「……」


遙はぎくしゃくとしながら玲と歩いた。何故だろうか、ついこの間までは当たり前のように隣同士で歩いていたのにも関わらず。

通学路は中学とは違えど、慣れ始めてきていた高校への脇道。車通りも少なく、日当たりの良いこの道は、老人や家族連れの散歩コースとしてもしばしば利用されている。

どう考えても、危険や緊張のように強張ったものが不相応な枝道。それが今日は足場が今にも崩れ落ちそうな、それでいて巨石が目の前を塞いでいるような隘路に思えてくるのだ。


(どうしよう……言おうか? 今までの事を……でも……)


このままでは埒が明かないので、遙はちらりと隣を行く玲の横顔を一瞥し、口を開きかけたのだが、声が出る寸前で飲み込んでしまった。

何しろ右隣を歩く玲は何事も無さそうに、悠々と歩を進めているのだ。訊かないのだろうか? こちらに何があったのかを……。遙は悪いと分かりつつも内心苛立ちが募っていた。

結局、悶々としながら遙は俯き加減で歩き続ける。それはとても気まずいものだったし、相手の気持ちが上手く分からない。本当は自分が切り出せばならない話の筈であるが、勇気が奮い出せなかった。

あれ程言うと決めたのに、教室まで行ってしまえば、恐らくもっと言い辛くなるだろうに。結果的に、遙は春の陽気を濁すような暗い溜息を、脇目も振らずに漏らしてしまった。


――と、その時、そっと右肩に触れられ、遙はびくりと飛び上がった。当然の事ながら、手の主、玲の方は目を丸くする。


「遙? いつも以上にオーバーアクションだけど……熱でもある?」


「そ、そ、そんな事無いよ! ええと……」


遙は両手の人差し指同士を突付き合わせ、視線を泳がせた。分かっているのだが、上手く言えない。肝心な事が言い出せず、思考が空回りを続ける。

しかし、遙の様子を察したのか、玲は手を離した。気を悪くしたかと思い、遙は慌てて顔を上げたのだが、相手は打って変わって心底安心したかのように、安堵の笑みを湛えているではないか。


「良かった……遙。元気でいてくれて……」


「え……?」


遙は信じられないといった感じに、目を大きくする。全く持って予想外であった言葉は、遙に安堵と疑心を沸きあがらせた。

驚きを隠し切れない遙の顔付きに、玲はより一層顔を綻ばせ、尚も続ける。


「だって、遙は体が弱かったし、病気で休む事も多かったから、もしかしたら体調を崩してるんじゃないかって」


玲は笑みを消し、何ともいえない面持ちで声を沈ませた。遙は胸が微かに痛むのを感じる。

彼女はずっとこちらを心配してくれていたのだ。一ヶ月近くも連絡が無く、無事がどうかも分からない。唐突に消えた自分。

相手がこちらを気遣ってくれる優しさに、信頼して貰える喜びに、返す事が出来ない自分が酷く嫌で恨めしかった。

きっと、相手はこちらに何があったかを、あえて訊かないでいるのだろう。……やはり、自分から言い出さなきゃいけない。


「あ、そういえば」


緊張の余り、俯きながら唇を湿していた遙の耳に、玲の心持明るめな声が反響した。


「さっき、そこの通りを白衣を着た女の人が歩いてたの。ひょっとしたら、遙のお母さんかと思ったけど、良く見れば違う人だったんだ」


「白衣?」


遙は思考が切り替わり、玲の言葉に引っ掛かって問い返す。彼女は何処か抜けたような顔立ちになって、何事か、唐突に吹き出した。


「ふふっ! 遙の顔って見てるだけで楽しいよね?」


「ひ、酷いよっ! 普通に訊き返しただけなのに!」


膨れっ面になりながらも、遙は頬を真赤に紅潮させ、恥ずかしさの余りそっぽを向いた。いつもだったら気に障るほどの事でもない些細な言葉なのだが。

だが、ふと、憤怒と羞恥を和らげるような温かさを右手に感じ、遙の視線は元の位置――玲の顔へと戻された。


「……ねぇ、遙。学校まで走らない?」


「え? 走る……って」


玲の提案に、遙は首を傾げた。腕時計を見る限り、別に遅刻しそうな時刻ではないし、急ぐ理由が無いのだ。

だが、興に乗った玲は遙の手を把持し、繋いだ互いの手を二人の視線が交わる焦点まで軽く持ち上げて見せる。


「ほら! 遙は中学生の頃、陸上部だったじゃない? それに、いつまでもそんなに暗い顔じゃ、学校に着いてから授業が億劫になるって」


「玲……」


遙は大きく目を見開く。相手の言葉に、こちらを気遣う面が幾つも聞いて取れた。思わず涙が溢れそうになり、遙は慌てて唾を飲み込む。唇がへの字に曲がった。

ゆっくりと、空いていた左手で玲の手を握り返し、遙は何度か爪先で地面を小突く。そして、大きく深呼吸を終えると、にっこりと笑った。


「うん! 行こう、玲!」


言下、遙は玲が驚く程のスピードで地面を蹴り、逆に彼女の手を引くようにして走り出す。まるで、胸に立ち込めた蟠りを振り払うように。








――――――――








「お前ってさ」


ガークがフォークの先端に刺したミートパイの切れ端を見詰めながら口を開いた。

声の先には、フェリスが食器の整理をしている。ガークの漠然とした問いに、水が流れ、食器が擦れる音だけが虚しく返ってきた。

いつもに比べたら、幾分ノリの悪い相棒の態度にガークは鼻を鳴らし、取り合えず口へミートパイを押し込むと、ムシャムシャと噛みしめる。


「料理だけは上手いよな? オーセルの奴らって、皆そうなのか?」


ガークが喉を鳴らして飲み込み終えると、フェリスが食器を洗う手を止め、ニヤリと笑って振り返った。

やはり問うべきではなかったかもしれない。ガークは怖気を感じて無意識の内に視線を逸らす。


「そうだよ。特に女の子は十五にもなればお嫁さんだもの。家事が出来ないなら大変でしょ?」


その言葉に、顔を背けていたガークが振り返り、歪んだように笑った。何とも極悪な笑みを浮かべつつ、ガークはミートパイの残りを皿ごと持ち上げて、がつがつと喰らう。


「じゃあさ、お前は確か二十三だろ? 相当な余りモンじゃねぇか。そんな性格だから誰も寄ってこねぇんだよ」


「あら? 別に全員が嫁ぐ訳じゃないよ。それとも、ガークが私のお婿さんになってくれるの?」


フェリスの答えに、ガークは口に含んだ食物を吹き出し、暫く無言のまま肩を震わせる。何とも余裕の口調で突拍子の無い台詞であった。

やがて、暫しの沈黙をぶち破るようにガークが起き上がって、唐突に怒声を放つ。


「誰がお前の婿なんかになるか!! 俺は大人しい女が好みなんだよ! お前みたいな極悪非道ネコを嫁に貰って堪るか!!」


「大人しい? それじゃ、遙だね。フフフ、意外と似合うよ?」


ガークはついに卓へと顔面を擦り付けた。やはり、言葉巧みなフェリスには到底敵うものではない。

出会ってから今の今まで ( いや、これからもか?) この女との罵り合いではどうも勝機が伺えなかった。いつの間にか相手のペースに乗せられ、気付けば叩き落されているような状態である。

とにかく。ガークはふらふらと椅子から立ち、お気に入りのソファーへと移動した。もはや、フェリスに反撃する程の余力は無いに等しい。


ガークがソファーへ移動し、仰向けに寝転がると同時に、フェリスが水道の水を止める。彼女は手身近にあったタオルで手を拭きつつ、小さく吐息を漏らした。


「ガーク。遙から何か聞いていない? ちょっと気になる事があるんだけど……」


「あぁ? 何だよ。あいつから聞いた事? 遙から聞いた事なんて、覚えてねぇぜ」


ガークはフェリスの問いを半ば無視して、ソファーで横になる。朝が早かったし、寝ておこう。そう思ったのだが、間髪を入れずに目の前へ影が降りた。


「じゃ〜ん。ガーク。これ、誰だと思う?」


「はぁ? 何だって、人が寝てる時に……」


ガークは一応目の前に差し出された写真を大儀そうに見た。目を凝らして見れば……今よりも幼いであろうセーラー服の遙と、見知らぬ女性が一緒に立っている。

ちらりとフェリスの方にも視線を向けてみたが、彼女はいつになくニヤニヤしている。ガークは背筋が凍りそうになった。


「な、何だよ。遙だろ? あいつって、まぁ、こうやって見てみりゃあ、小学生みてぇだな。チビだし」


「もう、ガーク。遙が聞いたら怒るよ? 取り合えず遙は置いておいて、こっちだよ。この人……」


ガークは指差された方に渋々と視線を移す。遙の隣に立つ女性……見た目がとても若い。フェリスと同い年ぐらいに見える。

しかし、どうもフェリスの意図が掴めず、ガークは唇を尖らせながら頭を掻いた。


「この女がどうかしたのか?」


「……いや、お姉さんか誰かって思ってたけど、どうもそうじゃないみたいだから。ちょっと部屋を回る限りじゃ、遙の『お母さん』よ」


「は!?」


ガークは飛び起き、驚くフェリスの手から写真を力任せに奪い取る。母親……眼鏡を掛けた、怜悧で端整な顔立ち。その容姿は遙をそのまま大人にしたかのように酷似していた。

どうもおかしい。ガークが眉間に縦皴を刻みながら食い入るように見詰める。何故なら、高校生である遙の母親にしては若過ぎないか?


「本当にお姉さんとか、親戚の人じゃねぇのか?」


「違うよ。部屋が無いし、気配も残ってない。もしかしたら若作りの御上手な方かも知れないけど、そんな化粧道具なんてのも見付からなかったわ。
親戚の人にしても、遙に此処まで似ている人なんているのかな?」


「確かに変だな。遙の家って弄繰り回したら本当に可笑しなモンばかり出て来そうだぜ? ま、直接本人に訊かなきゃ、それも分からねぇだろ」


ようやくフェリスの思考が読めたと同時に、ガークの脳裏に遙の顔が浮かんだ。彼女と出会ってから、約五日。いつもではないが、殆ど一緒にいた仲間だ。

仲間の中でも一際幼く、弱々しい遙が近くにいないのは、不本意ではあるが、どうも落ち着かない。ガークはわざとらしい欠伸をしながら、ダイニングテーブルの上に置いてある時計の針を見る。


「そういや、遙。あいつ今どうしてんのかな。もう九時過ぎだし、授業始まってるんじゃねぇか?」


「じゃあ、私はちょっと出掛けて来るから、ガークはお留守番お願いね?」


「! 何処行くんだよ!?」


急に踵を返したフェリスに、ガークは飛び起きて後を追った。狼狽したガークにフェリスは振り向きつつ、嘲弄するように笑って見せる。


「遙の学校よ。GPCの奴ら、来るかもしれないでしょ?」








――――――――








「はぁ、やっと着いたね」


「うん……」


玲に肩を叩かれつつ、遙は深呼吸をした。正直に言うと、肉体は全くと言っていいほど疲労していない。流石の玲に関しては、荒い息を吐きながら額に浮いた汗を袖で拭っている。

獣人の肉体であるから、身体能力の向上は著しいものがあった。取り合えず、辺りの様子を伺いながら、向かい風で乱れた黒髪へ手を乗せて髪型を整える。


「……」


視界を巡らせる内に、白を単調とした、見慣れている校舎が視線を絡め取った。遠目で見ても、所々に多少の黒染みた汚れや埃が見て取れるが、それも赴きのある佇まいに思える。

今立っている校門前には、背丈の高い木が左右に伸び、遙達を見下ろしていた。彼等は鬱蒼と茂らせた木の葉を風で煽られながら、その度に隙間から見え隠れする太陽の光をチカチカと零している。

足元はくすんだ赤レンガが満遍無く敷き詰められ、その上に青い葉や木の実が幾つか拡散しており、少しばかり清掃が行き届いていない事を示していた。


小学校や中学校と比べると、まだ思い出の浅い校舎ではあるが、今はこの学校に在学しているのだ。とは言っても、一ヶ月近くも見ない間に、その校舎は更に見慣れない建物となっていた。

その事に多少の憂いを感じながら、遙は校門の左右に設けられた、自分の背より頭一つ分は高い外壁へと視線を移動させた。

石造りの表札が雨風に侵食され、微かに苔生していながらも、隙間無く壁に埋め込まれている。少々欠けているものの、その丁寧に彫られた文字はハッキリと見て取れた。


『明北高等学校』


「学校……」


遙が表札を見て静かに呟いた。まるで一滴の水滴を、岩の隙間から絞り出すように、震える声で。

緊張もある。だが、それに勝るとも劣らない程の期待と喜びがあった。獣人となった後、再び友達と一緒に校内の地を踏む事が出来るとは思っていなかったのだから。

遙は背中の学生鞄を背負い直し、意気込もうと、むっと顔を引き締めた途端、玲は自分を置いて校門を過ぎて校内へと進入した。


「……ほら、遙! 急がないと。遅刻しちゃうよ?」


「え? だって、まだ八時十分じゃ……」


玲が戻って来て、拍子抜けした遙の手を引きつつ、空いている右手で校舎の出入り口の上に設けられている時計を指した。


「今はもう二十分過ぎてるよ? そろそろホームルームが始まるわ」


「え、ええ? じゃあ、私の時計が間違ってたんだ!? どうりで時間が可笑しいと思ったんだよ……」


ようやく玲の走ろうと言った提案が分かった気がした。それはこちらを気遣う意味もあったと思うが。

確かに学校の時計通り、いつもなら蟻が砂糖に群がるが如く生徒がざわめいている筈の玄関口は、今現在、まばらにしか生徒が通って行っていない。

遙はブツブツ言いながらも、早足で歩を進めた。久々に登校し、更に遅刻までしたというのなら、クラスメイトに何と笑われるか分かったものではない。


先行する玲に連れられるようにして、遙は進んでいたが、校舎まで半分の所で、ふいに微かな空気の振動が肌全体を粟立たせた。


「!」


遙はゾッとして振り向いた。校門の前には誰もいない。だが、何者かがいるような気がして、じっと校門を凝視する。

確かに感じた『獣人』らしき波動。もしかして、誰かが、誰かが自分を付けている? ……だが気配がどうもハッキリしない。

あるいは、ガーク達かも知れなかったが、彼らの波動とは少し違ったものであった。異質な気配を身に感じつつ、遙は冷や汗を額に滲ませ始める。

徐々に鼓動が大きく脈打ちだし、犬歯がギリギリとその鋭さを増していく。遙は気付かぬ内に獣の本能を呼び起こしかけていた。




「……遙、遙」


玲に肩を軽く揺すられて、遙は正気に戻った。もう一度振り向くと、何の気配も無くなっている。

慌てて胸元に両手を置き、鼓動を抑えた。もし、玲が肩を揺すってくれなければ、危うく獣人化してしまう所であった。

取り合えず、玲と校門を交互に見る。やはり誰も校門の前にはいない。……気のせいだったのだろうか? 少々気が張り詰めているのかも知れない。

例えGPCの刺客と言えど、朝から『人間』の在住する地にまでは血の匂いを運びはしないだろう。


「ごめん。何でもないよ」


気を取り直し、再び歩き出そうとした途端、キーン、コーン、カーン……学校から鳴らされるチャイムに、遙も玲も顔を見合わせた。


「は、遙! 急がなきゃ! 遅れたら担任がうるさいしっ」


「う、うん!」


遙は走った。前方へ急ぐ余り、後方への注意は無くなっていた。





だが、確実に異質な気配が校門付近にあった。遙達が校舎の奥へと姿を消した途端、それは唐突に姿を現す。

雲一つ無い晴れ空であるというのに、その容姿は闇そのもののように暗く、陰に完全に溶け込んでしまっていた。

その異形の影が、遙達の駆けて行った先を、興味深げに見詰める。


「折角の学校生活だものなぁ……クク。それにしても、あのハルカと一緒にいるガキも中々甚振り甲斐のありそうな奴だ……クククッ」


遙は僅かにこちらの気配に感付いていたようだが、結局は無視せざるを得なかったと言う事か。

その影はひとしきり遙の背を睨むと、薄らと微笑み、再び気配も無く背景と調和しながら、ゆっくりと消え去った。









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