明々とした朝日が、カーテン越しに部屋へ差し込んでくる。

緞帳に遮られたため、多少は緩和された陽光であったが、それでも遙の意識を目の前まで持ち上げるのには十分な光量であった。


「う……眩しい。もう朝……?」


瞼に光の熱さを感じながら、遙は枕元を握り締めて起き上がろうとしたが、睡魔はまだ取り払われなかった。

結局、再び枕に頭を預け、毛布を頭まで被る。久々の自分の寝台は気持ち良く、寝心地が堪らないのだ。覚醒しかけた意識は、たちまち夢の世界へと足を運ぶ羽目となった。


ジリリリリ……


再び安眠の娯楽へと誘われかけた途端、耳に五月蝿い機械音が轟いた。急に大音量で音が響いたためか、思わず心臓が跳ね上がる。

無機質な騒音を耳に留めつつ、遙は肩を揺らしながら煩わしげに寝返りを打った。しかし音は止む事を知らず鳴り続け、当然ながら寝苦しくなり、眉を顰める。


「何? もう起きなきゃいけないの? ……あ!」


遙は飛び起きた。隣のマウスケージに入って熟睡していたラボも釣られたように起き上がる。

まだ鳴り続けている目覚まし時計のスイッチを押し、音を止めると、遙は寝台から降りて分厚いカーテンを開け放った。

蒼い空に太陽のオレンジ色に照り輝く光が、燦然と溶け出している。その眩い陽光に目を細めながらも、遙は振り返って時計の針を見詰めた。

カチ……カチ。時計の針は確実に進んでいた。その光景を視界に収めた遙の顔が、目に見えて青褪めてゆく。


「そうだ、今日は……学校に行かなきゃいけないんだった!」


時計の針はすでに七時半過ぎを指していた。急いで支度をしなければ間に合わない!

遙は乱れた毛布を片付ける暇も無く、箪笥に前もって掛けてあった綺麗な方のブラウスを手に取り、それを慣れた手付きで纏い始めた。






――――――――






「がぁぁあ。眠い、朝から面白いテレビなんて無いよな?」


ガークは頭髪に生じた寝癖を押さえつけ、相変わらず豪奢なソファーに横になりつつテレビのチャンネルを目まぐるしく変える。

殆ど適当に流し見ではあるが、テレビに映される様々なニュースを見る限りで、遙の拉致に関する情報は一切報道されていない。

別に遙の事件に関して探訪するつもりはなかったが、やはり獣人を造り出すという暗黒面は工作されているのだろう。GPCという組織は小癪な奴らだ。ガークはテレビの電源を落すと、大儀そうに欠伸をした。

昨晩は遙の両親の部屋を借りて寝せて貰ったが、日頃の疲れが溜まっているのか、眠気はさっぱり取れる事を知らなかった。ぼやぼやとガークは目を擦りつつ、背をソファーに預ける。


「ガーク。眠いなら寝ておけばいいじゃん」


そんなガークの塩梅を見ていたのか、フェリスの揶揄したような、斜めな口調が聞こえてきた。

気の進まぬまま、そちらに目を向けてみると、丁寧に整頓された庖厨で佇みつつ、彼女は怠けた自分に睨め付けてきている。

そう言う彼女も、先程気だるそうに欠伸をしていたばかりなのだが……ガークはその辺りを無視しながら頭を掻く。


「馬鹿かフェリス。俺はネコみたいにだらけてねぇんだよ。寝てる時間が勿体無いだろ?」


「まぁね。それも一理あるかも。それより――」


フェリスはダイニングキッチンに置いてあるテーブルセットに腰掛けながら、二階へ繋がる廊下を見詰めた。

開いたドアから、微かに温かい微風が吹き込んでくる。朝日が玄関から差し込む廊下は今の所なんの気配も無かった。


「遙……遅いね」


「見た目からして、朝が苦手そうな奴じゃねぇか。遅刻しても俺の知った事じゃねーよ」


ガークが肩を鳴らしながらソファーから立ち上がり、悠々と伸びをする。左手に設けられたリビングのカーテンは閉めたままだ。

普通の人間、つまり近所の人間が遙の家に怪しげな異国人が入り込んでいるのを見つけて、黙っている筈は無いだろう。家の中の情報を見られては困る。

ガークは溜息を吐いた。正直、後輩の家といえど、余り落ち着くものではない。何せ、自分達はもう『人間』ではないのだから。


「……つっても、まぁ。あいつの親友とやらがまさかとは思うが、家まで来たら困るぜ。確か、メールで伝えたんだろ? 今日学校に行くって」


「それはそうだね。ガークみたいな粗暴犬がいきなり遙の家から出てくるなんて、心臓に悪いもの」


「うるせぇ! 大体俺は――」


ガークがフェリスに向かって大声を張り上げようとした途端、廊下から軽い足音が響き始めた。今にも火花が散りそうだった二人の顔が音も無く上がる。

駆け足らしい、間髪入れずに高鳴る足音。パタパタと、まるで幼児が背後から小走りしてくるような――程無くして、一人の少女がリビングへと入って来た。

その少女が進入してくると同時に、待ちわびていたように佇んでいたガーク達の眉が上がる。


「はぁ、はぁ、おはようございます……」


途切れ途切れの掠れ声で、遙は呟いた。獣人の体力的で疲れるというのだから、相当急いだようである。

しかし幾ら獣人と言っても、学生服を纏った姿は、やはり何の変哲も無い少女だ。遙は少しばかり頬を赤らめつつ、荷物である学生鞄を持ち上げる。


「ご、ごめん。何だか、少し寝坊しちゃって……」


遙はリビングの奥へと足を進めながら喋った。紺色のブレザーを慌てて着たのか、襟が奇妙に曲がっている。

艶のある黒髪も、まだ所々に寝癖が残っていたりしたが、寝惚け眼な鳶色の瞳は神々しい朝日を浴びて煌いていた。


「おはよう、遙。学生服を着ると一段と映えるわねー。こうやって学校に行く時の姿は何だか雰囲気が違うわ」


「おう! 中々様になってるじゃねぇか。さっさと当たって砕けて来いよ?」


フェリスもガークも、すっきりした笑みを浮かべながら言った。ガークは少しばかり揶揄を含んだ言い方だった気がするが。

取り合えず、遙はもじもじしながらも、曲がった襟を直し、ちらりと庖厨へと目を向ける。……そう、食事の支度をしなければいけない。といっても、そんなに大層な物は作れないし、精々おにぎりが限度である。

しかし、そう思ったのは束の間。昨日までとはどうも雰囲気が違う。コンロの上に置かれた鍋からは何か芳しい香りがするし、テーブルの上にも整然と食器が並べてある。

……遙は無意識の内に体が空腹を訴えるのを感じた。


「も、もしかして、朝ご飯まで作ってくれたんですか?」


遙が庖厨とフェリスの顔を交互に見ながら早口に訊いた。その言葉にフェリスは迷い無く頷いて見せ、白い歯を見せて笑う。


「そうだよ。お腹空いてたら、勉強も身が入らないでしょ? さぁ、遙! 我が故郷オーセル仕込みの朝食を食べて行って来なさい!」


「え、あ、はい!」


いつになく大声を上げたフェリスに、遙は目を丸くしながらも感謝するように朗らかに笑い、押されるままに椅子へ腰を掛けた。






―――――――――――






ザワザワと、薫風が香る公園。赤錆の付着した遊具が点々と並ぶそこは、子供連れの家族が遊ぶ姿は見受けられない。粛然とした空気が冷めた風を孕んでいる。

だが、公園で一際目立って聳える、青々と茂る若葉を重そうに抱えた樹の下に、一人の少女がまるで塑像のように静謐として佇んでいた。

純白の白衣などを纏った珍しい容姿。瞳は闇に沈んで黒曜石のように黒光りしている。肩口で短く切り揃えられた頭髪も、また同じく漆黒に染まっていた。

裾の長い白衣から覗く足は白く、傷一つ見受けられない程に端整でありながらも、何処か作り物のような冷厳さがあった。異端の少女は今迄、頭上を仰いでいた視線を唐突に下ろす。


「チャド。もう行ってしまいましたか」


少女は吐息を漏らすように独白すると、春であるにも関わらずに足元に散らばっている落ち葉を漫然と踏み拉いた。爆ぜるような乾いた音と共に、空気が僅かに振動する。


あの男……やはり一人で行かせるべきではなかった。かといって、昼間に派手な行動を起こせば、GPC内でもいらぬ噂が立ってしまう。


その時、少女の瞳が微かに揺らいだ、いや、周囲の風景が不可思議に揺らいだのだ。

びりびりと、微弱な電流のようなものが、蜜に集る無数の蜂の如く肌を刺して来る。

皮膚が焼けるような、湾曲し、捩れたような複雑な波動。しかし、それはあらゆる命の連鎖が一つの螺旋となって連なり、生命が交錯した結晶。

少女は暫しの時、静かに瞑目しながら、その波動を肉体へと記憶させる。その波動の型を探り続ける内に、微かに脈が速まった。期待? 恐怖? それとも――。


「……ハルカ。チャドに手を出させるのは不本意ですが、少し小手試しさせて頂きましょう」


少女が漏らした言葉が、風に攫われて流れていく。彼女の視線の先、公園の手前に走る道路を幾人もの人間の姿が、日常と変わらぬ動きで通り過ぎて行った。

全て普通の人間の波動。それらが何事も無さ気に『自分』の前を横切ってゆく。だが、そこに僅かに感じ取れるのは、空気を震わせる『獣人』の気配だった。


風を読むように少女は微かに上を向くと、薄らと瞼を開く。鮮血のように紅蓮に染まった獣眼が、血に滑った鋼のように鈍い輝きを放った。

少女は顔を伏せるようにして一歩、また一歩と歩を進め、音も無く前進する。そして、何の抵抗もなく、前方の人垣に足を踏み入れていった。






―――――――――――






「遙! お弁当忘れてるっ!」


「わっ……有難う御座います」


狼狽した様子で口をもごもごさせ、遙はフェリスから包みを受け取った。

母親がいない日は、一人で出ていた玄関口。それに比べると、こうやって見送ってくれる人がいるというだけで、遙は目頭が熱くなった。

まだ仄かに温かい弁当包みを学生鞄の底に押し込み、まろびかけながらも遙は革靴に足を捻じ込む。そうして何回か爪先で地面を突付いて穿き終わると、もう一度振り返った。


「ええと、もしお母さんとかが帰ってきたら、何処かへ隠れて……」


「その辺は心配無いよ。人間の気配はすぐ分かるからね。それより、遙の方が気を付けて。GPCの奴ら、意外と街中まで入り浸っている事が多いから」


「そうだ。ま、俺が後から見回りに来てやるよ。何しろ、お前はGPCの奴らに狙われているだろ? それと、薬の方も忘れずにな」


フェリス達の言葉を流しそうになり、遙は焦って何度も頷いた。ようやく口の中で噛み砕いていた朝食を飲み込み、そろそろと右手を左のポケットに入れてみる。

昨晩貰ったカプセル剤の冷たい表面に、指先が触れた。遙はそれを飲もうとはせず、ポケットの更に奥へと押し込む。これで余りに激しい動きをしない限り、落す事はないだろう。


(……玲に……言葉じゃ信じてもらえないだろうから、『見せる』しかない……)


両腕が疼くのを感じて、遙は思考を振り払った。そして、顔を上げてガーク達の顔を見据える。


「それじゃ、行ってくるよ。多分、夕方には戻るから……!」


「おう! 元気で行って来いよ!」


フェリスが手を振りつつ、ガークまでもが笑顔で見送ってくれた。遙は引き攣った顔を解すように綻ぶと、玄関を開けて、外へと飛び出した。



外に出ると、緑風が頬を撫で、木々のざわめきと小鳥の歌声が耳を擽る。体は羽のように軽く、思わず駆け足が止まらなかった。


「本当に何も変わってないや……」


角を曲がって開ける見慣れた商店街、すでに開店準備を終えた店員達が、大声を上げて客引きを始める。人々は朝から賑わい、活気付いた街が確かにそこにあった。

時折、朝から買出しに来ていた人が、遙の走る姿に目を留めたが、すぐさま何事も無かったかのように視線を外した。その人々の様子に、遙は思わず苦笑する。


懐かしい朝の商店街を韋駄天のように駆け抜け、唐突に車の多い道路へ出る。歩行者用の信号機が青に変わるのを待ちながら、遙は横断歩道の前で立ち止まった。

赤の信号機は漫然と灯りを照らしている。鈍く輝くそれは、酷く無機質だった。遙は眼前を横切る車を、目を細めながら見詰める。背中が微かに疼いた。


車道を跨ぐ横断歩道の先に、幼い頃遊んだ公園が見えた。長い樹齢を重ねたであろう、大きな杉の樹が目印のように佇んでいる。

古い公園は、遠目で見ても分かる程に荒廃し、遊具は赤褐色に錆付き、設けられたベンチの板張りは所々欠け、塗装も風雨にやられて剥げ落ちていた。

此処で、友達とも、家族とも……昔の光景を脳裏に思い浮かべながらも、今では全て自分の思い出へと変わってしまった寂しさ。……過去に拘泥していては駄目だ。

遙は唾を飲み込むと、信号が青に変わると同時に、妄執を振り払うかの如く一直線に駆け出した。


「はぁ、はぁ……玲」


遙は古ぼけた遊具が設けられた公園の前で立ち止まった。急に走った勢いで、先程摂った朝食が逆流しそうになり、胸がむかつき、僅かに嘔吐く。

フェリスの作ってくれたオーセルの郷土料理は美味であり、遙を元気付けさせるには十分過ぎる程滋味に富んでいた。


彼女とガークの好意を無駄にしないように、慌てて深呼吸を繰り返し、思いついたように左手首に巻いた腕時計を見る。八時前、そろそろだ。遙は瞑目しながらも、昂然と顔を上げた。

自宅に残っているであろう、ガーク達の心配をしながら、遙は学生鞄を背負い直した。入学した時から、ずっと此処が待ち合わせの場所だったのだから。


ほんの一分程の時間が、永久の時のように遅々とし、遙は不安になり始めてキョロキョロと左右を見回す。握り締める掌はじっとりと汗ばんだ。


こつ、こつ……。ふと、背後に足音を感じて、遙は凍り付いた。聞き覚えのある靴音。道路を歩いてくる革靴の底が当たる音が。

動悸がより一層激しくなる。背筋を伝う冷たい汗。自分の背に近付いてくる、気配が次第に次第に近くなって来る。


――足音が止まった。唐突に、真後ろで。遙は知らず知らずに額に浮いた脂汗を隠すように俯く。後ろの相手……間違い無い。


「遙……でしょ? 久し振りって言った方が良いかな?」


遙は声に惹かれるようにして振り向いた。視界に収まった景色に立っていたのは、丁度自分と同い年であろう、少女だった。

然程長くなくとも優雅な黒髪を、後ろで一つに束ねているポニーテールの髪型。自分よりは少し大人びた目鼻立ち。鳶色の瞳は生き生きと煌き、好奇心に溢れている。

そして、紺色のブレザーと萌黄色のスカートを穿いていた。背には学生鞄。ブレザーの左胸の部分にある校章のエンブレム。遙と違わない、同じ制服。

全体的な容姿からは何処か豊かな山脈を走り回る栗鼠や鹿に近い生気があった。人見知りの無さそうな、誰にでも笑顔で接する事が出来そうな、光そのものの表情。


「そう、そうだね。久し振り、玲……」


遙は痛いのを我慢するような、何とも妙なる笑顔を浮かべて答えた。久し振りに会えた、親友の顔を真正面から見詰めながら。








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