こつ……こつ。

遙はラボを肩に乗せたまま、なるべく揺れないように階段を降りて来た。

暗い廊下の先にある戸から、黄色い光が漏れている。どうやらガーク達が居るようであり、遙は少し急ぎ足になってリビングに入った。


「ごめんなさい、急に走って行っちゃって……ん?」


かなり大きなテレビの騒音。ギャーギャーと叫ぶ男女の声。そして――

戸を開きかけた状態で、遙は血の気が引くのを無意識の内に感じた。それと同時に湧き上がる、憤慨の念。


「うおー! すげぇぇぇ! 黎峯のアスリートも身体能力が高いもんだな!?」


「でも足の速さなら私負けないよっ! 獣人だけで運動大会でも開く?」


「お、そりゃいいかも。今度鬱憤晴らしに、絶対不可侵区域で――」


ガークが何処から持ってきたか、ボリボリとジャンクフードを貪りつつ、ソファーで寝転んでいる。

しかも、一袋だけではないようで、テレビとソファーの間に挟まれているガラス張りのリビングテーブルには、沢山の菓子の食べ粕が転がっているのだった。

フェリスは甘味に手を付けていないようだが、その後ろで佇みながら、特に注意する事も無く二人で談笑を楽しんでいる。


……もとい、談笑とは程遠い、馬鹿騒ぎに近かったが。


「な、何で……こんな事に?」


遙の肩に乗るラボが爪を立てる力を強めた。怒っているのか。少女の戦慄く唇が、ぎりぎりと歯軋りの音を紡ぎだす。

そう、遙も例外ではない。フェリスはともかく、ガークである。まさか、此処まで厚かましく……

流石の温順な遙もこれは堪らない。確かにゆっくりしていて良いとは言ったのだが、此処まで怠惰な状態になって貰っては困る。


スポーツ番組か何かに夢中になっているのか、こちらに気付いていないガーク達へ向けて遙は大きく息を吸い込み、肺の空気を全て絞り出す勢いで叫んだ。


「ガーク! いい加減にしてよっ!!」


遙の獣の咆哮が、真夜中の街に轟いた。






――――――――






数分後、顔面に引っ掻き傷の出来たガークのクシャミが家に響いた。

獣腕で引っ掻いた訳ではなかったので、赤い擦り傷が出来ただけで済んだようである。

だが、やはりヒリヒリと痛むらしく、時折、指でそっと撫でて痛みを緩和しようとしているのだった。


「ったく。女って怒ると容赦ねぇよな?」


ガークは何度目か、四本の赤い筋の走った顔を両手で覆いこんだ。まるで、顔でも洗うかのような仕草である。


「まぁ、ガークも流石に遠慮すべきだったね。御菓子まで持ってくるんだもの。しかもゴミはその辺りに放り出しているし」


フェリスが苦笑しながら、怒りを治めた遙の肩を抱いた。

遙も流石に怒りに我を忘れて攻撃してしまった事を悔やむように、引き攣った笑みを浮かべる。


「ちょっと私もやり過ぎたみたいだし。ごめんねガーク。思いっ切り引っ掻いちゃって……」


「いーよもう。気にしてねぇ。俺も少し度が過ぎたって奴だ。それよりよ、お前、上に何しに行っていたんだ?」


ガークが両手を顔から離し、頭を掻きながら遙へと視線を移す。それを見計らったように、虎柄のネズミが遙の肩から顔出した。

にぃ、にぃ、と、変な鳴き声が部屋にいる皆の耳に届く。それを見るや否や、ガークの眼が真円になった。


「な、何だその生き物! 見た事ねぇぞっ」


「わぁ! 可愛いネズミ。……美味しそうだね?」


「あ、ああフェリスさん! この子はご飯じゃなくてっ!!」


ラボをこの家に一匹で放置するのは危ないかも知れない。周りには狼やら猫やらがいるのだから。

遙は冷や汗を掻きつつ、ラボを庇うように一歩後退った。そういえば、フェリスがネコ科である事をすっかり忘れてしまっていたのだ。


「この子、と、とらんすじぇにっくあにまる……とか、そんな変な生き物みたいで、良く分からないんです。お父さんが、中学生の頃にくれたんですけど……」


「トランスジェニックアニマル? 遙のお父さんは遺伝子工学の研究者か何か?」


「え、ええと、両親は二人ともそんな感じで……」


遙のどぎまぎした答えに、フェリスは思惟に耽るように眉を顰めた。

端整な美貌が、少しばかり歪む。何か引っ掛かる所があるのか、ガークは無論、遙も気付かなかった。


「そっか……じゃあ、遙はその子を取りに上に行ったんだ?」


フェリスは急に笑顔に変わり、機転を利かせるようにして遙の顔を見詰めた。

ラボの塩梅を窺っていた遙も、彼女の質問に、気まずそうに顔を上げる。


「あ、そうだ! ……あの、ええと……」


遙は指先をもじもじさせながら、顔を俯かせる (目まで泳いでいる) 。それらの動作を続けている内に、二人の猜疑心に塗れた視線が突き刺さった。


「何だよ? 何か疚しい事でもやってきたのか? ませたガキだな」


「ち、違うよ!」


遙は顔を真赤にして舌を噛みつつ叫んだ。呂律が回っていない所を見ると、余程の恥ずかしかったのだろう。


「いいよ遙。ガークの戯言は気にしなくて、言ってごらん?」


フェリスに促され、遙は上目遣いでガークを見ながら、蚊の鳴くような小さな声で喋り始める。


「……言い辛いんだけどね。私を明日、『学校』に行かせて欲しいんだ」


「馬鹿か!」


言下、ガークの罵声が飛んできた。フェリスも複雑な表情になっている。


「あのな! お前って奴は、家に戻るといいながら……第一、それだけでも大仰な事なんだぜ? あんまり俺達獣人がうろついたら、後から大事件になるっての!」


「で、でも! 今日、擦れ違った他の人だって、私達が獣人だって気付かなかったし」


必死に弁明を始めた遙だったが、ガークとの視線の交点にフェリスが割り込んだ所で台詞が切れる。


「まぁ、取り合えず二人とも。まず、遙から。何で急に学校へ行きたいなんて思ったの? 最初は家に帰りたかっただけでしょう?」


遙はフェリスに言われて、渋々と先程の携帯電話を右のポケットから取り出した。

その青と銀の装甲が、電気に反射して淡いレモン色に煌く。


「……家に戻ったから、この携帯電話をちょっと充電して確認したんです。そしたら、やっぱり沢山メールが着てて……」


「メール? もしかして、お母さんから?」


フェリスの問いに遙は渋面を作りながら首を横に振った。その顔は目頭と鼻が赤くなっている。

かたかた……と、遙の携帯を握る力が強まっていた。関節が白くなる程に。


「いいえ、違うんです。お母さんからもだけれど。私の……、私の親友から……玲って子から、心配してたんだろうけど、沢山届いていて」


「リョウ?」


ガークの疑問の声に、遙は静かに頷いた。


先崎 玲は、小学生以来の無二の親友だった。

体が弱くて背の低い、見た目も幼かったからか、周囲からよくいじめられていた自分を護ってくれて、とても頼りにしている友達。

遙側の家族が余り家に居なかった事もあって、遙と玲の二人はまるで姉妹のような関係で育ってきたのだ。

たまたま同じ高校に入学してから、偶然にもクラスまで一緒だったため、喜色満面で喜び合っていたのも束の間。


――自分は何の前触れも無く、『獣人』という異形の存在へと変えられてしまった。血と泥に汚れた戦場へと飛び込み、獣人同士で戦わねばならぬと運命付けられたあの日。

先程自室で日付を確認したら、あの日から一ヶ月近くが経っていのだ。連絡も途切れて、急に消えた自分。警察も動かない異常事態に、その彼女が感付かない筈も無かった。


玲からのメールは一日に何通も届いていた。全てが全て、こちらの身を案じる言葉で。


「……ずっと心配しているようなんです。だから、少しでも会って、今の状況を伝えたい。
こんな体――獣人にされたって事を……信じてくれなくても、化け物扱いされてもいいから。嘘を吐きたくないから……」


「はー。無二の親友とか言う奴かよ。ま、一旦リョウとやらの事は置いておいて、それより母親からの連絡はどうなんだよ?」


「お、お母さんからはほんの少しだけ……私が攫われた日の夜に電話が……。でも、それからは全く無い。どうしたんだろう?」


遙は泣きそうになって、携帯電話をパチンと閉じる。もしかして、見捨てられてしまったのだろうか? そう思ってしまったのだ。

だが、その不安な心を落ち着かせるようにして、フェリスが遙の頭を撫でてくる。遙は膨れっ面になりながら、俯いた。


「心配無いよ。きっと、あなたを探して、今日も遅くまで出かけているに違いないわ。私が遙のお母さんだったら、居ても経ってもいられないもの。大丈夫だよ」


「……はい」


遙は深呼吸をして、息を整える。ついでに、心配そうに鼻先を耳元へ近づけてきたラボの頭を、人差し指で撫でてやった。


「で、明日どうするんだお前。まさか、本気で行くつもりなのか?」


フェリス達に取り残されて、何処か気に障ったのか、ガークがいじけたような顔立ちで尋ねてくる。

ガークの問いに遙は無言で頷いた。唇を引き結び、意志が強そうに輝いた瞳を真っ直ぐに向けて。


「うん、行って来る。大丈夫だよ。学校でいきなり獣人化したりは――」


「遙。一つ言っておかなきゃいけないんだけど。例え、あなたの意志でなくとも、体が勝手に獣人化を求める時があるよ」


「え、勝手に?」


フェリスの言葉は淡々としていたが、遙は案外重大な事ではないかと、引っ掛かって問い質した。


「感情の昂り、意識の高揚。その他、悲しみとか、精神的な要因で獣人化してしまう事も、遙みたいに獣人になって直ぐは良くある事なの。
まだ、獣遺伝子が体に馴染んで、完全に安定し切った訳じゃない。それに、獣人化は獣の感覚でいけば、一種の快楽に近いものだから……」


「そ、そんな。じゃあ、私が暴走してしまうこともあるんですか?」


「多分だけど……。無理に行くなって訳じゃないんだけどね。そんな時のために『これ』をあげるよ」


フェリスは何処からか、小さなビニール袋に包まれた、一つのカプセル剤らしき物を取り出した。遙は反射的に掌を差し出す。

フェリスは遙の手を掴み、開いた掌にそれを乗せてやった。ぱっと見る限りでは、白単色の、何の変哲も無さそうなカプセル剤である。


「これは?」


「獣人の本能を抑制させる薬というものよ。……凄く眠くなったり、イライラしたりとか、副作用があるけど。遙の場合、体内にある獣遺伝子の量が少ないだろうから、副作用も軽くて済むかも知れない。
即効性があるから、危なくなったら飲めばいいよ。大体十時間ぐらいの効力があるけど、あくまでも、危なくなった時以外には、あんまり飲まないほうがいいだろうけど」


遙はカプセル剤を受け取った。正直、怪しい気もするが、遙はそれを脆いガラス玉を握る気持ちでブレザーのポケットにしまう。

確かに、授業などで獣人化してしまえば、周りの人を傷付けかねない。あの時はフェリスだから良かったものの、普通の人間ならば、自分の攻撃は致命傷になってしまうだろう。


「有難う御座います、フェリスさん。本当に何から何まで……」


遙はカプセル剤を入れた、左ポケットを右手で押さえつつ、フェリスに軽く会釈した。当のフェリスは苦笑いを浮かべる。


「いいよ別に、そこまで丁寧にならなくても。気配消しながらの斥候の時ぐらいにしか使わないしね」


「けっ! 全く、無茶なガキだぜ? 俺だったら、問答無用で学校なんて近付かねぇよ」


二人の会話を耳に留めながら、蚊帳の外となっていたガークが鼻を鳴らした。

フェリスはガークの元へと歩み寄り、「ふふん」と、嘲るように笑う。


「遙もやりたい事があるのよ。もしかして、何か不満でもあるのかな? 折角出られたんだから、あんまり贅沢言うものじゃないわよ」


「別に不満なんかねぇよッ! 唯、あんまり動くと色んな奴らに怪しまれるかもしれないじゃねーか」


やがて口論は、ガークとフェリスの罵声の浴びせ合いとなり始めた。やはり、遙と話す時とはケタ違いに大声を上げる辺り、仲の良い二人である。

そんな二人を少しばかり羨望の眼差しで見詰めながら、遙は重みを感じるブレザーを脱ぎ始めた。


「え、ええと。じ、じゃあ、私はもうお風呂にでも入って寝ておこうかな。明日は学校だし……」


遙が苦笑しながらリビングを後にしようとした途端、二人の喧騒は面白い程にピタリと静止した。


「あ、ガーク。その体綺麗にしないと、公園で洗ったぐらいじゃ、臭い取れないだろうしね」


「うお! そうだった。じゃあ、俺も風呂貸して貰うわ。こんだけ家が広いんだから、さぞや綺麗なんだろうな、遙」


ガークはフェリスを引き離し、ずかずかとリビングの奥へと歩いて行く。

その様子を見て、遙は慌ててガークの背中を追った。


「わ、ガーク! そっちじゃないよっ。そっちは両親の書斎――」


「何だとッ!? ちゃんと道しるべでも付けとけ!」


ガークは悪態を吐き散らしながらも、素直に回れ右をし、廊下側へと走る。


「あら、二人共行くの? それじゃあ、私も良ければ貸してもらおうかな?」


ガークに倣うように、フェリスまでもが廊下の方へと歩を進め始めた。そんな二人に遙は仰天する。


「良ければなんて、助けてもらったのは私の方だから、好きなだけ使って下さい。そ、それよりも急いで用意しなきゃ……!」


東奔西走しながらも、遙は笑った。いつも以上に朗らかな家の雰囲気に、自然と頬が緩む。

獣人になっても、同じ境遇の者だからこそ、分かち合えるものがあることを、遙は改めて感じた。






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