『今晩の九時に……学校の屋上に来て欲しいんだ……』


何をするつもり……無論、そんな気持ちは毛頭も無い。遙の遠回しで分かり易い言い方は、昔から慣れていたのだから、玲は親友の困惑した表情を思い出して苦笑した。

憔悴した様子の余り、保健室に預けてきた遙を慮りながらも、少しばかり湿っぽくなった玲の頬は紅色に染まり、意志強き瞳は陽光を取り入れて、寂々しく滲んだ。


「隠し事は無しって、昔からの約束なんだから……」


玲はごつごつと痛くなった喉を左手で押さえる。出会って以来、体も小さい、童顔で病弱な遙は日増しに大きくなっていく感覚があった。

いじめられて、からかわれて、時には酷い事故に遭っても……そんな困難を幾つも乗り越えて、彼女は随分強くなっただろう。自分だってどれ程の勇気を貰ったか分からない。

高校に入ってすぐはお互い緊張していたが、それでも昔からの付き合い。今の今まで隠し事なんか、一つも無かったと思うのだ。

だが、急に遙は消え、連絡は一切途切れた。何が遭ったのか、何度も連絡を取ろうとメールや電話を送ったし、家まで行って見た事もあった。駄目元で教師に訊いても、やはり何一つ答えない。

まるで最初から遙がいなかったように思わせる失踪……只事では無かった……そう思っていた矢先、遙はひょっこり戻ってきたのだ。だが、どうも様子がおかしい。何かあったのは分かるが……

戻ってきた遙は不思議な印象があった。見た目は何も変わっていないというのに、真に受ける印象は別人を見ているような感じで、そう、とても大きくて、辛いものを、無理に覆い隠しているような姿だった。


「余程の事……なんだ。今の遙がそこまで隠すなんて……」


授業が漫然と進む中、玲は左隣のぽっかりと開いた席を見詰めて、声も無く泣いた。






――――――――






「ほ〜……高校で動物を飼育してるのは珍しいかもな?」


明北高等学校、敷地内。ガークは裏手の門を潜ってすぐ左手にあった、簡素な飼育小屋に目を留めて感心したように眉を上げる。

飼育小屋は簡単な作りで、粗朶や廃材を針金などで取り繕って形作られている。確かに見た目はけして良いものではないが、作り手の深い気持ちが込められた温かみが感じられた。

恐らく生徒達が皆で協力して作り上げたのだろう。その飼育小屋の中には、茶や白、黒の体毛に覆われたウサギ達が、もそもそと口を動かしながらせっせと採食を行っていた。

何とも愛らしい姿だが、目付きは何処かキツく、常に周りを警戒するかのように五感を働かせていた。その証拠に、耳が絶え間無く動き続けている。

だが、彼らはガークが小屋の目の前まで大股で歩み寄るや否や、皆で食していた牧草を放り出し、寝床であろう、奥に設けられた小さな木箱の中へと逃げ込んだ。

当然、それらウサギの反応を見たガークは、憮然として重々しい溜息を吐き、額に掌を押し付ける。


「な〜んてこった。獣人になってからってもの、見る動物は全部逃げていくぜ。こっちも同じようなモンだろ?」


「それはないでしょ? だって、ガークは『オオカミ』なんだから」


この時ばかりはイヤミな事を言う女だ。ガークは小屋の側壁代わりに張られた、針金の隙間から入れていた指先をさっと抜いた。

そんな皮肉を言うのは、歩きながら悠々と伸びをするフェリスである。大体、彼女はヤマネコであるというのに、その佇まいはライオンやトラすらも舌を巻きそうな程に堂々としているのだ。

オオカミ……ましてやクロヒョウまでをも恐れぬヤマネコがいようか? 何というか、キメラ獣人の完成体とも言える遙よりも稀有な存在に思えてくる。


「……ったく、フェリス。お前って皮肉屋か? 俺だって好きでオオカミになった訳じゃねー!」


「そうだね。ガークはイヌの方が似合うもの。……ほらほら、ウサギさん達がご飯食べれないじゃない? ガークがそんなに睨んでたら、女の子も寄って来ないよ?」


「余計なお世話だ馬鹿!!」


ガークは言下に吐き捨てた。自分が万が一イヌであったならば、このフェリスは小癪な猿とか、あるいは巨大なクマのように強大な生物に違い無い。

青年は青筋を額に浮かべながら鼻を鳴らし、ずかずかと校内に侵入する。授業が続いているのか、生徒達の気配は校庭には無かった。フェリスもひょいひょいとそれに続く。

綺麗に舗装された色取り取りの道は、派手さを伴わず、木々のざわめきを取り込みながら奥の校舎まで枝分かれしながら伸びている。

その道の右側には、幾つもの棟が立ち並んでおり、ガーク達は手始めに一番手前に建設された棟内を窓から様子を窺った。

閉められたカーテンの隙間を後席の外側から覗けば、生徒にも教師にも分からないであろう。


「さて……遙は何処にいるかな? 皆勉強熱心なものだね。ちょっと昔を思い出すかも」


フェリスは心持ち小声で口端を得意げに曲げた。それを聞いたガークは半ば呆れ気味に息を吐く。


「お前って学校行ってたんだな? てっきり旧職は娼婦か窃盗犯かと思ってたぜ」


「今なら窃盗は自分でも合ってる気がするよ。……あ、娼婦はちょっと否定はしないでおこうかな?」


「は!?」


ガークが愕然と聞き返す。冗談で言ったつもりだったのだが……。たった今、相棒がとんでもない事を口走った気がする。

しかし、彼女は何事も無かったかのように、やけに美しい声で鼻歌など歌ってみせていた。

彼が真っ青な顔立ちで見詰めてきている中、フェリスは眼を細めて教室内を伺い見る。教師も見えないようなカーテンと柱の隙間から透徹した碧眼が覗いた。

教室内の人間が気付かないように、息を潜めながらもニヤついている姿……そういう所を見れば窃盗犯っぽい。だが、娼婦っていうのは――


「……ねぇガーク。此処に遙の姿は無いよ。もしかしたら、別の教室にいるんじゃないかな? 匂いで探ってみてよ」


「ん、あ、あぁ……って、匂いが多過ぎるっつーの。ま、波動を掴めばどうにかなるんだが、それに関しては、お前の方が優れてるだろ?」


ガークがいらぬ思考を振り払いながら、鼻の下を掻いた。何と言っても匂いは無数にあるのだ。幾らなんでも、これだけの数から遙一人の匂いを辿るのには、獣人の嗅覚と言えど限界がある。

ガークの大儀そうな言葉に、フェリスは自慢げに口端を吊り上げてみせた。鋭い碧眼が瞼の動きと共に細く縮まる。


「ふふふっ、その通り。本当に役に立たないイヌだこと……。さてさて、ガークは大人しくお座りでもして、上司の敏腕の振るい様でも見ていなさい」


ガークがわなわなと唇を震わせて、怒り爆発寸前となっているのを平然と無視し、フェリスは瞑想するかのように、静かに目を閉じた。


波動は、幾筋もの生命が放つ無意識の内の流れ。それは目に見えずとも、感覚として肉体に刻み込まれていくのだ。

口では説明し難い感覚であるが、読み取る事が上達すれば相手の微かな気持ちの揺らぎや、性格、その生命の型――種族や年齢すらも漠然としてはいるが、感じ取る事が可能である。

人間の頃であれば掴み取る事すら適わない微弱な流動は、獣人の感覚がどれ程繊細であるかが窺えるものだ。彼女は己の意識が届く限り、幾数の波動の流れを伝い、目的の波動の型を探る。

だが、蜘蛛の巣のように張り巡らされたフェリスの感覚網は、何か別の存在を蝶のように捕らえた。それは蝶のようにもがく事もせず、わざと捕まったような不自然な感触。


「? 変だよ。遙の波動が捉えられない。何か別の……獣人らしい気配がする」


「はぁ? 敵かよ。しかも、何だお前のその漠然とした答えはっ。ちゃんと捉えやがれ!」


フェリスはここぞとばかりに大声を上げたガークに対して、「生徒達にバレるじゃない!」と不機嫌丸出しの状態で言い返した(無論、小さな声である)。

とにかく、少々耳が痛くなりながらも、フェリスは集中を続ける。

しかし、伝う波動は殆どが『人間』のもの。波動が捉えられないという事は、何者かが遙の波動を『妨害』してしまっているのだろうか?

普段であれば、キメラ獣人の持つ複雑な波動の型は、何千という莫大な数の中からでも特異な存在であるが故に捉えやすい筈である。

フェリスは集中していくと同時に記憶を手繰り、やがて思いついたように、強張った顔を穏やかに弛緩させた。


「遙の波動は……無いよ。ちょっと言い方が可笑しいけど、『獣人として』感じ取れない。もしかしたら、薬を使ったのかもしれないよ?」


「薬って、獣人の本能を抑える奴か? やっぱりピンチになってしまったのかよ。結局そんなもんだろうと思ってたぜ」


「! 少し黙っててガーク!」


さっきガークへ言い付けた言葉とは矛盾し、急に大声を上げたフェリスに、ガークはびくりと肩を揺らした。

何事かとガークが唇を突き出すが、間髪を入れずに彼の下にも何かの波動が流れ込んでくる。

……キメラ獣人のように複雑なものではない。しかし普通の獣人とも少しばかり違う。変な例えだが、波動自体が黒い筋のような感じであった。


「この波動は……単純に言っちまえば、レパードの奴に近いな。だが、どんな奴かまでは俺じゃわからねぇ」


「ガークだけじゃない。私にも掴めないぐらいに波動の流れを押し留めているみたいだけど……」


だが、フェリスが台詞と途中で切らせた。ガークも息を止める。双方とも、反射的に体内に流れる獣の血がざわめく感触を覚えた。

裏門へ入る道路。萎れた柳が垂れ下がったコンクリート壁により、T字型に曲がっている突き当たりに、ふと、異形の気配が現れたのだ。姿は見えているというのに、はっきりと確認出来ない。

人型をした存在。獣の強かさをも持ち合わせた異形を、ガーク達が睨み返す。すると、その異形はこちらへ振り返った。


見た目は人間と変わらない。だが、隠しようの無い力の奔流が、その華奢な肉体の内に燃え盛っている。ガークは無意識に戦闘態勢をとった。

恐らく、相手は少女であろうか? 遙より少し年上そうに見える、白衣の少女。ゾッとするような青白い衣服は、冷厳さを表しているというよりも、冷たい殺気を秘めているように思えた。

その少女もこちらを見詰め返してきているが、戦意はまるで感じられない。いや、『感じ取れない』だけなのか?


「ちっ……獣人……なのか? 今の所、戦闘するつもりは無いようだが」


ガークがしゃがれた小声で呟く。フェリスは何とも難しそうに眉根を寄せる。少女の放つ僅かな波動は、キメラ獣人とも違った複雑さがあった。


「おかしいな。人間かもしれないし、獣人かもしれないし……波動の型も読み辛い。気配もはっきりしない……。でも、分かるのは」


フェリスが柄にも無く額に汗を浮かべながら、無理にニヤリと笑ってみせた。


「味方ではないって事だね。上手い具合に隠しているようだけど、こちらに敵意を持っている」


フェリスが言い放つと同時に、少女は何処か憮然とした様子で、こちらから視線を離した。そして、何事も無かったかのように、再び道を歩いていく。

向かい風が吹き込んできているというのに、先程の少女の匂いや気配はこちらへ殆ど運ばれてこない。結局、その少女は音も無く、二人の視界から消え去った。

氷が一気に溶け出す勢いで、唐突な緊張から開放されたガークは、どっと溜息を吐く。


「……あいつ、匂いも残ってねぇぞ。不味いな、もしかしたら、遙を捕らえに来た刺客とやらか? だとすれば、随分とヤバイのに狙われたもんだ」


ガークは怪訝そうに眉を顰めつつも、のんきに首筋をボリボリと掻いた。フェリスは苦虫を噛み潰したように渋面を浮かべている。


「多分、敵は一人じゃないよ。キメラの完成体に近い被験体……尚更捕らえようする筈だしね。ちょっと、暫く遙を一人には出来ないかな」


「へへ、まぁ、敵が多ければ多い程、腕が鳴るってモンだぜ? 良い修行みたいなものさ」


ガークもフェリスも、お互いを見て、何とも不敵な笑みを浮かべる。

彼らが極悪人のように忍び笑いする様を見て、のそのそと出て来始めていた小屋のウサギ達が、毛を奮い立たせて再び木箱に戻って行ったのには双方とも気付かなった。






――――――――






――身が灼ける。

背中が熱い。まるで火で熱した鉄棒を無造作に押し付けられたような痛み。それとは対照的に、患部以外は極寒の地に晒されたように凍り付いていた。

熱くて、寒くて……矛盾した痛みが全身を苛む。暗赤色に染め上げられた視界の端に、発光する赤い光がゆっくりと明滅していた。

体を起こそうと身を捩るが、指一本動かせない。耳の奥で、誰かの悲鳴や怒号、狼狽し、震えた口調で話す声や、無機質な走行音、機械音が遠く遠く響き渡っていた。

此処は何処? 何でこんなに痛みがあるのだろう。呼吸すらも出来ない程に動作が滞る。……やがて、聞こえてくるものは己の鼓動のみとなった。しかし、その弱々しい拍動も徐々に力を弱めていく……

暗い絶望と、吹き付けるような冷気と熱風に、ふと、背中の痛みに柔らかな手が添えられたのを感じて、自分は身が安らぐのを感じた。痛みは延々と続いているが、精神は対照的に落ち着く。


"遙……!"


懐かしく、優しい声。しかし、それは今、悲鳴に近い声となっていた。その声で何度も名前が呼ばれる。知っている、この声は、ずっと聞き慣れたものだ……

だが、その声が虚しく鼓膜を反響していき、それが急激に遠くなっていくのを追おうとして、遙は動いた。






「! わっ……」


遙は唐突に目を覚ました。開けた明るい視界には、驚いて手を止めている玲の姿があった。


「大丈夫? 遙……魘されていたみたいだけど」


「ご、ごめん……夢を……見てたんだ……」


白い天井を眺めて、軽く深呼吸する。意識が完全に覚醒するのを待ちながら、眠る寸前までの記憶の糸を辿った。

そういえば、あの後、強引にも玲に保健室へ連れ込まれ、こうやって寝台で横にされていたんだった。

毛布とシーツを被る為に引き伸ばしつつ、遙は目を細めた。玲が苦笑しながらこちらの塩梅を窺っているのを見て、遙も強張った頬を緩めて笑い返す。


『事故の傷……』


ふと、夢の事も回想してみる。あれは、事故に遭った瞬間の記憶だったようだ。殆ど心の奥底まで封じ込めていた記憶を、今日の裕子の台詞であっさりと思い返してしまった。

思わず身震いしそうになる恐怖。まさか、高校のクラスメイトが知りもしない事を、裕子が知っていようとは、思いもしなかったのだから。

玲にはもう気にしていないと言った傷も、正直に言ってしまえば、今後、消える事はないトラウマだろう。事故に遭ってから、車を見る度に筋肉が硬直したりしたものだ。

そういえば、ガーク達はこの背中の傷の事を知っているのだろうか。自分がアルダイトとの戦いで負った傷の手当ては、彼らがしてくれたのだろうし……

そう思うと、少々恥ずかしく感じた。恥ずかしい程度で済むから、自分は余程彼らに依存しているのかもしれない。

獣人となって、心を許しあえるのは同じ境遇の者だけであると、つい昨晩ぐらいまではそう思っていたのだ。

だけど、玲はどうだろう? それに、連絡が未だに取れない母も……獣人の自分に対して見せてくれるものは、憐憫? 恐怖? 憤怒? それとも愛情?

心境はずっと複雑だった。今自分の心の柱――獣人となっても受け入れてくれるであろう期待――は、本当に弱々しく、儚いものなのかもしれなかった。

これを引っこ抜かれてしまえば、『諦め』だけでは済まない事は分かっている。


それでも玲との約束。今日の晩、全て打ち明ける……嘘は吐けない。その為に此処まで来たんだ。


「……玲、今何時かな?」


暗い思考を振り払いたくて、遙は心配そうにしている玲に問うた。彼女は白い壁に掛けられた時計を見て、何処か揶揄するように言う。


「もう、放課後だよ? ずっと寝てたんだね」


「え、放課後!? っ……痛ぁ!」


ごつん! と鈍い音がして、遙は寝台の両端に付いている鉄製のパイプに、思いっきり額をぶつけた。

余程強くぶつけたらしく、かなり骨に響く。じんじんと痛みは広がり、玲が慌てて近寄った。


「大丈夫!? 血まで出てるよ?」


「うぅぅ……大丈夫だよ。血はすぐ止まるから……」


そう思って、遙は玲の手当てを断ったのだが、おかしな事に、血は止まらない。

キメラ獣人の肉体ならば、骨折さえ数時間で戻るのだし、打撲やラボに咬まれた創傷だって、あっという間に治ったのだ。

しかし、いつもなら大きく循環を始める鼓動は静かに脈打つだけだ。結局、玲にハンカチを当てて貰いながら、遙は怪訝そうに眉を寄せた。


(どうしたんだろう? 傷が治らないなんて……)


遙は玲に感謝しつつ、起こしかけた身体を再び横にした。止まる筈の出血が治まらない。

その事が不安になりつつも、遙は何も口に出さずに黙り、着実に進む時計の音を耳に捉え続けた。









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