを持っているが、それでも肩に掛かる負担は相当なものだ。

眠りから覚めた時から体調がおかしく感じる。やはり、薬の副作用なんだろうか? 遙は疲弊の表情を隠し切れなかった。


「こんな事になるなら、ガークも連れて来れば良かった……」


「ガーク? 他国にお友達でもいるの」


「!! い、いや、違うよ。え、ええと……」


遙は思わず名前を声に出して言ってしまった。そういえば、玲はガークやフェリスを知らないのだった。何と誤魔化せばよいのか……

ガーク……ガークと言えば……そうだ!


「え、えとね……親戚の家の……イヌ。体が大きいから、テキスト運んで欲しいなぁ……なんて」


遙はお愛想笑いをした。正直、本人が聞いていたのならば、即座に殴られていたに違いない。

中々良い誤魔化しの言葉に思えたのだが、遙の顔は引き攣っており、何処か疚しい感じがしないでもない。だが、玲は朗らかに笑い返してくれた。


「あははっ! 随分とお利口さんなイヌだね。やっぱり動物ってさあ、人間に無い、いいものも沢山持ってるよ」


玲が何気無く呟いた言葉。それは遙の心に深く響いた。今の自分の体内には、獣のDNAが組み込まれている。彼らの良い所……

確かに、体力は上がった。持久力も上がり、傷も瞬時に回復する。それは不思議な体験であった。

自分は幾数の獣達の癖を受け継いでいる。それは今日みたいに悪い所ばかり見ていたが、良く考えれば良い事だってそれより多くあるかも知れない。


「そうだね……。ふふふ、何だか楽しくなってきたっ」


遙は軽くステップを踏んでみた。夕日に燃えて煌く道路は、黄金の道のりである。獣達を否定ばかりに出来ない。彼らだって、好きで自分の肉体に組み込まれた訳ではないのだから。

全ては一部の人間のエゴで融合させられた自分と獣。数奇な運命に振り動かされて、獣達は身体の自由を失い、何も分からない内に見ず知らずな自分へと取り込まれたのだ。

自分と獣達……不思議な出会いは、最初は牽制し合っていても、いつかはお互いを認め合えるのではないだろうか。

遙は自分自身にそう言い聞かせ、玲が慌てる中、道路沿いの坂道を駆け抜けた。そのスピードは相変わらず……というよりも、もっと速くなっているような気がする。


「もう遙ったら、そんなにはしゃいで……こけちゃうよ!?」


玲も走り、遙を追い駆けながら坂道を上る。すると、前触れも無く眩い程に燦然と降り注ぐ夕焼けの赤が直射された。

いきなり明けた光景に、玲は咄嗟に瞼を閉じる。太陽の光が網膜に焼き付き、黒の視界のあちこちがぼやぼやと緑や青に点滅した。

ようやく光に目が慣れてきて、玲は恐る恐る瞼を開いた。黄金の眼前に黒い人型が見える。それは夕焼けに染まる黄昏の影……遙が呆然と立ち竦んでいた。


遠くの山並みが紅蓮に燃え上がっている。足元に広がる黄金色の草原、河原。水は夕日に反射して明々と煌く面と、漆黒に染まる影が頻繁に入れ替わり、交錯していた。

玲は立ち尽くす遙に声を掛けようと歩み寄るが、寸前でそれを取り止めた。遙の頬に、一筋の涙が伝っているのを見て……


「っ……ごめん。何でもないんだ」


遙は玲の存在に気付き、慌てて涙を隠そうとする。だが、テキストで両手が塞がれて、涙が拭えないのだ。

日の沈んだ夜だったならば、涙も見つからなかったかもしれないのに。美しい夕日は皮肉にも遙の悲しみをはっきりと照らし出す。

思わず想起してしまう光景、一ヶ月近く前の自分が、人間であった頃の自分が、走馬灯のように脳裏を駆け巡った。

……そう、此処で自分が攫われたのだ。あの女の人と、蝙蝠の獣人に……その時眺めていた景色も、こんなに綺麗な夕日だった。

遙が何とか涙を隠そうと俯く中、玲は抵抗も無く顔を覗き込んで来た。遙は唾を飲み込み、息を詰まらせる。


「隠さなくても分かるって。私達は親友でしょ? 何があったか訊いていないけど……今晩の約束」


「! ……約束」


遙の思い出したような返事に、玲の顔が引き締まる。


「絶対守るからねっ! 遙もだよ?」


「う、うん!」


自分から言い出した事を取り止める気は無い。遙は濡れた頬を隠さず、昂然と顔を上げる。玲の笑顔が、陽光に照り返って、とても美しく見えた。

心から信頼してくれているような真っ直ぐな瞳は、遙の小さな胸に甘い香りを染み渡らせる。玲の純粋な心遣いが、素直に嬉しかった。

彼女を裏切れない。それは当然の事である。だが、それなりの覚悟が必要だ。遙は口元に薄らと微笑みを浮かべると、鼻から一気に息を吸い込んだ。


「っ……あ、テキスト。此処まで持って貰ったし、後は私が持って帰るよ。元々私に出された宿題だしね」


「気を遣わなくても良いよ? 遙の家ぐらいまでだったら、もうすぐだから……」


しかし、遙は頑として己の意見を譲らず、玲のテキストを自分の持っていた上に積ませた。彼女は渋々従い、テキストを重ねる。

無論、重さがズシリ、と、増してしまい、遙は歯を食いしばってその重みに耐える。暫くは安定せずにぐらぐらしたが、やがて落ち着いた。……これぐらいなら大丈夫だ。

振り返って見ると、玲は少し寂しそうな微笑を浮かべていた。遙はその彼女の不安を打ち消すように満面の笑みを湛えてみせる。


「大丈夫。私だって、少しは成長したから……じゃあ、今晩、学校でね……」


「うん……遅刻しちゃ駄目だよ、遙!」


玲は大きく手を振ってくれた。徐々に小さくなる親友の影。遙はそれに頷いて返すと、再び河原を歩み始めた。


……過去の妄執はまだ取り払われていない。あの時、もう少し早めに……いや、母を家で待っていれば良かったのだ。

そうすれば、拉致されずに、獣人としての運命も無かったかもしれない。でも、もうそれも過去でしかなかった。

過去は変わらないけど、未来は変えられる。きっと、いつか人間に戻って、再びこの街で過ごせるようになって……


――そして、また普通の生活が送れるのならば、もう、それ以上のものは望まない――


まだ遥かな旅路の果てかもしれない光景。だが、諦めるつもりは毛頭も無い。きっと元に戻れると、自分だけでなく、皆が信じているのだから。

遙はおぼつかない足取りで河原を降り、見慣れた住宅街に差し掛かった。家までは此処を抜けた商店街を越えればすぐだ。なるべく急いで戻ろうと足早に住宅街を歩行する。


だが、ふと、外灯の少ない、周りより心持ち暗い道へ出た途端、遙がおもむろに左側を一瞥すると、コンクリート壁に寄り掛かる一人の男がいた。

藍色のニット帽を目深に被り、長く伸ばされた前髪で眼の表情は上手く窺えない。だが、その瞳は血の色を宿していた。

どう見ても、黎峯の人種には思えない。僅かに緑かかった黒髪と真紅の瞳……それはロムルス人の持つ容姿。

何故、こんな所に異国の人がいるのだろうか? 不審に思いつつも、遙は見て見ぬ振りをするように、足早にその場を去ろうとしたが……


「よお、お嬢ちゃん。何処へ行くんだ?」


男は掠れた声で話しかけてきた。遙の足が止まる。だが、男の威圧感に止められた訳ではない。『自分で止まったのだ』。

その声は、遙の記憶の糸を急速に手繰り寄せる。悪寒と共に、体内に刻まれた波動。心の凄惨な傷跡、焼き付けられる油の塗った刃のような瞳。

この声……何処かで聞いた……でも、何処で聞いたのだろう。しかし、それに対する感情は恐怖以外の何者でもなかった。記憶は確実に想起される事を拒んでいた。

遙は言いようの無い不快感に内心悶え、男の声を無視するように、再び足を動かし始める。だが、遙が動き始めた途端、男は微かに顎を上げた。


「クク、幾分鈍感になったもんだな? ハルカ……」


「! どうして、私の名前を……」


遙は流石に聞き返す。だが、男はその反応を喜ぶように口端を吊り上げる。不敵な笑みが零れているのを見て、遙は張り詰めた緊張感に、顔を引き締まらせる。

ドク、ドク、と、鼓動が早足に音を立てた。恐怖という名の束縛が、身に覆い被さるような感触。


「いいさ……その内分かる。クク……それより、急いでるんじゃねぇかい?」


「! っ……」


遙はその言葉にはっとして、歩くのではなく、走り始めた。勢いのあまりテキストが二、三冊落ちたが、それでも拾い上げつつ、住宅街の奥へ疾走する。

男から見れば、その姿は滑稽でもあった。だが、何処か恨みがましい視線を浴びた気がする。彼女の獣の本能が、底知れぬ畏怖を放っていたのだろうか。

――いずれにせよ。男は困惑したように溜息を吐き、コンクリート壁に凭れ掛かりながら右手の道路を見る。


「クク、あんたがいなきゃあ、俺はハルカを捕まえていたのにさ? 良い所で邪魔してくれたもんだ」


男の視線の先には、心持ち橙赤色がかった茶の頭髪を持った、若い女性が立っていた。余裕を抱いた碧眼が、じっくりとこちらを凝視してきている。


「ふふん? 遙は渡さないわ。あなた達『GPC』の輩には……ね」


女性は抑揚無く呟いた。何気無く呟いた感じの言葉であったのだが、込められたのはゾッとするような殺気。容赦無しに剥き出された獣人の力に、さしもの男も苦笑した。


「……あんた、雑魚じゃないだろ? 何者だ?」


「私? ふふ、何かな……自分でもまだ答えが出せないんだ。窃盗かもしれないし、娼婦かもしれない……唯一つ言えば、今はあなた達の敵である『獣人』よ」


女性はいともあっさり答えた。といっても、漠然とした答えではあったが。男は笑みを消し、女性の隣を通り過ぎる。


「随分と気丈な女だなぁ……クククッ……あんたみたいなのと、出来れば一緒に此処へ来たかったよ?」


「あら、ありがと。……でも、次に会う時は覚悟しておく事ね……コウモリのお兄さん?」


女性の言葉に、男は微かに引き攣ったような顔立ちになった。だが、その瞳は嗜虐性を秘めた残酷さが炯々と光を放っている。

男は不敵な笑みを横に、女性の前から姿を消した。女性――フェリスは溜息を吐きつつ頭を掻く。


「……二匹目発見。まさかもう一人いるって訳じゃなさそうだけど、どちらも手練って所かな? 早いとこ、親戚の家のイヌにも伝えておかなきゃね」


フェリスはぽつりと独白すると、暗がりに沈み始めた路地を越えて遙の家へと向かった。






――――――――






「……ただいま」


遙は鍵を開けて家へ入った。心成しか、一気に緊張が解け、安堵感が増した気がする。久々の学校、裕子の言葉、玲との約束……

そして、帰宅途中に逢着した不気味な男。彼と出会ってからは、足元に油でも撒かれたように両足の感覚が震え上がってしまった。

一体何者だったのだろう。今となってはよく分からないが、忘れてしまいたい記憶が無造作に引き出される感触がしてしまい、遙は吐き気を催した。


だが、やっとの思いで辿り着いた自宅。家に戻れば、ガークもフェリスもいるのだ。例え、どんな敵であろうとも、皆の力を合わせれば突破する事は出来るだろう。

遙はほっと溜息を吐き、革靴を脱いで廊下へ上がる。すると、洗面所の方からのそのそとガークが現れた。


「お? お〜……遙。おかえり……」


「ど、どうしたの? やけに元気が無いけど……」


遙は萎れたガークを見て、苦笑した。だが、当の本人は土色の肌に、頬は何処かゲッソリとこけてしまっている。動きもどこか緩慢で、ナマケモノのようにのろのろと歩いているのだ。

ガークは遙の狼狽した問いに、渇いた唇をぱくぱくと動かしながら、蚊の鳴くように小さな声で呟く。


「あのな……ちょっと食中りってヤツだ。フェリスの作ったメシを食ったら、消化器で変な菌が繁殖したっぽくて……」


彼の答えに、遙も顔色を青褪めさせる。


「も、もしかして、吐いたとか?」


「いや、吐くまではいかなかったが、ちょっとトイレ借りたからな。一応言っておくぜ? ……にしても獣人の消化器ぶち壊す程の細菌かよ……」


ぶつぶつとぼやきながら、ガークはリビングへと歩き始めた。

擦れ違って見えた彼の疲弊した顔立ちはいつもの生気が感じられず、もはやオオカミどころか飢えに飢え切った野良犬を彷彿してしまう面持ちである。

そんな彼の様子を慮りつつも、取り合えず遙はテキストを分割して自分の部屋へ持っていく事にしたのだが、ガークの台詞を反芻し、思わず眉を顰めた。


「……ねぇ、ガーク。トイレ借りたって言ったよね?」


「あ〜? そうだよ、もう訊く必要ねぇだろ」


「い、いや、まさか……『食べてないよね』……。だって、イヌ科って――」


「何だよ! 『食べてないよね』って!? 俺はそこまで落ちぶれちゃいねぇよ!!」


ガークが顔を真っ赤にしながら怒号した。一応謝っておいたが、彼は「笑い事じゃねぇぞっ」と言い返す。確かに、少し言い過ぎてしまったようだ。

流石にそこまで動物の本能が出る訳ではないらしい。遙は行動とは裏腹に、内心ほっとしながらも、一旦自分もリビング内に入る。

肩から荷物を下ろし、鞄の中の整理をしながら、遙はぼんやりと己の腕に目をやった。


……獣人種がキメラだと言う事を知ってからよく考える事だが、一体なんのDNAを組み込まれているのだろう。

ネコのように丸まって寝る癖もあるし、今日の朝に玲と会った際には、相手の気などお構いなしに匂いを嗅ぐような事までやってしまった。

玲には「犬みたいだね」などと苦笑がちに言われてしまい、遙は全身の毛がそそけ立ち、耳まで赤くなるほどの羞恥心に襲われてしまったのである。

獣人同士であれば、ある程度は緩和されると思える行動だが、精神的には今も人間なのだ。やはり恥ずかしいと思ってしまうし、自分に対しての疑心が浮かばないわけでもない。

これから長い付き合いになるであろう獣達。出来るだけその本能は理性で抑えたいものなのだが……。人間時でこの状態ならば、獣人化時の本能はどれ程のものやら。


「キメラ獣人……か」


ふと、両腕を目の前に翳して見て、目覚めた頃の事を思い出してみる。初めて獣人化した時に感じた肉体の苦痛と精神の恍惚。そして変貌を終えた後の自然界では有り得ないであろう己の獣腕。

その獣人化時の自身の姿も思い返してみれば、羽毛のような組織に腕が包まれていたっけ? ならば、いつか背中から翼が生えて、空を飛べるのなら……


「まさかそんな事ないよね。でも、もしそうなったら、レオフォンさんにも自慢出来るなぁ」


遙はくすくすと笑いながら、絶対不可侵区域で帰りを待っているであろう白獅子の姿を思い浮かべた。彼の背には大きな一対の翼がある。

どこか無骨な翼ではあるが、それは遙から見れば強靭そうで、とても立派なものに見えた。もしかして、あの翼は空を飛ぶためにあるのだろうか? そうであるならば、是非とも背中に乗せて貰いたかった。


そんな事を考え、遙は上機嫌に鼻歌を歌いつつ、保護者宛ての書類をリビングのテーブルへと置く。

そして、突如として自分の鼻歌のメロディーに苦しげな呻き声が雑じった事を機に、昏倒しているガークに目をやった。

ガークはソファーの上で今にも泡を吹きそうな表情を張り付けたまま仰向けになって転がっている。流石にそんな彼を放置している事も出来ずに、遙はおもむろに声をかけてみた。


「ええと……ガーク、大丈夫?」


「……ぐぁぁあ……やばい。吐き気までが……」


遙は一旦テキストを置いて、ガークへ歩み寄る。顔色が確かに悪いが、どうしたものか。


「ちょっと待ってて、何か薬があれば……」


そう言って、遙はリビングの奥に置かれた棚の引き出しを開け、中をごそごそと弄った。確かこの辺りに薬の類が収納したあったような。

だが、獣人は人間の薬が効くのか……? 一瞬そんな事を疑ってしまったが、半分は人間のままなのだし、多少の効果はあるであろう。勝手にそう解釈し、遙は胃薬を取り出す。

そして、台所へと赴き、綺麗に整頓された食器棚からコップを取ると、水道で水を注ぎ、やがて薬と一緒に持って大仰に痙攣してみせるガークの元へと歩み寄った。


「はい、ガーク。獣人に普通の薬が効くかどうか分からないけど……軽い胃薬。ちょっと苦いけど、多分これで治るだろうから……」


「……あぐぁぁ、助かった……サンキューな、遙。ま、獣人つっても、人間と同じモン食って生きていけるし、薬だって多少の効き目はあるさ」


そう言うと、ガークはあろう事か、遙の差し出していた水入りのコップの方は受け取らず、粉末状の薬をそのまま飲み込んだ。当然、遙は絶句する。

水も一緒に、と……しかし、言うのが遅かった。彼はすぐに咳き込んで、目尻に涙を溜める。


「ぐえっ! 喉が、喉がっ!!」


「だ、大丈夫!? ほら、水と一緒に飲まなきゃ……っ!」


ガークは遙の手から水の入ったコップを乱暴に受けとって、喉へ流し込んだ。

遙が目を丸くする中、たっぷり溜めていた水はあっという間に無くなり、ガークはコップから口を離してぜぃぜぃと息を切らせる。


「し、死ぬかと思ったぜ。苦い」


「そ、それはそうでしょ? びっくりした……水も無しに飲むなんて」


獣人の五感が人間よりも遥かに高いのは百も承知である。当然、触覚も人間時より敏感になっているであろう、相当な苦汁であったに違いない。

ガークは水を飲み干した後、大きく溜息を吐いて再び横になった。まさかとは思ったが、もう顔色が治っている気がする。それでも、少々不機嫌そうな表情だったが。

遙はそんな彼の容態に、ほっと安心したように踵を返しかけたが、直後、ガークが背中越しに声をかけてきた。


「そう言えば、遙。お前、友達に『言った』のか?」


「あ……それは、ちょっと」


遙は押し黙ってしまった。今晩は内緒で出掛けるつもりだったのである。元々は、学校で言っておかなければいけない事であったが。

唯でさえ、絶対不可侵区域から人里まで付き合って貰っているのだ。これ以上迷惑をかけてしまうのは、どうも忍びない。

遙は一瞬表情に陰りを浮かべたが、ガークの視線を受けた拍子に苦笑して顔を上げた。


「うん、明日まで待って欲しいんだ……まだ、ちょっと時間が」


「ふん、そうかよ……まぁ、そこまで責めたりはしないけどさ。明日も学校なのか?」


「いや、明日は休み……だから、玲の家に直接行って来るよ……」


ガークは責めるような事はしなかった。彼もまた、過去に同じような葛藤があったからなのだろう。いつもなら、文句の一つや二つ投げかけてきてもおかしくない状況なのだから。

遙は俯いた。嘘を吐いた後ろめたさ、信頼してくれているガークを裏切るような事をしてしまい、心が痛んだが、それでも玲の約束を優先したかったのだ。

今はとにかく、独りで考える時間が欲しい。言うなれば、覚悟を決める時間を……

遙は立ち上がって、テキストを二階へ置くために荷物の整理をしようとしたのだが、またもやガークが奇声を上げる。


「ぐあ……! また腹の調子が……!!」


「! そ、そんなっ! 早く洗面所に行って……」


遙が言い終わる前に、ガークは脱兎の如く走っていた。あっさりリビングに取り残され、遙は呆然とする。


「本当に大丈夫なのかな?」


ガークの調子は少々心配だったが、獣人であるし、何よりあれだけ走れるのなら大丈夫であろうと思った。

皆には悪いが、今は何だか心の中が砂嵐のように揉みくちゃにされている感触がある。暫くは独りでいたい……遙は瞑目しつつ、鞄の中へテキストをしまい込んだ。






「……ちくしょうっ! 何で俺がこんな目に遭わなきゃいけねぇんだっ! あのボツリヌス女めぇぇぇ! 絶対許さねーっ」


ガークは散々悪態を吐き散らしながらトイレへと駆けた。見た目も味も豪勢な料理に含まれていたものは一体なんだったのやら。それはもはや作った本人そのものである。

初めて会った時はとんでもない美人だと思えた端整な顔立ち。性格も……昔の方が幾分良かった気がした。今は他でもない毒入り女である。騙されれば致命傷になりかねない。

ガークは己の朋輩の不敵な笑みを思い浮かべ、ぞぞっと背筋が凍りついた。正直、これ以上一緒に行動していたら、いつか命まで危うくなってくるのではないだろうか。

取り合えず、今はフェリスの事よりも、体調の方が危険であった。だが、ようやくトイレの前まで駆けて来た所で、ガークの疾走が蔓に絡まれたように、無様に止まる。


何しろ、洗面所の前に立っていたのは、フェリスその人だった。少しばかり憔悴しているようにも見えるが、碧眼は暗闇でも悪戯っぽく煌いている。

ガークは一瞬死神とご対面した気分になったが、とにもかくにも、今はそれ所ではない。


「フェリスっ!? お前何処行っていたんだよっ。病人の俺をほったらかしにして――っていうか、そこを退けぇ!!」


「あらら、獣人だから、消費期限切れの食物ぐらい大丈夫かと思ってたけど、やっぱり中っちゃたんだね」


「な、ななな! 確信犯かよ! よくもそんな事しやがって……」


フェリスは怯える様子も微塵も無く、揶揄するように答えた。当然、彼の方は怒りが頂点に達し、低い獣声を上げる。

だが、ガークの行動とは裏腹に、フェリスはそっと彼の耳元へ唇を近付けて来た。息がかかるぐらいに近付けられた彼女の口元。ガークはぎょっと顔が強張った。


「!?」


唐突過ぎるフェリスの怪しげな行動を疑問に思ったガークは、どぎまぎしつつも、次の瞬間紡ぎ出された彼女の言葉に真剣な顔立ちになる。


「……先に戻ったガークには悪いけど、ちょっと遙の周りを見てきたの。そしたら案の定、『刺客』が来ている」


「な、どういう事だ? あの昼間のヤツか?」


「違う。今見つけた限りじゃ、昼間のも併せて二人よ。少人数だけど、双方共馬鹿には出来ないわ」


重々しい、心持ち低い声で淡々と喋る彼女の顔は、普段の軽快さが感じられなかった。内に秘める獣の獰猛さとも受け取れそうな呼吸。

闘気に近い荘厳な波動は、ガークの肉体を貫き、精神を集中させるには十分だった。彼も眼を光らせる。フェリスはそのガークの様子に微笑を浮かべた。


「今晩、ガークは夜番に徹してもらうよ? ふふ、食中りで大変そうだけど、悪気は無かったんだから、許してよね」


「ざけんなっ! 保留だよ馬鹿野郎!!」


最後のフェリスの言葉を、ガークはぶっきら棒に叩き落す。だが、その顔はフェリスと同様、真摯に引き締まっていた。









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