「うわ……」


遙は玲に貸して貰った数学のノートを開いて見て、思わず苦笑した。黒板の文字と、自分が最後にとったであろう、ノートのページも見比べてみる。

正直、この難解さは笑い事ではない。遙の脳に備わる情報処理機能は、数式を一度で飲み込める程の能力は無い。一ヶ月近くの休みは確実に勉学に支障を来たした。

どうせなら獣人になった事で、身体能力が向上するよりも学力の方が上がって欲しかった……そんな愚にも付かない事をぼんやりと考えながら、再びノートへ視線を落とす。

玲のノートに記された訳の分からない記号や数字の公式を、気の進まぬ筆で取り合えず自分のノートへ写しつつ、遙は勉強という重荷に溜息を吐かずにはいられなかった。


(そういえば……みんな……本当に私が変わった事が分からないんだろうか?)


ふと過ぎる疑問に、遙は教師が次々と黒板に文字を書いていくのを、手を止めて眺めた。時間はのんびりと過ぎていく。

確かに、普通の一般人が自分達獣人の気配や波動を感じ取れない事は承知の上である。しかし、やはり少しは気になる所だった。玲すらも、それには気付かないのだから。

当然、周りのクラスメイト達も遙には見向きもしない。……何といっても、自分の席は教壇から見て最後列の右側である。よくよく考えれば、誰も遙に興味を示す筈が無かった。

幸いな事に玲は自分の右隣である。しかし、その彼女も、今は黒板へと集中が行っている。自分に対して、何の頓着も示さない皆に、遙は心底安堵した。

別に自分を特別扱いして欲しい訳では無かった。むしろ、獣人と感付かれないのなら、『普通の生活』を送れる。獣人になっても……淡い期待が遙の心の中で、じわじわと燻っていたのだった。


「ふぅ……」


遙は小さく溜息を吐いて、ちらりと左隣の窓を見た。黄色の砂が太陽に晒されて、浜辺のようにさらさらと煌く校庭。その砂を護る擁壁のように張り巡らされた濃緑色のネット。

それを越えた歩道を、眼を凝らして見てみたが、相変わらず誰の気配も無い。見えるのは一般人の忙しく動く姿だけだ。

学校に来た途端に感じた、獣人と思しき気配。……きっとあれは勘違いだったのだろう、現に、何も気配や波動は感じられない。その事に対する安心感からか、遙は大きな欠伸を漏らしてしまった。


「むにゃ……」


無意識の内に猫のような鳴き声が出た。目尻に透明の涙が溜まり、眠気が増加したような気がする。朝の陽気は、遙の心に睡魔を呼び寄せ――


「東木! あれだけ休んでいたんだぞ。欠伸する余裕があるなら、一つでも公式を覚えろ!」


「は、はいっ!」


安眠妨害……もとい、急に教師に怒鳴られ、遙の夢世界が竜巻に飲まれたように呆然と消え去った。怒声と共に、周りの視線が全てこちらに向けられる。

遙は羞恥心と緊張の余り、体がびくびくとなりながらも、顔を真っ赤に紅潮させながら慌ててノートを取り始めた。






――――――――






「はぁ……やっぱりあれだけ休めば公式も何もかも分かんなくなっちゃうよ」


遙はノートを捲りながら、難しそうに眉を顰める。無論、数学だけではない。英語や理科も致命的な遅れを取った気がする。

唯でさえ元から成績がずば抜けていた自分ではない。どちらかと言えば中の下であるし、勉強する時間も殆ど取る事が出来なかったのだ。出席日数も合わせると、これでは進級まで危うい。

これからの学生生活を慮れば、獣人同士の死闘すらも、何だか重要じゃないような気がしてきて……


「どう? 遙。少しはノート写せた?」


突如、隣の席に座っていた玲に訊かれ、遙は何処か抜けた眼差しで虚空を見詰めたまま、無言で首を横に振る。


「全然駄目だよ。今の授業も聴かなきゃいけないし、二つも一緒に書かなきゃいけないのは難しいなぁ……」


「そうだよね。ま、二時間目の国語の時間は自習みたいだし、少しずつ写していけば良いよ。これからは、学校に来るんでしょ?」


「! え、と……それは……」


遙は玲の言葉に息詰まった。恐らく、明日か明後日には、もう絶対不可侵区域に戻らなければならないだろう。皆に迷惑がかかってしまう。

自分には、やり残している事が山ほどある。此処へ舞い戻るには、まだ早過ぎたのかも知れなかった。自分は、もう昔の自分じゃない。『獣人』なのだ。

今日は運良く学校に来れ、そして、また幾日もの時を開ける……本当の事を言ってしまえば、玲は悲しむだろう。それは例え、彼女が顔に出さずとも分かり切った事だ。


「……今は、ちょっと分からない。もしかしたら、また来れるかもしれないし……」


結局、曖昧な返事に留まる。何とか、彼女と二人きりになる機会を窺わねばならないのだが、朝の学校内は人のいない所など、とんと思い付かなかった。


「そっか。じゃあ、今の内に急いで書いてしまった方が良いかもね。大丈夫だよ、明日は休日だし、ノートは全部貸して上げる」


「そ、そんな。それは悪いよ。玲も勉強しなきゃいけないでしょ?」


遙は思考を払って、慌ててノートを綴じて玲へ差し出す。だが、彼女は首を振り、頑として受け取らなかった。そして、何処か痛いような、複雑な笑みを浮かべて続ける。


「良いよ良いよ、別にテストはまだ無いし、遙が写すぐらいなら全然大丈夫だよ。ほらほら! それより早く鉛筆を動かしなさいっ」


「……あ、ありがとう……」


ふと、玲の顔に深い憂いが浮かんだのを、遙は感覚として受け取った。いつもは大人しい彼女は、今、何処か狼狽しているように口調が早口で強引である。

もしかして、彼女も自分と考えが同じではないのだろうか。こちらも言いたい事は沢山あるし、玲だって、訊きたい事は山ほどあるだろう。


玲はやがて席へ戻り、思惟に耽るようにして俯いた。遙は心に刺さる針の痛みをチクチクと思い返しながら、再び鉛筆を動かし始める。

そして、時間を示す時計を思い出したように見てみると、見計らったように授業開始のチャイムが鳴った。玲が言うには次の時間は自習のようであり、何とか急いで終わらせようと、書く事へ集中する。


監視の教師も来ないらしく、遙と玲が別世界にいるかのように黙り込む中、皆はやりたい放題であった。男子の馬鹿騒ぎに、女子の世間話や流行の話題が風のように耳を素早く通り過ぎる。

開いた窓から、潮騒のような木々のざわめきが言い淀むようにぼそぼそと音無き音を紡いできていた。遙は目を細めながら、漫然とノートを写していたのだが、唐突に目の前へ気配を感じて顔を上げる。


「あら、東木さん。随分と勉強熱心でいらっしゃるのね? ふふふ、まぁ当然と言ったところですわね。二週間以上も休んでいたんですもの」


高飛車で、揶揄するような言い様。嫌でも耳に残っている、何とも久しい斜め口調。……上げた遙の顔が困惑したように苦笑した。


「た、谷口さん……?」


遙の目の前に傲慢そうに立っていたのは、同じクラスメイトの谷口 裕子(たにぐち ゆうこ)であった。

少々赤みがかった長い頭髪に、比較的白い肌。純潔の黎峯人ではないであろう容姿だが、その目鼻立ちは端整で、肩から腰までのなだらかな稜線も美しい。

だが、美麗で柔らかな肉体を持っているにも関わらず、性格は何処か横着に捻じ曲がっていた。好奇心の溢れる活気付いた瞳は、今、何処か不敵な光が宿っている。

更に、確か彼女はどこぞの大企業を統べる社長の娘だったような。遙の家も裕子程ではないが、両親のお陰で、わりと裕福な暮らしをしている。

しかし、裕福のそれでいての性格の純朴さに浸け込まれてからか、裕子は入学当時から遙をよくからかっていた。

顔の割りには余り性格が良くない……遙の評価はそんな感じである。それでも、何故か憎めない性格の持ち主だった。そんな彼女に、遙は痒いのを我慢するような顔立ちで笑ってみせる。


「……久しぶりだね、谷口さん」


「ふふ、御久し振りですわね、東木さん。急に不登校になるんですもの。随分と心配しましたわ。一体何があったんですの?」


「え、ええと、ちょっと体調を崩していて……」


まさか、彼女に獣人になったとか、そんな馬鹿馬鹿しい現実を言う訳には行かなかった。またからかわれる事は目に見えているし、もとい、彼女には絶対に信じて貰えないだろう。

遙が明らかに動揺したように視線を回す中、裕子は、わざとらしく憂いを帯びた声音で続ける。


「あら、それは災難で。もしかして……前の『事故』の傷が、また不調を訴えられたとか?」


裕子の言葉に、遙の顔が瞬時にして強張った。事故の傷……それは、遙自身が抱える最大のトラウマと言っても過言ではないものであった。

もう、何年も前の事件を……何故、高校で知り合った裕子が知っているのだろう。体内の動悸が激しくなり始めた。


「っ……! どうしてそれを……」


遙は抵抗に声を上げようとしたが、背中が激しく疼くのを感じて、両腕を抱く形で机に向かって俯いた。額に脂漏がびっしりと浮かび、とっくの昔に忘却の彼方へ追いやっていた筈の痛みが蘇る。


横断歩道を渡る……あの思い出の公園の前の道、遙がまだ小学生の頃、そこで車に撥ねられた事があった。

数日も生死の境を彷徨い、奇跡的に意識を取り戻したのだが、代償として背中の右端から二の腕にかけて大きな傷跡が痛々しく残り、今でもその悪夢は心に焼き付けられている。

骨が拉げる痛みに、肌が深く抉られる激痛。麻酔が切れてしまった後は、寝返り一つ打てずに唸る事しか出来なかった。

……それから数ヶ月、ようやく歩き、全力で走れるまでに快復したのだが、精神の傷は体に残るそれよりもずっと辛いものだった。


死を感じさせるような絶望の冷たさ、血の赤に染め上げられた視界を喚起して、遙は痙攣したように四肢が震え、酷い寒気に全身が襲われるのを感じた。

と、遙が苦痛に身を屈ませる中、隣でそれを見かねた玲が立ち上がり、祐子の顔を真正面から睨み付ける。


「谷口さん! それは度が過ぎてるわ! 遙は遙なりの事情があるのよっ」


(玲……)


遙は勇ましい親友の激昂に、嬉しさや安堵を感じると同時に、心の痛みが倍増した。彼女にばかり護って貰ってきた心強さはある。だが、それは悔しさでもあったのだから。

自分でやらなきゃ。そう思っても、いつも肝心な時に肉体は言う事を利かない。その度に募る怒りと悔恨の念。遙はぎりぎりと歯噛みする。


「ふふ、先崎さん、相変わらず勇気のある方ですわね。もしかして、あなたは東木さんに何があったか知っていらっしゃるとか?」


「……っ!」


玲は押し黙った。信頼している筈の相手から、何も教えて貰っていない。そんな裏切られたような気持ちが、彼女の心の奥底にあるのかも知れなかった。

遙の意識は悔しさから怒りと途方も無い悲しみに蒼く燃え上がり、ついに音を立てて椅子から立ち、裕子の顔を獣の瞳で睨み付ける。


「っ……何で、何で谷口さんは、私の傷の事を知っているの?」


「私を馬鹿になさらないで下さる? あなたが確か、小学生の頃でしたか、車に撥ねられて大怪我をしたのでしょう?
大体、体育とかの更衣の時に、見えないようにしているかも知れませんけど……。もとい、私の情報網は甘くはありませんわ」


「ぐ……っ」


遙は背中から二の腕の後ろに走る、燃えるような痛みに思わずくずおれた。過去の凄惨な出来事を掘り返された痛み。

玲が庇うように背中を撫でてくれるが、痛みは治まらなかった。そして、その痛みは、遙の肉体に取り込まれた獣達へ歓喜を与える。


(う……体が……)


痛みとは違う、心底湧き上ってくるのは、例えようも無い程の怒りと憎しみ。鼓動が爆発的に大きく脈打った。

犬歯が次第に次第に鋭く長くなってゆき、両腕の爪も鋭利に尖り始める。喉からは、微かな唸り声が遠雷ように鳴り響いた。


体内に潜む獣達が、その牙を研ぎながら宿主である遙に怨嗟のように淀んだ音で囁く。

……『殺せ』と。怒りに任せて気に入らない者は消してしまえば良い。今のお前は、それ程の力を持っている。

素直にこの肉体を我等へ任せて、お前の意識は眠っていれば良い。お前が眠り、酩酊する内に全てが高揚として終わる。

お前が心の奥底で渇望する熱い血肉への欲求を、これだけの人間がおれば、易々と満たす事が出来るだろう……無慈悲に呟かれる獣の誘惑。


獣の甘く冷たい誘いに、遙は思考を滞らせる。呼吸が早まり、手が意思に反して動き始めた。……駄目だ、駄目だ……!


「遙?」


遙は顔を微かに上げ、玲の声を聞き取る。いけない! 血が沸騰し、獣人化への欲求が急速に全身へと広がり始めていた。

腕の関節が軋み、肉体は微かな変化を始める。瞳が鮮血色へとゆっくり変貌し、瞳孔は細く縦長に縮む。獣達の声が耳元で囁かれる……


「違う、違う……私は! ぐ……ごめん、玲!」


遙は驚く玲を振り払い、周囲の視線を浴びながら廊下へと飛び出した。その足の速さは信じられない程の素早さで、周りの目が丸くなる。


「遙ぁ!」


「ふふ、仲の良い事で。東木さんがそんなに大事なんですの?」


祐子の台詞に、玲は憎悪の篭った瞳で睨み返した。だが、一瞬の後、すでに遙の後を追い始める。


「……あなたには分からないわ……遙の気持ちなんて!」















「ぐ……あぁあぁ! うぅぅぅう!」


遙は二階のトイレに駆け込み、怒涛の如く循環を繰り返す血脈に、意識を繋ごうと仕切りに唸り声を上げていた。

自分達の教室は一階だ。恐らく、玲は手始めに一階を探索するだろう。獣人化を押さえ込む為に、少しでも時間を稼ぎたかった。

そう思って二年生の教室が設けられている二階へ行ったのだが、更に運が良い事に二年生達は学年集会か何かで、全クラスががら空きになっている。


遙は胸元を両手で鷲掴みし、強く爪を立てた。肋骨をも押し退ける勢いで心臓が拍動している。獣人化への欲求が肉体を支配していく感覚が強まっていた。

暗く、残酷で生々しい快楽が背筋を走り、獣の感覚へ遙を誘う。だが、それと同時に『人間』の感覚は肉体が変わってゆく痛みと熱に身が抉られるようだった。

快楽と苦痛の葛藤に、理性と本能の競り合い。それは、獣人として暴走した時と良く似た感覚だった。


「ぐ、があああぁぁぁあっ!」


遙は喉を反射的に仰け反らせ、我慢の限界か、ありったけの獣声を上げた。犬歯の鋭さは益々増し、もはや押さえられないぐらいに意識は獣達に傾き始める。

腕に目を向けて見ると、指先の爪が鋭く伸び始め、腕全体は幾筋もの血管が張り出しており、脈に合わせて蠕動している。今にもあの漆黒と碧色の羽毛へ変貌を遂げそうであった。

いよいよ獣の意識が高まり、異様な高揚感に遙は壁に爪を立てながら呼吸を荒らげた。理性を保とうとすればする程に苦痛は激しく、強くなり、その痛みから逃れようと自然に獣達へ意識が集中し始める。


「はぁ、はぁ……っ! うぐぅ……ぐぐ。嫌だ……!」


(駄目だ! 止めなきゃ! 体が支配される前に……!!)


遙は壁から手を離し、身を屈ませて両腕を抱く。眼をきつく閉じ、苦痛に耐え、必死になって獣達を理性で押さえ込む。しかし、腕の皮膚はすでに部分的に羽毛へと変化していた。

理性を繋ぐ苦痛は耐え難く、反対に獣人化を求めれば感じるのは途方も無い高揚感。両者の感覚は、どちらを選ぶかなど、もはや分かりきった事だ。遙は大きく息を吐く。もう……駄目だ。


『……獣遺伝子を抑制させる薬……』


諦めかけた途端、脳内に過去の映像と声が浮かんだ。昨晩、フェリスから手渡された物……


『即効性があるから、危なくなったら飲めばいいよ』


どんな時であろうが、陽気ではきはきとした口調。柔らかで軽い彼女の物言いを思い出し、遙は顔を上げた。

そうだ! 遙は自分の意思で動かせなくなりつつある手を叱咤し、左のポケットへ差し入れる。そして、間髪を入れずに中へ押し込まれていたものを取った。


己の震える指先に挟まれた、白いカプセル剤。一見何の変哲も無い薬に見えるが、そんな事を疑っている暇は無かった。

薬を飲めば、獣人化が抑えられる。だが、この快楽が消えてしまう。快楽に任せて獣人化し、教室へ戻って、求めている大量の血肉を喰らい、啜る。何と甘美な誘惑だろう。遙は残酷な笑みを浮かべた。

……獣の感覚が強まっているせいであろう、遙自身まさかと思ったが、一瞬薬を飲み込むのを躊躇っていたのだ。しかし、それら獣達の意識を振り払い、遙は理性を繋ぐ。


「何を馬鹿な事を考えて……っ。友達と自分……どっちが大切なものなのか分かり切っている筈でしょ!?」


遙は叫喚し、祈るような気持ちで薬を無理に口へ放り込んだ。水も無しに飲み込んだが、薬は案外あっさりと喉を下っていく。


「っ……! げほっ……はぁ、はぁ」


微かに咽込みつつも、先ほどのカプセル剤は確実に胃へと達した。遙は薬を飲んで尚、暴れる心臓から手を離すと、極度の疲労を感じて、へたりとその場に尻餅を付く。

だが、白熱していた心臓の鼓動が次第に弱まっていき、やがて動悸を感じないほどにまでに治まった。そして、それと同時に押し寄せるのは凄まじい倦怠感。

目の前が酷くぼやけ、視界は霞がかっている。焦点が留まらず回る中、遙は睡魔に襲われた。流石にトイレで倒れる訳にもいかず、遙は取り合えず廊下の壁までよろよろと歩いた。

両足を引き摺るように歩き、たった数歩の道のりが、酷く辛く、重いものであった。ようやく目的の廊下の壁に背中を預ける事が出来る頃には、額から汗が流れ落ち、背筋が冷たく濡れていた。

遙はずるずると廊下の壁に背を凭れ掛け、深呼吸を一度すると、ゆっくりと瞼を下ろす。安堵と薬の相乗効果がかかり、うとうととまどろみかけた。何とか獣人化せずに済んだのだが、体が重い……

遙は静かな寝息を立て、意識を現実から離れさせる。思わず、夢の世界へ足を運びかけた――


「遙!!」


突如聞こえた親友の声に、遙の意識が凄まじいスピードで覚醒した。頭が脈に合わせてずきずきと痛み、遙は歯を食い縛る。

重い体はまるで動かせなかったが、幸い、首はまともに動いた。まだ少しぼやける視界の中、首を右手に向けてみると、階段を駆け上って近寄って来る玲の姿を捉える事が出来た。


「遙……此処にいたんだ……」


玲は一つに束ねた優雅な黒髪を振り乱している。余程急いだのだろう。彼女は肩で息を吐きながら、嗄れた声でそう呟いた。


「玲……ごめん、急に走って行っちゃって」


取り合えず鮮明になりつつある視界の中、遙は憔悴した声音で返事をした。今思えば、後少し薬を飲むのが遅ければ、彼女を傷付けていたかもしれない。

玲も安堵したように口元を綻ばせ、遙の隣に腰を下ろす。暫くは二人とも無言で、正面に開けられた窓から、遅々として流れてゆく雲を見詰めた。

もうじき昼であろう空は少しばかり霞がかり、積雲は羊の群れのように西へ去っていった。遙は青白くなった頬を隠すように、体育座りをしながら両腕の間に顔を埋める。


「……玲。ちょっと、言っておかなきゃいけない事があるんだ……」


遙は顔を沈めたまま、切り出した。玲の仕草は見て取れないが、微かに息を呑むような掠れ声が耳に届く。

渇いた唇を何度かぱくぱくと動かした後、遙は深呼吸をして声を絞り出した。


「もしかしたら……いや、必ず、私はまた学校を休む事になる」


「休むって……どうして? ひょっとして、谷口さんの悪口を引き摺っているの?」


玲の震える声に、遙は顔を上げる。その頬が薄らと紅色に染まり、鳶色の瞳は水に絵の具を零したように、じんわりと歪んでいた。


「違う。背中の傷はもう……気にしてないよ。……もっと別の事。ちょっと信じられないかもしれないけど」


遙は次に言おうとした言葉を、詰まらせた。玲は信じてくれるだろう、ずっと友達なのだから。

しかし、獣人の姿を見せれば、どんな相手だろうと分からない。自分だって、初めて見た獣人を『化け物』呼ばわりしてしまったのだから。

友達を信じてあげなくて……どうするんだ? そう自分に何度も言い聞かせる。だが、怖い。怖くてたまらない。化け物と叫ばれるのが、見捨てられるのが……!


「……遙……」


「ごめん。……此処じゃ言い辛い。だから――」


遙は泣きそうになりつつも、玲の顔を真正面から見詰め、真摯な顔立ちで口を開いた。









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